2024年4月3日水曜日

3. 星になった現場の神様(洋一さん)

                     令和元年6月15日
現場の神様が、とうとう本当の神様になってしまいました。
 令和元年6月15日早朝、尊敬する洋一さんが満75歳の生涯を閉じられました。『一隅を照らす、これ国の宝なり』 という名言があります。洋一さんは、まさにこの言葉通りの生き方をした人でした。
私は新入社員時代に 『現場の神様』と周囲から尊敬され、眩しいほどに光り輝いている大先輩=田中洋一さんと出会いました。 そして 『いつかは、この凄い先輩のような存在になりたい!』 と目指しながら50年間生きてきました。
洋一さんが逝去される一か月前、体調がすぐれないので病院で検査すると、膵臓癌が進行しており、あっという間に旅立たれました。 その寸前まで高度専門技術者(電気主任技術者)として第一線で 『生涯現役』 を貫き通し、私達後輩に 『一生社会の役に立つ存在であれ』と身をもって教え続けた本当に凄い人生でした。

洋一さんは、出会った時から 『親身な厳父、優しい兄貴』 として接してくれる本当に不思議な人でした。『心から尊敬してやまない元上司、頼りになる兄貴、楽しい遊び仲間、人生の師匠・・』 そんな洋一さんとの交流が当たり前と思っていた私は、かけがえのない母や姉を亡くした時と同じように心にぽっかりと穴が開いたような思いが続いています。
『私は 田中洋一さんから人生のすべてを教わった!』
『もし洋一さんに出会わなかったら、傲慢で鼻持ちならない手の付けられない人間となっていた。そしてどんな酷い人生を歩いていたことか・・』 と、洋一さんとの幸運な出会いと深い恩に、改めて心から感謝しています。
 そこで洋一さんとの出会いから、約50年間の色々な場面や思い出を辿り、洋一さんから教えて頂いた 『人間関係のあり方、仕事の取組み姿勢、人生の楽しみ方』 などを振り返りたいと思います。
(左の写真は、昭和49年7月6日本栖湖キャンプ。 次の日の7月7日 徳山エチレン装置大火災事故発生。急遽中断して千葉に帰る、)

1.『大量採用の新入社員を鍛える!』 (昭和47~54年)
私達 昭和47年度入社は、過去最大の780人採用でした。 
中でも千葉動力課は、低燃料費のアスファルトを燃焼させる 250 t/hボイラー2基と、世界初の湿式排煙脱硫装置を建設中で、他運転課よりも2倍も多い新入社員が配属され、一人の先輩に3人くらいがくっついて指導を受ける状況でした。 直長は、18歳の新入社員を仕事で鍛え、早くチームになじませる父母役を果たしながら、本来使命の安全安定運転を遂行するという大変な責任を担っていました。
そういう4直長の中でも、洋一直長は、仕事では一番厳しく、電気設備のシーケンス図を読み取る速さは神業でした。何か異常アラームが鳴ると、私達が30分以上かかるシーケンス図確認でも、1分で読取り、しかも私達よりも正確で深く把握され、対応は迅速で的確でした。

また仕事以外でも、私たち部下・後輩と家族のように目一杯楽しいことを企画し、全国から集まった18・19歳の独身者の孤独感を吹き払ってくれました。 勤務明けの2連休では女子社員を誘って遠距離ドライブに出かけるという魅力的で家族的なチームでした。(女子社員には、ほかの運転課も含め一番人気の直で、毎回5~10名くらいの女子参加がありました。)
私達はすぐに『将来は洋一さんのような人望のある魅力的な存在になりたい!』と思う様になり、いわば新入社員の時から 『現場の神様、キラキラ輝く魅力的な兄貴』でした。
2.全工場停電停止時、魔法のように復旧 (平成5~9年)
職業人として生きる40数年の間には、必ず耐切れないような厳しい場面に遭遇します。人はその大きな障害や困難を乗り越えていく過程で大きく成長します。 
 昭和63年、千葉動力課に世界初の『循環流動層型石炭ボイラ建設』 が決定しました。当時流動層技術分野の最高権威だった東大教授が 『このプラントは5年間はまともに動かない。無謀な建設計画だ!』と警鐘を鳴らした、技術的に問題の多い難しいプラントで、今まで確立された技術の油炊きボイラしか運転していない千葉動力課員にとっては、まさに無理難題の厳しい試練に立ち向かう事になりました。
この時、田中洋一さんは動力係長として最先頭に立って牽引し、5年どころか僅か2年で連続運転が出来るように運転技術を確立しました。  あのNHKの『プロジェクトX』 に取り上げられなかったのが不思議なくらいの快挙です。

