2024年4月3日水曜日

2. 父の苦闘人生と 故郷の歴史

自然界では、あらゆる動物の父母が協力して子育てします。 
皇帝ペンギンの父親達は南極の海岸から100kmも内陸の零下60℃の極寒の中で、120日間絶食して、父親同士が身を寄合い抱卵し育児します。では万物の霊長の人間はどうでしょうか。最近 育児放棄、児童虐待・殺人、無差別殺人等々・・「ひ弱な子供を狙い撃ちして、鳥獣にも劣る!」と 怒りを覚える卑劣で悲惨なニュースを耳にしない日はありません。
私は古希を過ぎ、父の晩年と重なる年代になりました。そこで父とは自分にとってどういう存在だったのかを振返ってみましたが、父の死後30年が経過してその人生を辿る手立てが少なく『父の生前にもっと色々聴いておけばよかった』と反省するばかりです。若い皆様方も是非ご両親の元気なうちにルーツを辿ってみてほしいと思います。
【左は昭和26年正月。私1歳】
私は父との思い出が少なく、むしろ母から 『楠木正成父子の櫻井の別れ』 や『西郷隆盛の西南戦争時の息子菊次郎への遺訓』 や 『乃木大将、軍神広瀬武夫』 などの話を聴いて『父と子のあり方・男の生き方』 を幼い頃より教わりました。
 父は明治43年生まれ、昭和63年1月に79歳で旅立ちました。家庭では 『寡黙な明治の人』で、私は40年近くを共に生きたのに まともな会話をした覚えがありません。父は社会科教師で、教頭時代が15年と長く最後の4年間は校長でした。 退職後は郷土史編纂、地区分館長、納骨堂建立委員、選挙管理委員等を務めました。50年前に高校友人から、『中郷中学で君のお父さんの歴史授業を受けた。地元偉人の逸話など色々脱線し本当に面白かった。』 と聴き、家での不愛想な父からはとても想像ができず信じられませんでした。

父の最期は肝臓・腎臓不全で緊急入院。宮崎在住の姉や兄は当てにできず、私と弟が長期休暇を取り12時間交代で付添看病をしました。最後の言葉は『家屋敷や田畑は長兄が継げ。必ず回復するので選挙管理委員の仕事は続けると伝えろ』で、葬儀が終わった後、看病疲れの弟と私は 『何もいらないけど、ありがとうの一言ぐらい欲しかったね。』と苦笑し合いました。
 没後、母が遺品を整理している中から18ページにわたるメモ書きが見つかりました。それを読むと、寡黙な父は生前、心の内を話すことはありませんでしたが、晩年は『自分の人生は一体何だったのか』と考える日々だったことが推察されました。
 私は子供のころから、農業で苦闘する母の姿を見て敬意を覚えながらも、『学校で見る先生の仕事は母ほど重労働ではない。また父の教員給与があるのに何故こんなに働かないといけないのか?』と不思議に思っていました。『私は将来結婚したらこんなに妻を苦労させはしない。子供に尊敬される親父になりたい』と思って生きてきました。 
 【昭和35年 祖父母と母と私10歳】

しかし父が書き残した手記を見ると、もし自分が父の立場だったら、果たしてあのような重荷を背負って生きることが出来ただろうかと自信はありません。 また自分の子供達から尊敬されるような父親として生きてきたか・・・これはさらに自信がありません。そういうことを思いながら、父の人生をたどってみました。

1. 父(武千代)のライフワーク
父の人生を俯瞰すると、二つの大きなライフワークがあったと思います。
一つは、青年期に実家が没落して家屋敷まで差押さえられ、親兄弟8人の生計と借金返済が過重な中、弟妹4人を師範学校に出して教師にしたことです。 戦前では破産没落家族は借金返済の為に下男・下女に出されるのが当然で、父の弟3人は徴兵で戦死していたことでしょう。 しかしこの為に父の教師給与は全て親兄弟へと消え、自分の妻・子供7人の生計費は、母の必死の農作業と母実家の支援で辛うじて支えられました。この極貧の朝鮮生活の中で長男は疫痢にかかり、医者にかかることもなく6日後に4歳で亡くなりました。 以来母は、子供の命は自分が命を懸けて守ると決意しました。
もう一つは山田町郷土史の編纂です。 
朝鮮での困窮生活に疲れ果て絶望して失職、帰国して奇跡的に復職。社会科教師として奉職する中で 『山田町郷土史編纂』 を教員仲間と企画しましたが挫折。 20年後の退職後に町長から委嘱をうけ2年をかけて1971年に完成しました。父が編纂を志してから完稿・出版まで実に22年、何と1400ページ 厚さ6cmの大作です。
その35年後の2006年に山田町は都城市と合併し自治体としては消滅しました。 今にして思うと、父はこの山田町郷土史編纂で、重厚な歴史をもつ山田町の父祖の輝かしい歴史を世に残すために生きたといえます。

