2024年4月3日水曜日

2. 吉田松陰=牢獄でも勉強した男

 私達の一生は勉強の連続だと言われます。
  では何の為に勉強するのでしょう?
今から150年前、吉田松陰は獄中にあり立身出世も名誉も絶望的だったにも拘らず、それでもなお熱心に勉強し、その大切さを教え続けました。 松陰は『何故学ぶか?』について、こう述べています。『自分を磨き高めるため、世の中や人に役立つ人間になるために学ぶのです!』
時代は幕末、吉田松陰は、迫り来る外国の情勢や武力を知ろうと、伊豆の下田から、当時わが国に来航していたペリーの黒船に乗ってアメリカへ渡ろうと計画しました。 しかし計画は失敗し牢獄に入れられます。当時の国の掟では、自由に国外に出ることは禁じられていたからです。
松蔭が入った萩の野山獄には、十数年、中には40年以上も繋がれている罪人がいて、最年長は76歳、若くても40歳です。みな社会復帰は絶望で、牢内は何ともいえない暗さで覆われていました。
そんな中でも松蔭は猛烈な読書を行い、野山獄中1年2ヶ月の間に 618冊を読破します。一方で食費を切詰め、黒船密航計画で行動を共にし獄中で死んだ弟子(金子)の墓へ供え物を贈ります。こういう姿に、他の囚人達は驚きの念を禁じ得ず、尊敬の念に変わっていきます。絶望していた囚人達が、松蔭の 『勉強しましょう』 という呼びかけに応じて、何と松蔭を囲み勉強会を始めるようになったのです。

牢獄の雰囲気は一変、囚人達は生きる力を取戻します。中には松蔭を『尊師』と呼ぶ者さえいます。 この変化に牢獄の番人は驚き、ついには彼等まで勉強会に参加し松蔭に弟子入りします。わずか半年間で牢獄がお互いに学びあう自己向上の場に変りました。囚人達は松蔭を慕い、ことごとく改心したといいます。このとき松蔭は、24歳。囚人の中では最年少でした。

『宝島』で有名なイギリスの作家スティーブンソンは『吉田松蔭は人類史上、最も高潔な人物である』と評しています。どんなに苦しい境遇にあろうとも、人や国を憂えることを忘れなかった気高い気持ちを持った人だからこそ、これだけの大きな感化を人に与える事が出来たのでしょう。彼が目指したのは、『自己の中にある尊いものを認め、理想的な人間になる為の勉強』だったのです。 

松蔭はその後、塾を開き、身分に関わりなく勉強に意欲のある者に学問を教えました。月謝は無料、村の人々を対象にした小さな塾で、熟生の半数は貧しく身分の低い家の子たちでした。彼等は忙しい生活の中から暇を見つけては塾に通いました。松蔭がこの塾で教えたのは僅か1年間でした。
松蔭は、彼等塾生達を、まるで天下の英雄豪傑のように扱い、高い志・理想を持ち、学んだ事を行動に移すように教えました。やがてその塾生の中から、幕末から明治にかけて日本をリードした人材が続々と輩出します。奇兵隊(奇兵とは正規軍ではないという意味)を創設した高杉晋作、初代総理大臣の伊藤博文、日本陸軍の創設者山県有朋、内務大臣川弥次郎、初代司法大臣・日本大学祖山田顕義、内務・逓信大臣野村靖、参議前原一誠(萩の乱で斬首)、禁門の変で倒れた久坂玄瑞・入江久一・吉田稔麿・寺島忠三郎など、キラ星の如く枚挙に困るほどです。

最も驚嘆するのは、彼等の大半が松下村塾(松本村の塾の意)の近所に住む普通の少年だったという点です。『人材がいないのではなく、人材は優秀な指導者が育てる』 ということです。松蔭は何故そこまで影響を与えたか、それは松蔭がその教えを自分で実行したからでしょう。松蔭は常々、『学者になってはならぬ。人は実行が第一である。』 と塾生に説いていました。松蔭は自身の生き様を見せることで『感化』したのです。
 やがて江戸幕府が最後の悪あがきで“安政の大獄”を発し、松蔭も30年の生涯を閉じます。松蔭が最期に詠んだ辞世の句です。
“ 身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂 
 さらに次の句で親に先立つ不孝を両親に詫びています。こういう人間性が万人の心を揺さぶります。
“ 親思ふこころにまさる親ごころ けふのおとずれ何ときくらん 

