2024年4月3日水曜日

3. トンデモ新人を鍛え上げた先輩達

  3年のコロナ禍中を乗り越えた新人も入社後3カ月、夫々の配属先で、学生時代とは異なる厳しい実社会に戸惑いながら、必死で頑張っていくことと思います。『その苦しさは誰もが通る道、頑張れ!』と、ご両親や恩師・先輩・友人達は心から応援しています。
  私は退職後、大学キャリア講師を10年間 やってきました。『51年前にトンデモナイ新入社員だった私を厳しく愛情を持って導いて頂いた諸先輩の薫陶や教訓を少しでも若者に伝承したい、そして高い志を持った社会人としてスタートして欲しい!』 という思いで取り組んできました。
そこで今回は、諸先輩から受けた薫陶やエピソードを紹介します。
「私の上司には良い人はいない」 と思う方も、他人はみんな自分の師匠です。厭な上司や同僚は 『こんな人間になるな!』 と教えてくれる反面教師です。 周囲に尊敬する人がいないなら、古今東西の偉人伝記や歴史小説を読みましょう。司馬遼太郎は、是非若いうちに愛読したい作家です。 きっと皆さんの心を揺さぶられる生き方が見つかるはずです。

1.トンデモナイ新入社員

出光の昭和47年度入社は過去最大の採用人数で780人以上でした。社員の10%が入社してきた訳です。先輩方は新人教育が大変だったことでしょう。後で紹介する吉田さんが 「君達は玉石ではなく、石石混交だ」とよく言われましたが、その中でも私はヒドイ新入社員でした。採用が決まって人事部から送られてきた出光佐三店主の著書 「人間尊重の事業経営」、「マルクスが日本に生まれていたら」 等の書籍を読み、その偉そうな文章と内容に反感を持ち古本屋に売ってしまいました。 そして入社式直前に 「新入社員教育で使うから送付した店主の書籍を持参する事」 との連絡を受けて真っ青になりました。
 
 2.1年目の素晴らしい先輩達の愛情鍛錬
最初の配属先の千葉製油所計装係で素晴らしい先輩方から公私に亘りお世話になりました。 富士見寮では西村敏男さんから朝6時に叩き起こされ、30分のマラソンで一日が始まりました。職場では操油地区の担当で、5か月後には球形タンクの安全弁定期点検を任せられ、目を白黒させながら、自分の親父のような年代の協力会社の方々を指示して、レッカー作業や安全弁摺合わせ・吹出し圧検査に取り組みました。後で聞くと、木原さん、岩岸さん、蓮覚寺さんらが交代でこっそりとフォローされていたことを知り心から感謝しました。

