2024年9月5日木曜日

3. 日本の心を学びなさい(麻生さん)

 令和5年1220日、元店主室長 麻生和正さんが旅立たれました。94歳でした。「あの素晴らしい方がついに・・」と深い悲しみに襲われました。


麻生さんは昭和28年に入社され、30歳の頃から約20年間、緑内障で殆ど視力を失った出光佐三店主の目となり手足となり 議論相手となって支えられました。そして昭和55年に経理部長、その後常務、専務となられて経営の中枢を担ってこられました。

 麻生さんが遠い遥かな存在となられても、私達の胸には『いつも私達の未熟な議論に、にこやかに目を細めて聴いて頂き、穏やかに温かく包み込みながら、日本人としての在り方を教えて頂いたお姿」を決して忘れることはありません。 深く感謝し 心から ご冥福をお祈り致します(合掌)

出光興産は、出光佐三氏が明治44年に門司で開業しました。日清・日露戦争を経て、日本が世界3大強国として列し発展した時代です。しかし開業以来大変な苦労をされ、ようやく大陸への発展を遂げて間もなくの終戦で事業の殆どを失いました。その苦労された様子は、小説・映画『海賊と呼ばれた男』でご存知の方が多いと思います。出光では出光佐三氏の事を 創業時の出光商会店主にちなみ今でも『店主』と呼んでいます。

出光佐三氏は『100年に一度の偉人』と言われる程の傑物ですが、中でも次の二つはいつも感動し、日本人としてのあるべき姿を教えられます。

終戦で会社資産を全て失いながら、復員者800人を含む従業員1000人を一人も解雇せず、終戦3日後には『愚痴を言うな、世界無比の三千年の歴史を見直せ、そして建設にかかれ!』と檄を飛ばし、ラジオ修理・タンク底油回収等色々な仕事に取組み乗切られたこと

英海軍封鎖下のイラン石油を、昭和28年5月世界で初めて輸入して世界中を驚かせ、敗戦に打ちひしがれた日本人が勇気と誇りを取り戻した『日章丸事件』



 戦後生まれの私は、高度成長絶頂期の昭和47年に入社しました。沖縄返還の年ですが、ベトナム戦争は泥沼化、嘉手納基地からB52が頻繁に出撃し、国内では水俣病や大気汚染などの公害が大問題になっている時代です。私は政府や企業に対して批判的で、反体制的な心情を持ちながらの就職でした。
 『数年努めて社会の実態を学んだら退職し、世の中の矛盾を正す役割を担いたい』  などと思いながら仕事を続けていました。

 しかし縁あって結婚、家族で暮らす幸せを味わっていた29歳の時に本社人事部へ転勤、出光の中堅社員教育=『店主室教育』を受けることになりました。この店主室教育は、昭和45年の中堅社員教育で受講生に接した佐三氏が『彼らは日本人の心を失っている!』と危惧され『僕が直接教育するから、全国の30歳前後の中核となっている社員を本社に集めよ!』と始まりました。所謂企業教育(実務、経営学等)とは全く異なり、そのテーマは『日本人にかえれ!』でした。当初教育期間は一年の予定だったらしいのですが、『思ったよりしっかりした日本人に育っている』 という事で半年に短縮され、その後40日となりました。

左の写真は出光旧本社8階店主室入り口にある宗像大社の神棚です。宗像大社は国民の祖神である「天照大御神の娘3女神」を祭ってあります。その御神勅は「天孫を助け奉りて 天孫に祭かれよ」(皇室を助け 皇室に祭られなさい)=皇室と国民の在り方を示されている国民の祖神です。佐三氏生まれ故郷の福岡県宗像郡にあり、佐三氏の心の原点です。宗像大社の神棚は出光の全ての職場に祭ってあり、出光社員は宗像大社を拝礼してから仕事につきます。

佐三店主の部屋はこの拝殿室の後ろにあります。店主は毎朝出勤すると、まず宗像大社を拝礼し、そして店主の部屋から皇居を遥拝されてから執務されました。また店主室教育は、この拝殿前に全員24名が整列して拝礼してから始まりました。

