2024年4月1日月曜日

5.「風の又三郎」


どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
 谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはゴボゴボ冷たい水を噴く岩穴もあったのです。
九月一日の朝
青空で風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。 黒い雪袴をはいた二人の一年生の子が土手をまわって運動場にはいって来て、教室の中を見ますと二人ともびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶる震え、一人はとうとう泣き出してしまいました。 その訳は、この泣いた子の机にどこから来たのか、まるで顔も知らない赤い髪の子供がちゃんと座っていたのです。
やがて嘉助や六年生の一郎もやってきて、教室の中の少年に声を掛けますが通じません。
 そのとき風がどうと吹いて来て、教室のなかの子供は何だかにやっと笑って少し動いたようでした。すると嘉助がすぐ叫びました。 「ああ分かった。あいつは風の又三郎だぞ。」
 そうだとみんなも思ったとき、にわかに後ろの方で足を踏まれたと子供同士の言い合いが始まりました。 六年生の一郎がみんなをなだめて教室のほうを見たら、 たった今まで教室にいたあの変な子が影も形もないのです。 そのうち先生が出て来て、その少年もその後からついてきました。皆で整列したあと教室に入ると、先生は「北海道から転校してきた五年生の高田三郎くんです。」と少年を紹介しました。教室の後ろには三郎の父がいて、あとで先生は「三郎君の父はモリブデン鉱の鉱山技師です」と告げました。
九月二日
 一郎と嘉助は朝早くから校庭で三郎を待っていました。やがて三郎がやってきて皆に挨拶しますが、仲間同士の挨拶はしない習慣のみんなはどうしたらよいか分からず黙っています。
皆が何となくよそよそしいので、三郎が校庭を歩測するように歩くと、つむじ風が起こりました。嘉助は「やっぱりあいつは又三郎だぞ。あいつが何かするときっと風吹いてくるぞ。」と叫びます。

 教室で勉強が始まり教室はあちこちで大騒ぎが始まりました。佐太郎が妹のかよの鉛筆を横取りしたために、かよは口を大きく曲げて泣きだしそうになり、とうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、三郎は、黙って右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。 一郎はこれを一番うしろでちゃんと見ていました。そしてまるで何と言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。
九月三日 日曜日
次の朝、空はよく晴れて谷川はさらさら鳴っていました。一郎は嘉助と佐太郎と悦治をさそい、三郎も一緒になって上の野原にむかいます。そこでは牧場で馬を飼っている一郎の兄さんが迎えてくれました。兄さんは「土手の中から外に出ると危ないから出るな、昼には帰ってくる」と注意して行ってしまいました。 そしてみんなが土手のちぎれたところに渡してある2本の丸太をくぐって入ろうとすると、嘉助は「そんなものおれが外せる」と外してしまいました。
中に入ると、向こうの少し小高いところにテカテカ光る茶色の馬が七匹ばかり集まって、尻尾をゆるやかにバシャバシャふっていました。みんなは手に塩をのせて馬に舐めさせますが、三郎は怖がってみんなに冷やかされます。むきになった三郎は「それなら競馬ごっこをしよう」と言い出し、小枝で鞭を当てたり手を叩くうちに、突然7匹の馬が駆け出しみんなはびっくりして追いかけました。
 そして先ほど外した2本の丸太のところから二匹の馬が外に出てしまったので、あわてて三郎と嘉助が後を追いかけます。 そのうち雨が降り出し、嘉助は道に迷って恐ろしい谷に落ちそうになり、疲れ果てて、どこをどう走っているのかわからなくなりました。
まわりがまっ蒼になって、ぐるぐる回り、とうとう深い草の中に倒れてしまいました。馬の赤いたてがみと、あとを追って行く三郎の白いシャッポが終わりにちらっと見えましたが、嘉助はとうとう草の中で眠ってしまいました。
そんなことはみんなどこかの遠い出来事のようでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつの間にか鼠色の上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどん吹いているのです。
 又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さな唇を強そうにきっと結んだまま黙って空を見ています。いきなり又三郎はひらっと空へ飛び上がりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。
        *
 ふと嘉助は目を開きました。灰色の霧が速く速く飛んでいます。
 そして馬がすぐ目の前にのっそりと立っていたのです。その目は嘉助を恐れて横のほうを向いていました。嘉助ははね上がって馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなった唇をきっと結んでこっちへ出てきました。嘉助はぶるぶる震えました。
「おうい。」霧の中から一郎の兄さんと一郎の声がしました。嘉助は喜んで飛びあがりました。
