2024年4月3日水曜日

3. 日々挑戦で心は青春!(柏木さん) 

 柏木剛さんは 曙ブレーキを世界的メーカーに導いた伝説的経営者です。
退職後4年間、大学キャリア講師として若者を導き、私にとって『元講師仲間』 と呼ばせて戴くには、あまりにも偉大な方ですが、いまも気さくに交流して頂いています。柏木さんは、70歳代から第3の人生挑戦として音楽三昧(=ブルーグラスのバンジョー演奏、かって大学日本一になったアルゼンチンタンゴGrの復活、そして粋な小唄)を楽しんでおられます。
柏木さんの生き方は、『人間、挑戦し続ければ心はいつまでも青春だ!』 という、あのサミエル・ウルマンの箴言そのものです。『ぜひ私の友人の皆様にも柏木さんの音楽の世界を味わってもらいたい!』と念願していましたが、ついにその機会が訪れました。アルゼンチンタンゴの名曲 『リベルタンゴ』 のトリオ演奏です。柏木さんは、かって大学日本一になったときのアコーディオンを演奏しています。まずはその名演奏をお楽しみください。
(ここをクリック) https://www.youtube.com/watch?v=SaOH_qpCz0QH

柏木さんからの『動画リベルタンゴ You Tube UP』 の紹介文です。
 『昨年、千駄ヶ谷のビクタースタジオで録音した曲に、プロのクリエーターが画像を制作、音と画像の編集が完成してこの程YouTubeにアップロードされました。 桜の訪れと共に、軽快なタンゴで春を満喫して頂こうとご案内いたします。 ピアノ、バイオリンと私のアコーディオンのトリオ演奏です。映像も併せてお楽しみ下さい。 
Have a nice day !  柏木


       日々新たな挑戦!(柏木さん)   
                                                                      2013年4月28日
  『人は自分の努力で成長するもの』 
 これは尊敬する 柏木さんが基本信条とされている言葉です。
柏木さんは 、若いころ単身米国に渡って、日本の技術が世界に通用することを証明してGMへの売り込みに成功し、曙ブレーキ工業を世界トップのブレーキメーカーに導かれた海外進出の伝説的存在で、海外部門の責任者として副社長、副会長を歴任された方です。
 柏木さんは若い当時を次のように述懐されています。
 『32歳からシカゴに一人で駐在し、小使いから社長 を一人でこなす日々 が続きました。 そして自分で分析し、評価し、考え、自分の責任で行動し、結果を共有する という仕事の進め方が身体に染み付いてしまった。 だから若者達には、評論家ではなく当事者であって欲しい と常にお願いしています。』
  長引くデフレ不況で韓国・中国の後塵を拝しつつあった海外市場も、アベノミクス効果でようやく出口が見え、再び海外展開の機運が高まり、海外勤務する若者も増えてきています。 そういう昨今、若い皆様方は是非 柏木さんのかりし頃の苦闘を参考にして下さい。  

【柏木さんの大学生時代】

 さて、その柏木さんの大学時代はどのようなものだったのでしょう。
『学業のほうは普通にやっていましたよ』 と、あまり多くを語られませんが『大学生にお願いしたいのは、学業でも部活でも学外活動でもよいから、何かにとことん打ち込んでほしいという事です!』 と語られます。 その言葉通り、柏木さんは 『集中と努力の人』 だったようです。
 その当時盛んだったアルゼンチン タンゴにのめりこみ、自ら学内グループを結成し、演奏者がいなかったアコーディオンを担当して、毎年全国学生コンクールの上位入賞定連でした。 3年次は準優勝、4年次は大橋巨泉司会の中で見事優勝! (その時の名演奏が残っていますので、いずれ紹介したいと思います。)『あの頃は大学卒業初任給が4〜5万円の時代でしたが、私たちは月50万円を稼ぎ結構豊かでしたよ!』 という話に、俗人の私は、『それならプロの道もあったのでは?』 と質問すると、『いや、やりたい音楽に集中し目標の日本一になり、本当に充実した学生時代でした。 だから就職後は仕事に集中することが出来ました。』 と屈託なく述懐されます。

