2025年2月3日月曜日

1-11. 「神話の国誕生」物語

「神話の里 高千穂町」(宮崎県北)を訪れると、【厳しい環境の中で人々がいかに努力して苦難を乗り越え、協力し合って生き抜いてきたか、またそういう祖先を神様と仰ぎ大切にしてきたこと・・それが今も神話や神楽として大切に伝承されていること】を教えてくれます。むかし高千穂村には5軒に1社、500を超える神社がありました。そして今も24社が大切に守られています。きっと高千穂の人々は、古代からそこかしこに神々を感じ、神話物語として語り継ぎ、祭りの神楽として脈々と伝承してきたのでしょう。

まさに「高千穂の方々の生き方や伝統や歴史物語そのものが日本神話」であり、古事記や日本書記のもととなった日本人の心の原点であることを教えてくれます。

特に 「12万年前の阿蘇-3カルデラ大噴火から高千穂峡が如何にしてできたか、火砕流で覆われた厳しい大地の中で人々は何を心のよりどころとして努力されてきた」かに深く感動します。 おそらく日本津々浦々、どなたの故郷にもこのような祖先の涙ぐましい努力や感動の歴史が刻まれていることでしょう。

現代は世界の激動と将来が見えない不安の中にありますが、大事なことは『温故知新』です。私たちの祖先が切り開き築き上げてきた「素晴らしい日本の心」を蘇らせ、新たな世代が未来を切り開く基盤を固めていくことが私たち一人一人の使命ではないでしょうか。

高千穂出身の友人から、次のメールをもらい深く共感しました。

【以前ブラタモリ高千穂編は、高千穂出身の私も知らない事だらけで目を見張りました。 Aso3Aso4の関係しかり、エンタブラチュアしかり、高千穂の名の由来しかり、新しい知見を得ました。天保の大飢饉の苦しみのなか、浅ヶ部地区住民が寄付を募り、五人の代表が四国88ヶ所札所霊場を巡り、帰郷後88ヶ所の札所を祀った事は、神仏に捉われない八百万の神々の理念が根付いていると感じました。また日向(ヒナタ)用水を始めとした山腹用水路への努力、棚田の出現、高千穂三橋にまつわる話など感銘を受けた事をあげればキリがありません。それぞれの地域の方々が過去から現在までの流れを引き継ぎ、伝えている事に感銘を受けます。これらの歴史が風土として定着するように将来に繋げていくことが我々の責務でしょうか。 

そこで今回は「ブラタモリの補足編」として、番組でサラリと紹介された話題を、もう少し掘り下げて紹介します。

1.阿蘇カルデラ噴火・火砕流と高千穂峡の生成


日本列島は大陸プレートに太平洋プレートが沈み込む、地球上でも最も激しい地球活動の最前線です。約2,000万年前に太平洋プレートの大陸プレート下への沈込みによる巨大なマグマの対流で日本列島が大陸から切り離されて以来約500万年、日本列島は今の形になってからも巨大カルデラ噴火を繰り返してきました。



特に九州地区はプレート沈み込みの際に生成される大量のマグマによる「巨大カルデラ大噴火」が、過去10万年間4か所【阿蘇、姶良、阿多、喜界】で起きており、中でも阿蘇は約27万年前から4回もカルデラ噴火を繰り返している最も活発で危険な火山です。


阿蘇の大噴火は、12万年前の3回目(Aso-3と、9万年前の4回目(Aso-4が特に大きく、その火砕流は高千穂を埋め尽くし太平洋まで到達しています。


この火砕流は、元の地表と大気の両側から冷やされ、上下から割目が入り柱状節理が形成されていきます。しかし溶岩流主体のAso-3の玄武岩は中心部が高温に保たれ中々固化できず、さらに長い時間をかけて方向の定まらない不規則な岩層を形作ります。これが「エンタブラチュア」です。古代ギリシャのパルテノン神殿などの柱が支える屋根部分に似ていることからこの名前が付きました。ボートに乗り高千穂峡を見上げると、高千穂の大地を支える柱状節理の巨大柱と、複雑な飾り付けが施された軒屋根のエンタブラチュアが延々と続いており、まさに「高千穂は偉大な神々の巨大神殿だ!」と感嘆します。


12万年前のAso-3から3万年が経過し、エンタプラチュアの上の柱状節理が侵食された9万年前にAso-4の大火砕流が襲い、更に厚さ100mの溶結凝灰岩で覆われました。


この高千穂町地形図を見ると、Aso-4火砕流の凄まじさがよくわかります。 元々の3,0002,000万年前の日本列島形成時に太平洋側から運ばれてきた岩盤の名残の「付加体」やサンゴ礁の名残の「石灰岩層」は、九州山脈の上部にわずかに残っているだけで、あとはすべて火砕流由来の溶結凝灰岩に覆われています。

そして数万年を経てこの上に草木が復活し豊かな腐葉土層が覆った頃の約3~2万年前にホモサピエンスが日本列島に到達して住みつき「前期縄文文明」を築きあげました。高千穂の地にもこの人々が住みついたことでしょう。


 しかし7,300年前に九州の南方100㎞で『喜界カルデラ大噴火』が発生しました。この1万年間で世界最大の破滅的大噴火です。九州は厚さ30㎝以上の火山灰で覆われ、前期縄文人は勿論、すべての動植物が絶滅したと考えられています。この時の火山灰層は『アカホヤ地層』として今も残り、関西まで20㎝、関東まで10㎝が確認されます。