 兄さんと一郎が、突然目の前に立ちました。嘉助はにわかに泣き出しました。
「捜したぞ。危ながったぞ。すっかり濡れて。」一郎の兄さんは慣れた手つきで馬の首を抱いて、持ってきたくつわをすばやく馬の口にはめました。 「又三郎びっくりしたべあ。」一郎が三郎に言うと、三郎は黙って、きっと口を結んで頷きました。
九月四日
次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終わりの十分休みにはとうとうすっかりやみ、うろこ雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも雲が湯気のように立ちました。
「放課後は葡萄蔓とりに行がないが。」耕助が嘉助にそっと言うと、「行ぐ行ぐ。三郎も行がないが。」と嘉助が誘いました。耕助は 「わあい、三郎さ教えるやない。」と言いましたが、三郎は、「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。」と言いました。 みんなは学校の済むのが待ち遠しく、五時間目が終わると、一郎と嘉助と佐太郎と耕助と悦治と三郎と六人で学校から上流のほうへ登って行きました。
少し行くと藁の一軒家の前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下のほうの葉を摘んであり、その青い茎が林のように綺麗に並んでいかにも面白そうでした。すると三郎はいきなり、「なんだい、この葉は。」と言いながら葉を一枚むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、 「わあ、又三郎、たばこの葉とると専売局にうんと叱られるぞ。何してとった。」と少し顔色を悪くして言いました。みんなも口々に言いました。
 「わあい。専売局は、この葉一枚ずつ数えで帳面さつけてるだ。おら知らないぞ。」 すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振り回して何か言おうと考えていましたが、「おら知らないで取ったんだい。」と怒ったように言いました。 みんなは恐そうに、誰か見ていないか向こうの家を見ましたが、しいんとして誰もいないようでした。 しかし耕助は始めから自分の見つけた葡萄藪へ、三郎やみんなが来て面白くなかったので、意地悪く三郎に言いました。
 「わあ、三郎なんぼ知らないたってだめだ。三郎もとの通りにしろや。」 三郎は困って暫く黙っていましたが、「そんなら、おいらここへ置いてくからいいや。」と言いながらたばこの木の根もとへそっとその葉を置きました。
 みんなが萱の間の小さな道を山のほうへ少しのぼりますと、その南側に向いたくぼみに栗の木があちこち立って、下には葡萄がもくもくした大きな藪になっていました。
 「ここはおれ見つけたのだからみんなあんまり採るやないぞ。」耕助が言いました。すると三郎は、「おいら栗をとるんだい。」といって石を拾って一つの枝へ投げました。青い毬栗が一つ落ち、三郎はそれを棒きれでむいて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡萄のほうへ一生懸命でした。

 そのうち耕助がもう一つの藪へ行こうと栗の木の下を通りますと、いきなり上から雫が一遍にざっと落ちてきましたので、耕助は肩から背中から水にはいったようになりました。耕助はおどろいて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に三郎が登っていて、なんだか少し笑いながら自分も袖口で顔を拭いていたのです。
 「わあい、又三郎何する。」耕助は恨めしそうに木を見あげました。 「風が吹いたんだい。」三郎は上でクツクツ笑いながら言いました。
 すると耕助はうらめしそうにしばらくだまって三郎の顔を見ながら、「わあい、又三郎、汝(うな)などあ世界になくてもいいなあ。」 すると三郎はずるそうに笑いました。「やあ耕助君、失敬したねえ。」
 耕助は何かもっと別のことを言おうと思いましたが、あんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたのでまた同じように叫びました。「うあい、又三郎、うなみだいな風など世界中になくてもいいなあ。」
 「失敬したよ、だって君も僕へあんまり意地悪をするもんだから。」 三郎は少し目をパチパチさせて気の毒そうに言いました。けれども耕助の怒りは中々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。「うわ
い、又三郎、風など世界中になくてもいいな、うわい。」
 すると三郎は少し面白くなったようでまたくつくつ笑いだして尋ねました。「風が世界中に無くてももいいってどういうんだい。箇条をたてていってごらん。そら。」三郎は先生みたいな顔つきをして指を一本だしました。
 耕助は試験のようだし、つまらないことになったと思って大変くやしかったのですが、仕方なくしばらく考えてから言いました。 「うななど悪戯ばかりさな、傘ぶっこわしたり。」
 「それからそれから。」三郎は面白そうに一足進んで言いました。
「それがら木折ったり転覆したりさな。」「それから、それからどうだい。」
「家もぶっこわさな。」「それから。それから、あとはどうだい。」
「明かりも消さな。」「それからあとは? それからあとは? どうだい。」
「シャップもとばさな。」「それから? それからあとは? あとはどうだい。」