1. 安藤家の沿革
父が編纂した山田町郷土史によると、「山田村」が歴史に登場するのは、山田華舞権現神社と、山田城の幾多の攻防に関する島津家記録で、この二つに安藤家(父方)と桂木家(母方)の先祖が深くかかわっています。
 「山田華舞権現(山田神社)」は霧島六所権現の一つで、この地方の尊崇厚く、この神社に現存する手水鉢に元弘三年(1333年鎌倉幕府滅亡の年)奉納の銘記があることから、それ以前に建立された由緒ある神社であることがわかります。
 山田城はこの地方の要害で、正平14年(1359年)に相良氏が築城しました。その後この城を巡って島津北郷家と、伊東北原家が凄惨な争奪戦を繰り返しています。そして 
「天文12年(1543年)島津北郷忠相が、安藤ならびに桂木を先陣に、山田城を取返し北原遠江守を討ち取った。この時 霧島神社から山田30町を手に入れ、その中から3町3反を山田華舞神社に寄進、願主の安藤南光坊を権現の座主に定めた。」
また桂木家については、
「忠相公 ご領地にまかり成り、桂木対馬良勝へ華舞権現大宮司職を仰付け 水田3町を下し 御嘉例(めでたい)の者なり」 
と島津家記録にあります。 
特筆は文禄四年(1595年)4月、左大臣近衛信尹が豊臣秀吉の怒りにふれ薩摩へ配流の際、大宮司桂木丹波良隆の招聘で山田華舞権現に宿泊し、衣の袖を落として 『華』 の一字を揮毫し奉納した事です。この一筆は今も宝物殿に残り、この時から 『華舞権現』 と呼ばれ、桂木家を 『華舞(ハナモ)』 と呼ぶようになりました。



2. 父の生い立ち
父は安藤武彦・ウメヨの長男として明治43年に生まれました。尋常小学校時代から学業優秀で、次男の叔父は当時のことを 「兄は地区登校隊の大将で先頭に立ち、いつも誇りに思っていた」と話していました。 高等小学校で優秀だった父は、医師や高等師範を出て大学教授へとの夢を持ちながら家計が許さないと断念。農業を継がせたい父親を説得できず無言の行を10日続け、ようやく学費無料で生活費の支給まである朝鮮の京城師範へと進学しました。

3. 父の死後見つかった便箋18ページの手記より
京城師範では猛勉強し、学生寮が消灯されるとトイレに閉じこもり豆電球で勉強したといいます。その甲斐あって京城師範卒業成績は二番で金杯組、士官適任証をもらう秀才でした。しかし父が朝鮮で師範在学中に、放蕩癖がある祖父が遊興にふけり、500年の歴史ある安藤家はあっという間に没落し破産しました。 父は何とか卒業して教員職に就きましたが、借金まみれの実家祖父から送金無心が月数回届き、自分は食うや食わずの中で校長から借金して生活する困窮の日々だったようです。 
そういう困窮の中、次弟から 『宮崎師範に進学したい』 という手紙があり、更に月35円の学資等が必要となりました。次弟も貧困実家から何とか抜け出したかったのでしょう。以下の青文字は父の18ページの手記の抜粋です。

(1). 京城師範卒業前後の極貧
「僕が犠牲になって一家を養い弟妹を救うしかない』と僕は覚悟した。
そもそも僕自身が学資免除の京城師範に行くのさえも困難な状況で、まして没落家庭の弟・妹たち6人の将来は閉ざされ悲惨な未来が待ち受けていた。
当時 尋常小高等科を卒業すれば、財産のない家の男は下男奉公、女は下女か紡績製糸工場で働くしかない。少し元手があれば馬と馬車を買い荷馬車引き、大工の弟子になるにも4~5年の年季奉公が必要で大変な世の中だった。山田でも 尋常小卒業後、親の借金払いの為に親が前借して他家の家の下男になり、本人には全くお金は渡らないのが当たり前だった。安藤家も長姉は嫁に行ったが、次女妹は紡績、三女妹は製糸工場で働くことになり、そして三女妹は身体を壊し実家で寝たきりになって早逝した。」