この店主室教育を主宰されていたのが、昭和28年入社で、店主室長として20数年間店主の側で仕事をされてきた麻生さんです。

麻生さんは最近まで出光OB誌に 『店主のお側で過ごした20数年のエピソード』を紹介されました。そこにはまるで昨日のような、生き生きとした店主との触れ遇いが、簡潔に印象深い名文で描かれ、読むたびに胸を打たれます。店主と接したことのない私は、店主室教育で接した麻生さんこそが店主のような存在です。麻生店主室長最後となった昭和55年4月の第20回店主室教育の受講生として感謝の思い出を紹介します。


(左の写真は、1985年のプラザ合意で米国為替レートに翻弄され苦労されていた頃の麻生経理部長。その右は天坊国際金融課長:のち天坊社長)

1. 店主室教育で生まれ変わる

 20歳代の私は入社以来問題児でした。先輩上司から聴く出光理念も、店主書籍を題材にした自問自答会も素直になれませんでした。特に入社10年前の昭和37年11月乗組員36名全員が焼死した「第1宗像丸事故追憶」(我が60年2巻P695)の出光店主の文章には反発を覚えていました。「従業員が何十人も殉職した悲惨な事故の追悼内容の殆どが世界平和使命とは・・日常的に火災爆発の危険性がある我々も、いざとなったら全員死ねという事か」 と・・ しかし店主室教育受講時「なぜ一旦避難して命を守らなかったのか・・」と嗚咽しながら弔辞を述べられる店主の録音声を聴き、初めて店主の思いを知りました。以来眼からウロコが落ちたように、出光理念や書籍が素直に納得理解できるようになりました。

2. 初めて日本の心の源泉に触れる


店主室教育は、伊勢神宮参集で始まりました。



 そして東慶寺での座禅、靖国神社参拝、夜久正雄教授による和歌入門講座、宗像大社の宮司体験・・それ以外は約40日間「仕事を忘れ、日本人と何かを考えなさい」のテーマで思索するのが店主室教育でした。こんなおおらかで自由闊達な教育研修は聴いたことがありません。よく先輩から『費用対効果はあったか、受講後のアウトプットは?』と言われましたが、そういう実利的なことは超越した重い体験でした。




3. 店主室教育で学んだこと

 私達の班は 『出光の経営の本質を学ぶ』 をテーマにして、我が六十年一~三巻を熟読し、店主の理念を『(1)人のあり方、(2)事業経営』 に整理していきました。私は 『(1)人のあり方』を担当し、その本質は『 務めて難関を歩め、神(皇祖・皇宗・祖先)を敬え、③独立自治、④無我無私、⑤人情を尊ぶにある』と整理して掘り下げていきました。しかしそれだけではない『もっと本質的な 何かがある』と思いながら、あっという間に40日間の研修は終わり『これからの宿題』としました。

 そういう研修の中でショッキングな出来事がありました。毎日独身寮~本社通勤で利用していた小田急線下北沢駅のホームで、盲目の女性が階段を探してウロウロしていました。私達は、危ないな・・と思いながら見守るだけでしたが、外人の若者が直ぐエスコートして階段を一緒に降りていきました。店主の深い理念と実践力に学ぼうと研修していた自分は、困っている人を助ける実行力すらない事に本当に情けない思いでした。以来、立派な空理空論よりも、小さなことでも実行することが大事と戒めています。

4. 「君の人生のテーマは 何かな?」

 麻生さんの個人面談で、世間話のような調子でこの質問がありました。私も世間話の様な気楽さで「私は入社以来問題児でした。学卒なのに交替勤務が長いのを腐っていましたが、先輩が見かねて三年がかりで指導し正してくれました。その指導があって人事部で仕事をさせてもらえるようになりました。」と話しました。そしてそこから学んだ「自分の様な迷える子羊が正しい道を見つける手助けがしたい。人事部でそういう役割を果したい。優秀な社員は自分で道を切り開いていくのでほっといてよいと思う」と話しました。すると麻生さんは『それはとても大事な仕事だ。頑張って欲しい』と背中を押して戴きました。以来退職まで三十年間、退職後も大学キャリア講師やブログ・FB配信(若者への応援歌)で、このテーマに取り組んでいます。

