2024年1月3日水曜日

15. 角膜移植、大学病院で再手術へ

  3月17日の角膜内皮手術後、内皮剥れの為手直し手術を受けました。しかし手術後30日 はがれは再び広がり、実皮と内皮間に水が溜まり抜けないため、再度米国角膜バンクから角膜を取寄せて移植手術をやり直すことになりました。(二人分の角膜にお世話になり申し訳なく思っています・・)私の角膜疾患名は「角膜内皮ジストロフィー」で角膜疾患の 0.1%(国内角膜移植年間1000人という中で僅か1人という奇病)ですので、想定外の事態になっているようです。

 私は当初から日本一の角膜移植名医と評判の高い林先生の手術を受けています。再度の手術は、林先生が助教授を務める「日本大学医学部付属板橋病院」に入院して手術することになりました。「充実したスタッフ、入院中の緻密な経過観察・処置、他の先生方の多面的カンファレンス」等、万全な体制なので大船に乗った気持ちの俎板の鯉」の気分です。

【角膜の構造】



 厚さ 0.5mmの角膜は、更に5層に分かれています。私の病気は、この一番内側の角膜内皮が壊れていく珍しい病気です。

【角膜移植の全層移植と内皮移植】(私は内皮移植)

 従来日本では5層全部を取り換える「全層角膜移植術」でした。しかし新たな角膜を糸で縫合するため術後乱視となり視力が落ち、また5層の細胞が拒否反応を起こしやすいため、最近は内皮層のみを移植する「角膜内皮移植術」が主流となっています。この手術は視力が落ちず拒絶反応が出にくいなどの利点があります。ただし角膜穿孔や円錐角膜、晩期の水疱性角膜症などが発生し、内皮移植では角膜の機能回復が期待できない場合は「全層角膜移植術」を行います。

【角膜内皮移植手術】


 新たな内皮はコヨリ状に丸め、角膜に開けた細孔から挿入し、前房内でシート状に広げ角膜本体に貼り付けます。そのままでは剥がれるのでガス体を入れて内圧をかけてしっかりと押し付けます。内皮を完全にくっつかせるために「1週間以上仰向け」が必要となります。私は名医の林先生(日本大学病院助教授で 浦和中央眼科に週1回の当番医を受託されている)からこの手術を受けました。

【手術後の内皮剥がれ】

  私は手術数日後、移植内皮の末端が剥がれていることが分かり、8日後の325日船橋中央眼科(佐々木先生)により再度眼圧60までガス封入を行いました。しかし1時間後効果を確認すると、逆に剥れが広って空気が入り込み、剥がれが2/3ほどになっていましたので直ぐガスを抜き、3月30日に浦和中央眼科で林先生の処置を受けることになりました。この間普通に生活することを許されました。そして当日林先生が確認すると4日間で自然に内皮60%が再密着していました。

  内皮細胞は角膜全体の水分コントロールの機能を受け持ち、通常全細胞2,000個の内、1/4の500個が角膜実質層に密着していれば問題ないので、このまま様子を見ることになりました。



 「ヤレヤレ、これで一安心」と思ったのも束の間、その5日後千葉中央眼科主治医の早川先生が角膜断層写真を確認すると、再び剥がれが広がり、中央部の実皮と内皮の間に空間ができて水が溜まっているのが分かりました。そこで4月7日3度目の浦和中央眼科で林先生により「内皮を再密着させる再手術」を受け、暫く様子を見ることになりました。



  そして1週間後、状況は改善されておらず、中央部の剥がれは改善されず、再び中央部の実皮と内皮の間に空間ができて水が溜まっているのが分かりました。内皮細胞そのものは2,000個のうち1,900個は健全だという事ですが、「剝がれやすい内皮だった。新たな角膜内皮による再手術が必要」という事で、再度米国アイバンクから角膜を取り寄せて再手術となりました。

今度は万全を期し、日本一の腕を持った林助教授の「日本大学医学部付属板橋病院」に入院手術です。(大学病院の教授は定年前の人が多く自分では執刀することは殆どないので、林助教授が実質トップだということです。) 最高の医師・スタッフ・設備等が万全な医療体制で、安心して 大船に乗った気持ちの俎板の鯉」になってきます。 『こんどこそ完治するぞ!