(2). 山田村で最大の馬鹿物語と笑われる
「全財産を失い、借金は残り、僕の給料の殆どを家に送金しても足りず、父母と弟妹6人がその日の食べ物を得るにも借金し乞食寸前の生活だった。そういう大変な時期に、すぐ次弟から宮崎師範に出してくれという手紙である。当時の宮崎師範は半官費制なので相当な金を毎月送金しなければ卒業できない。次弟は当然我が家の悲惨な状況は分かっていたはずだ。安藤一家を、特に父親を人間扱いに考えてくれる人は、村中でただの一人もいなかった。父の放蕩で破産し、借金だらけで家屋敷も差し押さえられている。その上に無一文の僕が、弟を下男に出さずに宮崎師範に出すというのだから、山田の人たちがみんな笑った。馬鹿物語の最大ニュースだった。
しかし僕は『考えてみれば僕が朝鮮にきた為にこんな事態になった。僕が犠牲になって孝養を尽くすしかない』と一大決心したのだ。『僕一人だけ月給取りでよくなっても、あとの弟妹、父母が露頭に迷いみじめな境遇に落ちていけば、それは大変な悲しみであり、世間の人から笑われる。弟妹を助けて世に出しておけば、僕や子供を助けてくれる事になるかもしれぬ。自分だけのことを考えるのはやめて弟を宮崎師範に出そう』と決心した。

しかし弟に長い間無理して送金したのに、卒業した時も、初赴任した時も、お礼の手紙一つなく僕は寂しかった。この時期 僕が弟を師範に出すために、どんな犠牲を払ったかを思ってほしかった。先生になっても、給料の殆どを家に送金し、それでも足らず校長の奥さんから前借りし、送金するみじめな生活が5年続いた。
その間に隣の桂木家の当主 斉二さんからが愛娘と僕との結婚話を進めてくれた。極貧の中で頑張っている僕を見て見ぬ振りができなかったと後で聴いた。しかし新婚生活は 『弟の学資と5人の家族の生活費と借金返済』で極貧の生活だった。生活できないので、家内が妊娠したのを契機に3年間家内を内地の実家に帰した。『親兄弟を養い、弟を学校に出す為に家内を内地に3年間帰した』という例はないだろう。実家に帰して長男が生まれたが、3年間父の顔も知らずに郷里で育った。

(). 極貧で長男を医者に診せられず4歳で亡くす
「長男が3歳になった昭和11年12月末、妻の父 桂木斉二さんが旅費一切を持ち、妻子を朝鮮に連れてきてくださった。その9か月後、4歳の長男が疫痢を発病した。家内は医者に診せてくれと懇願したが、生活費を切り詰めなければ弟への学費が送金できない。医者に診せず病重くなり4日目に危篤、6日目の昭和12年9月7日に死亡した。
弟が師範を卒業し初赴任した月だった。親父が桂木家から100円借金して朝鮮にきて葬儀に参列し、畑の隅にマキを積み火葬。翌日骨を拾って3日目に親父にお骨を持たせて帰した。9月の運動会には家内が長男の位牌をもって2年後に入学するはずだった小学校の運動会を見せた。
その街には日本人の医者がいたが、病気が重いのに「医者に見せろ」とは言わなかった。家内は毎日「お医者に見せてください」と学校に使いをよこしたが僕は金に追われ生活に困っていたので「医者に見せろ」と言えなかった。僕は落ちぶれた一家を救う事だけで一杯であり、弟の師範学校の学費は延ばせないし本当に無理であった。教師になりたてで給料は少なく、給料日の翌日にはなくなってしまうという惨めな生活の中で、自分の長男をまだ4歳という幼さで、医者にも見せずに発病後6日目に死なせてしまった。今考えると本当に自分は馬鹿だったと残念に思い悔し涙が出る。「これまでして僕は親弟妹を養い、一番苦しい時に弟を師範に出さねばならなかったのか?」

母の「晃ちゃんを偲んで読める歌」  昭和13年9月母24歳
〇 たらちねの母の心のたのみなる 吾子は帰らぬ人となりたり
〇 この我を母と頼みて朝夕に 母ちゃんと呼びし吾子今やいずこに
〇 いま一度 ああいま一度吾子の声 心済ませど声は聞こえず
〇 かく早く旅立つことの分かりせば 叱らず怒らず愛せしものを
〇 み仏の前にぬかづきこの母は 逝きし我が子の可愛さ想う