 『循環流動層石炭ボイラ』は、セラミックボールの入った火炉(コンバスタ)に石炭と石灰石を入れ、下からの燃焼用空気で流動状態にしてセラミックボールで石炭と石灰石を微細破砕して燃焼させます。熱媒体(ソリッド)及び燃焼灰等はサイクロンで捕集、分離し外部熱交換器にてボイラ水を沸騰させる方式です。 炉温制御および石灰石 (低負荷時には尿素)の注入によりSoxNoxの発生を抑え排煙脱硫装置及び脱硝装置が不要となる画期的な低公害ボイラです。 下にその簡易構造図を示します。

 この当時、オランダで35t/hの実験プラントが動いた程度で、それを一気に  300t/hという10倍近い大型ボイラを建設する訳ですから、冒頭の東大教授が 『これは無謀な計画だ!』と警鐘を鳴らしたのも当然です。
この方式を決定した稲井技術課長(のち製造部長)は、東大出の自負心の強い目立ちたがり屋で、本来目的よりも世界初を優先させました。
当時の出光は、新規石炭事業展開の為、安定した大型石炭ボイラを建設するのが喫緊の経営課題で、技術的に確立した微粉炭ボイラを採用するのが常識です。リスクの大きい開発途上の流動層ボイラを採用しても何のメリットもありません。 リーダーの立場になる人は、常に『本来の最重要目的は何か?』を基本・最優先にする事が重要です。

 多くの人が危惧した通り、運転開始後、長く動いて1~2週間でトラブル停止、問題原因究明と対策で1~2ヶ月という状態が1年以上続きました。 石炭事業展開の為、オーストラリアの自社炭を大量に貯炭している石炭ヤードは少しもはけず経営上の大問題になりました。このプラントを選定した稲井技術課長は『運転が下手だから動かないのだ!』 と責任逃れする始末です。元々彼の当方式決定は『僕が技術スタッフだったFCCと全く同じ原理だ』という理由で、選定検討時に何人もの部下と共にオランダ出張を重ねましたが、運転開始後の技術的問題点にその技術知見を活かす姿勢はありませんでした。

自分達が知らないところで決定された難しいプラントでしたが、運転員は1日でも長く動かすのが自分達の使命だと必死に頑張りました。 しかし根本的問題がどうしても解決できません。 それは灼熱した微細ソリッド(熱媒体)を外部熱交換器で熱交換した後、火炉(コンバスタ)に戻し炉内の温度制御を行なう  ”ソリッドの循環制御” が上手くいかず、短期間で流れ過ぎたり、詰まったりする訳です。

この困難状態を打破する為に島崎課長が社運を背負って赴任してきました。彼は高い問題究明技術力だけでなく、使命感も人並み外れたものがあり、メーカーの技術部門を指揮して、ソリッド循環制御として従来のゲート弁(L弁)より板状のスライド弁(メカ弁)が適している事を突止めて取替えました。前出の稲井技術課長の得意なFCC装置では、再生触媒ソリッドの循環量制御は、数十年前からスライド弁採用が常識なので、いかに彼が問題解決力がなく無責任だったかが分かります。(しかし不思議なことに、稲井技術課長はその後 所長⇒製造部長へと出世していきます。)
動力課のメンバーは、その他の技術的難問も自分の解決すべき課題ととらえて、次々と解決していきました。 さらに洋一係長を初めとする運転員の色々な工夫改善と必死の努力が実り、建設2年目には1年間の連続商用運転を確立し『奇跡』と言われました。 この人間集団の努力と苦労を思うたびに胸を熱くさせられます。