「かさもとばさな。」「それからそれから。」
「それがら、ラ、ラ、電信ばしらも倒さな。」「それから? それから? それから?」
「それがら屋根もとばさな。」「アアハハハ、屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」
「それだがら、ララ、それだからランプも消さな。」「アアハハハ、ランプは明かりのうちだい。けれどそれだけかい。え、おい。それから? それからそれから。」
 耕助は詰まってしまいました。大抵もう言ってしまったのですから、いくら考えてももうできませんでした。三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら、「それから? それから? ええ? それから?」と言うのでした。耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
 「風車もぶっこわさな。」 すると三郎はこんどこそはまるで飛び上がって笑ってしまいました。みんなも笑いました。笑って笑って笑いました。 三郎はやっと笑うのをやめて言いました。
 「そらごらん、とうとう風車などを言っちゃった。風車なら風を悪く思っちゃいないよ。もちろん時々壊すこともあるけれども回してやる時のほうがずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようはあんまり可笑しいや。ララ、ララ、ばかり言ったんだろう。お終いにとうとう風車なんか数えちゃった。ああ可笑しい。」
 三郎はまた涙の出るほど笑いました。耕助もさっきからあんまり困ったために怒っていたのも段々忘れて来ました。そしてつい三郎と一緒に笑い出してしまったのです。すると三郎もすっかり機嫌を直して、「耕助君、悪戯をして済まなかったよ。」と言いました。
「さあそれであ行ぐべな。」と一郎は言いながら三郎に葡萄を五房ばかりくれました。 三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けました。そしてみんなは下の道まで一緒におりて、あとはめいめいのうちへ帰ったのです。
九月六日
 次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが二時間目ころから日はかんかん照って、お昼からまるで夏のように暑くなってしまいました。
  授業が済むとみんなはすぐ川下のほうへ揃って出かけました。嘉助が、「又三郎、水泳ぎに行がないが。小さいやつは今ころみんな行てるぞ。」と言いましたので三郎もついて行きました。
 そこは少し広い河原で、すぐ下流は大きなさいかちの木のはえた崖になっているのでした。一郎やみんなは、いきなり着物を脱ぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで斜めにならんで向こう岸へ泳ぎはじめました。三郎も着物をぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途中で声をあげて笑いました。すると向こう岸についた一郎が、「わあ又三郎、何して笑った。」と言いました。 三郎は、「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と言いながらまた笑いました。一郎は何だかきまりが悪くなり、「石取りしないか。」と白い丸い石を拾いました。「するする。」子供らがみんな叫びました。「さあ落とすぞ。一二三。」と言いながらその白い石をどぶんと淵へ落としました。
 みんなはわれ勝ちに岸からまっ逆さまに水にとび込んで、その石をとろうとしました。けれどもみんな底まで行かないに息がつまって浮かびました。三郎もどぶんとはいって行きましたが、やっぱり底まで届かずに浮いてきたのでみんなはどっと笑いました。
 そのとき向こうの河原のねむの木のところを大人が四人、肌ぬぎになったり、網をもったりしてこっちへ来るのでした。すると一郎は木の上でまるで声を低くしてしてみんなに叫びました。 「おお、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とり止めて早ぐみんな下流さ下がれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながら、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。
 すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、暫くあちこち見まわしてから、いきなりあぐらをかいて砂利の上へ座ってしまいました。それからゆっくり腰からたばこ入れをとって、きせるをくわえてぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思っていましたら、また腹かけから何か出しました。
「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。 一郎は手をふってそれを止めました。庄助は、キセルの火をしずかにそれへ移しました。うしろにいた一人はすぐ水にはいって網をかまえました。庄助はまるで落ちついて、立って一足水にはいるとすぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼおというようなひどい音がして水はむくっと盛りあがり、それから暫くそこらあたりがきいんと鳴りました。