(). 気力をなくし辞職して故郷に帰る
「昭和12年12月末、朝鮮の教員生活8か年、ついに矢折れ刀尽きた思いで学校を辞職した。今迄のような苦しい思いをしながら教員をこれ以上続ける気力はなかった。その帰省の途で家内は早く返した。貧困で4歳の愛息子を病院にも診せられない僕との結婚生活は当然終焉だろうと覚悟したからだ。別れ話が家内の実家で進みやすいように、僕は日之影小に赴任したばかりの次弟の家に立ち寄った。その目的は、その当時すでに宮崎師範に入学していた4女妹の今後の学費を引き受けて貰う為だった。『兄貴が仕事を失ったのだから、恩になった自分が妹の学資は出そう』 と言い出すのを心から期待していたが、ついにその言葉は出なかった。『2男、3男の魂というものは、自分の独立の事しか考えないものだ』と、僕も分かっていたつもりだったが改めて実感した。僕の苦労を知りながら世話になった筈の弟が『妹弟たちを世に出すために力を貸す』という考えは全く持っていないことを知り、無念に思いながら僕はあきらめた。

数年後、その弟が安藤家から出て養子になるとき、僕は言いたいことが山ほどあった。恐らく没落した安藤家と縁が切れれば、地域で後指さされることも、親妹弟の援助も、借金返済の加勢も一切しなくて済むと考えたのだろうか。当時『ヌカ一升あれば養子には行かぬ』という世の中だった。
弟の協力応諾を得られないまま僕は妻に3日遅れて帰省した。3日遅れたのは、家内が実家で離婚話が進めやすいだろうと考えたからだ。家内にはこう言ってあった。『病気の長男を放置して4歳で亡くし仕事も失った。一家の再興は難しく、親妹弟をずっと養っていかなければならない。僕は無一文なので妻を養うことはできない。家も屋敷もない。別れるほかない。 僕の極貧は仕方ないが、家内をどん底から救う為には離婚しかなく、桂木の親から別れ話を進めて貰えれば、僕も決心がつく・・ と』

(). 神様のような桂木斉二さん(家内の父)の救いの手
「そういう絶望した思いで帰宅してみたら、案に相違して、桂木の義父から想像もできない暖かい言葉で迎えられた。 僕が血みどろになって親弟妹を背負ってきた孝養、人のできない苦労をして弟を師範に出し続け、遂に世に出したことを深く評価し、別れ話や嫌がらせの言葉ひとつ言わず、教師をやめて帰ってきたことの叱言もなかった。
桂木の父は、『お前が帰省したことを契機に借金の整理をしなければ、何の仕事に就いても給料を押さえられる。今のようにズルズルベッタリでは一生うだつは上がらない』 と言われ、義父と親交のある山路さんから借金して下さり(安藤家は信用失墜し借金はできなかった)義父自ら打切り交渉してもらい、そして2~3年かけて15軒の高利貸し全部にお金を入れて借金を打切りして下さった。
また家屋敷も差押さえられ、いつ取上げられるかもわからないので、こちらも義父が山路さんより借金され、家屋敷と下の田まで買戻してもらい、僕が月賦で返済するという事にしてもらった。勿論こうなれば『毎月お金を返済しなければならないので、4女妹の師範も中退させます』という条件だった。
僕は 『家内にこれほど苦労させたのだから、義父は当然僕と別れさすだろう。別れた後は家再興の為に紡績工場の油さしか、軍人志願しかない』 と覚悟していたが、義父によって、こうして一家が救われ、僕も救われたのです。」

(). 昭和13年2月、色々な方々に助けられて教職復帰
「丁度その頃は、いよいよ戦争が激しくなり、学校は女教員(助教)が増加しつつあり、資格ある男教員が不足していた。 そこで山田小の仮屋要先生が竹下校長に話され、校長はすぐ僕を県庁に連れていかれ、昭和13年2月に正式採用決定となり、中霧島小学校に赴任した。月50円の月給で奉職した。1~2年してやっと2、3円増俸があった。
桂木の父や家族には、4女妹は師範を辞めさせる条件で色々頼んでいたが、将来ある妹にそんな無慈悲はできず、約束を破って借金返済せず、月給の半分は妹の学資として送金し続けた。これには流石の斉二さんも憤慨されたが、途中で辞めさせることは僕にはできないと、謝って許してもらった。
そして次男弟は高崎小に転任で実家から通勤、家内は朝4時起きとなった。父母と僕の夫婦と弟3人の生活費が月給の半分の25円という極貧生活だった。その中で昭和15年長女が生まれたが、乳児用防寒着すら買ってやれない状態だった。」

