2024年3月3日日曜日

9. 進路選択と 若者のキャリア形成  

 20年前の出光兵庫製油所人事課長の時 1週間の中学生キャリア実習を受入れました。兵庫県が全国に先駆けて中学キャリア教育を始めたのは深刻な事情がありました。それは平成7年の「阪神・淡路大震災」や平成9年の「連続児童殺傷(酒鬼薔薇)事件」などによる青少年の深い心の傷です。子供たちの豊かな心を育むために、発達段階を考慮しながら様々な体験活動が企画され、その一つが1週間の企業体験学習でした。自分のやってみたい仕事(パン屋、理髪店、工場、スーパーetc.)など大人の仕事を体験し、父母の働く喜び・苦労などを追体験し、感謝の心、自分の将来の夢、仕事観、職業観育成を図る目的でした。そしてその後 文科省により小学~大学までのキャリア教育として展開されることになりました。


10数年前から、私は大学キャリア教育に携わりました。その動機は 「もし自分も高校・大学で キャリア形成や本当にやりたい仕事を考える時間があれば、もっと充実した人生になったのに・・」と痛感し続けた人生だったからです。「そういう私と同じ失敗を若者にさせたくない!」そう思いながら大学キャリア講師10年、そして今もブログやFB発信を続けています。今回は、そういう私の高校・大学時代の進路選択失敗物語です。


1.物理教師の凄い授業

高校時代「将来、こういう仕事をしたい」という目標が定まらないまま、受験一色の授業に辟易していた頃の高3で初めて出会った素晴らしい授業が猪俣先生(京都大卒)の物理でした。猪俣先生が話されるニュートン力学は実に面白く、全身を耳にして一言も聞き逃すまいと集中しました。


「皆さんは、ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万物に引力があるのに気付いたのを知っているでしょう? でもニュートンが偉いのは、それで終わらなかった事です。“それなら何故、月は地球に落ちてこないのか?” そして“求心力と遠心力が釣り合う作用反作用の法則、その釣り合いの中で直角方向に力が働くから円運動するのだ”ということを発見したのです。」 「こう考える中で、ある運動を表す関数のある時点tにΔtを限りなくゼロに近づけていくとその接点の傾き=速度となります。これが微分です。逆に運動関数の一定時間t1t2の間の面積を求めると進んだ距離が出ます。これが積分です。皆さんが受験数学で頭を悩ませている微分・積分は、元々ニュートンが自然界の物理現象を理論的に考える中から生まれた学問です。ニュートン力学により私たちの身の回りから宇宙の原理のほぼ全てが理論的に解明されました。アインシュタインの相対性理論は、その特殊現象を補完したに過ぎないのです。・・」


こういう話に、理系志望の私達は、目を輝かせながら授業に聞き入りました。恐らく同窓生で抜群の理系頭脳だった甲斐君(東工大から旧国鉄へ)や、五島君(ハーバード大からバークレー大博士・教授に)も同じように猪俣先生に触発されたことと思います。

2.進路選択失敗の原因は・・

この魅力的な物理授業が続くのを楽しみにしていましたが・・「電気・電磁気」の単元に入るとガラリと変わり、教科書の記述をなぞるような授業になりました。


「なぜニュートン力学のように分り易く説明してくれないのか? 何故キルヒホッフ法則やフレミングの右手の法則が成り立つのか? 」そういう素朴な疑問に全く答えず物理の授業は終わりました。


「よし、それならその疑問を大学で追及しよう!」と、私は工学部電気工学科に進学しましが、これが大失敗の進路選択でした。電気科専攻者は、みんな電気大好き人間で、市中のジャンク屋(電気部品屋)から真空管やら抵抗やらコンデンサなどを買い集め、ステレオアンプを制作したり、無線機で見知らぬ無線仲間と交信を楽しむような〇〇オタクばかり・・授業も「キルヒホッフ法則やフレミングの右手の法則」は常識・前提の世界、「半導体に不純物を加えていくとある時点で抵抗がゼロになり電流が流れだす。これをトンネル効果と言います」・・「エッ?それは何故そうなるの?」そう考えているうちに授業はどんどん前に進み、益々分からないことだらけになっていきます。(これでは公式を覚えて問題を解いていく受験勉強と全く同じではないか!) 

こういう「工学部新入生」の講義が始まって直ぐ「しまった!専攻を間違った!」と気付きました。高校時代、数学・化学・物理が大好きで 当然のようにエンジニアの道に進みましたが 【工学は理論・原理を応用して物を作り出す分野】 だったのです。私が本当にやりたかったのは【原理原則を追求、導き出す学問=理学】だったのです。

従って電気工学の授業には全く興味を持てず、最も基礎的な1年次履修の「電気回路」は3年で、2年次履修の「電子工学」は何回も追試を受けながら合格できず、卒業式後の追試2回でようやく合格し、卒業留年を辛うじて免れました。(卒業式時点で電子工学の単位が取れず、卒業写真に私はいません💦💦 

3.二度とない大学生活だから2分野を学ぶぞ!