 向こうの大人たちはみんな水へはいりました。
 「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が言いました。まもなく耕助は小指ぐらいの茶色なかじかが横向きになって流れて来たのをつかみましたし、そのうしろでは嘉助が、まるでウリを啜るときのような声を出しました。それは六寸ぐらいあるフナをとって、顔をまっ赤にして喜んでいたのです。それからみんなとって、わあわあ喜びました。 「黙ってろ、黙ってろ。」一郎が言いました。
 そのとき向こうの白い河原を肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人が五六人かけて来ました。そのうしろからは一人の網シャツを着た人が、裸馬に乗って走って来ました。みんな発破の音を聞いて見に来たのです。庄助はしばらく腕を組んでみんなのとるのを見ていましたが、「さっぱりいないな。」と言いました。すると三郎がいつのまにか庄助のそばへ行っていました。そして中くらいの鮒を二匹、「魚返すよ。」といって河原へ投げるように置きました。すると庄助が、「なんだこの童さあ、奇体な奴だな。」と言いながらじろじろ三郎を見ました。三郎はだまってこっちへ帰ってきました。庄助は変な顔をしてみています。みんなはどっと笑いました。
 みんなはとった魚を石で囲んで、小さな生け州をこしらえて、生きかえってももう逃げて行かないようにして、また上流のさいかちの木へのぼりはじめました。 そのとき誰かが、「あ、生け州ぶっこわすとこだぞ。」と叫びました。見ると一人の変に鼻のとがった、洋服を着てわらじをはいた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんなの魚をぐちゃぐちゃかきまわしているのでした。その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。
「あ、あいづ専売局だぞ。専売局だぞ。」佐太郎が言いました。 「又三郎、うなのとったたばこの葉めっけたんで、連れに来たぞ。」嘉助が言いました。 「なんだい。怖くないや。」三郎はきっと口を噛んで言いました。 「みんな又三郎を囲んでろ、囲んでろ。」と一郎が言いました。そこでみんなは三郎をさいかちの木のいちばん中の枝に置いて、まわりの枝にすっかり腰かけました。 「来た来た、来たっ。」とみんなは息をこらしました。
 ところがその男は別に三郎をつかまえるふうでもなく、みんなの前を通りこして、それから淵のすぐ上流の浅瀬を渡ろうとしました。 そこでとうとう一郎が言いました。 「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶだ。いいか。あんまり川を濁すなよ、 いつでも先生言うでないか。一、二い、三。」
「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」
 その人はびっくりしてこっちを見ましたけれども、何を言ったのかよく分からないという様子でした。そこでみんなはまた言いました。「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生、言うでないか。」
 その人はあわてたのをごまかすように、わざとゆっくり川をわたって、それからアルプスの探検みたいな姿勢をとりながら、青い粘土の赤砂利の崖を斜めに登って、崖の上のたばこ畑へはいってしまいました。すると三郎は、「なんだい、ぼくを連れにきたんじゃないや。」と言いながらまっさきにどぶんと淵へとび込みました。
 みんなも何だか、その男も三郎も気の毒なような可笑しいような気持ちになりながら、一人ずつ木からはねおりて、河原に泳ぎついて、魚を手ぬぐいにつつんだり、手にもったりして家に帰りました。
九月八日
 次の朝、授業の前みんなが運動場で遊んでいると、少し遅れて佐太郎が何かを入れたザルをそっとかかえてやって来ました。 「なんだ、なんだ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。すると佐太郎は袖でそれを隠すようにして、急いで学校の裏の岩穴のところへ行きました。そしてみんなはいよいよあとを追って行きました。
 一郎がそれをのぞくと、思わず顔色を変えました。それは魚の毒もみにつかう山椒の粉で、それを使うと発破と同じように巡査に押えられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横の萱の中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。そこでみんなはひそひそと、時間になるまでいつまでもその話ばかりしていました。
 その日も十時ごろからやっぱり暑くなりました。みんなはもう授業の済むのばかり待って、五時間目が終わると、もうみんな一目散に飛びだしました。佐太郎もまたザルをそっと袖でかくして、みんなに囲まれて河原へ行きました。いつものさいかち淵に着いて着物をぬいで淵の岸に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら言いました。