  かろうじて生き残った関東・東北・北海道の縄文人はその後も文化を発展させ、青森三内丸山遺跡の大規模環濠集落跡(約5,9004,200年前)や、上信越の200以上の集落跡で発掘・出土された火焔土器(縄文中期)などを生みだし、世界が驚く「人間同士の殺し合いのない高度な文明社会」を築き上げました。日本で出土された約6000体の縄文人骨には、槍やこん棒などで傷つけられた痕跡は一切なく、いかに平和に暮らしていたかが伺われます。


この縄文時代は、南方海洋民が日本列島に到達して独自の文明を築き、喜界カルデラ噴火で西日本が壊滅した後は、生き残った東国が中心地となり、その象徴として日本最古の鹿島・香取神宮が祭られました。のちこの子孫が九州に海を伝って移動し、再び九州にも後期縄文文明が復活しました。その鹿島の民が上陸したのが「鹿児島」と考えられています。古事記の伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みはオノゴロ島に始まり、日本が海に囲まれた島国であることを認識されていたことを示しています。

現代の歴史学者は「文字で書かれた時代以降のみが歴史」として「古事記・日本書記は神話時代は創作」として無視していますが、悠久の人間の生業を軽視した誠に短絡的で狭量な探求姿勢といえます。むしろ1万年も続いた「縄文人の生き様・記憶・生活の知恵・価値観」DNAにしっかり刻まれ、語り部による神話や、神楽となって大事に伝承されてきた集大成が古事記・日本書記の神話です。近年の考古学上の新発見や各地に残る風土記、地名と神話の一致などから、近年この考えが一般的になってきています。古事記の冒頭序文にはそのことが明確に書かれています。(故渡辺昇一氏、東北大・田中英明教授、元土木学会長・大石久和氏等) 

「高千穂の夜神楽」は神楽を愛し神々への信仰を失わなかった高千穂の里人によって守られてきた伝統芸能です。 神楽のルーツ高千穂の夜神楽は、日本神話の天岩戸神話の中で天照大御神が天岩戸に籠もったさい、その前で天鈿女命が舞を舞ったことが起源だと伝えられています



1-11. 古事記=平和を愛する日本人DNA

 20万年前にアフリカ誕生したホモサピエンスが、10万年前に世界に広がり日本にたどり着いたのは3万年以上前の事です。「私達の先祖やアメリカ大陸のインカ・マヤ民族は、何故東へ東へと移動したのでしょうか?」

それは「戦いに明け暮れた西欧白人と違い、私たちの先祖は戦いよりも太陽を追い求めて移動したからはないか」という説が有力です。その根拠が日本の最高神「天照大神」であり、インカ・マヤ文明の「太陽神」、また日本の縄文時代の約1万年遺骨には人間同士が戦った傷跡がないという事実からです。

日本は大陸からも200km以上離れており、戦乱に明け暮れる大陸とは違い、小さいながらも緑豊かな島国で、渡ってきた諸民族が仲良く縄文時代一万年以上を暮らしてきました。その民族の長く平和な記憶が神話となって語り継がれて712年に編纂されたものが「古事記」です。この頃の文字は漢字だけで、まだ仮名文字が考案されてなく、長く語り継がれてきた「やまとことばの日本神話」を記録するのに大変な苦労をしています。それを戦前の「初等科国語七(六年生用)」20話「古事記」では次のように掲載されています。



20 古事記

 古事記は天武天皇の命により、稗田阿礼が天皇の系譜・事跡そして神話等を記した「帝紀」「旧辞」を諳んじそらんじ、大安万呂は文字に書き表すことになった。しかし天武天皇は編纂途中で崩御され、その後元明天皇の勅命によって完成したのは和銅5年(AC712)であった。

(元明天皇は日本古来の言葉を漢字で表現した万葉仮名の古事記に飽き足らず、大陸外交を意識した漢文による正式な日本書記編纂を命じ、完成したのは養老4年(AC720)である複数の撰者・著者によって多様な原資料が参照されており、それが「一書に曰く」と数多く注記され客観性を持つように工夫されている)

 阿礼は記憶力の非凡な人であった。彼が天武天皇の仰せによって、わが国の正しい古記録を読み、古い言い伝えをそらんじ始めたのは30余年前の事である。当時28歳の若盛りであった阿礼が、今ではもう60歳近い老人になった。この人が亡くなったら、わが国の正しい古伝、つまり神代以来の尊い歴史も文学も、その死と共に伝わらないでしまうかもしれないのであった。

 勅命のくだったことを承った阿礼は、それこそ天にも昇る心地であったろう。そうして、長い長い物語を読み上げるのに、ほとんど心魂を捧げつくしたことであろう。ところで、これを文字に書き表す安万呂の苦心は、それにもまして大きいものであった。 

 そのころは、まだかたかなも平仮名もなかった。文字といえば漢字ばかりで、文章といえば漢文が普通であった。しかるに、阿礼の語るところは、全てわが国の古い言葉である。わが国の古語を、漢字ばかりでそのままに書き表すことが、安万呂にとっての大きな苦心であった。

 試みに、今日もし、かたかなも平仮名もないとして、漢字ばかりで、われわれの日常使うことばを書き表そうとしたら、どうなるであろう。「クサキハアオイ」というのを漢字だけで書けば、さしあたり「草木青」と書いて満足しなければなるまい。しかしこれでは、漢文流に「ソウモクアオシ」と読むこともできる。そこで本当に間違いなく詠ませるためには、「久佐幾波阿遠以(クサキハアオイ)」とでも書かなければならなくなる。だが、これではまたあまりに長すぎて、読むのにかえって不便である。