15. 角膜内皮移植手術その後

  3月17日手術後1週間、その一部の剥れが分かりました。そして3月25日にガス圧を加えて再密着を試みましたが、剥がれは更に2/3まで広がり、330日に再手術することになりました。これが上手くいかない場合は再度角膜を輸入してゼロスタートとなります。いずれにしても「俎板の鯉」です。・・国内眼科3名医の一人「林孝彦医師(日本大学病院准教授)」による手術ですので心から信頼しています。・・大人しくして (笑)完治を目指します。・・目の治療情報は若干気持ち悪いかもしれませんが、同様な状況に直面した時の参考にしていただければ幸いです。

 私の角膜疾患名は「角膜内皮ジストロフィー」で角膜疾患の 0.1%1000例に1人)の珍しい病気らしいです。角膜は厚さ0.5mmの薄膜で5層に分かれており、その一番内側の角膜本体を内液から保護している内皮組織が壊れていく病気です。放っておくと角膜全体が変質して視力ゼロになります。手術は顕微鏡手術で、角膜に細孔を開けて壊れた内皮を取り除き、新たな内皮をコヨリ状に巻いて細孔から差込み、広げて角膜本体に張付けてガス圧をかけて定着させるものです。(目の周りの麻酔はしますが、目はある程度見えたまま手術なので、一部始終を直視しながら約90分でした。「もうヤメテ!イヤダ!」と思っても、俎板の鯉で とにかくジッと動かないで待つしかありません(汗)

角膜移植手術の疾患別割合】



私は角膜手術中「変性症1.20%」の中の0.1%「角膜内皮ジストロフィー」です。正直「何でよりによって私が!」と思いますが原因は不明だそうです。なお日本では1000例に1人ですが、欧米では珍しくなく、40例に1人らしいです。

【痛々しい眼帯姿?】


眼帯は手術後1日だけで直ぐ外れました。目薬4種を一日4回滴ける必要があるからです。手術後1週間以上、食事・トイレ以外は仰向けに寝て過ごすことを求められます。(カッコつけて新聞読んでいますが・・本当は恰好だけです)

【眼球の構造図



 私の通院する「千葉中央眼科」は、浦和・柏・船橋・熊谷など、関東地区で14の連携病院があり、「角膜手術専門医、網膜手術専門医、白内障、その他あらゆる目の疾患に対応」できる体制を作っています。それぞれの専門医はローテーションを組んでおり、夫々はネットで検査写真情報が共有化できるようになっています。患者は近所の中央病院がメインとなりますが、専門医が遠くの病院担当の日には、手術や手直処置で遠方に行くことも多々あります。3月17日林先生は浦和中央病院でしたので、病院付きの送迎車で浦和迄行って手術を受けました。(この手術者を送迎するシステムは画期的で、チェーンの14病院はどこも患者さんが溢れかえっています。)

【角膜の構造



 厚さ 0.5mmは、更に5層に分かれています。私の病気は、この一番内側の角膜内皮が壊れていく病気で、国内では角膜内皮手術例 1,000人に1人という珍しい疾患です。

【角膜移植3タイプ】(私は図3の内皮移植)



 従来日本では5層全部を取り換える「全層角膜移植術」でしたが、最近は内皮層のみを移植する「角膜内皮移植術」が主流で、拒絶反応が出にくいなどの利点があります。ただし、角膜穿孔や円錐角膜、晩期の水疱性角膜症など、内皮移植では角膜の機能回復が期待できない場合は「全層角膜移植術」を行います。

【角膜内皮移植手術】



 新たな内皮はコヨリ状に丸め、角膜に開けた細孔から挿入し、前房内でシート状に広げ角膜本体に貼り付けます。そのままでは剥がれるのでガス体を入れて内圧をかけてしっかりと押し付けます。内皮を完全にくっつかせるために「1週間以上仰向け」が必要となります。私の場合は、この移植内皮の末端が剥がれ、そこから空気が入り込み、剥がれが2/3ほどに広がったものです。
 今週末に林先生により剥がれた2/3を再度貼り付ける顕微鏡手術を行います。それが上手くいかなかった場合、再度米国アイバンクから角膜を取り寄せて再手術となります。