3.人間味豊かな生涯現役の小番さん
最初に 「この先輩のようになりたい」 と思ったのが小番さんです。 秋田弁丸出しで笑顔の絶えない人間味あふれる先輩でした。特にS50年代にパワハラ課長によりメンタル不全社員が頻発し職場が危機に瀕した時、小番さんは常に課長の前面に立って若い後輩を守り抜きました。本当に後輩達の事を真剣になって考えてくれる頼りになる兄貴でした。仕事だけでなく趣味の邦楽部の重鎮で、また懇親会ではお国自慢のドンパン節 『ウチの親父は禿げ頭、隣の親父も禿げ頭、禿げと禿げとが喧嘩して、どちらもケガなくてよかったな・・』 で盛り上げてくれました。
出光退職後は協力会社の安全専任で生涯現役、次の言葉が口癖でした。「勇退後働かなかったら一日中ゴロゴロして酒びたりで死んでいた。 大事なのは金ではなく 生涯現役でこの世に必要な存在であり続ける事だ。」
小番さんは、惜しくも2011年7月67歳で逝去されましたが、今でも天国から叱咤激励されているような気がします。(写真は小番さんと洋一さん、真中の美人は職場のアイドル節ちゃん)
 4.トンデモ社員を鍛え直した現場の神様 :洋一さん
仕事の面白味を覚えた入社10ヶ月目に、運転要員不足の理由で突然運転課異動となりました。 上司・人事課に「場当たり的な人事異動は納得できない。人員計画はどうなっていたのか?最初の仕事に打込み早く一人前になれと教育したではないか。社員育成が社是ではないのか。」 と抗議しましたが、「会社の決定だ。我慢して頑張れ」 の一点張りでした。
「出光も会社都合しか考えない普通の会社だ。人間尊重なんて嘘だ。一年ぐらい勤務し金貯めたら退社しよう」 と思っていた矢先、高校数学教師にならないかと母校から打診がありました。
   『大学卒24歳の私が、1年遅れで19歳の同期に指導され、交替勤務の新入社員として再スタートする・・高校教師と どちらが社会貢献できるか?  考えるまでもない。 これぞ天命!』 と辞表を出したところ、工務部長から 会社は入社後2年間君に投資した。その恩返しもしないうちに退職するのか、この恩知らずが!』 と恫喝されました。 恩を受けた意識は無かったのですが、止む無く1年留まることになりました。 
 同時期に独身寮で大事件がありました。私と同室の優しい物静かな5年上の先輩(大学卒交替勤務) が不審死を遂げ大変なショックを受けました。 これを契機に、『人は何の為に働き、何故生きるのか。 をいつも考えるようになりました。 入社式以来 『人間尊重、家族主義が社是だ』 と叩き込まれてきた私は、それ以後、実態の伴わない建前だけの会社に対する不信・人間不信で人を寄せつけず、いつも険しい目をしていたようです。 
そういう心の荒んだ私を見て『あいつは他のチームでは扱いきれない。私が3年間預かる』 と引き取ったのが洋一さんでした。 事情は全て知った上で、それには触れず普通の直員として扱い、仕事は厳しく、直明け連休で直のドライブ旅行企画をしたりするうちに、いつの間にか 『洋一さんのような人望のあるリーダーになるのが一番価値ある人生だ!』 と思うようになっていました。
その後も色々な場面で会うたびに洋一さんは遥か遠くに聳える存在です。出光を退職された後も石油連盟に10年間勤務。そのあと諸企業の電気主任技術者代行として厳密な電気設備点検維持管理をされています。その世界でも 『無資格者のデータ偽造が横行している!』 と憤る正義感の強い75歳現役技術者でしたが、惜しくも令和元年6月15日急逝されました。

5.家族と接するように部下後輩と接した :下山さん
 その洋一さんが若いころ、現場で鬼の形相で竹箒を持って追いかけたのが下山さんです。『あの時何で怒られたのか未だに分らない』 と下山さんの厳しさを洋一さんは回想します。 その10年後の下山係長は慈父のようなリーダーでした。 驚いたのは、係長最初の朝礼が『今日は〇〇君の誕生日です。(パチパチ)』 から始まった事です。これは 『家族に接するように部下後輩に接するのが出光の家族主義だ』 という下山さんのポリシーから来るものでした。
 わずか1年間の上司でしたが、その間スタッフ業務のイロハを教わり、アフター5はカラオケ 『怪獣バー』 の常連、凧揚げ大会やキノコ狩り、家族会、餅つき大会etc. と、下山秘書の私は仕事以外の企画を山ほど経験しました。忙しいと感じる暇もない毎日でしたが、現役時代一番楽しい充実した1年間でした。
 下山さんは退職後水彩画を始められ、真面目・几帳面な人生観そのままの超写実主義の画風で、上野美術展で毎年上位入賞、何と文部科学大臣賞まで受賞されました。それがこの「自転車」です。