 安万呂は色々の方法を用いた。例えば「アメツチ」というのを「天地」と書き、「クラゲ」というのを「久羅下」と書いた。前者は「クサキ」を「草木」と書くのと同じであり、後者は「久佐幾」と書くのと同じである。 「ハヤスサノオノミコト」というのを「速須佐之男命」としたのは、「草木」と「久佐幾」と二つの方法を一緒にしたのである。 これらは名前であるから割合簡単でもあろうが、長い文章になると、その苦心は一通りの事ではなかった。

 しかしこうした苦心はやがて報いられて、阿礼の語るところは、言葉そのまま文字に書き表された。安万呂はこれを三巻の書物にまとめて天皇に奉った。「古事記」と言って、わが国でも最も古い書物の一つになっている。和銅5年正月28日、今から1200余年のむかしのことである。

 天岩戸、八岐のおろち、大国主神、ににぎのみこと、つりばりのゆくえ等の神代の尊い物語を始め、神武天皇や日本武尊の御事跡、その他古代の言い伝えが、古事記に載せられて今日に至っている。

 それは、要するにわが国初以来の尊い歴史であり文学である。ことに大切なことは、こうしてわが国の古伝が、古語のまま残ったことである。古語には、わが古代国民の精神が溶け込んでいる。我々は今日古事記を読んで、国初以来の歴史を知るとともに、その言葉を通して、古代日本人の精神を、ありありと読むことができるのである。

その後、表現が難しい漢字を簡略化したカタカナや平仮名が発明されて「豊かなやまと言葉」は、自由に文字で表現できるようになり、和歌や物語や日記‣紀行文として自由に使われるようになり「源氏物語」「枕草子」などの豊かな感性の文学が花開きました。

その一方で漢字を表音文字として書かれた読みにくい「古事記」は段々忘れられていきました。そして江戸中期に国文学者「本居宣長」の35年をかけた努力により、編纂後約1,000年経過して復活し庶民に紹介され日本人の心の原点となりました。 

こういう有史以前から語り継がれてきた「日本民族のルーツ、魂の記録、命の宝物」と言える貴重な記録や書籍を含め、戦後GHQにより約7,000冊以上が禁書となり国民の目に触れなくなりました。さらに(2000年前のカルタゴ滅亡を踏襲した)世界に類のない不戦憲法を押し付け米国の属国にしました。・・僅か200年の歴史しかない米国占領軍は、4年間も苦戦した日本軍が二度と白人に牙をむかないように、その精神を骨抜きにする必要があったからです。

戦後GHQの占領政策で、古事記・日本書記は真っ先に発行禁止、講和独立後も左翼化した文科省・日教組により「3世紀頃以前の事は漢字が伝わる前の作り話」として全く無視する歴史教育で、日本の神話や奈良時代以前の歴史は軽視・消去されてきました。  

今の中学歴史教科書を見ると、ほぼすべてが「日本の歴史は3世紀の魏志倭人伝から始まる」としています。「日本が最初に文字に現れた=歴史の始まり」として、「邪馬台国の卑弥呼が日本の始まりであり、それは九州か?近畿地方か?」と不毛の議論詮索を続けています。

常識的に考えれば、あの誇大妄想の民族が、1700年も前に日本の事を正確に記録していたことは考えられません。おそらく日本から一番近い魏の国に漂着船があり「ヤマトの国」を「邪馬台国」に、「日の御子(天皇)」を「卑弥呼」と聴いて記録したのに違いありません。自国以外は卑しい漢字を当てて貶める伝統の民族性です。

そもそも魏志倭人伝が書かれた「三国志」の時代は、あの広大な大陸に、長い戦乱で歴史上最も人口の少ない1000万人以下(魏400万、呉200万、蜀100万)の時代です。(最も栄えた前漢時代の全人口が約5000万人)そんな戦乱の中で書かれた「魏志倭人伝を金科玉条のように歴史の原典とする歴史専門家」は見識のないエセ歴史家として無視するしかありません。

「古事記・日本書記」こそ「日本人の心・命の原点」です。

歴史教科書としてこの原点に真正面から取り組み認可を勝ち取った「令和書籍・自由社の歴史教科書」を採用する教育委員会・学校、自治体が増えることを願ってやみません。

1-11. 日本と皇室を守った和気清麻呂

 皇居の東側、気象庁前のお堀端に和気清麻呂の銅像があります。日本歴史上勲一等の功臣ですが、道行く人は関心もなく通り過ぎます。

 歴史上、あまたの英雄豪傑偉人がいる中で、皇居周辺に銅像が建っているのは、西の楠木正成と、東の和気清麻呂の二人だけです。貴族文官からひとり。和気清麻呂は戦後、歴史からまったく消されてしまった人物ですが、戦前戦中の日本人なら学歴・居住地に関わりなく、誰でも知っていた人物です。ところがいまでは東大を卒業していても和気清麻呂を知らない。これはたいへんなことです。

和気清麻呂といえば、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、これに抗し、天朝を守り、そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前に改名させられた挙句、大隅国(鹿児島県)に流罪となり、後に赦されてからは、広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、また現在の京都である平安京への遷都を進言し、その造営を図った我が国の歴史上の大人物です。