【会社時代】
 大学卒業時、世の中は高度成長期ピークで自動車社会となっていました。
柏木さんは、その自動車安全の要であるブレーキを製造・販売する業界最大手の曙ブレーキに就職されました。 当時大型計算機が発達し、各企業は業務の統合システム化・効率化に力を入れており、並外れた集中力の柏木さんは、早速計算機システム導入プロジェクトを担当することになりました。 
 そして脂の乗り切った30歳の頃、曙ブレーキはアメリカ市場開拓の期待を込めて、切り札の柏木さんを単身送り込みます。『さぞかし英語力も抜群だったのでは?』 という質問に、柏木さんは 『英会話力?あの頃そんなものは全くありませんよ。』 と笑われます。 

 シカゴに赴任後、早速英会話教室に通い始めた柏木さんは、インドや中国やブラジルなどの参加者が交わす英会話に全くついていけず、理解できず、当然ですが 『日本の寡黙なオッサン』 という目で見られていたそうです。 そのうちペーパーテストがあり、柏木さんは100点満点、彼らは殆ど零点という結果にみんなびっくりしたそうです。 その時、『日本英語は読解力・文法はかなりの高レベルだ。 しかし決定的に欠落しているのは、Hearing & Speaking のコミュニケーション力だ』と悟り、英会話教室はスッパリやめ、個人教授に切替えたそうです。
 これは、40年経過した今の日本の英語コミュニケーション力も全く同じで、周囲にネイティブ英語を話す人がいない日本の致命的欠陥となっています。 学校での英語教育と合わせて、課外・自宅でのヒアリング・スピーキング訓練を毎日意識して行う必要があります。

 アメリカでの仕事開始、そしてアメリカ・世界制覇へと続く奮戦記は、同じ時期に米国トヨタの副社長をされていた 香西 力氏 の  『嬉しくて、悲しくて、切なくて、涙したあの時』 (香西 力 :著 文芸社 :刊)に記述されていますので、そのまま引用します。

 曙ブレーキが米国に初めての駐在員として選んだのが、当時まだ30歳前後の若き 柏木さんだった。私は彼より一足先に米国トヨタに出向していたので、シカゴに赴く彼には、その途中にロスの我が家に寄ってもらった。 
   彼は英語を1、2ヶ月にわか勉強しただけで米国へ乗り込んできたらしい。彼がシカゴに到着してから数ヵ月後に、私は出張のついでに彼の事務所を訪れた。シカゴ、スタンダードオイル超高層ビルの50階くらいに彼のオフィスはあり、10坪くらいの部屋に彼は一人で座っていた。机、椅子、電話、湯沸かし器、本棚・・・一応は揃っていた。窓からはシカゴのビル群が一望できた。
 「毎日、何やっている?」 と訊いたところ、彼は 「本社からは特に何をやれとは言われていない。今は電話帳を繰ってブレーキ部品に関係ありそうなところに電話している。」 とのことであった。しかし、にわか仕込みの英語で外国に来て見ず知らずの人に電話するのは、想像しただけでも怖いくらいである。 案の定、電話して 「曙ブレーキです」 などと言っても何の会社か、何をしゃべっているのか、さっぱりわかってもらえずに、早々に電話を切られるのが殆どだったようだ。 それでも彼は諦めないで、机の上の分厚い電話帳の別のページを繰って、次に電話する相手を探すのだと言った。
   こうして真面目に夕方五時まで一日中電話しているのだと言う。 五時になると、知り合いもおらず、飲み屋も知らない彼は真っ直ぐ自宅に直行する日々だったようだ。
 
  一方、私のいた米国トヨタは、その当時すでにきちんとした組織があって、日々の仕事も米人スタッフがやっていて、自分はコーディネーターとして、随時彼らにアドバイスするだけで良かった。言葉についても分らないときは日系二世がいて、いつでも通訳して助けてくれた。 オフィスに一人いて、訳の分からない電話などで悪戦苦闘している 柏木さんを見るにつけ、わが身の恵まれた環境を多としたものである。 が、結果としてそれは全く間違った認識だった。

