2024年4月1日月曜日

5. 95歳渾身の影絵制作:藤城清治

 世界的影絵作家 藤城清治の美術館(栃木県那須高原)に行きました。
 140点の作品の中で特に、89歳で制作された藤城氏 渾身の連作 『風の又三郎』 に本当に感動しました。 この感動をこれからも反芻したいので、早速DVDを購入しました。その制作ドキュメントの中で、藤城氏がこの大作を完成後 『私には残された時間が少ない。 尊敬する宮沢賢治の “風の又三郎” を最後まで完成できるかどうか本当に不安でした』 と、感極まって涙される姿に胸を打たれました。 そして95歳になる今も、純粋な少年の心で影絵を制作し続けておられます。

新1万円札に採用される渋沢栄一(91歳没)に有名な人生訓があります。
   40、50は洟垂れ小僧
   60、70は働き盛り
   90になってお迎えが来たら、100まで待てと追い返せ
藤城清治氏は、まさにこの通りの人生を生きておられ、言わず語りに 『生涯生き生きと活躍し続ける大切さ』 を教えてくれます。私達“洟垂れ小僧”は、少子高齢化や人口減少で日本の将来を心配しますが、子供が少なくなっても、夫々が長年培ってきた職域や得意とする分野で生涯活躍し続け、日本の発展に寄与できることを再認識する必要があります。
ほとんどのサラリーマンは40数年間の高い知識経験・スキル・やる気を持ったまま、一定年齢で一律解雇されます。知力体力気力が充実し60歳代の働盛りを無情にも切捨て、『高齢者医療費負担が若者にのしかかる!』 と危機感をあおるだけの無為無策は、高齢者にとって誠に失礼千万な話です。 私自身退職後、現役時代の人事経験をもとに、異分野の大学講師を10年やっており、立ち放し話し放しの講義4コマ(AM9:00~17:00)をぶっ続けで3日間、板書しながら講義します。
企業も社会も安易に外国人労働者に頼るのではなく、まずは高い能力・即戦力の高年齢者雇用促進するのが賢明な経営です。真面目で無我無視・利他の精神旺盛な日本人が、80歳代まで生き生きと活躍できる社会にすれば、『少子高齢問題』 などなくなり、人口は少なくても活力ある充実した社会が実現します。
日本人には生涯現役の潜在力、働く美徳が備わっています。
日本人の仕事観は、「働く=傍楽 (ハタラク:周りの人を楽にする)」です。 西洋・中国などの仕事観は、「労働は苦役、賃金を得るため手段」です。
 70歳と言わず80歳代でも能力を維持している高齢者を積極的に活用するように意識を変え、早急に体制を整えていく必要があります。

今回は、95歳でなお意欲旺盛な藤城清治氏の作品に込める思いを紹介します。私達のこれからの生き方の道標としたいものです。

1. 90歳になって思う事
90歳になって、自然の中で、この地球の上で生きていること、生かされていることの素晴らしさ、喜びみたいなことを感じます。 自分だけでなく、みんなで感じられるような、呼び起こすような、喜びを分かち合うような作品を作っていきたいですね。 
僕にとって、作品を作ることは生きていることと同じです。生き続けていくことの中に、作品を作る意味を見出していかないといけないと思っているから。 生きているけど作品は作れないってことにならないようにしないといけない。感性と体力を保ちながら、自分の生き方が反映された作品を作っていきたいですね。
  
2. 愛してやまない 宮沢賢治の世界
宮沢賢治の童話が大好きなんです。童話にはメルヘンというか、ただ可愛いというか、子供向けの抒情的なものが多いんだけど、賢治の世界はスケールが大きい。
「銀河鉄道の夜」を見ても、どの時代か分からない、どの国かもわからない、宇宙的な世界観を感じます。名前の付け方にしても、「カンパネルラ」 とか 「ジョバンニ」 とか、すごく新しい。賢治の作品には、ひとつ突き抜けた、飛びぬけたような、魂に響くものがあるんです。
戦後に影絵劇をやり始めた時に、宮沢賢治の童話を改めて読んで、「これはぴったりだな、影絵の為の童話じゃないかな」 と思いました。それで 「銀河鉄道の夜」 「双子の星」 「注文の多い料理店」なんかをやりました。僕は本当に色んな作品をやったけれども、賢治の童話は僕の感覚を育てる基準のような気がして、触発されることが沢山ありました。