和気清麻呂は、約1350年前の奈良時代末期に『皇室を貴ぶ日本の在り方』を守り救いました。この人がいなかったら間違いなく皇室は途絶え『焚書坑儒』で古事記も 日本書記も抹殺され、日本の歴史は塗り替えられていたことでしょう。日本人なら決して忘れてはならない大偉人です。

奈良時代から戦前まで千年以上、日本歴史上の最重要人物の一人として尊崇され、戦前の歴史教科書では『和気清麻呂、道鏡事件』 は大きく取り上げられ、明治23年~昭和14年まで50年間 十円紙幣(今の1万円紙幣に相当)に肖像画が使われていました。しかし敗戦・GHQの歴史改竄指令により、和気清麻呂や楠木正成などの日本にとって重要な歴史的偉人は記述が禁止され、日本人の記憶から消去されました。

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で名実ともに独立を取戻しましたが、独立したはずの私達 日本人は70年以上も『強制された間違った歴史・消去された歴史』をそのままにしています。日本の歴史的重要人物を 『和気清麻呂って誰? 何をした人?』 と全く忘れ去っていること何とも情けなく、先祖から『それで日本人と言えるのか、何という体たらくだ!』とお叱りを受けるのではないでしょうか?

和気清麻呂と言えば『道鏡事件』です。

神武天皇以来 守られてきた『男系で継承されてきた万世一系の皇統』が、悪徳僧侶の道鏡が天皇になろうとして 天皇家が消滅する寸前になった事件です。それまで幼少皇太子の繋ぎとして女性天皇は数例ありましたが、何れも世の中が乱れ、更に道鏡事件以降『例えピンチヒッターでも女帝は危ない』という認識が決定的となり、約900年女帝はでていません。 例外的に江戸時代2名出ていますが、明治維新の皇室典範で 『男系男子に限る』 と明文化されました。

第45代聖武天皇は、治政下の25年間 災害や天然痘が多発し、その平癒のために、奈良東大寺や全国 に国分寺を建立し、仏教を基幹とした政治を確立しました。その聖武天皇には男子が育たず、31歳の娘を 次の男系天皇が成人になるまでの繋ぎとして譲位させました。孝謙天皇=当時の女帝は全て独身。未婚か未亡人)  その孝謙女帝の病気を祈祷で治したとして道鏡は寵愛を得て政界に進出。病の為上皇となっていた女帝は764年に道鏡を引き立てるために重祚(再登板47歳)して称徳天皇となり、道鏡を僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣とし、766年には法王の称号と天皇と同格の権力を与えました。

そして名実ともに天皇になろうとした道鏡は、宇佐八幡宮と結託し『道鏡を皇位につければ天下は平定されるという信託が出た称徳天皇に上奏しました。・・さすがに称徳天皇は勝手に譲位できず、神勅を再度確認するために側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を派遣しようとしましたが、法均尼は 『私は虚弱で長旅は堪えられないため、代わりに弟を派遣してください』 と推挙し、和気清麻呂が宇佐八幡宮へ赴き神託を確認する事になりました。

道鏡と結託した神官は再度 『道鏡を天皇にすべし』 が神託だと伝えましたが、清麻呂はこれを道鏡の陰謀であると見抜き、直接大神に顕現を願うと『臣が君になること未だなく、道鏡はよろしく除くべし』の神託がありました。帰京してこの信託を報告すると、女帝と道鏡は激怒しますが、公式派遣の神託ですので受け入れざるを得ませんでした。女帝と道鏡には寵臣以上関係があったと伝えられます。)

女帝と道鏡は野望をくじかれて激怒し、和気清麻呂を 『別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)』と改名させ、大隅国(鹿児島)へ流罪とし、配流の途中に殺害しようと刺客を放ちます。しかしイノシシが300頭も現れ清麻呂を守り殺害は失敗します。(イノシシと伝えられていますが、女帝と道鏡の醜聞まみれの専横に危機感を抱いていた清麻呂の支持者300人が守ったとみるべきでしょう。)

770年に称徳天皇が崩御すると道鏡は後ろ盾を亡くして失脚、下向先の下野で2年後に没しました。 清麻呂は直ぐに京に呼び戻されて復権、 光仁・桓武天皇に深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍して、796年には従三位に叙せられ公卿の地位についています。

約1100年後の嘉永4年(1851年)、幕末期の孝明天皇は、和気清麻呂を「天皇家を守った勤王の臣」と称え、正一位および 「護王大明神」 の神号を授与し、京都御所西に護王神社が建立されました。


和気清麻呂の流罪先は長年不明でしたが、幕末期に島津斉彬が調査して確定し、記念の松を植えました。そして昭和21年(1946年)にその地に和気神社(鹿児島県霧島市牧園町)が建てられました。


また岡山県和気郡和気町には、和気氏の氏神として鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、1591に社殿が大雨で流されたため現在地に遷座し、和気清麻呂公、姉の和気広虫姫を祭神に加えています。

 皇居前の和気清麻呂像、京都・岡山・鹿児島の和気神社の近くにいく機会があったら是非お参りして、日本を救った偉人としてこれからも大事に語り伝えていきたいものです。

  最近、こういう日本の大事な歴史事実が軽視され、歴史教科書にも記載されず、殆どの国民が知る機会もなく忘れ去っています。

そういう中で、女性天皇や女系天皇の是非が無責任に論議されたりしています。そういうとき道鏡事件を思い起こす必要があります。・・神武天皇以来守り続けてこられた天皇家の譲位に際しての『男系男子に限る』という定め・伝統を無視した議論は、誠に恐れ多く無責任なことです。