1.吉田松陰に学ぶ (幕末と現代の類似性)
『東日本大震災、原発事故処理・他原発再稼動、900兆円超の赤字財政改革』等の国政が遅々として進展せず危機感が募ります。 政府も我々国民も、大国難に真正面から必死に取組む事を無意識的に避け、東洋の奇跡と謳われた戦後高度成長や安逸で太平な世の再現を追い求めているのかも知れません。
かって、この危機的状況と全く同じ大国難の時代がありました。
江戸時代末期、日本は250年間、外国との交易を閉ざして国内安定・太平を謳歌している間に、西欧列強は産業革命で国力を増し、アフリカ、インド、そして中国を隷属化して富を収奪し、アフリカ・アジアの民衆を家畜同然に扱っていました。 江戸幕府はこういう世界情勢を知り、諸外国の次の狙い・魔手が日本に迫っているのを知りながら、目先の国内混乱を避ける為に公表しませんでした。 そしてペリーが黒船威圧外交で開国を迫ると、その場しのぎの屈服外交を繰りかえしました。 (パニック回避の為だとして放射能情報を隠して不適切対策と混乱を深め、その結果住民を大変な危険状態に放置することになった民主党政府の対応と酷似しています。)
幕末の感覚の鋭敏な若者達は、頼りない政府任せでは国が滅ぶ、と危機感を募らせ、『頼れるのは無私の自分や同志しかいない』と、危機打開にむけて常識を超えた行動を命をかけて展開しました。
今回はそういう若者の代表として、吉田松陰の生き方について紹介します。

山口県の日本海側に、落ち着いた城下町の小都市萩市があります。そこに明治維新に大きな影響を与えた吉田松陰の松下村塾や高杉晋作の生家などが大切に保存されています。松下村塾の前に立つと、『この質素で小さなあばら家で、弱冠24歳の松蔭先生に1、2年間接しただけの若い門弟達が、幕末・明治期に獅子奮迅の活躍をして、近代日本建設の中心的役割を果したのか・・』 と深い感動を覚えます。 日本人なら是非一度は訪れて欲しいところです。

2.松蔭の30年の生涯
松蔭は、1830年萩の松本村に下級武士杉家の次男として生まれ幼名は寅次郎、5歳で吉田家の養子となります。吉田家は山鹿流兵学の家系で、厳しい叔父の玉木文之進に徹底したスパルタ教育を受けます。 例えば、5歳の松蔭が勉学中に頬に止まった虫を払いのけた時、殴る蹴るの凄まじい折檻を受けます。
理由は『天下国家の“公”の勉強をしている最中に、虫が痒いという“私事”で公私混同の行動をした』というのです。今の感覚からは何とも理不尽に思えますが、叔父文之進の思いは、『勉強は、将来社会の一員として貢献できる人間になる為にやるのだから、私心を棄て一心不乱に打込め』 という事だったのです。
 このように鍛えられ頑張った松蔭は、9歳から藩校明倫館の教授になり、11歳で藩主毛利慶親に進講。その内容に感動した藩主慶親は、4年後26歳の時、15歳の松蔭に弟子入りします。 松蔭もさることながら『優れたものに謙虚に学び、人材を大切にする藩主や長州藩の伝統・風土』 に驚かされます
この頃、欧米列強の船が日本近海に頻繁に出没し、唯一交易を許されていたオランダ船から、『中国がアヘン戦争で散々な目にあっている』 という情報がもたらされました。 鎖国の当時、“国”と言えば自分の藩だけで他藩が外国です。列強の侵略は宇宙人・インベーダーの侵略だったに違いありません。本州最西端で三方が海に面している長州藩は危機感を募らせ、20歳の松蔭に海防調査を命じます。約1ヶ月間実地調査を行った松蔭は、机上の兵学と実地の大きなギャップに気付いて悩み、『行動の人』 へと変身します。 翌年、松蔭は長崎の平戸へ旅し、2ヶ月間アヘン戦争を中心に約80冊の本をむさぼるように読破します。
アヘン戦争の情報は既に日本に伝わっていましたが、幕府は国民が不安を抱くのは政治を行う上で宜しくないと公表しておらず、松蔭のような知識人でも詳しい情報は知りませんでした。そして、松蔭が持ち帰ったアヘン戦争の情報が、やがて萩の若者達に衝撃を与え、その心を突き動かしていったのです。
 22歳の松蔭は更に、当時の世界最大級大都市、人口100万人以上の政治・経済の中心地“江戸”で学びますが、東北地方にロシア船が出没するという情報に、『自分が何とかしなければ!』 と、約5ヶ月間東北の地理・防衛状況の調査に出かけます。藩の許可を待ちきれず出発した為に脱藩の罪となりますが、藩主慶親は 『国の宝=松蔭』 に10年間諸国遊学許可を与えます。そして再び江戸入りした10日目にアメリカの黒船が来航するのです。
 幕府は1年以上前からペリー艦隊の来航があることは、オランダ情報でかなり詳細に知っていましたが、 何の対策も講じていませんでした。所謂 『平和ボケ』で、外国の言いなりの弱腰外交に終始しました(これも、2004年にスマトラ沖で、M9.1の大地震と大津波、大災害が発生しながら『他国の事』として、地質構造の似通った日本で何の対策も講じていなかった日本政府と東電に酷似しています。)
 