  6「24時間思考を停止するな」 :吉田さん
運転課交替勤務を5年、スタッフ業務を1年経験し、ようやく技術社員として歩み始めたころ突然本社人事部転勤となりました。『相変わらず支離滅裂な人事だな。それでも人事や採用・教育なら面白いかも・・』 と思いながら赴任した職場上司は、アルカポネのような鋭い眼光をした恐い吉田さんでした。何ヶ月経っても明確な仕事はなく『君達団塊の世代が退職年代になる30年後に必要となる人事施策は何かを考えよ』 と禅問答のようなテーマを与えられ、徹夜で纏めた報告書の内容が薄いと叱り飛ばされる毎日でした。 吉田さん自身の使命は『組合が必要ない筈の出光に8つの組合ができた。何とか円満に解決できたが、組合を必要としない自由闊達な本来の出光にするにはどうしたらよいかでした。 その為には24時間思考は当たり前で、地獄の閻魔さまも恐れ入るのでは・・・と思う厳しさでした。 叱られた言葉は吉田語録として残していますが、その一部を紹介します。(出光の歴史上トップの厳しさと恐れられた吉田さんは、その後、人事部長、副社長を歴任されました。)
〇仕事をせよ。君たちがやっているのはアルバイト レベルの作業だ。
〇人事部門は一万人の社員の人生を預かっている意識で仕事せよ。
〇人事部の毒矢が当たった君達が、不運or僥倖とするかは君達次第だ。
〇24時間思考せよ。寝ている間も考え続けてブレイクスルーせよ。
〇馴合い仲良し集団では人間は鍛錬できない。互いに切磋琢磨せよ。
〇社員が労使対決の組合は不要だと心から思う職場を模索し実現せよ。
〇組合を必要としない出光の人事課長は 信頼される組合委員長たれ。
〇全能力を使いたいのか、能力を使い楽をしたいのか、どちらなんだ?
〇頑張ったと言うが血反吐や血尿が出るくらい徹底してやったか?
〇プロの実力無きものは恥じて努力せよ。アマチュア根性の者は不要。
〇僕が厳しいと言うが 僕の遥か彼方にもっと厳しい店主がいると思え。

7.「社員が一番大事に決まっているじゃないか」 :高木さん
高木さんは神戸大時代に偉大な先輩たちの事蹟を訪ね、出光佐三店主の書籍と出会い、その生き方に惚れ込んで入社。早くも入社2年目で社長室勤務となり店主の薫陶を直接受けました。
 その後 名古屋油槽所や兵庫旭興産の組合問題を円満に解決に導き、兵庫製油所人事担当時代は独身寮敷地内で生活する寮務長を兼務されました。 直明けの若い寮生が昼間から自宅に上り込み、風呂にはいってビールを飲んでいる内に勤務を終えた高木さんが帰ってくるという毎日に音を上げた奥さんが『あなたは家族と寮生とどちらが大事なの?』と聴くと、『寮生に決まっているじゃないか。馬鹿な事を聴くな。』と答えたと言います。 (寮務長は、親元を離れて勤務する18、19歳社員の父親代わりが仕事でオレの飯の種だ。俺たちの子供には母親のお前がいるではないか)という思いだったのでしょう。しかし若し私がその立場で同じ発言をしたら即離婚です。 奥様は呆然として二度とこの質問はしなかったと聴きます。奥様も本当にスゴイ人です。
神戸支店長時代の平成7年1月に阪神淡路大震災が発生。高木支店長は『真冬の石油供給は命の綱だ』 と即日ガソリンスタンド営業再開を指示し、神戸復興の陣頭指揮をとられ全国の出光グループがバックアップしました。
  千葉製油所長時代には、『厳しさの中にも温もりのある職場つくり』 を実践されました。小さなトラブルに大騒ぎする技術屋の性癖を戒め 「足が1本2本折れたぐらいの赤チン災害でガタガタするな。 何、PD-V8が破裂した?タンクが新しくなって良かったじゃないか。知恵を絞ってコストダウンを図っている時に、小さな失敗を咎めていたら改善なんかしなくなるじゃないか。」は、まさにトップとして至言でした。 
そういう中の創業家3代目の社長継承問題で 『資本と経営は役割が全く違う。創業家でも資質なき人がトップに就くのは危険』と主張・説得して思い留まらせ、その責任を一身に背負って早期退職されました。 後年シェルとの合併問題で障壁となった創業家の混乱を17年も前に予見して布石を置かれた、まさに出光人の中の出光人、店主の再来と言われた偉大な先輩でした。

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