 また、秋篠宮家、真子様は、道鏡事件の教訓、皇室の在り方(一般国民との違い)を どう考えておられるのか、とても気になるところです。

「滅亡する民族の3つの共通点」 歴史学者 アーノルド・J・トインビー

国の歴史を忘れた民族は滅びる

②全ての価値を物やお金に置き換え 心の価値を見失った民族は滅びる

③理想を失った民族は滅びる



1-11. 古事記物語1「天と地の始まり」

 はるか遠い昔、世界の一番初めの天と地の区別もないころ、高天原と呼ばれる天上の国に、世界の中心となる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が生まれました。続いて世界に色々なものをつくるタカムスビ神とカミムスビ神が生まれました。

この世界のはじめは、ただ天上に高天原があるばかりで、地は水の上に油が浮いているようなもので、クラゲのように頼りなく流れていました。そこに天にむけて勢いよく伸びていく神が二人生まれました。また油のようなものが次第に固まって地面らしくなる間に、男神と女神が7代にわたって生まれました。この一番後に生まれたのが男神のイザナギ神と、女神のイザナミ神です。そこで一番偉い神の天之御中主神は二神に命令しました。

「地面はまだ油のようにドロドロして固まっていない。だからお前たち二人で、人が住めるように作り上げなさい」

こういって綺麗な飾りのついた天沼矛(アメノヌボコ)を与えました。



命令を受けたイザナギ・イザナミ神の二神は、天と地のあいだに架っている天の浮橋の上に立って、海の上を見下ろしました。そして天沼矛を、油の漂っているところに突っ込んで ぐるぐる混ぜました。すると次第に油が冷えて固まるように形を成してきました。しまいに矛を海から引き上げると、その先から一滴また一滴と濃い潮がしたたり落ちて、積もり積もって島となりました。この島をオノゴロ島といいます。

二神は喜んで、新しい島へ降りていき、島の程よいところに太い天之御柱を立て、その周りに大きな御殿を作りました。そして二神で夫婦になろうと思い天之御柱を回って結婚式を挙げることにしました。



男神は柱の右から、女神は左から回り始めましたが、両方からやってきて顔を合わせた時に、まず女神の方が「あなたは、なんていい男なんでしょう!」と、続いて男神も「あなたは、なんていい女なんだろう!」と言われて結ばれました。こうして生まれたのは手足のない水蛭子でした。二神は悲しみ、その子を葦船に乗せて流されました。

二神は高天原に帰り天つ神に相談したところ、女神の方から声をかけたのが良くないと分かりました。さっそく二神はオノゴロ島に戻り、再び天之御柱を回って、今度はイザナギ神から先に「あなたは、なんていい女なんだろう!」、イザナミ神が続けて「あなたは、なんていい男なんでしょう!」と言われて結ばれました。そうすると次々と立派な国が生まれました。はじめが淡路島、次に伊予(四国)の島、隠岐の島、筑紫(九州)の島、壱岐、対馬、佐渡、最後に大倭豊秋津洲(本州)の八島です。そこでわが国の事を大八島の国というのです。



次に二神は、大八島に住むべき神々をお生みになりました。家の神、川の神、海の神、農業の神、風の神、野の神、山の神、船の神、食物の神などです。しかしイザナミ神は一番最後の火の神を生んだときに大火傷を負い、それが元でこの世を去り遠い黄泉の国に旅立ってしまいました。 

大事な妻に先立たれたイザナギ神は、身を悶えて男泣きに泣きました。妻の亡骸を葬ったあとも悲しみは募るばかりで、こんな不幸の原因になった火の神の首を腰の剣で切りました。すると火の神から炎がほとばしり沢山の神が生まれました。武器の神、雨の神、などの16神です。そんな腹いせをしても悲しみは消えません。どうしても妻に会いたい気持ちを抑えられず、決心して遠い黄泉の国へイザナミ神を追いかけていきました。

すると黄泉の国のイザナミ神が住まわれる御殿の固く閉じた扉が開きました。そこでイザナギ神が「美しき我が妻よ、私とあなたが作る国はまだ出来上がっていない。一緒に帰ろう」と言われると、イザナミ神は「もう少し早く迎えにきてほしかった! 私は黄泉の国の食べ物を食べたので、この世界の住人になってしまいました。もう戻ることはできません。でもあなた様がせっかくいらして下さったのですから、何とか帰りたいと思います。黄泉の国の神々と相談してまいりますので、その間、決して私を見ないと約束してください。」と答えました。

それっきりで、もう声は聞こえてきません。あまりに待たされるので待ちきれなくなったイザナギ神は、約束を破って御殿の中に入りました。中は真っ暗闇ですので、髪の櫛を取り一本折って火をつけました。すると光に照らされた妻は、腐敗し蛆にまみれ、体からは恐ろしい雷神が生まれて怖い顔で番をしていました。 

驚いて怖くなったイザナギ神は一目散に逃げだしました。ところが醜い顔を見られたイザナミ神は「あなたは約束を破って、恥ずかしい私の顔を見たわね!」と黄泉の国の恐ろしい醜女たちに後を追わせました。