この時期、吉田松陰のほか、同郷の桂小五郎、土佐の坂本竜馬、半年後に上京する高杉晋作らが江戸にいました。これらの若者は、この未曾有の国難を目の当たりにして『自分が何とかしなければ!』との思いを抱き、幕末の動乱に身を投じていったのです。


 『無礼な外国の脅しに抗議や開戦もせず、言いなりになっている幕府は全く頼りにならない』と悟った松蔭は、いずれこの無礼なアメリカと戦う時が来ると、国禁を犯し黒船に密航する 『敵情視察』 を決心します。 単純な異国排除の過激思想でなく、国禁を冒しても敵国に乗込み異国との戦いに備えたい』 という遠謀知略と行動力は並大抵のものではありません。
ベリーは松蔭の志に感心しながらも、国交樹立を目指す目的の為に松蔭の申出を断ります。 密航に失敗した松蔭(と門人の金子重之輔)は自首します。死罪を覚悟した松蔭が心境を詠じた歌です。
“ かくすれば かくなると知りながら やむにやまれぬ大和魂 ”
ペリーは、高い志を持つ若者が死罪になるのを惜しみ、幕府に寛大な処分を要請します。 また日本人が高い使命感に命も惜しまない誇高い民族である事を知り、インドや中国のようには扱えないと悟ったと書き残しています。 幕府に死罪一等減じられた松蔭は、長州藩に送還され長い投獄・蟄居生活が始まります。この時松蔭24歳安政の大獄で斬首の刑に処される迄の6年間に松蔭と接した若者が、明治維新へと突き進み、近代日本を作り上げていきます

『宝島』で有名なイギリスの作家スティーブンソンは、松陰の死から4年後 遺志を継いで留学してきた伊藤・井上等から松陰の話を聴き『吉田松蔭は人類史上、最も高潔な人物である』と評しています。 どんなに苦しい境遇にあろうとも、人や国を憂えることを忘れなかった気高い気持ちを持った人だからこそ、これだけの大きな感化を人に与える事が出来たのでしょう。彼が目指したのは、自己の中にある『尊いもの』を認め、理想的な人間になる為の勉強』だったのです。

【松陰年譜】 
1830        長州(山口県) 萩城下に生まれる。
1840年(10歳) アヘン戦争勃発 (2年後イギリス勝利。
                        アヘン貿易常態化、香港割譲)
1842年(12歳) 藩主毛利慶親に御前講義
1850年(20歳) 長崎遊学(アヘン戦争調査)・江戸で佐久間象山に師事
1852年(22歳) 東北湾岸にロシア船出没、脱藩して東北の防備調査
1853年(23歳) 江戸再遊学中、ペリーの黒船来航
1854年(24歳) 再来航ペリーのポーハターン号密航に失敗。 投獄
1859年(29歳) 死去(江戸で斬首の刑)

【松陰密航失敗後の海外留学の遺志継承】
1862年 高弟の高杉晋作が上海査察(アヘン戦争後の中国惨状に衝撃)
1863年 伊藤俊輔(博文)・井上聞多(薫) ほか4名イギリスへ留学
1864年 4か国艦隊と下関戦争勃発・惨敗 (伊藤・井上 急遽帰国) 
1867年 大政奉還
1868年 明治維新
1871年 岩倉使節団 (岩倉・木戸・伊藤等総勢102名)
             2年間欧米査察・調査

本報告書は、以下の本を参考にしました。若い時期に是非一度は読んで欲しい本です。
   ① 『松蔭と晋作の志』 (ベスト新書)  著者: 一坂 太郎
   ② 『世に棲む日々』  (文春文庫)   著者: 司馬 遼太郎
   ③ 『道徳の教科書』  (PHP文庫)   著者: 渡邉 毅 

1 件のコメント:

  1. すばらしいブログですね
    自身のブックマーク追加させていただきました
    Noriyuki Mori
    (Facebook ペンネーム:エンジニアの杜)

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