 しかしこの島崎課長には大きな問題がありました。彼の関心事は業績のみ。それを達成する為の戦力である部下や関係部署への人間的思いやりが全くない典型的な 『強圧(パワハラ)型=9・1型リーダー』 だったのです。 自分の立場を守る為には手段を選ばないタイプで、彼の得意とする人心掌握法は、少しでも関連がある関係者や役職者を常時召集し小さな事で叱り飛ばし脅し恐怖させる事で相手を支配する、その一方で会社幹部には土下座までやってみせる 『弱きをくじき、強きにへつらう でした。誠に日本男児として恥ずべき存在ですが、立場が弱く誠実な人ほど追い詰められて悩み、ノイローゼや病気になる人が続出しました。
  例えば『お前みたいな仕事の出来ない奴は会社を辞めろ!離婚しろ!』 と人間否定までエスカレートします。 ある日山田君が 『今日こそは気持ち良く仕事をしたい』 と精一杯の笑顔で 『おはようございます!』 と挨拶するとニコリともせず 『死ね! と返ってくるのです。 
 この島崎課長は、まさに管(すが)元首相の原発事故対応や、戦時下の理不尽な上官や指導層そのものです。またいじめや自殺で揺れる学校で、校長や教育委員会が示す隠蔽・無関心体質は、この時の周囲の役職・幹部にも共通することで、民主主義の現代でも、形を変えて同じように私達の前に立ちはだかり、また無関心で無責任な上司にもたびたび遭遇しますが、決して負けてはいられません!
   こういった技術面、人間面の両方で危機的状況にありながら、洋一係長を中心に結束し、本来目的の連続運転に使命感を持って黙々と取組んだ生え抜きの運転員達こそ『奇跡の仕事集団』でした。 

 大難問だった循環流動層ボイラが連続運転出来るようになり島崎課長が得意絶頂、増々独裁色を深めていた時に神様は大試練を与えました。 関東地方に歴史的な大豪雨が襲来、大型発電機のカバーから大量の雨漏れが発生して出力母線を短絡させ、その影響で全電気系統が停電して工場全体が緊急停止する大事故が発生したのです。
まずは安全確保と全装置運転準備の為に蒸気が必要なのですが、全停電下ではボイラのスタートが極めて困難です。このような大変な非常事態ですが、日頃恐怖政治を敷いていた島崎課長が鬼のような形相で陣取る計器室には、みんな恐ろしくて寄れず、何一つ復旧対策が取れないまま時間だけが徒に過ぎていきます。運転員が『現場の神様』と尊敬する洋一係長は、間が悪いものでアキレス腱断裂の手術で入院中です。
本館事務所のトイレも使えなくなって困っていたある女子社員が切羽詰って洋一係長に『いま会社で大変な事故が起きています!』と電話連絡しました。するとこの現場の神様は、手術直後にも関わらずタクシーで出社し松葉杖で現場に駆けつけました。 事故発生から既に5時間余が過ぎていました。

 洋一係長は、全員を集めて現場状況を確認し、燃料ガスヘッダーが生きていることを把握すると、燃料ガスでボイラスタートが出来ると判断しました。 しかし従来は重油スタートが基本となっており操作手順書がなく運転員も戸惑っています。 
それからが洋一係長の鬼神の働きでした。手書きで矢継ぎ早に手順書をつくりながら、『これをやれ!』と次々に指示を出し、数時間後にはボイラ蒸気を送気開始するまで復旧していました。このあまりに手際の良い指示と運転員の機敏な働きに、今は亡き空井所長は 『洋一、一体君はどんな魔法を使ったのかね?』  と最大の賛辞をおくりました
非常時に何の役にも立たなかった独裁者の島崎課長は、ばつが悪く、日頃の傲慢な態度はしばらく影を潜めましたが、本性は変わらず、また元の強権態度に戻りました。 それまで『長いものには巻かれろ』を決め込んでいた役職者の中から勇気ある西岡課長が真向から立ち向かい本社告発して、島崎課長の理不尽さが周知されることとなり、その後の異動で二度と部下を持つ事はありませんでした。

この循環流動層ボイラと、大停電事故の適切機敏な対応を思い返すたびに『真の実力者は非常事態でも本当の力を発揮する!』と、『仕事の神様=洋一係長と 世界最高の仕事集団の凄さ』に改めて感動を覚えます。
洋一係長は『あの3年間、アキレス腱入院以外で休めたのは、合計正月の3日間だけだった』と述懐されています。 部下を島崎課長から守る為に1日も休めなかったのでしょう。『こういう人こそが真のリーダーだ』 と改めて思います。