2024年1月2日火曜日

12. 日本一「静内の20間道路桜並木」

 「日本一の桜並木」紹介です。 2005年苫小牧の「北海道石油共同備蓄㈱北海道事業所」の総務課長に着任早々、東京本社の故 鈴木社長が突然訪れ「静内の日本一の桜並木を見たい」と言われるので、門傳係長と同行することになりしました。 車中「初対面の社長とどう接したらよいものか・・」と戸惑いがありましたが・・元自衛官で人格温厚な門傳さんのお陰で何とか乗り切れました。(この時は、三名とも、ここから7㎞先の『凌雲閣』の事は全く知らず、桜並木を見て満足して帰りました。)



 


北海道中部南端、襟裳岬の少し手前の日高・静内牧場は明治3年に開設され同22年に宮内庁ご用達の御料牧場となりました。そして一番奥に『凌雲閣』が立てられ、大正・昭和天皇陛下が皇太子時代に行幸されています。

その『凌雲閣』至る20間道路の両脇には、付近の住民の方々が山々から掘り出して移植した蝦夷山桜が7kmにわたって続く「日本一の桜並木」です。見ごろは4月下旬とまだ先ですが、ぜひ一度は訪れて見事な桜並木を堪能して頂きたいと思います。かっての軍馬牧場が今は競走馬(サラブレッド)の大牧場となり、日本一の桜並木・広大な牧場・歴史ある凌雲閣・・本当に感動します。


襟裳岬の少し手前の日高・静内牧場は明治3年に開設され同22年に宮内庁ご用達の御料牧場となりました。それまでの大原野を切り開く苦労は、20年前に話題となった映画『北の零年』につぶさに描かれています。この大牧場も元々は原生林で、大木を切り倒し、根株を掘り起こす気の遠くなるような重労働を経て、この牧場が作られていったことを思うと、先人たちの努力に頭が下がります。 



20間道路の両脇には、住民の先祖が山々から掘り出し移植した蝦夷山桜が7kmに渡って続く桜並木となっています。明治の初期から現代まで、地元の方々が如何にこの牧場を誇りに思い大事にしてきたかが良く分かります。桜の種類は 北海道原産の蝦夷山桜。吉野の桜に似て花弁は小ぶりで葉も一緒に芽吹き、友禅染めの着物のような優雅な桜です。ぜひ満開の季節に訪れて欲しい『日本一の桜並木』です。




何処までも続く20間道路の桜並木。ただ一直線になんと7km! 両脇には広大な牧場!『これこそが北海道!』とそのスケールの大きさに、ただただ驚くばかりです! そしてこの桜は、この地域の住民の方々が山から掘り出して植えていったという逸話に、この地域の方々が、この牧場をいかに誇りに思っているかが分かります。



広大な静内牧場。明治時代に御料牧場として、また陸軍の軍馬飼育訓練用として開発された牧場のスケールの大きさに圧倒されます。牧草地の向こうの木立の中にある桜並木が、7km続く20間道路です。



牧場では、サラブレッドがのんびりと草をはみ、軽快に疾走します。・・上司の理不尽に怒りを押し殺し、または冷や汗掻きながらの我がサラリーマン人生40年間を振り返ると、このノンビリした馬君が羨ましく思えました。

百間道路の最奥にある「凌雲閣」

 明治42年の完成当時、当牧場は御料牧場として20年を経過し、宮中御料馬の生産、北海道産馬の改良の本務の他、日露戦役中には陸軍の軍馬を拠出していました。したがって皇族や高位高官の訪問が多く 貴賓の迎賓館として建てられました。翌年に韓国皇太子李艮殿下御臨場が予定された事が、この客舎の実現に拍車をかけました。この目的から高い格式が建物の各部各所で取入れられ、高雅な二層の御殿造りとなっています。当時如何に重要であったかは 「凌雲閣」(りょううんかく)と名付けに十分想像ができます。その後、数多くの名士高官が訪れ、特に大正・昭和天皇陛下が皇太子のときに行啓され、宮中から遠く離れた牧場としてはまことに稀な事と言えるでしょう。

 この凌雲閣を見ると、「韓国(朝鮮)が、日清戦争により歴上初めて中国(清・明・元・宋・唐・漢・・)から独立でき、植民地化 (Colony))ではなく日本と対等な立場の併合(Annexation)”だったことが分かります。世界中どこを見ても植民地化した国の皇帝・皇太子を尊重し、ご来訪を祝い豪邸を立て、本国王室の嫁を出すような紳士的な国は歴史上存在しません。