5. 麻生さん宅で研修打ち上げ

研修最後の相互発表会が終わると、麻生さんのご自宅に招かれました。

そしてご家族も一緒に、受講生全員が家族のように和気藹々と楽しいひと時を過ごさせてもらいました。当時小学校三、四年だった息子さんを 『孫だよ、孫だよ』 と照れながら紹介されたのが、とても印象に残っています。この時の実の家族のように楽しかったひと時は、いまも昨日のように思い出されます。

6. 私の日本人原点は店主室教育

 店主室教育受講後一番の変化は、出光の刊行物が嘘のようにスッと心に沁みとおることでした。また受講前は 『右翼の偏った論説者』 と思っていた、渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、青山繁晴氏、黄文雄氏などが、受講後は深い共感を覚えるようになりました。 『このままでは日本は滅びる!』 という強い危機感を持った憂国の士だとわかりました。特に渡部昇一氏は、アメリカ数校の大学教授として教鞭をとるほどの国際的英語学者でしたが、晩年は日本の歴史教育に危機感を抱き「日本の歴史」全7巻、「少年日本史」などの名著を残されました。それらを読むと、まさに店主が言われ続けた 『日本人にかえれ!』 の素晴らしい日本人の歴史が描かれています。戦後のGHQ自虐史観洗脳から78年経過しても、洗脳に束縛されたままの私達現代日本人ですが、渡部昇一氏の次の分かりやすい例え話で、全国民が目覚めて欲しいと思っています。「歴史を見る眼‣姿勢」への至言です。

【歴史とは虹のようなものです。水滴の様な歴史上の事実や事件を沢山集めても歴史にはなりません。数限りなくある水滴の集まりを、ある適度な角度と距離をとって眺めて初めて虹は見えてきます。また虹はその国民にだけ七色に見えてくるもので、それを 「国史」 (国の歴史)と呼びます。そのような美しい歴史の虹を見るためには、正しい歴史観を持つことが大切です。】


<エピローグ> 
 あれは私が人事部勤務2年目の昭和55年12月、店主が逝去される数カ月前の事です。麻生さんは新経理部長となっておられました。交代したばかりの新店主室長が「昭和56年 ”月刊出光” の新年号の仙厓画讃の年頭の辞をどうしたらよいか」(店主は入院し面会できない状態でした)、麻生さんに相談に行かれたところ、その場でサラサラと書かれたのが「はよふ、起きんかあぁの一文です。新店主室長は、ただ驚き立ち尽くしたとの事です。(『海賊と呼ばれた男』の終章では店主の絶筆となっていますが・・麻生さんは、視力をほとんど失った店主の目となり手足となった秘書・祐筆20年間、その精神性は店主と同じ世界に生きておられたことが分かるエピソードです。ただし麻生さんは生前、あれは店主の言葉だと固く否定されていました。)

新年おめでとう。今年は酉の年である。
仙厓さんのカレンダーも酉の年にちなんで鶏が声高らかに鳴いている。
東天に向かって羽ばたきつつ 夜明けを告げる鶏の声は清々しく力強い。
仙厓さんは大声で「はよふ、おきんかあぁ」と怒鳴っておられる。
この一喝は強烈だ。肝にずんと響く。
思わずパッと目が覚める思いがする。

36年前の終戦の時、私は「日本人は戦争に負けたのではない。あまりに日本人が道徳的に廃頽し、日本の民族性を失っておるから並大抵のことでは目が覚めないので、天が敗戦という大鉄槌を加えられたのである。これは天の尊い大試練である。だから愚痴を言わず、三千年の歴史を見直し、直ちに再建に取り掛かれ」と怒鳴った。
さて出光は本年、創業70周年のめでたい年を迎えた。70年の積み重ねは、出光人はかくあるべし、日本人はかくあるべきものなりという確固たる信念と共に歩んだ年月であった。

かえりみて、この人間尊重70年の道は正しい日本人の大道であった。
今後も永久に間違いない。
鶏鳴とともに東海の空に曙光がさしはじめている。
 (3か月後の昭和56年3月7日、店主は95年の生涯を閉じられました)