 「ちゃんと一列にならべ。いいか、魚浮いて来たら泳いで行ってとれ。とったものはやるぞ。いいか。」小さな子供は喜んで、顔を赤くして押しあったりしながらぞろっと淵を囲みました。 ぺ吉だの三四人はもう泳いで、さいかちの木の下まで行って待っていました。 佐太郎が大威張りで、上流の瀬に行ってザルをじゃぶじゃぶ水で洗いました。みんなしいんとして、水をみつめて立っていました。 ところが、それから余程たっても魚は浮いて来ませんでした。 「さっぱり魚、浮かばないな。」耕助が叫びました。佐太郎はびくっとしましたけれども、まだ一心に水を見ていました。みんなはがやがやと言い出して、みんな水に飛び込んでしまいました。

 佐太郎はしばらくきまり悪そうに、しゃがんで水を見ていましたけれど、とうとう立って、「鬼っこしないか。」と言いました。「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんしました。それからみんなは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったりこっちへ来たり、押えたり押えられたり、何べんも鬼っこをしました。
 終いに三郎一人が鬼になりました。三郎はまもなく吉郎をつかまえました。みんなはさいかちの木の下にいてそれを見ていました。「又三郎、来い。」嘉助は立って口を大きくあいて、手をひろげて三郎を馬鹿にしました。すると三郎はよっぽど怒っていたと見えて、「ようし、見ていろよ。」と言いながら本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一生懸命、そっちのほうへ泳いで行きました。三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃして、唇もすこし紫色なので、子どもらはすっかり怖がってしまいました。その粘土のところは狭くて、みんなが入れなかったのに、それに大変つるつるす滑る坂になっていましたから、下のほうの四五人などは上の人につかまるようにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいたのでした。三郎はぼちゃぼちゃ近くまで行き、いきなり両手でみんなへ水をかけ出しました。だんだん粘土がすべって来て、なんだか少し下へずれたようになりました。三郎は喜んでで、いよいよ水をはねとばしました。
 すると、みんなはぼちゃんぼちゃんと一度に滑って落ちました。三郎はそれを片っぱしからつかまえました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまわって泳いで逃げましたら、三郎はすぐに追い付いて押え、腕をつかんで四五へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は水を飲んだと見えて、霧をふいてごぼごぼむせて、「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言いました。小さな子どもらはみんな砂利に上がってしまいました。
 三郎はひとりさいかちの木の下に立ちました。ところが、そのときはもう空が一杯の黒い雲で、しんしんと暗くなり、何とも恐ろしい景色に変わっていました。 いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一遍に夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだしました。淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまいました。 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。
 すると三郎もなんだかはじめてこわくなったと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなのほうへ泳ぎだしました。
 すると、「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろえて叫びました。
「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵から飛びあがって、一目散にみんなのところに走って来て、がたがた震えながら、「いま叫んだのはおまえらたちかい。」と訊きました。「そでない、そでない。」みんな一緒に叫びました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見ていましたが、色のあせた唇を、いつものようにきっとかんで、「なんだい。」と言いましたが、からだはやはりがくがく震えていました。そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。
九月十二日
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
一郎は、三郎から聞いたあの歌をまたきき、嵐の中を又三郎が遠くに行く夢を見ました。
 びっくりしてはね起きて見ると、外では本当にひどく風が吹いて、林はまるで吠えるようでした。 一郎は素早く帯をして、そして下駄をはいて土間をおり、馬屋の前を通ってくぐりをあけたら、風が冷たい雨の粒といっしょにどっとはいって来ました。