3.初転勤で『肩書本位の悲しき人間社会』に直面(平成9~12年)
この数年間の実績が評価され、洋一さんは愛知工場の警防課長となりました。運転課課長任命をという上層部の意見もあったようですが、長年の洋一さんの労苦を慮り『少し骨休めをさせたい』という配慮から、定型の待機業務(消防・警備)の課長を任命したようです。しかし自らを『働きコマ鼠』 と称する働き者の洋一さんは、『愛知警防課を会社一の消防スキルを持った専門家集団にする育成システム』 を新たに構築し、課員を鍛え上げました。
また販売部門から初めて製油所勤務となった30歳代半ばの木藤人事課長(現社長)のバックアップを自ら買って出て、色々な場面でアドバイスし、表に裏に支えました。
ところが、人間尊重・実力主義の筈の出光でも一人一人は普通の人間です。千葉では、卓越した人間性で人望が高く、誰からも敬意をもって仰ぎ見られる田中洋一さんでしたが、初赴任の愛知では、ただの新任警防課長として見られます。『なんだ!警防課長のくせに! 稲井所長や人事課長に取り入って偉そうな顔をしやがって!』 と反感を持たれ、課長会議等で前向きで画期的な提案をしても、反論もせず賛同もせず無視されます。そういう陰湿な状態が続くうちに、ストレスで頭髪が抜け、眉毛が抜け、一見して重篤な病人のようになってしまいました。(のちにこの頃を「あの島崎課長下の休日なしの3年間の方が、まだ精神的には楽だった・・」 と述懐され、二度と思い出したくないようでした。)
しかし地道な行動と実績を重ねるうちに、他の課長たちも洋一課長の実力と見識を認めざるを得ないようになっていきました。そして3年後、本社に新設された『産業エネルギー部のエネルギー・ソルーション事業課長』として抜擢され、それまで見下していた愛知の課長連中を仰天させることになりました。

4.(財)石油連盟での活躍 (平成12~23年)
洋一さんは60歳で出光を退職。それまでの仕事ぶりを評価されて、財団法人・石油連盟に請われ約10年間 全国の石油会社環境保全設備の監査・指導をされました。各石油会社への適切で親身な監督指導は定評があり、石油連盟は勿論、各社からも高い評価を受け感謝され、惜しまれながら退任されたと聴きます。

5.70歳からが本当の仕事!(平成24~31年)

『70歳になられて、愈々これからは趣味の1200 CCバイクツーリング三昧かな?』という私の予想は全く外れました。『これからがオレの電気技術者として本来の仕事だ。』 と、関東地区の中小規模事業者の電気主任技術者代行業務をフルタイムで取組まれてきました。これらの事業所は電気技術者がいない為、洋一さんのような高い専門性を持った技術者が責任もって電気設備の定期検査を行い健全性を維持する必要があります。
『しかし、その世界でも 無資格者業務とデータ偽造が横行している!』と憤り、正義感が強く、真摯に仕事に取組み、自分の役割を精一杯果たし続けた『生涯現役の人生』でした。

 平成26年、小さい頃から目に入れても痛くない程可愛がっていた娘の佐和子ちゃんが早逝されました。弔問に訪れた時、闘病に苦しむ娘さんの姿を克明に話される洋一さんに『本当に佐和子ちゃんを愛されていたんだな・・』 と落涙を禁じえませんでした。それ以降、更に一心不乱に仕事に打ち込まれるようになりましたが、恐らく愛娘を失った悲しみから離れたい一心だったのかもしれません。

私の今まで50年間を振り返ると、『洋一さんに出会い育てられ、影響を受け、見守ってもらい、ともに歩いた半生だった!』 と痛感し、改めて心から感謝しています。『洋一さん、今まで本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。そして天国の可愛い佐和子ちゃんと、仲良くお暮しください。』   (合掌)

