2024年2月3日土曜日

3. 禍を福とした経営トップ(裕治さん)

退職して10年、学生時代の同窓生と再び会う様になり、出光で過ごした有難さを痛感します。一つは 組合を必要としない経営理念=家族に対立闘争の組合は不要という事です。ある同窓生が国鉄の国労・動労と不毛の対立闘争に苦しんできた話を聴くたびに 『出光で仕事ができてよかった!』と感謝します。
もう一つは本来 雲の上の存在である経営トップを身近に感じながら、自分の持場で誠一杯頑張れた事です。偉大な経営トップの真の苦労を知らないのに、 “末端の元社員” が紹介するのは誠に恐れ多い事ですが、40年間お世話になった出光への感謝のしるしとしてお許し願いたいと思います。

尊敬する出光裕治さんが千葉製油所長として赴任された時、大先輩から 『一番創業者(出光佐三氏)に似ている方だ!』 という話を聞きました。『こういうところがそうなのかな?』とまず思ったのは、社員食堂で若い一般社員のテーブルに自ら行かれ、楽しく談笑されながら昼食をとられる姿でした。それまでの所長は課長がいつも取巻き、自ら一般社員と気さくに食事される姿は見かけませんでした。また豪華な所長社宅は使わず、製油所前の出光クラブ3階の研修室を改造して、そこで3年間単身赴任生活を始められました。20時までは出光クラブで偶々居合わせた社員と一緒に食事・談話され、時間が来ると自室に戻っていかれました。

そういう和気藹々とした日常が続いていた昭和59年に大事故がありました。SDMが終わり通常運転に入ったばかりの重油脱硫装置の反応塔ベントバルブが壊れ高温高圧(15Pa150kg/㎠)の重油が空高く噴出し、風に流されて10kmも離れた木更津まで市街地や工場地帯を汚染しました。 『地元と共に発展する』 が社是なのに、地元住民に大変な迷惑をかけるという大トラブルが起きたのです。
それからの千葉事業所はまるで戦場でした。お詫びの挨拶まわり、住宅の洗浄・清掃、洗車の為のSS応援、洗濯物等の賠償等々、考えられるあらゆる対応の分担を決めて、全所員や近隣事業所の社員が約1か月間休日を返上し一丸となって対応しました。
そして事故対応が一段落したとき、裕治所長の慰労訓話が全所員の胸を打ちました。以下はその要旨です。

『今回は前代未聞の大事故だったが、みんな本当によく頑張って乗り切ってくれた。非常事態の時の出光社員は、一致団結して他社では考えられない凄い力を発揮する。 今回のみんなの団結力と頑張りは特に素晴らしく 僕は一生忘れない。しかし ここで終わりにせず、もう一歩進んで考えてみて欲しい。』

『こんな辛く酷い目に合うのだったら、毎日少しずつひどい目にあったらどうか。毎日の努力の積重ねで大事故が起こらないようにするのが本当の仕事だ。』

『今回の事故の根本原因は、SDMで新品に取換えたバルブの材料が間違っていたことだ。そのため高温高圧に耐えきれずに壊れて重油を郊外にまき散らす結果となった。メーカーの昌立バルブは取引禁止にしたが、地元住民はそれで許してはくれない。あれは出光さんの構内で起きた大迷惑事故だとしか見ない。』

『私達は、構内で行われる工事だけに目を光らせるだけでは、その職責を果たしたことにはならない。構内で使われる材料、部品の生まれ、工事環境、作業員の仕事の質まで目を光らせ、正しい設備管理を行い、正しい仕事をするのが、真に働く“ ということではないのか』

 そしてそれまで約1年間準備を進めてきたTPM活動を徹底して見直し、本格的に取り組むことになりました。そしてこの活動は北海道製油所から愛知製油所そして全製油所・工場へと展開され、国内でも特筆すべき装置産業の模範活動となり、日本プラントメンテナンス協会(JIPM)から『出光興産のTPM』が出版され、全国でTPM推進教科書として使われました。その後社長となられた出光裕治さんは、日本プラントメンテナンス協会の会長となられ、全国全業界へのTPM展開・定着を推進されました。

社長になられた裕治さんが語られる訓話は、分かりやすく全社員の心を打ちました。それは退職し古希となった私にとって、いまも珠玉の人生指針です。

(平成六年度入社式社長訓話) 
出光では 皆さん自身が会社なのです。 会社がそこにあって皆さんがそれに貢献するのではなく、自分たちが会社を作っていくんだという意識でとらえて欲しい。従って、自分で学び取り、問題意識を持ち、課題を取り上げ、挑戦し、仕上げていく。これが大事な事です。

(平成七年新任役職者研修訓話) 
役職者は上ではなく下を向いて仕事をしなさい。 出光役職者の役割使命は、『どうしたら下の者が持てる力を最大限発揮できるか』 を突き詰めて考え、その環境を作ることだ。役職者の目的は部下を成長させること。その結果として業績や成果がついてくる。 間違っても目的と結果を逆転させてはいけない。

2 件のコメント:

  1. この事故のことはとても大変な思い出として残っていますヨ!当時中研の私達も近隣都市、木更津市の清見台などにお詫びにお伺いしました。当時新人の後輩がある被害者宅で大変な思いをしたと言うのを思い出しました。当時裕治さんが製油所長だったのですか?この頃私の田舎置戸町の綱引きが日本一で三連覇した時でした。代々木第二体育館で裕治さんが応援席にいたのを思い出しました。

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  2. 「堅技の八珍さん」コメント、ありがとうございます。あの事故の事を覚えておられる方がいて感激です。
    私には『出光裕治さん』と言えば「重脱バルブ破損事故」ですが、あの当時、S48年の徳山エチレン大火災、S56年の徳山製 反応塔脆性破壊・破裂大事故などの住民を恐怖に陥れた大事故が頻発しました。
    その中で千葉の重油噴出事故は前代未聞で、周辺の住民の方々に大迷惑をかけましたが、重油で汚れただけで人身災害があったわけでなく、それが不幸中の幸いでした。『真のリーダーは運命も味方につける』と言います。
    『やはり裕治さんは店主の生まれ変わりだ!』と思ったものです。

    裕治さんは、千葉所長として最も人気があり大きな足跡を残されt方だと思います。
    千葉製油所では、スポーツ所内大会(バトミントン、バレーボール、駅伝大会等)が大々的に行われていましたが、所員親睦レベルで、所外大会で勝ち抜くほどの実力はありませんでした、・・そういうなか所員が『大好きな裕治所長を日本一の所長にできるものはないか・・』と探し回り、見つけたのが「綱引き日本一戦』です。屈強の若者が多かった製油2課が中心となり、所内大会が行われ、そのまま千葉県大会で優勝。毎年 出光千葉の製油2課が県代表で全国大会に出場しましたが、いつもベストスリーまで行くのですが優勝はできません。 その難敵が北海道の置戸町チームだったとは知りませんでした。
    裕治さんは所長時代は勿論、副社長になられてからも、製油2課が全国大会に出た時は、必ず代々木体育館に応援に行かれました。そういうところが、千葉で人気のあり心酔されていた原因だと思います。

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