必死に逃げるイザナギ神は追いつかれそうになり、髪に巻いた蔓草を投げました。するとツタが勢いよく茂り葡萄の実がなり、醜女達は葡萄にむしゃぶりつきました。その隙をついて逃げますが、猛烈な勢いでブドウを食べつくした醜女達は、その後もしつこく追ってきます。そこでイザナギ神は髪の左右にさしていた櫛を投げつけると、今度は筍が生えてきました。醜女達は筍を抜き次々に食べますので、またこの隙に逃げました。 

 しかし追ってくるのは醜女達だけではありませんでした。八種の雷神と千五百の黄泉の軍勢も追ってきます。どれも怖い顔をした恐ろしい悪霊です。イザナギ神はようやく黄泉の国と現実の世界の境にあたる黄泉比良坂に差し掛かり、そこに一本のモモノ木を見つけました。急いで桃の実を三個取り投げつけると、どういう訳か、悪霊たちはすっかり勢いを失い逃げ帰りました。桃の実に助けられたイザナギ神は 桃の木に「私を助けてくれたように、地上のうつくしき人々が苦しみ悩むとき、同じように助けなさい」と仰せになりました。 (下の絵は、青木繁「黄泉比良坂」)


 ところが最後の最後に、イザナミ神が、腐り蛆がわいた自らの体を引きずりながら追ってきましたので、イザナギ神は千人がかりで漸く動かせるという巨大な岩で黄泉比良坂を塞ぎました。そうして二神は岩を挟んで向き合いました。イザナギ神が夫婦離別の呪文「事戸」を述べると、イザナミ神は「愛しいあなたがそのようなことをするのであれば、あなたの国の人々を一日に千人絞め殺しましょう!」と恐ろしい声をあげました。それに対しイザナギ神は「愛しき妻がそのようなことをするのであれば、私は一日千五百の産屋を建てよう!」と仰せになりました。かくして現世では一日に必ず千人が死に、千五百人が生まれるようになりました。

 このように、イザナミ神は黄泉の大神として、そしてイザナギ神は現生の大神として、全く別の道をお進みになることになったのです。

1-11. 古事記物語2「天照大神誕生」

 イザナギ神は「どうして私は、あんな死人の住む、醜い、きたならしい国へ、わざわざ出かけていったのだろう? そんな良くないことをしたので、体がすっかり穢れてしまった。よく水で洗って清めよう」と考えました。

そこで日向の橘小戸の阿波岐原に出かけていきました。そこは海へ流れ込む河の入り口にあり、橘の葉が青々と茂り、朝日がキラキラと差し込む景色のいいところです。そこで着ているものをぬいで、みそぎという儀式を行いました。



まず手にした杖を捨て、帯を解き、腰の裳を脱ぎ、その下にはいていた袴を脱ぎ、冠も取りました。そして両手につけていた玉の腕輪も外して裸になりました。こうしたものを順々に脱ぎ捨てていく間に、からだにつけていたものから12人の神が生まれました。

そして裸のまま、朝日のさしている河の流れに目をやって、

「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがゆるやかだ。」と言って、真ん中の瀬のあたりに行き、冷たい水の中にくぐって、からだに水を注いで洗い清めました。この時、からだについていた穢れが落ちて、4人の神が生まれました。さらに、水の底や、途中や、表面に出て体をそそいだ時に、6人の神が生まれました。

その次に左の目を洗うと、太陽のように美しい女神「天照大神」が生まれました。それから右の目を洗うと「月読の命」が、その次に鼻を洗うと「須佐之男命」が生まれました。



この三人のこどもたちを見て、イザナギ神は喜んで、こう叫びました。

「わたしはこれまでに沢山の子供を生んだが、一番おしまいに、世にも尊い三人の子どもたちをももうけたことは、本当にうれしいことだ!」



そこで、玉という玉がお互いにふれあって、きれいな音を響かせている首飾りを外して天照大神に渡し「おまえは私の代わりに、高天原を治めよ」と命じました。

月読の命には「おまえは夜の国を治めよ」と命じました。

須佐之男命には「おまえは海の上を治めよ」と命じました。



こうして昼の国と、夜の国と、海とが、三人の子どもたちの手に委ねられ、夫々の国を治めることになりましたが、一番下の須佐之男命だけは、言いつけを守りませんでした。海の上を治めるように言われたのに仕事を始めず、朝から晩まで泣きわめいています。

時がたって、もうすっかり大人になって顎の下のひげが胸まで垂れ下がってきても、地団駄踏んで泣きわめいていました。その鳴き声の激しい事と言ったらまるで暴風雨のようで、青々と草木の茂った山が、鳴き声で枯れ木の山となり、波の騒ぐ海や河が、水の一滴まで乾いてしまうほどの勢いでした。国を治める人がこんな有様ですから、悪い神々が隅々から騒ぎ出し、五月の蠅がブンブンいって沸き立ったような大騒ぎになりました。



イザナギ神は、この様子をみて心配になり「どうして国を治めず泣いてばかりいるのか」と尋ねられると、須佐之男命は「私は亡き母のすむ根の堅州国に参りたいのです。だから泣いているのです」と答えられました。須佐之男命はイザナミ神を母と思っていたようです。それを聴いたイザナギ神はたいそう怒って、「それならばお前はこの国に住んではいけない」と追い払いました。

追放された須佐之男命はその後どうなってしまうのでしょう。ここからは天照大神と須佐之男命を中心とする新しい物語が展開します。



1-11. 古事記物語3「天照大神の怒り」

 (古事記は壮大な神話・歴史ドラマなので、中々読み通すことができませんが、 「まんがで読む古事記」全7巻(久松文雄:青林堂)は、原作に忠実で分かり易く、絵もきれいなのでお勧めです)