3. 禍を福とした経営トップ(裕治さん)

退職して10年、学生時代の同窓生と再び会う様になり、出光で過ごした有難さを痛感します。一つは 組合を必要としない経営理念=家族に対立闘争の組合は不要という事です。ある同窓生が国鉄の国労・動労と不毛の対立闘争に苦しんできた話を聴くたびに 『出光で仕事ができてよかった!』と感謝します。
もう一つは本来 雲の上の存在である経営トップを身近に感じながら、自分の持場で誠一杯頑張れた事です。偉大な経営トップの真の苦労を知らないのに、 “末端の元社員” が紹介するのは誠に恐れ多い事ですが、40年間お世話になった出光への感謝のしるしとしてお許し願いたいと思います。

尊敬する出光裕治さんが千葉製油所長として赴任された時、大先輩から 『一番創業者(出光佐三氏)に似ている方だ!』 という話を聞きました。『こういうところがそうなのかな?』とまず思ったのは、社員食堂で若い一般社員のテーブルに自ら行かれ、楽しく談笑されながら昼食をとられる姿でした。それまでの所長は課長がいつも取巻き、自ら一般社員と気さくに食事される姿は見かけませんでした。また豪華な所長社宅は使わず、製油所前の出光クラブ3階の研修室を改造して、そこで3年間単身赴任生活を始められました。20時までは出光クラブで偶々居合わせた社員と一緒に食事・談話され、時間が来ると自室に戻っていかれました。

そういう和気藹々とした日常が続いていた昭和59年に大事故がありました。SDMが終わり通常運転に入ったばかりの重油脱硫装置の反応塔ベントバルブが壊れ高温高圧(15Pa150kg/㎠)の重油が空高く噴出し、風に流されて10kmも離れた木更津まで市街地や工場地帯を汚染しました。 『地元と共に発展する』 が社是なのに、地元住民に大変な迷惑をかけるという大トラブルが起きたのです。
それからの千葉事業所はまるで戦場でした。お詫びの挨拶まわり、住宅の洗浄・清掃、洗車の為のSS応援、洗濯物等の賠償等々、考えられるあらゆる対応の分担を決めて、全所員や近隣事業所の社員が約1か月間休日を返上し一丸となって対応しました。
そして事故対応が一段落したとき、裕治所長の慰労訓話が全所員の胸を打ちました。以下はその要旨です。

『今回は前代未聞の大事故だったが、みんな本当によく頑張って乗り切ってくれた。非常事態の時の出光社員は、一致団結して他社では考えられない凄い力を発揮する。 今回のみんなの団結力と頑張りは特に素晴らしく 僕は一生忘れない。しかし ここで終わりにせず、もう一歩進んで考えてみて欲しい。』

『こんな辛く酷い目に合うのだったら、毎日少しずつひどい目にあったらどうか。毎日の努力の積重ねで大事故が起こらないようにするのが本当の仕事だ。』

『今回の事故の根本原因は、SDMで新品に取換えたバルブの材料が間違っていたことだ。そのため高温高圧に耐えきれずに壊れて重油を郊外にまき散らす結果となった。メーカーの昌立バルブは取引禁止にしたが、地元住民はそれで許してはくれない。あれは出光さんの構内で起きた大迷惑事故だとしか見ない。』

『私達は、構内で行われる工事だけに目を光らせるだけでは、その職責を果たしたことにはならない。構内で使われる材料、部品の生まれ、工事環境、作業員の仕事の質まで目を光らせ、正しい設備管理を行い、正しい仕事をするのが、真に働く“ ということではないのか』

 そしてそれまで約1年間準備を進めてきたTPM活動を徹底して見直し、本格的に取り組むことになりました。そしてこの活動は北海道製油所から愛知製油所そして全製油所・工場へと展開され、国内でも特筆すべき装置産業の模範活動となり、日本プラントメンテナンス協会(JIPM)から『出光興産のTPM』が出版され、全国でTPM推進教科書として使われました。その後社長となられた出光裕治さんは、日本プラントメンテナンス協会の会長となられ、全国全業界へのTPM展開・定着を推進されました。