3.「風の又三郎」は避けていた
  僕は作品を作るとき、「絵」としてよりも、「劇」として考えるんです。実際に光を当てて、どう動かすか考えながら。 でも「風の又三郎」は、劇としてはリアルすぎるんです。子供の日記帳のような構成で、古い日本の小学生の思いや情景をしっかり描き出さないといけない。影絵劇だと、形が面白いとか、お化けが出てくるとかの方が喜ばれる。そういう意味で、「劇にはしにくいな」って思っていたら、賢治の作品で又三郎だけが残ってしまった。

4.今までとは全く違う、新しい表現への挑戦
でも2,3年くらい前から年と共に、自然の厳しさ、深さみたいなものを追求していくような姿勢になってきました。改めて僕の原点みたいなもの、宮沢賢治の「風の又三郎」に挑戦してみよう、今やらないとできなくなるかもしれないと思ったんです。ただ僕流にまとめるのではなくて、宮沢賢治が持っている良さ、「風の又三郎」が言わんとしていることを、どこまで表現できるかやってみることにしました。僕が持てるすべてのテクニックを使って切ったり貼ったり、光と影の表現で、どこまで宮沢賢治そのものに迫れるか、挑んでみたんです。

5.ガラスと窓枠には、信念がにじみ出ている
 ちょっと傾いてガタガタしている、昔の小学校の教室の窓、窓のゆがみ、ガラス、窓・・こういうところが大事なんだって考えました。筆で描いたのでは出せないもの、切ったり、貼ったり、はがしたり、削ったり、やり直したりしながら、僕のテクニックで表現しました。そうやって追及していくと、子供たちの気持ちがしみこんでいるような、懐かしい絵になる。教室の中の窓枠と窓ガラスには、僕としてはこの絵本にかけた信念みたいなものがにじみ出ている。相当強い入れ込みがあったことは確かです。

6.どうしても必要だった最後の1枚
画本「風の又三郎」では、全体を見て相当自分の力が出せたと思うんだけど、並べてて見た時、風の又三郎を締めくくるような、最後の1枚が足りないような気がしたんです。これは全く想定していなかった。それで最後に作ったのが、九月十二日の 「どっどど どどうど どどうど どどう 学校へ向かう一郎と嘉助」の絵です。
激しい風、雨、雷の中、小学生の子供たちが家から種山ヶ原の自然に飛び込んでいく、又三郎がどこかに飛んでいなくなってしまった、なんて思いながら走り出す。そこに風が「どっどど どどうど」と吹いて、一番の切迫感というか、そういうものが必要だと思ったんです。この絵には、自然に「どどうど」の文字も入りました。下絵では考えていなかったし、変に入れてもわざとらしくなる。どんな事態で入れるか難しいんだけど、最後ふうっと瞬間的に出て「こう入れていいんだ」ってなりました。デザインとか、構図的にとか、やっちゃいけないこととか、そういうことは全部忘れて、理屈ではなくて、無意識にでてきたからこそ、良かったと思うのです。

7.見せたいから描く
僕は小さい頃から、絵ばかり描いている子供でした。
でも面白いから描いていたんではなくて、人に見せたいから、伝えたいから描いていました。小学校で先生の似顔絵を描いたときも、「こんな先生だよ」って伝えたくて描いていた。戦後、影絵劇をやっていたのも、お客さんに見せて、一緒に喜びたかったから、焼け野原でも、物がなくても、光と影があればこんなに楽しいことができるじゃないかって。 絵は世界共通で目で見れば誰でもわかる。言葉の代わりに絵で訴えていく。そういう風に、ずっとやってきています。

8.第24回宮沢賢治賞受賞して
宮沢賢治の童話があって、童話とともに僕の世界も進化してきました。賢治に触発されて、光と影の表現を追求してきた。アトリエに閉じこもっているのではなく、外に出て理想の世界を作ろうとした賢治の行動力に、とても共感します。僕にとって宮沢賢治は欠かせない存在です。そういう意味で、宮沢賢治賞はあらゆる面で僕にぴったりというか、僕らしいって思いますね(笑)。作品の良し悪しでなくて、僕という人間に合っているんじゃないかって。それをわかってくれたのがとても嬉しいですね。

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