 そんな大変な状況にあった彼がどのように頑張ったのか想像するしかないのだが、数年後には、なんと天下のGMとブレーキの合弁会社を設立するまでになっていた。 さらに何年か経って曙ブレーキは米国に独自のブレーキ関連の製造会社を設立し、彼はその総責任者になっていた。 その後、彼は本社の副社長、副会長まで歴任し、海外部門の統括責任者として重責を果たしたものである。 言わずもがなの事ではあるが、彼のしゃべる英語と言えば、もうネイティブ・イングリッシュそのものであった。

 彼は見知らぬアメリカへ一人でやってきて、あらゆる事を自分ひとりでこなしてきた。 昔から言われていた事ではあるが、彼は 『旅に出された可愛い息子』 だった。 その息子は苦労しながらも見事に成長し、名実ともに力をつけて会社になくてはならない人物になった。

 かって戦後日本の製品は『安かろう、悪かろう』と酷評されていました。 
そういう悪評を挽回しようと諸企業・諸先輩方が必死の努力を積み重ね、やがて日本製品は 『世界一の高品質』 となりました。これから世に出る若者の皆さんには、『世界中の酷評認識を改めさせ、世界で高評価を勝ち得る為には、この柏木さんのような海外進出パイオニアの懸命の努力があった』という事をことを知り、是非参考にして頂きたいと思います。

【柏木さんの第二の人生 :大学キャリア講師】  2011年4月~2015年12月

 曙ブレーキの副社長、副会長を歴任された柏木さんは、退職後、これからの若者を育て鍛えるべく大学で自動車工学を専攻する学生のキャリア講師に取り組まれました。その講義スタンスは、冒頭の基本信条である『人は自分の努力で成長するもの』です。自らの米国市場開拓体験、20年のアメリカ生活、ロサンジェルスで中学の理科教師をされる息子さんの成長を通じて感じられた日米の教育の違い、現代日本の学生に不足し必要と思われることを熱心に学生に伝えられました。特に毎回開講10分間は、新聞のトピックス記事を題材にして、社会に目を向けるように指導されました。
 そして4年後の2016年1月、柏木さんは72歳、6回目の年男で、名講義として学生に大人気だった大学講師も残念ながらリタイアとなりました。下記は柏木さんの講師退任挨拶です。

 『私は、皆さんが10年程講師をされる中、丸4年間の大学講師でした。 
 というのも この仕事のオファーがあったのが67歳。 海外勤務が長かったこともあり、『英語でキャリア教育をしてほしい』という要請に魅力を感じ快く引き受けました。 ところがふたを開けてみると英語クラスの学生数は7名。 英語が得意な学生といっても、私の話す英語があまり理解できない状態で、キャリア教育内容を英語で講義してもチンプンカンプンでした。 仕方なく日本語半分英語半分という中途半端な授業が続き、当クラスは1年で取りやめとなりました。

 同時にもう一クラス、地方都市の工学系大学の自動車学科を受け持ちました。 最初の頃は、企業での価値観と現代の大学生の態度のギャップに驚きました。それまでの企業内では、若者は私の言う事をきちんと聞きクイック リスポンスするのが当たり前でしたが、の大学生は、講師を無視する、居眠りする、平気で遅刻・欠席する、『許せん!』 と言う気持ちでした。
 当初そういう日々が続きましたが、途中から考え方を 今日、自分は学生に伝えたいことを、きちんと伝える努力をしたかどうかで、今日の授業の自己評価基準とする。 というスタンスに変えました。
 そして4年、昨年12月末最期の授業の学生感想は次のようなものでした。
  『この授業はとても役立った。』
  『自分の成長に役立つ、とても刺激的な授業だった。』
  『短い間でしたが、先生本当に有難うございました。』 
そして私自身も、『自分の喜び=若者たちの成長を援けることが喜び となっていました。
現役講師の皆さんには釈迦に説法ではありますが、講師としての達成感は、『学生のレスポンスに一喜一憂するのではなく、信念を持って誠実に、伝えるべき事を伝え、これに響いてくれる学生が一人でもいたら ”良し” とすべし と思います。 頑張ってください。
 今迄、私の時間の半分を使っていた 『講師生活に終了宣言』 をしたら、さてその後はどうしようか? という事ですが、残りの半分に浸っていた『趣味の世界(ブルーグラスバンド、タンゴバンド、小唄)』 の世界を7割ぐらいに増やし、残りの3割は 『新たなる挑戦をする!』 と思っています。 それは、『健康を維持し、老化防止を図り、男を磨きいつまでも魅力的な存在であり続ける事 です。ありがとうございました。 

