2024年4月3日水曜日

3. 仰げば貴い恩師 (高校)

 毎年 全国で約100万人の新たな社会人が誕生します。
その約半数が18歳の高卒の若者で、初めて親元を離れて見知らぬ人間関係の中で働き始め、色々悩み苦しむことも多いと思います。 無限の可能性を秘めた若い彼らに、心から『頑張れ!』とエールを贈ります。
    
私は退職前の数年間、毎年2回、九州7県の工業高校10校を採用活動で訪問し、17、8歳の前向きな若者の輝きと、緊密な師弟愛に接する幸運を得ました。  長崎や熊本の工高の正門には『技術者たる前に、まず人間たれ!』の校訓が掲示され、進路担当の先生方は教え子の将来を真剣に考えておられ、教え子が就職した後も企業へ定期的に訪問して激励するなど、まるで我が子のように慈しみ徳育されている姿に感動しました。その教え子達もまたそれに応えて頑張り、各工高でトップクラスだった彼らは、入社後は高専卒と同じ育成メニューに苦しみながら、3~4年経つと見違えるほど立派な技術者になっていきます。

最も多感な高校時代に出会った素晴らしい恩師に人生を学び、卒業後もその教えに向かって精進を続けていけば『きっと頼りにされる職場リーダーに、世の中人の為に役立つ立派な社会人になるだろう!』と確信します。 
  そこで今回は 私の『高校時代の恩師』の教え』を振り返ることにしました。 皆様方も是非、高校時代の恩師を思い出し、連絡を取ってみてはいかがでしょうか?

 私の母校は 宮崎の日向学院 で、イタリアのサレジオ修道会が設立した中高一貫教育の男子校(現在共学)です。 高2までに高校3年間の授業を修了してしまう受験勉強一辺倒の進学校でした。 私は高校から編入したのでカルチャーショックに襲われながら、授業についていくのがやっとで テスト、テストの毎日。級友とは勉強以外の話題も少なく、つい最近まで思い出すのも嫌な高校時代でした。 しかし古希を迎えたころから、あの受験一辺倒の授業の中で、『先生方は精一杯の人間教育・徳育をして頂いた!と気付き、深い感謝の念を抱くようになりました。

日向学院の校訓は己を知り、己に克てです。 15歳の入学以来、高校、大学、社会人なっても、事あるごとにこの言葉に直面しました。これからも恐らく死ぬ迄『己を知り、己に克て』 と自分を戒めながら生きることになると思っています。

日比野先生のこと
毎朝、チャイコフスキー弦楽四重奏曲 アンダンテカンタービレのメロディーと共に、川部・日比野神父の『朝の心』の心温まる放送がありました。 ミッションスクールなので聖書にまつわる話や身近な心温まる話が多く、詳細な話は全く記憶にありませんが、知らず知らずのうちに心が磨かれていったように思います。 最近母校のHPを開いて見たところ、今でも毎朝『朝の心』が続いており、それが2005年度分からずっと掲載されている事に本当にびっくりしました。
その一話一話は、50年前の日比野先生のお話しと全く同じような心温まる話でした。 私のこのブログも、あの高校時代に日比野先生から種を蒔いて貰ったのだという事に気付きました。興味のある方は、是非次のURLを開いて見てください。 きっと心の糧になると思います。  

学校法人日向学院 | 朝の心

また日比野先生は芸術選択授業で音楽を担当され、カンツオーネや賛美歌は原語で覚えさせられました。 その影響で50年後の今でもサンタルチア、オオソレミオ、マンマはイタリア語で、アデスデ・フィデレスはラテン語で、意味も分からないままスラスラ歌えます。 本物の音楽の素晴らしさと『清々しい朝日のような暖かい心』を教えて戴いた日比野先生に心から感謝します。

日比野先生は、ネットで調べると『S1823年 名古屋合唱団常任指揮者』となっています。あの朝ドラ「エール」の古関裕而と同じように、戦意高揚のために慰問し、終戦後若者を戦場へ駆り立ててしまったという辛い思いをされたのかもしれません。その思いが、きっと私達学院生への愛情あふれる指導育成の基盤になっていたのだと思います。日比野先生の教え子は、異口同音に『私の人生の恩師です』と述べられています。

先生はその後東京で活躍され『国内3本指にはいる音楽家』と言われるほどの大音楽家で練馬区中村橋に家を持っておられましたが、弟子の三浦洋一氏を著名なピアニストに育て上げ、家財産を全て無償で三浦先生に譲り、日向学院に赴任したと聴いています。日比野先生は、ドイツ語、英語、イタリア語が堪能で素晴らしく、全てのオペラ、宗教曲、歌曲、ピアノ曲を暗譜しているスーパー芸術家でした。