 しかし独立を助けられた韓国皇帝が「日本は、ロシア・フランス・ドイツ三国干渉に屈服し弱い!」と、何とロシア大使館に逃げ込み保護を求める事態になり、やむなく日露戦争へと突入します。もし日露戦争に負けていたら・・韓国は間違いなくロシア植民地化されロシアの一部となって純粋な朝鮮人はいなくなったでしょう。

 日露戦争後も朝鮮は事大主義で、独立心なく中露に擦り寄り、日本にとっては「大国ロシア(今は中朝)から突き付けられた匕首」です。日本はやむを得ず国家安全保障の為に1910年韓国を併合します。三国干渉の教訓から、世界各国の容喙を挟まないように慎重な外交を重ね、韓国併合に反対する国はありませんでした。そのあと30年間、日本は毎年国家予算20%を朝鮮に注込みインフラ等を整備し、世界の最貧国から日本並みの近代化を実施しました。現在使われているハングル文字も、400年ほど前に考案されましたが広がらず忘れられていたのを、日本人が再発見し、新設の小学校で教え広めたものです。

小学校建設 1910   40(識字率 10%未満 

      1943 4271識字率 60%以上

鉄道網建設 1910年 延べ100km 1943 6,000km

工業化推進 併合前農林水産業約80工業生産約18

       併合後農林水産業約43%、工業生産約41

電力網整備 鴨緑江に当時世界最大級の水豊ダム建設(現在も稼働) 最大出力は黒部ダムの2倍。

 こういう歴史的真実には目を向けず、礼節・恩義を忘れ、真逆の主張「戦前7奪された」「慰安婦・徴用工の賠償をしろ」と80年たってもたかり続け、経済で困った時は泣着き、政権末期になると選挙対策で反日に走る・・その無節操さには本当に呆れます。歴代大統領の反日政策により「朝鮮戦争は、朝鮮が日本と戦った独立戦争」と嘘を教えられ、反日感情はますます定着しています。(それなら「何故 朝鮮半島は南北に分かれているのか?」と考えないのでしょうか?)

 同じように「日本と併合となった台湾の人々が、今も日本人より日本を愛してくれている人間性」の爪の垢でも煎じて飲んで欲しい。私の中学3年の恩師は、戦前台北師範学校を卒業し、生前何回も台湾を訪れ、教え子の私たちに台湾の素晴らしさを語ってくれました。)

「新冠レコード館と名馬ハイセイコー像」





 この静内の20間道路桜並木の途中にある新冠もまた競走馬の牧場が広がります。名馬ハイセイコーやオグリキャップもここで育ちました。また98万枚のレコードが収拾されている世界一(?)のレコード館もぜひ訪れたい場所です。デジタル音源では味わえない柔らかな奥行きのあるレコード録音に時間を忘れてしまいます。一日過ごしても飽きないレコード館です。玄関前のハイセイコー銅像が迎えてくれます。

「日本一の桜並木=静内への地図です」

例年5月上旬が静内桜の見ごろですが、今年は暖冬で開花が早まっていますので「新ひだか観光協会」もしくは「新ひだか町役場」に、令和6年度の開花予測を確認してから旅行計画を立て、来訪された方が良いと思います。



「2024年桜前線予測」(3月21日気象庁発表)



「新ひだか観光協会」





2024年1月1日月曜日

11. マッカーサーの呪いから目覚めよ!

昭和20830日、連合軍(GHQ)司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ち「神も恐れぬ占領政策、復讐の東京裁判」「日本の歴史を全て消し去る占領政策」が始まります。2300年前の秦の始皇帝も驚く野蛮な「焚書坑儒」を押付け隷属化を図ったのです。全くの憲法素人9名に1週間で作成させた憲法を有無を言わせず国会承認させ、日本の重要な文献・書籍7000点以上没収・発禁、20万人以上公職から追放、WGIP言論統による国民の反日洗脳、皇室継承宮家の廃絶、神道の廃止・・戦争狂人のF・D・ルーズベルトの目論見通り「日本のカルタゴ化」が徹底して実行されました。


日本に初めて足を踏み入れたマッカーサーは格好つけていますが、沖縄戦で苦戦し、特攻隊の攻撃を受けた恐怖・緊張で、厚木に降り立ったとき失禁した話も伝わります。濡れた左足の付け根を隠すために、右方向からの写真は全て没収されたという事です。(真偽のほどは分かりませんが・・フイリピンの敗戦で数万人の米兵を置き去りにして、自分と家族だけ米軍高速魚雷艇で脱出したマッカーサーなので、十分あり得る逸話です。