柏木さん第三の人生:ミュージシャンとして音楽三昧】2016年1月~
 ”自動車ブレーキで世界一、ダントツの世界シェア” へと牽引された柏木さんですが、『退職後は、現役時代やりたくてもできなかった事を思う存分やりたい。』 と、音楽に打ち込んでおられます。 そのジャンルは多岐にわたり、ブルーグラス ミュージック、小唄、そして若かりし頃のアルゼンチンタンゴは50年ぶりの復活です。
 柏木さんは 60歳になった頃、『長いアメリカ勤務だったので、アメリカ特有の楽器を始めたい』 とバンジョーを購入されました。 そして67歳で退職された後、本格的に練習を開始され、かっての仕事仲間3人とブルーグラス バンド 『3GGs (スリー ジィジィズ)』 を結成されます。 ブルーグラスは、テネシー、ケンタッキー等、アメリカ東南部を中心に世代を超えて支持されている、いかにもアメリカらしい底抜けの明るい音楽です。 1970年代に流行ったジョンデンバーの 『カントリー ロード』 といえば、『ああ、あの音楽か!』と思い出される人も多いと思います。
 柏木さんは、ここでも『集中と努力の人、挑戦の人』 です。 まずバンジョーは重量が8kg もあり、年配者にはとても負担が大きく、運指も早くて難しく、若い人の楽器とされています。『難しいフレーズは、1000回以上も練習します。だから1曲仕上げるまでには、気の遠くなるような練習が必要です。でもチャレンジしている間は、夢中で楽しいですよ!』 と爽やかに語られます。
 そして5年目の2015年10月10日、銀座のレストランを貸切って第1回目のライブが開催されました。 メンバーは2名増えて、『4GGs+1(女性)』。  皆、柏木さんに声をかけられて加わった友人たちです。柏木さんの挨拶がこのグループの心意気を余すところなく表現していました。
 『リタイアしても、こんな人生もあるよ という事を示したい。』

 して、かって学生日本一となったアルゼンチンタンゴ・グループが復活。 2016年 大学卒業50年の節目として、母校の大隈講堂でタンゴ演奏をされました。 演奏後の柏木さんのコメントです。
 『50年ぶりとは言え ”昔取った杵柄”、何とか無事演奏することが出来て満足しています。それにしても、学生時代に打ち込んだ事は50年経っていても自然に身体が動いてくれるものですね。まるで自転車に乗ることを忘れないのと同じように。
 それに比べると、65歳から始めたバンジョウーには苦労しています。 しかし、それだから挑戦のし甲斐があるというものです。

【2016年賀状より】
2016年の柏木さんの年賀状は、『新たな挑戦をする!』 の大学講師退任挨拶の言葉通り、版画4色刷りの力強い傑作でした。 全てに全力投球される柏木さんの心意気を私も学ぼうと思います。











【2017年年賀状より】
今年はは、新年の鬨を告げる雄鶏と雌鶏です。力強い画面から、『はようおきんかあ!』 と、清々しく強烈な一喝が聞こえてきます。 中国軍事脅威、トランプ政権誕生、英国EU離脱・・と世界混迷の中、『日本人よ、しっかり目を覚ませ!』 の鶏鳴に覚醒させられます。
柏木さんの干支版画は、増々卓越した禅味を帯びており、『一流の人は、何をやっても一流だ!』 と感嘆します



【2018年賀状】 
 精悍な犬の版画です。
『これからの厳しい一年間を走りぬくぞ』 という強い眼光と、ピンと張った耳で世の動きを鋭敏にとらえ、『さあダッシュしよう!』 という前の静かで穏やかな表情が、強い決意を表しています。



【2019年年賀】
 今年は亥年ですが、柏木さんの描くイノシシは目が優しく、世の中を達観しています。
賀状挨拶に曰く、
『世の中、気に入らぬことのみ多かりき』 ですが、我関せず、音楽道一筋。今年も楽しい日々でありますように』

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