2024年2月1日木曜日

3. 故郷の蜜柑園復興に取組む久保さん

  誰しもが物心ついたころから親しんだ美しい心の故郷があります。

しかし就職して異郷の地で暮らし、家庭を持ち年老いていくうちに足遠くなり、父母の旅立ちにより 故郷はすっかり色あせて見え、『親(特に母)がいたからこそ、懐かしい故郷だったのだ!』と痛感します。そういう中で、父母が汗水たらして頑張ってきた故郷が荒れていくのを放置できず、早期退職して復興に尽力されている方々がいます。

今回は瀬戸内海の周防大島で75歳となった今も第2の人生を「故郷のミカン園復興」に努力されている窪先輩の紹介です。

 

久保さんは、昭和21年に山口県周防大島のミカン農家に生まれました。

そして昭和40年出光興産に入社当然近くの徳山製油所に勤務できると思ったら、何と遠く離れた千葉製油所配属でした。

気さくな親分肌で、独身寮の久保さんの部屋は後輩の溜り場でした。結婚式前夜も後輩達との飲み会となり、酔った勢いで3階の窓枠を伝って隣の部屋にアクロバット渡りを始めてしまいました。それならボクもと久保さんが渡り始めると足を踏み外し下の植え込みに墜落して即入院となり結婚式ドタキャンです。 既に千葉に来ていた花嫁のひろみさんは、結婚式も取りやめで、新郎の看病生活が始まりました。『知り合いが一人もいなかったので心細かったのよ』と笑いながら述懐されます。植え込みへの落下が不幸中の幸いで、比較的早く回復しました・・が、今度は新婚社宅独身後輩の溜まり場となっていました。 実は私もその一人で、30年後周防大島で再会した奥さんは「ああ、あの音の出ない尺八の英千代さんね!」と、しっかり覚えていました! (汗、汗・・)

 

 昭和55年に徳山工場に転勤されポリスチレン装置の直長。その後保全課(BTX静機)を担当されました。

父上のご逝去で実家の蜜柑園を継がなくては・・と思っていた矢先、平成2年の19号台風で、蜜柑の木が全滅しああ、これで跡継ぎの必要がなくなった。と、内心ホッとされたそうです。しかし故郷大島の高齢化が進行し、次々と蜜柑園をやめた故郷の山々が荒れ放題、孟宗竹林に浸食されていくのが耐え切れず、平成12年に早期勇退してゼロから蜜柑園の再興に取組み始めました。そして約1ヘクタールの畑に600本を植付けさあ、これから本格的に収穫出来る!と思った矢先の平成1711月、パート勤務していたJA農協)で約1トンの肥料パレットが突然崩れ、足を完全骨折し3ケ月入院されました。

 この時、出光徳山の同僚や、奥様が10年取組んでおられた特養障害者ボランティア仲間が『本当に親身になって助けてくれたと述懐されます。大挙して収穫を手伝い、色々な販売ルートを開拓してくれたそうです。


やっぱり職場仲間は有難い! 

是非、徳山や千葉の仲間に、自慢の美味しい蜜柑を味わって貰いたい。

大島に蜜柑もぎにおいで! いつでも泊めてやるよ!

と話しておられました。 因みに私は言葉に甘え、第16回50歳台研修のあと久保さん宅を訪れて大歓迎を受け、無料で泊めて戴きました。

また次の年には、出光徳山の現役仲間と再訪問し『ミカン狩り』を楽しみました。

2007年3月17日の中国新聞 の第一面に、久保さんの特集記事が掲載されましたので紹介します。是非ご一読下さい。

 

【村は問う 第3話 『親の畑を守る』】

 5月に久保さんの農園を訪れるとミカンの収穫中、季節外れではない。5月が収穫期の蜜柑だ。『1年通して収入があるのは有難い事、サラリーマン時代は思いもせんかったですがね』と、すっかりミカン農家の顔だ。

昭和40年に高校卒業し石油会社に就職。当時は高度成長期の真っ只中だ。長男だが迷うことなく島を出た。70アールのミカン畑を世話する両親も止めはしなかった。

 千葉で13年、周南市で24年、コンビナートの街で暮らす。団塊世代の常として猛烈に働いた。それが子供が成人に達した頃、古里への思いが頭をもたげ始める。

亡き父母が丹精込めた畑が荒れ始めたからだ。周囲の山を見渡せば、ミカン畑を竹林が侵食している。『このままなら、みな竹山になる。やり切れんかったんです。』

 親の手伝いはしてきたが、専門知識や技術はない。それをサポートしたのが2002年にスタートした『周防大島ミカンいきいき営農塾』。毎年50人程度の塾生を募り、土づくりから収穫まで、一年を通じて町内の農家が手取り足取り指導してくれるシステム、そこに第一期生として飛び込んだ。

町内の就農支援はこれだけではない。2006年4月、町と地元農協、舎田布施農林事務所で「周防大島担い手支援センター」を設立、農地の斡旋にも取り組んでいる。島を挙げた受け入れ態勢である。

背景には老いる島の現実がある。高齢化率は45%を超え、農業者平均年齢は70歳を超える。島を支えてきたミカン栽培も低迷の一途だ。 2005年の柑橘類栽培面積は1220haで、この十年間で30%減、その内の20%が荒廃している。農業再生は島の最重要課題だ。

久保さんも近所の農家のアドバイスを受けながらやってきた。今は不在地主の畑20アールの世話をするなど、集落を守る存在にもなっている。

 

『古里への思いを、いかに奥さんと共有化するかがカギ』 周防大島担い手支援センター長の中原氏はこうアドバイスする。 夫以上に地域に根を張っているのが妻。そのつながりを断ち切っての帰郷に加え、ムラの人間関係は濃く 難しい。

久保家の場合、妻のひろみさんは、10年来 周南市で福祉ボランティアを続けてきた。仲間とのつながりが薄れるのはつらく、ためらいもした。『でも 荒れていく畑を守りたいっていう夫の気持ちはよくわかるしね・・』

久保さんは『あれがおってくれたから、ここまでやれたんです。』と述懐する。ひろみさんは『まあ、初めて聞いた』と屈託なく笑い、こう続けた。

『地域と仲良くやっていくには、どんな会合にも顔を出すこと。覚えてもらって可愛がってもらう事。そうしたら村も楽しくなるよ。』

それまで虫も触れなかった妻は今、6アールの畑で玉ねぎを育て、ミカン畑の肥料代でミカンづくりを支えている。

 

(参考) 

『周防大島ミカンいきいき営農塾

    https://www.town.suo-oshima.lg.jp/data/open/cnt/3/2644/1/kouhou201803_08.pdf?20180308133726

周防大島担い手支援センター』 (TEL0820-79-1007

「周防大島みかんいきいき営農塾」では周防大島町内の退職帰郷者や町外に在住しながら町内での就農や農作業支援を希望する方を対象に、柑きつ生産技術の研修を1年間にわたって行っています。 卒塾生は第1期から現17期まで延べ600人を超え、周防大島町の柑橘産地において中心的な役割を担っています。

 

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