 父神から追放された須佐之男命は「それでは仕方ありません。お姉さんの天照大神に別れ告げお母さんの国に出かけましょう」と、高天原へ登っていきました。天照大神の方は知らせを聞いて吃驚しました。何しろ、乱暴者の弟が次第に近づいてくるにつれて、山も河も轟々と鳴り響き、まるで地震のように地面が揺れます。「弟が別れを言うために、わざわざ高天原に来るとは思えません。きっと私の国を奪いに来たのでしょう」と大神は考えました。そこで完全武装して尋ねました。「おまえはなぜ私の国にやってきたのです」


須佐之男命は「私に邪心はありません。ただ父神から、私が泣きわめく訳を聴かれたので『私は、亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです』と申し上げました。すると父神は『おまえはこの国にいてはならない』と仰せられ追放なさったので、姉君においとましようと参上したのです。やましい心はありません」と答えました。

しかし天照大神は納得できず「ならば お前の心が清明なことをどう証明しますか?」と聴くと、須佐之男命は「ならばお互いに誓約(うけい)をして子を産みましょう」と提案します。誓約とは 予め決めたやりかたで現れた結果で吉凶を判断する占いの一種です。

姉弟は天の安河を挟んで立ち、まず天照大神が、弟の腰の剣を受取り三段に折って河のほとりの真名井の湧き水ですすぎ、それを口に入れて嚙み砕き、ふっと噴出した息の霧から三人の娘が生まれました。宗像三女神の多紀理姫、沖津島姫、多岐都姫です。

今度は須佐之男命が、姉から玉飾りを貰い、同じように真名井の湧き水ですすぎ、それを口に入れて嚙砕き、ふっと噴出した息の霧からは、天忍穂耳命(瓊瓊杵尊の父)をはじめとする五人の男神が生まれました。

 誓約の儀式が終わると、天照大神は「後から生まれた五人の男の子は私の持ち物から生まれたので私の子です。初めの三人は、お前の持ち物から生まれたのだからお前の子です」と言われました。


すると須佐之男命は勝ち誇り「私の心が明るく清いから、たおやかな女の子が生まれたのです。だから私の勝ちだ!」と勝ち誇り、天照大神の田の畔を壊し、溝を埋め、神聖な御殿に糞をまき散らして、高天原で大暴れしました。

 この酷い乱暴狼藉にもかかわらず、天照大神は「糞をまいたというのは、酔って吐いたものでしょう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、耕せば良い田圃になると思ったのでしょう」とかばい続けます。しかし弟の悪態は度を増し、天照大神が神の衣を織らせていた機織小屋の屋根に穴を開け、そこから皮をはいだ馬を投げ入れました。機織女たちは驚き、そのうちの一人は驚きのあまり道具にぶつかり死んでしまいました。



 これには天照大神もカンカンに怒り、天の岩屋の洞窟に入り、入り口をぴたりと閉めて、もう出てこようとはしません。天照大神は日の神、太陽の神ですから、天にある高天原も、地上の国も、いっぺんに真暗闇になってしまいました。太陽がない夜だけの世界になり、今まで隠れていた悪い神々が騒ぎ、色々の災いがいっぺんに生じてきました。




1-11. 古事記物語4「天の岩戸」

  天地が真暗闇となった事態に、八百万の神は困り果て、天の安河原に集まり色々話し合いますが良い考えは出ません。そこで「知恵の神」と尊敬される思金神に相談しますと、思金神の考えたのは「祭」でした。早速 神々は祭りの準備に取り掛かります。



まず、暗闇の中ででも、長く尾を引いて鳴く鶏を沢山集めて、岩屋の前でひっきりなしに鳴かせました。鶏を鳴かすことは太陽の出現を促す呪術だったからです。次に鍛冶の神に命じて八咫鏡をつくらせ、玉造の神に命じて長い玉飾りの八尺勾玉を作らせました。これで必要な神器が揃いました。(この時作られた鏡と玉が、のちの天孫降臨の時に地上にもたらされた天皇皇位の印である『三種の神器』のうちの二つです。)

そして天の香具山から枝ぶりの良く茂った榊を根ごと掘出し、岩屋の前に立てました。そして八尺勾玉を上の枝に取りつけ、八咫鏡を中の枝に取り付け、白や青の布を下の枝に取り付けました。そして二人の占いの神が、なにとぞ早く日の神が岩屋から出てきてくださいますようにと祝詞をのべ始め、一番の力持ちの天手力男神がこっそりと岩屋戸の端に隠れました。



神楽が始まり天宇受売命が踊り始めました。天の香具山の蔓を襷にかけ、真榊を髪飾りにして、手には笹の葉を束ねて持ち、逆さにした桶の上で踏み鳴らし、手拍子足拍子も面白く、着物はだけて胸乳や腰もあらわに、おもしろおかしく踊りまくりました。八百万の神々はすっかり喜んで手を叩いて笑い転げたので、高天原が揺れ動くかと思われました。(下の絵は、小杉放菴「天宇受売命」出光美術館蔵)



この時、天照大神は不審に思い、岩屋戸を少し開けて内側から次のように言われました。「私が洞窟の中にこもっているから、高天原も地の国も真暗のはずだけど、この騒ぎはどうしたことです。天宇受売命は何故そんなに踊っているのです? 見物の神々は、どうしてそんなに大声で笑うのです?」