社長になられた裕治さんが語られる訓話は、分かりやすく全社員の心を打ちました。それは退職し古希となった私にとって、いまも珠玉の人生指針です。

(平成六年度入社式社長訓話) 
出光では 皆さん自身が会社なのです。 会社がそこにあって皆さんがそれに貢献するのではなく、自分たちが会社を作っていくんだという意識でとらえて欲しい。従って、自分で学び取り、問題意識を持ち、課題を取り上げ、挑戦し、仕上げていく。これが大事な事です。

(平成七年新任役職者研修訓話) 
役職者は上ではなく下を向いて仕事をしなさい。 出光役職者の役割使命は、『どうしたら下の者が持てる力を最大限発揮できるか』 を突き詰めて考え、その環境を作ることだ。役職者の目的は部下を成長させること。その結果として業績や成果がついてくる。 間違っても目的と結果を逆転させてはいけない。

3. 心の師に巡り合う努力を (大岸さん)

若手の入社後定着率の悪さがずっと問題になっています。 入社後3年以内に退職する若者は3~4割、特に製造業が高いようです。

かく言う私も、50数年前、石油会社の装置運転業務が面白くなく、毎日退職ばかり考えていた時期がありました。そんな時に読んだ 『匠の時代』 に登場した三菱電機群馬製作所 神谷昭美所長の 『良い師に巡り合う努力を』 の一文に釘付けになりました。そこにはこんな事が書いてありました。

20歳代の私を育てて下さった上司なくして今日の私はなかった。深い感謝の念と共に、巡り合いの不思議さ、大事さを思わずには居られない。 定年間近になって思うのは次の事です。

1. 人生を左右する教育を受ける大事な時期は入社直後の3,4年。 所謂『三つ子の魂は百まで』。 この時期に学んだ『ものの考え方』は、定年退職するまで変わらない。

2. この時期に、自分にとって本物の先生は誰であるかを判断し選択しなければいけない。そして枝葉末節の小技ではなく、全人格的な薫陶を受けるべく、その師についていくこと

 それ以来、心を入替えて『良き師』を見逃さないようにしました。そして出会った『心の師』が大岸さんです。 この師なくしては、その後の人生は全く違ったものになったと思います 。

JR内房線姉崎駅で下車すると、西側正面にひと際高い煙突が聳え立っています。高さ180mのてっぺんから、薄い煙が空高く勢い良く立ち上っていますが、良く見ると煙突の上部が円錐状に絞られています。 この煙突を見るたびに大岸さんを思い出します。

約45年前、この煙突の煙はだらしなく垂下がり、上方の1/4程が汚くよごれていました。それだけでなく風向きによっては濃い煤煙が市街地にまで達し、市民の皆様に迷惑をかけることもありました。

そんなある日、『今度、スゴイ怖い課長が着任するぞ!』 という噂の中で赴任された大岸さんは、着任錚々『なんだあの煙は!これはダウンウオッシュの一番ひどいやつだ。 近隣住民に大気汚染を撒き散らし迷惑を掛けている。何で5年間も放置していたんだ!』 と、大反対する他の課長(特に私の上司課長)を一喝し、あっさりと上部に絞りを設置してしまいました。他の課長が大反対したのは『絞りを入れると煙道に逆圧がかかり、ほかのボイラや加熱炉の火が消えて運転出来なくなってしまうのではないか・・』と懸念していたからです。

『そんな事はありえない。計算すれば直ぐ分る。問題をそのまま放置する方が大問題だ。』 と一笑に付し、そして全く問題ないことが実証され、45年後の今も快調に排煙し続けています。

第一番目の教えは、『問題を放置せず、必ず解決すべし』 (問題点は問題認識した者にしか解決できない)でした。 

次に大岸さんが問題視したのは世界初の公害防止設備=湿式排煙脱硫装置です。この装置は、そもそも250トン新設ボイラ二基の大量の排煙を浄化する目的で設置されました。その大型ボイラの燃料は安価なアスファルトで硫黄分が多い為、大気汚染防止目的で世界最初のシステムを採用しました。通常設計は排煙中のSox,Noxを処理した吸収剤は廃棄するのですが、この装置はキルンで蒸し焼き再生利用するシステムで、人手がかかり、事故故障も頻発する大変なプラントでした。これを題材にした 『虚構の城』 という小説が書かれたくらいです。