その一方で「これぞ大学!」と楽しく学べたのは、一般教養の哲学・文学・地理学・心理学・教育学、そして教育学部中等教師課程の数学でした。 「やはりおれの適材適所は教師か!」と、教育学部に入り浸り、人形劇クラブ「児童文化研究会」に入部しました。


私は身体は大人でも心は幼く、子供の頃好きだったNHKの『チロリン村とクルミの木』や『ひょっこりひょうたん島』の世界からまだ抜け出せていませんでした・・それに極めて口下手なので「大声で堂々と話せる様になりたい!」というのが入部動機でした。教育学部の一番奥の朽ち果てそうな木造建屋が「児童文化研」の部室。その前の校庭で、50m離れて大声で早口言葉の発声練習を30分。


「生麦生米生卵・・」

「隣の客はよく柿食う客だ・・」

「カエルぴょこぴょこ3ぴょこぴょこ 合わせてぴょこぴょこ6ぴょこぴょこ」

先日電気科卒の友人(元富士通の営業部長)と箱根で遊んだ帰り「安藤は教育学部に入りびたりで、女子学生のお尻を追いかけてばかりいる軟派と思っていたよ。教職課程を履修し教育実習までやっていたとは! 50年目にして初めて知ったよ!」と驚いていました。「軟派する暇はなかった。4年で工学部と教育学部両方を履修し卒業したようなもの。お陰で出光では電気計装課長と人事課長をやることになり、無駄ではなかったけどね。」

4.大学1年夏の僻地小学校への人形劇巡回


宮崎県北の諸塚小学校など3校を巡回公演しました。姉さんかぶりの私だけが工学部、あとはみんな教育学部小学教師課程の皆さんで、全員教師の道に進まれました。機材は中型トラックで運搬、部員は路線バスで、まるで「若い貧民の移動」状態でした。


僻地の子供達は人懐っこく、初対面でもすぐ駆け寄ってきて、まるで可愛い弟状態です。初めての人形劇出演(端役ですが)などやめて、この子らと一緒に遊んでいたい気持ちを抑えるのに苦労しました・・


 

この写真は大学1年部活の「人形劇公演」の一幕です。その合間に6年生担任から1時間だけ算数の授業をやらせてもらいました。東諸県郡 諸塚小で1泊でしたが、何か心の故郷のような懐かしさを覚える僻地の山村でした。・・大學4年間工学部では熱が入らず、空き時間で教育学部の高校数学教師課程も修得し、4年次母校の日向学院で3年C組の教育実習を2週間ほどやりました。授業中に3人が早弁して私をからかっていましたが・・後ろで丹生先生が評価点をつけながら指導してくれました。「・・高校数学が大学ではどういう学問に展開されていくのか・・」も織込みました。丹生先生から「彼らには難し過ぎるよ!」と指導されましたが・・「私は高校時代にこういう授業を受けたかったんだ」という思いが少しは実現できて満足でした。

5.この学級担任の平山先生(通称ゴリちゃん)も児童文化研究会OB
 「オ、君は工学部か。めったに体験できないから小学校の先生やってみるか」と誘われ、その場で俄か先生をやる羽目に・・教材研究もないままのぶっつけ本番でしたが、子供たちは背筋を伸ばし目は生き生きして熱心に聞いてくれました。
『ああ、やっぱり進路を間違った! こちらが俺の天職だった!』 後にも先にも、これが最初で最後の小学校の先生体験で、ゴリちゃんに感謝感謝です。


諸塚小の生徒達と一緒の給食子供達と一緒に食べる給食は、本当においしかった!


この瞳で見つめられたら「先生冥利に尽きる!」です。子供達は山奥に行けば行くほど、輝きを増すように思います。(ここから更に1時間ほど山奥に、椎葉村があります。)

 


この小学校で演じたのは、プロスパー・メリメ作「マテオ・ファルコーネ」 三島由紀夫が絶賛した作品です。 しかし子供には強烈すぎる内容で、私の違和感は膨らみ、このクラブは1年で退会しました。
(あらすじ) 19世紀のコルシカ島。 ファルコーネという羊飼いが山にいる間に子供4人の唯一男の10歳の子が、憲兵に追われて5フラン硬貨でお尋ね者をかくまった。・・やがて憲兵があらわれ銀時計をやるからお尋ねものの居場所を教えろと言われて、かくまつた場所を教えてしまう。・・お尋ね者は帰宅したファルコーネに向かい「ここは裏切り者の家だ」と毒づく。ファルコーネは息子を村はずれの窪地に連れていき「お前はオレの血筋で初めての裏切りものだ」と、お祈りと命乞いをしている10歳の息子を銃で撃ち殺す。
 この物語のテーマは、日本人の母性社会では考えられない、驚くべき厳しい西洋の父性です。・・「人を信じやすい優しい日本人」ですが、頭からの「人間皆兄弟」ではなく、「西洋もチャイナも私達とは全く違うマインドを持つ人間である」 ことをベースにしながら相互理解を深めていくことが重要だと教えてくれます。


 人形劇公演を終えて谷川で涼む私達1年生。「大したことやってないけど、楽しかったね!」この右の二人の女学生は小学教師課程で、卒業後小学校の立派な先生になりました。

 


他方、我が「児童文化研究会」と、部室が隣の「教育研究会」は学生運動(核マル)の拠点でした。しかし気候温暖で温厚な土地柄ですから、ヘルメット・角棒の過激な武装闘争にはなりえず、せいぜいジグザグデモくらいでしたが・・その頃の宮大付属中前のデモ行進です。左から2番目の白ズボンが私です。


1年生の年明けて、東京では学生運動が最高潮、東大の安田講堂攻防でこの年の東大入試が中止となりました。一浪して東大合格が確実だった学友は、断腸の思いで夫々別の大学に進学しました。しかし 『人間万事塞翁が馬』 、恐らくこの時の不可抗力の運命を力強く乗超えたからこそ、その後 甲斐君と五島君は実社会で大活躍したのだろうと思います。


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