天宇受売命はそれにこたえて「あなた様より尊い神が、ここにおられますので、私達は嬉しくてなりません。それで笑ったり踊ったりしているのです」と申し上げました。



こうしている間に二人の占いの神が、岩屋戸の隙間に八尺鏡を差し入れました。すると天照大神は鏡に映るご自身の姿を、自分と同じような太陽の神が別にいると勘違いして、びっくりされました。そして不思議に思い、ゆっくりと岩屋戸から外を覗こうとしたとき、戸の脇に隠れていた天手力男神が、天照大神の御手を掴んで外に引き出し、すかさず占いの神が、後方の岩戸に注連縄を張って「これより内側には二度とお入りにならないでください」と頼みました。


こうして天照大神が再び姿を現したので、高天原も地の国も、また以前のように明るく照り輝くようになりました。大事件はめでたく収まったのですが、その原因となった須佐之男命をどうするかと、八百万の神は再び天の安河原に集まって会議を開きました。その結果、須佐之男命には罪穢れを祓うための品々を納めさせ、髭を切り、手足の爪を抜いて、高天原から追放しました。 ここからは須佐之男命の新しい物語が展開します。



1-11. 古事記物語5「八岐大蛇」

  高天原を追放された須佐之男命は、出雲の斐伊川の鳥髪に降りました。

 お腹を空かせて上流 下流どちらに行こうと迷っているときに、上流から箸が流れてきましたので、川上に誰か住んでいると思い、上流に向かって歩き始めました。すると立派な屋敷に行き当たりましたが、どういう訳か老夫婦が娘を挟んで泣いています。

 名を尋ねると「私はこの国を治める大山津見神の子で足名椎(アシナヅチ)で、妻は手名椎(テナヅチ)、娘は櫛名田姫(クシナダヒメ)です」と答えます。続けて泣いているわけを尋ねると「私達の夫婦には、はじめ八人の娘がいたのですが、毎年八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が来て一人ずつ食べてしまうのです。残りはこの娘一人になってしまい、今日その怪物がやってくるのです。たった一人残った娘まで食べられてしまうのかと思うと、悲しくて泣いている訳です」 さらに「その怪物は、どんな形をしているのか」と尋ねると、「それは恐ろしい奴で、眼はホオズキのように真赤で、頭は八つ、尾が八つ、胴体には苔がむして、その上に檜や杉などの木が生え、体の大きさは八つの谷、八つの峰にわたり、その腹はいつも血だらけで、赤くただれています」と震えながらおじいさんは答えました。


須佐之男命は武者震いをして、「よろしい、私が退治してあげよう。その代りあなたの娘を私の妻にください」と言いました。おじいさんは、この旅の若者が、怪物の話を聴いてもビクともしない様子を見て、これはただの人ではないと思いました。そこで名前を尋ねると、須佐之男命は名前を名乗り、「私は天照大神の弟です。ちょうど今天の国からこの地の国へと下ってきたところです。

これを聴いて足名椎も手名椎もびっくりして「そんな立派な方とはぞんじませんで、失礼しました。娘は喜んで差し上げます」と言いました。櫛名田姫もたいそう喜びました。そこで須佐之男命は、その娘を櫛の形に変えて自分の髪に刺して、怪物を退治するための準備をするよう足名椎と手名椎に命じました。

「八度醸造した強い酒を用意し、垣根を巡らせて八つの門をあけ、門を入ったところに酒樽を置いて強い酒で満たして待ちなさい」

 そして準備が整い、怪物が現れるのを待っていると、本当に聴いた通りの姿をした八岐大蛇が現れたのです。八岐大蛇は八つの酒樽にそれぞれ頭を突っ込んで、がぶがぶと強い酒を飲み始め、暫くすると酒が回ってその場でぐっすりと眠ってしまいました。須佐之男命の目論見通りです。



 そこで須佐之男命は腰の十拳剣を抜いて寝ている大蛇の頭を一つずつ切り落としていきました。真っ赤な血がほとばしり斐伊川は朱に染まりました。胴体も切り刻んだのですが、最後にしっぽを切り刻んでいる時に手にした剣の刃がポロリと欠けました。これは怪しいと尻尾を切り裂いてみると、中からそれは神々しい「天叢雲剣」が出てきました。

 須佐之男命は、高天原の天照大神にこのことを報告して天叢雲剣を献上しました。これがのちの草薙剣で、皇位の印「三種の神器」の一つとなります。

 戦いが終わり、須佐之男命は出雲で新婚のための宮殿を作るべき場所を探されました。そして「この地は私の心がすがすがしい」と言われその地に宮を作って住みました。それ以来この地を「須賀」と言うようになりました。(島根県雲南市大東町須賀)

 須佐之男命が須賀の宮殿をつくられたとき、その地から白い雲が重なり合って立ち上るのが見えました。そこで次の歌を詠みました。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 「雲の湧きおこる出雲の国に七重八重に雲がわく、八重の垣根を巡らすように。私と妻はその中に」(この歌が日本最初の和歌です。)

 そして足名椎を宮殿の首長に任命し、櫛名田姫と結婚式を挙げて幸せに暮らしました。この須佐之男命の六世の孫にあたるのが「大国主命」で、次の話の主人公です。

 なお須佐之男命は、須賀の宮殿に長い間いましたが、のちに、はじめの望み通りお母さんの国である黄泉の国に旅立ちました