『何でこんな面倒な装置を作ったのか? 目的は排煙脱硫だから再生系は不要。世界初を目的化するのは本末転倒だ』 と、吸収塔だけの吸収剤使い捨て方式に取替えてしまいました。それまでの30人強の運転課はなくなり、他の運転課の遠隔監視だけで十分となりました。

第2の教えは、本来の目的を見失うな。見せ掛けの華々しさや名誉に惑わされるな。』安全・設備設計の基本は、Simple is the Best (単純が一番)、Fool Proof(間違えても大事に至らない設備対応)』 です。 

大岸さんが最も力を入れたのは人の成長 です。

 この当時、入社後20~30年を経過したベテラン社員が目的を失いマンネリに陥りつつありました。 大岸さんの危機感はこういう時に大事故が起きる。事故はチームのボトム(未熟な者・意識の低い者)を狙って起きる。一握りの優秀な者だけ育てるのでは駄目だ。 という事でした。 そして始めたのが 『アタック70活動 (一人一人が主役で仕事に取組む活動=業務改善活動。 牽引機関車型から新幹線型=各車両牽引型への脱皮) です。 この意識改革活動は事業所のトップから末端まで巻き込み、50年以上経過した今も脈々と流れています。

 また専門技術の事しか関心がなく社会性が全く身についていない私達現場の者達に、色々な質問をして啓蒙していました。例えば中国の新指導者 鄭小平氏の来日が話題になっていた頃、『君は鄭小平 “夾竹桃のような人間になるな” と言っている意味を知っているか?』 といった具合です。 

私が、『いや知りませんが、大気汚染に強く街路樹に使われているので、“逆境に負けず強くなれ“ と言う意味ですか? あれ?それなら良い意味ですよね?』 と答えると、『君は新聞やニュースを何も知らないな。もっと社会の事に関心を持て。彼が言いたかったのは ”夾竹桃は幹がなく小枝だけなので柱や壁板には使えない。小枝は枯れても燃えないので薪にならない。葉には毒があり家畜の餌にもならならず何の役にも立たない。そういう何の役にも立たない人間には決してなるな と中国10億人に諭した言葉だ。』 私は、ただただ赤面するだけでした。

物凄い読書家で、『これが面白かったから読め』 と、私は毎月1冊くらい渡されていましたが、中々追いつきませんでしたが、それをきっかけに読書が習慣になり、心の財産になり、自己確立の基礎となっただけでなく、今こうやってブログの新刊書紹介等でも役立っています。 

大岸さんと出会ってから1年後、現場の運転課から突然、本社人事部分室に移動になりました。「分室?何をするところだ?」と上司先輩に聴いても誰も知らず、赴任して初めて何の職場かが分かりました。「出光は切磋琢磨する厳しい職場だが、他方 会社風土は和気藹藹・家族主義の社是。その出光に、あってはならない労使対立闘争の組合が8つもできた。それを全て円満解決に導いた伝説のヨシダサンという凄い上司がいる部署」という事でした。「なんでこんなところに俺が行くことになったのか?」と呆然とする思いでしたが・・全ては大岸さんによるもので、上司でもないのに「なぜ安藤をこんな現場に6年も塩漬けにして遊ばせているのか!」と直接の上司を説得し所長に掛合い異動となったとの事・・転勤後ヨシダサンから「君が大岸が推薦した安藤か」といわれ、初めて異動の背景が分かりました。・・それから地獄の毎日が始まりましたが・・

しかしこの異動で、他の技術系社員にはあり得ない異質のキャリア人生が始まりました。入社以来 職務変更16回(転居12回)、普通はあり得ない技術系課長(電計)と事務系課長(人事、総務)を経験できたのは「大岸さんとの出会い」なしにはあり得ないことでした。その多彩な経験がベースとなり、退職後10年間『大学キャリア講師』として、若者の指導に携わることができました。