【江頭先生のこと】 
 化学が専門の江頭先生のあだ名は、その風貌がそっくりだったことから 『アボカドロ先生』。 本当に化学が大好きな先生で、『僕の授業を真面目に聴いていれば、化学は満点が取れる』 が口癖で、その言葉通り話を聴いているだけで化学の面白さに引き込まれていきました。味気ない周期律表も『水平リーベ僕の船、ソー曲がるシップス、クラークか (H,He,Li,Be,B,C,N,O,F,Ne・・と記憶しやすい語呂合わせや、夫々の元素の特徴』 を面白可笑しく教えて戴きました。  実験は楽しく、水に激しく反応する金属ナトリウムや、激しく燃えるマグネシウムを目の前で見た時、その危険性とエネルギーの大きさにビックリしました。その後大学工学部で勉強した基礎化学よりレベルも密度も高いものでした。 その縁で電気工学専攻ながら石油会社に就職することになったのかもしれません。
 

江頭先生は学生寮近くに住んでおられたので、よく家に呼ばれ遊びに行きました。
子供のいない江頭先生は、私達をまるで自分の子供の様に可愛がって戴きました。受験校のため2泊3日の軽い修学旅行でしたが、担任でもないのに皆の写真を沢山撮影して、後で全員に自費で配布されました。 私は15枚いただき、少ない高校時代の思い出として大事な宝物です。

【何回もお世話になった丹生豊満先生】
 高校編入組は、中学の卒業式が終わると直ぐに日向学院に集められ、すでに1学期分の高校課程を済ませている中高一貫組に追いつくための課外授業が始まりました。マックリンデン先生に鍛えられた中高一貫組の英語力には、本当にカルチャーショックを受けましたが、数学は得意で 自主的に高1課程まで勉強していたので苦労はありませんでした。しかし担任の数学教師(西島先生)は受験テクニックONLY、テストテストで毎回成績順発表をする「追たて型教師」で、また雑談で奥さんの事をいつも「家の飯炊き」と蔑称呼ばわりされるのでウンザリ、段々数学授業が嫌になっていきました。

そして2年生次に西島先生は脳梗塞で倒れられ退職。担任は国語の大川亀吉先生、数学は横浜国大を卒業された若い丹生豊満先生となり、ようやく数学らしい授業になりました。 
その後、私は大学工学部進学失敗を痛感、教育学部で高校数学教師課程も同時履修、4年次に日向学院での教育実習の指導教官が再び丹生先生でした。私は自分の面白くなかった高校授業経験から「君たちが履修している数学は大学ではこういう展開になる」と授業内容に加えました。しかし丹生先生の教育実習評価は「良=70~80点」、そのコメントは『このクラスの生徒には難し過ぎる。生徒のレベル合った分かりやすい授業を心がけてください』でした。
この教育実習中『若い教生をからかってやれ』と毎回3~4名が早弁していました。『教壇からは丸見えだぞ。先生にバレないようにやれよ』とたしなめながら、『こういう世間知らずの高校生を、社会人として活躍できるよう指導するには、自分自身の実社会経験が不可欠!』と痛感し出光興産に就職しました。そして就職2年目、3度目の丹生先生との出会いがありました。『学院の数学教師に欠員があり困っているので帰ってこないか?』という要請でした。勿論願ってもない有難い話で、すぐに辞表を出し要請に応えようとしましたが・・当時退職者が相次いでおり、部長から『会社は未熟者の君に投資して育ててきた。その恩返しは済んだか!』と恫喝されて、やむなく辞表撤回せざるを得ませんでした。
『あの時、それでも敢然と退職して日向学院の数学教師になっていたらどういう人生になっていただろう・・』人生重要な岐路だったあの時のことを、今でもそう思いながら振り返ります。そして『いやそしたら、家内との出会いも、3人子供もいなかった。これで良かったのだ!』という結論になりますが・・

【吉垣克己先生のこと】
県立泉が丘高校を最後に定年退職されて赴任された古文の吉垣先生は、いつも笑顔の好々爺でした。 味気のない文法よりも、古文の名文がもつ美しい響きや、書かれている内容を深く理解することを大事にされる授業で、古文の世界が好きになったのは吉垣先生のおかげです。 
 