 外はもうよほど明るく、土は濡れていました。家の前の栗の木の列は、風と雨とで今洗濯をするとでもいうように激しくもまれていました。空では雲が険しい灰色に光り、どんどんどん北のほうへ吹きとばされていました。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、黙ってその音をききすまし、じっと空を見上げました。 きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、けさ夜明け方にわかに一斉に動き出して、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると息をふっと吹きました。
 「ああひで風だ。きょうは煙草も栗もすっかりやられる。」と一郎のおじいさんがくぐりのところに立って、ぐっと空を見ています。一郎は急いで金盥を出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚から冷たいご飯と味噌をだして夢中でざくざく食べました。 「一郎、いまお汁できるから少し待ってよ。何して今朝そったに急ぐがや。」お母さんは訊きました。
 「うん。又三郎は飛んでいったかもしれないもや。」 一郎は急いでご飯をしまうと、椀をこちこち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽を着て、下駄はもって裸足で嘉助を誘いに行きました。まもなく嘉助は小さい蓑を着て出て来ました。激しい風と雨にぐしょ濡れになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口からはいって行きますと教室はまだしいんとしていましたが、ところどころの窓の隙間から雨がはいって板はまるでざぶざぶしていました。一郎はしばらく教室を見まわしてから、「嘉助、二人して水掃ぐべな。」と言ってしゅろ箒をもって来て水を窓の下の穴へはき寄せていました。

 すると奥から先生が出てきましたが、不思議なことは先生が浴衣をきて赤いうちわをもっているのです。 「大変早いですね。あなたがた二人で教室の掃除をしているのですか。」先生が訊きました。
「先生お早うございます。」一郎と嘉助が言い、「先生、又三郎きょう来るのすか。」とききました。 先生はちょっと考えて、「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんは昨日お父さんと一緒にもうほかへ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶する暇がなかったのです。」
 「先生飛んで行ったのですか。」嘉助がききました。 「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。高田さんは向こうの学校にはいるのだそうです。向こうにはお母さんもおられます。」
 「何して会社で呼ばったべす。」と一郎がききました。 「ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためだそうです。」
「そうでないや。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。
 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。二人はしばらくだまったまま、相手が本当にどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。
 風はまだ止まず、窓ガラスは雨粒のために曇りながら、またがたがた鳴りました。
参考文 :新潮文庫 『風の又三郎』
        昭和36年7月25日 第1刷発行
        昭和59年6月10日 第43刷改版発行
切り絵  :「藤城清治」ネット画像検索 (⇒実物は藤城清治美術館)

風の又三郎の感動を共に! 』
藤城美術館での感動を独占めするのは勿体なく皆さんにお届けしました。
宮沢賢治の傑作に、藤城清治氏は素晴らしい映像の命を注ぎ込みました。
・・私が昭和30年前半を過ごした霧島山麓の山田小学校は、この作品と同じ木造校舎でした。当時どこの子供も両親は働きづくめで、子供だけで遊び、喧嘩・意地悪・仕返し・仲直りで色々な事を学んだように思います。
この一郎や嘉助が深めた転校生との心のふれあいは僅か12日間です。
今の子供たちは【・・学校や家庭でも勉強づくめ、塾や習い事、息抜きはスマホやタブレットのアニメやゲーム・・】 の毎日ですが、一郎や嘉助や耕助などが体験したような珠玉の子供時代を、純真な子供時代にしか体験できない大事なことを学ぶことができるのでしょうか? 私は可愛い孫たちと接するたびにそう危惧します。
現代は『物の豊かさ』はありますが、この風の又三郎の世界の『本当の心の豊かさ』を失いつつあると思います。私達お年寄りは、昔のほのぼのとした子供心を呼び戻し、可愛い孫世代と遊びながら伝え残していく・・それが年老いた私たちの大事な使命かもしれません。


<最後に>
「風の又三郎」は、賢治の死の翌年、昭和9年に発表されたものです。
大正時代に書いたいくつかの作品をコラージュして書き上げ、何回も手をいれた未完の作品と言われています。作品は岩手の山間の小さな小学校を舞台に、当時の純朴な少年たちの南部弁の会話や交流が描かれています。
しかしブログに全文掲載するには、あまりに長文で難解な方言も多いので、なるべく原作を壊さないように配慮しながら半分ほどに圧縮し、方言にも手を加えました。 このブログを導入としてご一読後、是非原作を読んで頂ければ、さらに『風の又三郎』を好きになって頂けると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