(). 出戻り妹の苛烈な嫁いびり、3・4男弟の師範進学
「その頃から、息子を連れて出戻った次女妹の嫁いびりが始まった。次女妹も苛烈な不幸を背負っていた。紡績会社に勤め、縁あって財部町に嫁ぎ一子をなしたが離婚して出戻った。暫く実家で暮らしていたが。その後母子もろとも一緒に引取るという奇特な夫と再婚したが、夫は単身長崎に勤務して直ぐに長崎原爆で死亡、再び実家に出戻ってきた。妹の嫁いびり目的は、家内を実家から追出し生活基盤を獲得することであり苛烈を極めた。僕は昼学校に行っておるので分らなかった。家内がご飯を炊いていると焚き木をすり消す。子供の洗濯物を干すと泥水に突っ込む。母に「嫁から出て行けと言われた」と告げ口する。(勿論家内はそんなことは言っていないという)

そういう酷い状態を救ってくれたのは、またもや義父の斉二さんだった。僕達家族は義祖父の桂木大右衛門さんの隠居屋に転居し、安藤家父母・妹弟とは別居して暮らす事になった。そして桂木の田を安藤家(親父)に小作させて自活の道を開いてくれた。
それでも親父が、僕の月給の半分を「妹弟の学資だ」と取りに来る。4女妹は師範卒業後2年位は学費の加勢をしてくれたが、3男弟、4男弟と連続して学資が必要となった。自分の家族は家内が店に頼み込んで借りて暮らす極貧の生活が続いた。結局僕だけが何の援助もなく京城師範を卒業し、弟妹4人の学資を出し続けて教師の資格を取らせ、まあまあの生活ができるようにしてやり、戦時中も教員故に召集を逃れ、戦死者は出なかった。それだけ僕は自分の子供や家内を犠牲にした生活に甘んじ、なりふり構わず弟妹の為に尽くしたが、70歳を過ぎた今考えると、あまり喜びもない。弟妹は一度のお礼を言うでもなし、弟妹の学校出しで疲れ果ててしまった。
少しでも僕の学費負担を減らす為、弟妹4人には大日本育英会の学費支援手続きをして僕を助けてくれと言っていたが、誰一人借用しなかった。借りればあとで返済しなければならないので借用しなかったのだ。僕は自分の子を4人大学まで出したが、みんな奨学資金を借用させ、夫々10年かけて返済している。結局自分の子供より弟妹を優先した僕の方が馬鹿だったということだろうか。

次男弟は、困窮した安藤家から逃げて養子に行ったが、養子先は家長が戦死した母子家庭で、母と娘2人を抱えて学校に出し、就職・結婚と大変だったと思う。そして上京し、自分の子供4人を大学に出し、立派に就職させ立派だった。東京で長く教員の務めを果たし、張りのある教員生活を送ることができて本当に良かったと思う。
それに比べ僕は、破産没落した父母弟妹を養い教育し、町民から軽蔑の目で見られる中で、恥を忍びながら勇気を出して、辛い中で僕一人が山田にとどまり頑張った。」

(8). 70歳を超え、自分の人生を振返り無念に思う事

【昭和57年父母 金婚式・・この6年後父旅立つ】

「いま年を取り、自分の人生・歩いてきた道を振り返るとき、「自分も家内も子供達も犠牲にして、あれほど弟妹・父母に心血を注ぐ努力をしたのに、弟も妹も感謝の言葉一つなかったことが本当に寂しく、自分をあわれに思う。別に今まで恩に着せるためにやってきた訳ではないが。

健康な五体は親が与え、母親の恩は海より深い。特に没落家族の中で何とか切盛りし、僕よりも苦労したのは母ウメヨである。その母親の七回忌の連絡を全兄弟に出したが、苦しい母の苦労を一番そばで見て感謝したはずの次男弟から何の連絡もなく、帰っても来なかったのは、本当に悲しかった。これまで僕がやってきた苦労は、結局何も報われなかったのではないか・・ と

9)人生終幕を迎えて

 しかし愚痴は言うまい。教員生活約40年、校長5年を務め、弟・妹4人を教員とし、世の中人の為に役に立つ人生を送った。若い頃からの念願だった大著『山田町史』を世に出し、分館長となり、過疎化で荒れる地域の墓を合葬する納骨堂の世話人となって完成させた。十分ではないが地域の為に役立つ働きができたことを感謝しつつ晩年を迎えていることはありがたい事でではないか。

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