 大東亜戦争終了して、失われた名誉とプライドを満たすため、日本骨抜き占領政策を推進していたマッカーサーですが、1950年6月勃発した朝鮮戦争で目が覚めます。 一時は北朝鮮軍を半島から追い出しましたが、大量の中共軍が加わると形勢逆転、圧倒的な共産主義の脅威から自由主義圏を守るため、武器弾薬の増強を求めたマッカーサーを、トルーマンはソ連との全面戦争を恐れ解任します。

 マッカーサーは朝鮮戦争を戦って初めて、日本が置かれた「ソ連・中国共産主義の圧迫、厳しいABCD包囲網の中で戦争を始めざるを得なかった事態」を理解したのでした。解任され朝鮮戦争中にアメリカに呼びもどされたマッカーサーは、1951年5月3日に上院の軍事外交合同委員会で、ヒッケンルーパー議員の質問に対し次の発言で、日本の戦争が自衛の為であったことをはっきり証言しています。

『まず日本は、8,000万人の膨大な人口を抱え、それが4つの島にひしめき合っていたことを理解しなくてはいけません。その半分近くが農業で後の半分が工業に従事していました(中略)  日本は絹産業以外は固有の産物は殆どないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他 実に多くの原料が欠如している。そしてそれらのものすべてがアジアの海域には存在していたのです。

もしこれらの原料が断ち切られたら、1,000万から1,200万人の失業者が発生することを彼らは恐れていました。(実際にABCD包囲網=米・英・中・瀾で経済封鎖された) 従って彼ら(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(自衛)の必要に迫られてのことだったのです。』

そしてマッカーサーはトルーマン大統領との会見で「東京裁判は間違いだった。やるべきではなかった」と述べています。

ハワイオアフ島の「アリゾナ記念館 ビジターセンター」には、このマッカーサーの証言内容、および「山本五十六は 本当は対米戦争を避けたかった」という資料が掲示されています。私は10年前に「アメリカ人に袋叩き似合うのでは・・」と恐れながら、真珠湾アリゾナ記念館ビジターセンターを恐る恐る訪問・見学しました。ところが当記念館では、当時日本が追詰められた世界情勢が公平に展示され、当時の日本軍に敬意を表していることに本当に驚きました。そして同時に「戦後70年、日本の政治家やメディアは、なぜこんな大事な事を日本国民に知らせないのだ」と激しい怒りを覚えました。

日本では(占領中は仕方ないとしても)サンフランシスコ講和条約で独立を回復した後も、メディアがマッカーサーの上院での証言を知りながら全く報道してきませんでした。そのため日本人はこんな大事な事実を全く知らないまま、戦後80年を経過しても「侵略戦争で世界に迷惑をかけた」という自虐史観から抜け出せません。

碩学の渡部昇一氏は、著書「歪められた昭和史」P154~160で、戦後日本を貶めたメディア、特にNHKに対しこう提案しています。

戦後国内唯一の放送局NHKは、戦後GHQ作成の ”真相は こうだ” の虚偽報道を流し続け、日本人に自虐史観を植え付けた。 国民はゴールデンタイムに「マッカーサーの上院軍事外交合同委員会での証言」を報道するよう求めるべきだ。それに応じなければ、全国民が受信料不払い運動をやればよい】

世界ではむしろ「白人が侵略・支配して収奪、植民地化していた世界を、負けると分かっていながら戦い解放してくれた。日本が戦わなければ、白人による世界の植民地支配は今も続いていた」という正しい評価をする知識人が増えています。しかし当の日本人が嘘の歴史を信じたまま黙していては「嘘も100回言い続ければ正論になる」という価値観の中露朝の思いのままに日本衰退していくだけです。

「めざめよ日本人。世界の中で胸を張って堂々と生きよ!」

「メディア(特に朝日新聞・NHK)報道、文科省・日教組の歴史教育を信用するな!  歴史に疑問を持ち、自ら納得できるまで調べ、真実の日本歴史・日本人らしい生き様を知り、誇りをもって堂々と生きよう!」

(参考図書)

「マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人」(桜の花出版)

「歪められた昭和史」(WAC):渡部昇一

「決定版 日本史」(扶桑社新書):渡部昇一