先生いわく、『源氏物語は女性が憬れるデカダンスで、つまらないから皆さんは読まなくて良いですよ。 日本文学の最高峰は高山樗牛 (ちょぎゅう) の
滝口入道です。 これだけは高校生時代に原文で読みなさい』。『高山樗牛?』 聞いたこともない作家の名前でしたが、早速図書館に行って読み、本当に美しい文章で、人生で大事なことを考えさせられて感動しました。(山形県鶴岡市出身の文豪で、家内が鶴岡生まれなのも何かの縁があるのかもしれません)
先生は授業が始まると5~10分間、世間話をされるのですが、これが面白く含蓄がありました。ある日『皆さん、年を取ると男はクソジジィと言われますが、オニジジィとは言われません。普通 男は加齢と共に角が取れ丸くなります。 歳をとると段々恐くなりオニと言われるのは女性だけです。本校は男子校なので安心して言えますが、県立高校では女学生が恐ろしくて、とても言えないことですが・・』 と真面目に話されたので、みんなが大爆笑しました。(さては朝夫婦喧嘩されたな? と思いながら・・)
こんな雰囲気だったので、クラス全員 吉垣先生が大好きでした。
後年、私の二人の息子が『高校では何であんな呪文のような訳のわからない古文を勉強しなければならないんだ!』 と不満ばかり述べて、国語と社会科の試験がない大学に行きましたが、この吉垣先生のような魅力的な古文の先生がいなくなったのだな・・と残念に思いました。


吉垣克己先生の想い出 (日向学院昭和43年卒業3年B組友人より)

(大橋君:元医療機具メーカー社長)
吉垣先生は、時々ネクタイの代わりに「棒タイ」を締めておられて、そのタイを締める金具がヒスイみたいなシャレたものだったことを覚えています。
吉垣先生の前が、素っ頓狂な教師=市川先生で、教壇前の席で砂田君が教科書読むふりしていつも居眠しているのを市川先生気が付いて出席簿で頭を叩いたり、また話しながらネクタイを両手の人差し指でクルクル巻いたりほどいたりしていました。
この市川先生の後が吉垣先生だったので、すごく 「これが先生だ!」 って思えるダンディーな姿を覚えております。髪の毛はロングで五木寛之に似ていたような記憶があり、宮崎日日新聞に毎週掲載されている五木寛之のエッセイを楽しみしています。 先日このエッセイに掲載されてる彼の写真を改めて見て、「あ~ 吉垣先生がこんな感じだったな~」って思ったところでした。
そういえば地学の永野先生は宮崎市議に立候補して見事に落ちましたよね~。  あの時、選挙カーで「モホロビッチ不連続面! 連呼していたんじゃないか?」 と思ったものでした。 それにしても日向学院は色々と特徴のある先生だらけでしたね。。。

(調所君:元大手建設会社営業部門)
吉垣先生とは本当に懐かしいお名前です。
にっこり笑みを浮かべ授業を始められる姿を思い出します。 『ゆったり・まったり』として進められて、以前から好きだった古文の授業が益々気に入ったのを覚えています。
当時の私は、父を亡くして10か月ばかりで、少々ひねた気分で通学していました。以前、安藤君が驚いたように、数人の先生に授業の進め方を意見しましたが、現国の大川先生、古文・漢文の吉垣先生の授業そして化学の江頭先生には素直な気持ちで授業を受けていました。 今、思い出すのはこれくらいです。

佐藤君:元大手信託銀行勤務)
 吉垣先生のことですが、授業中だったか、何かの時に、天皇陛下と名前を口に出された時、急にかかとをつけて直立不動の姿勢をとられたことがあって、非常にびっくりした位の記憶が印象に残っています。 
 【備考】 ・・・私(安藤)の記憶では、吉垣先生は古文の素養の高い佐藤君をとても気に入っていました。 例えば漢文の授業で 『推敲の故事を知っている人はいませんか?』 との質問に、クラストップの秀才たちをはじめ皆が下を向きシーンとしているとき、『佐藤君なら知っているはずだ』 と期待して凝視しておられたのを覚えています。その期待にたがわず佐藤君が 『唐時代の故事で、詩人賈島が "僧は推す月下の門" とすべきか敲くとすべきか・・・と迷っていたのとき、宰相の韓愈が敲くがよいとしました』 という故事をスラスラ答えた時の吉垣先生の嬉しそうな顔が印象に残っています。その時はクラス全員が佐藤君を驚きの目で見ていました。50年後本人に確認すると全く忘れていましたが・・・

優れた詩人でもあった吉垣先生は、宮崎県の小中学校の校歌を作詞されています。その中から、西諸県郡(現在小林市)須木村立須木小学校の校歌を紹介します。

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