(通夜での出口袖ケ浦市長 弔辞)
 田中洋一さん、こんなに早く旅立たれるとは!本当に残念です!
 洋一さんは、昭和19年山口県宇部市に生まれました。そして昭和37年出光入社、千葉製油所に勤務されました。昭和45年袖ケ浦市野里に住居を構えて、平成16年出光を退職されてからは10年間(財)石油連盟に在職され、その後は電気主任技術者として、亡くなられる寸前まで働き続けられ、どこでも輝かしい働きをされたと伺っています。
その長い職業人生の中でも、私が最も感動し印象に残っているのは、世界初で5年間はまともに動かないと言われていた難しい『流動層石炭ボイラ』 を僅か2年で商用運転できるようにされたことです。 当時、私は隣の東京電力に努めていましたので、その快挙はよく知っています。
もう一つは、大雨による発電機短絡事故で、全製油所・工場が全停電となって大変な時に、アキレス腱手術後で松葉杖ついて出勤し、部下を指揮して奇跡の復旧をされたことです。
この大変な時期に、パワハラ上司から部下を守るために3年間休日もなく頑張られたという話は、まさに『真のリーダー』であり、同じ職業人として心から敬意を表します。まさに『現場の神様』 と称賛され慕われた由縁だと思います。
こういった仕事に打ち込まれる一方で、袖ケ浦市民としても永く活躍をされました。地元の野里区長を長く務められ、スポーツ推進員を30年、バトミントンやフットサルの継続指導、スポーツを通じて子供を健全に育てる活動など、色々な地区活動で貢献されました。袖ケ浦市で洋一さんを知らない人はいない程、なくてはならない存在でした。
私個人としては、3期10年の市長選挙の事務局長を精力的に務めて頂き、本当にお世話になり心から感謝しております。
また家族をとても大切にされ、奥さんのみつえさんと良く長岡の花火や登山や温泉旅行に行っておられました。病院で最期のとき、声に力がなくなっているのに『妻のことを頼みます』 と声を振り絞って伝えられました。
洋一さんは、最愛の家族をこよなく大事にし、私心なく人の為に尽くし、よき指導者。理解者であり、地域発展の推進者でした。本当に残念です!
しかしいつも前向きなあなたは、私達がいつまでも嘆き悲しんでいることを喜ばないでしょう。旅立つ時まで 『手抜きなく、力一杯生きた洋一さん』 を見習って、私達もこれから力強く前に進んでいきます。
みつえさんやご家族は、みんなで支えていきますので、どうかご安心ください。
洋一さん本当にありがとうございました。

(長男:秀幸さんの会葬挨拶) 『ありがとう 大空で見守ってください』
父 田中洋一は、令和元年6月15日、満75歳にて静かに生涯を閉じました。実り多き人生となりましたのは、お力添えくださった皆様のおかげでございます。みなさまに賜りましたご厚情に、家族一同深く感謝を申し上げます。

父は、筋の通らぬことを嫌い、いかなる場合も公平を重んじる、頑固なところはありましたが、信念を貫いた父の生き様に、今は頭が下がる思いです。
蘇るのは、何事にも熱心で、真っ直ぐであった姿です。例えば孫が質問を投げかけたなら、答えを教えるだけでなく、しっかりと納得するまで、とことんつきあっておりました。 それは、『導く』 という教え方だったと思います。時には熱が入り過ぎて孫が 『もういいよ』 といった表情を浮かべることもあったのですが、『与えたい』 という温かな思いが感じられ実にほほえましく、また注がれる豊かな愛情に感謝したものでした。
己が持てる時間を10として、そのうちの9を周りのために喜んで使う人でした。この先も年を追うごとに父の偉大さを実感することでしょう。教わった全てのことが明日を生きる糧になると信じております。見守る父に恥じぬよう歩む所存です。 

3 件のコメント:

  1. 私は安藤さんのように田中さんとの係わりはありませんでしたが、S崎課長さんの頃には立場は違いますが、千葉製に勤務していました
    そのときには余り良く理解していませんでした
    その後に私の妻の実家ので悪戦苦闘していた
    私を見守っていただきました
    市内のいろいろなボランティア活動にも
    積極的な行動力に少しでも近づきたいと
    私もそれなりに努力していました
    本当に突然の訃報はとても残念でした

    心からご冥福をお祈り致します❗️

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    1. コメントをありがとうございます。本日の通夜で出口市長が弔辞を読まれ、『洋一さんが袖ケ浦市にどれだけ貢献されてきたか、特に市のスポーツ推進員を30年間、地域の子供たちを育てる活動などを通じて、洋一さんを知らない人はいない。これからも頼りにしていたのに、誠に残念です。』と嘆かれていました。まだまだ一緒に過したいと思っていたのに、本当に早すぎる旅立ちでした。 (すみませんが・・コメント者を知りたいので、次にメールしていただけるとありがたいです。 hidechiyo915a@gmail.com

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  2. 安藤様 名前も書かずに失礼いたしました。現在自治会の区長をしているので、子供会の存続が危うくなりつつあります。その辺のお知恵を拝借したいと考えていました。私も田中さんの足元には及びませんが、地域の子供たちを地縁の卵(他孫)として、何とかふるさとが大好きな子供たちになるように、先頭に立って育てるのが、田中さんへの供養になると考えていきたいと思います。 岡田 康

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