いま大岸さんは、60歳で退職後北海道厚真町の大原野に奥様と暮らし、今年25年目の85歳。歩行困難だった奥様の為に、現役時代から作り始めた足台や椅子などの木工細工が昂じていまや『匠の技を持つ木工師』で、『和机、蕎麦打ち鉢・俎板』などを手始めに、町の集会所などの修理やリニューアルなど、何でもやってのける町の名士となっています。


最大の作品は、住居の前にあった倒壊寸前の古い納屋を、設計から施工まで全て独力で建替えられたものです。『スゴイですね。どうしたらこういう事が出来るようになるのですか?』と私がたずねると、
『なに大した事じゃない。要は、“やりたいことをやるか、やらないか” だけだよ一歩踏み出せば、何でもやれない事はない』。まさに至言です。

 最近は、荒れ放題になっている森の復興にも取組んでおられます。

曰く『かって日本の森は人間が手をいれて、薪や炭を生産し、色々な動物も共生する豊かな森であったが、経済面最優先で杉やヒノキや落葉松林に替えてしまった。 しかも外国材に席巻され山は荒れ放題になっている。
僕はそれを少しでも元の豊かな森にして自然に返したいと思っている。』と、約2ヘクタールを天から預り (決して購入してと言われません)、手入れして見事な花が咲き乱れる森にする。また同じ思いを持つ仲間を増やしていくのが夢だという事です。


そして85
歳となられた今も、北海道の野生児です。この大先輩を慕うかっての業務改革仲間は、2年に一回 『A70サミット』と称して、北海道の大岸さん宅に集まり、青年の気持ちに戻って熱い思いを語り合います。まさに 『人は心が若い限り、永遠に青春だ!』 を身をもって示されている 『偉大な心の師匠』 です。

3. 理想のリーダーと芸術 (下山さん)

                     Rev.)   2023年8月9日

戦前ABCD包囲網の経済封鎖で戦争に追い込み、敗戦後の占領政策で日本極悪論で洗脳された日本を、再び世界の舞台へと導き、不世出の指導者として期待され尊敬されてきた安倍元首相が凶弾に倒れて一年以上経過します。

そういう中でロシアのウクライナ侵略、中国の専制独裁・台湾進攻目前、アメリカの内政混乱・・日本を取り巻く世界情勢は激変し、増々危機的状況を呈しています。また核を保有し小型化が進んでいる北朝鮮は、ミサイル開発を高度化し1300発以上の中近距離ミサイルが全て飛来すれば日本は壊滅します。 中国の台湾進攻と連動して必ず朝鮮統一戦争を仕掛けるでしょう。 ・・頼みの米国バイデン政権は国内分断で不確定要素が多く、老人特有の意志薄弱で決断・判断力が鈍く、環境問題最優先で対中国弱腰・接近懸念(いつか日本を見捨てて中国と手を握る)が払拭できません・・

そういう中で、日本は今こそ力強いリーダーのもとで一致結束すべき時です。安倍元首相亡きあと、岸田内閣がウクライナ悲劇を見てなお『中露朝が核兵器増産にひた走るなか、専守防衛・核廃絶・非核三原則などの脳天気な夢物語に執着している・・』と日本の現状に危機感を抱く若者が増えています。これからは日本を取巻く危機的環境に目覚め危機意識を持つ若者が主役になるべき時です。そして今こそ私達一人一人が困難な問題を人任せにせず諸問題の本質を見抜く目を磨き、あらゆる場面で リーダーシップ・メンバーシップを発揮し、国民全員が安心・安全で暮らせる社会となるように、一致協力して努力する事』 が求められています。そこで今回は 『目指すべき理想のリーダー』 がテーマです。

リーダーシップについては、古代ギリシャ時代から色々と論じられていていますが、1964年にブレイク(R.R.Blake) とムートン(J.S.Mouton) が提唱した 『マネジリアル・グリッド論』 は45年前頃に日本に紹介され普遍的リーダーシップ行動論として定着しています。 この理論では行動スタイルを「人間に対する関心」  「業績に対する関心」 という2軸に注目し、それぞれにどの程度関心を持っているかで各軸を9段階に分け、ここに出来る計81の格子(グリッド)をマネジメント・グリッドと称し、典型的な5つのリーダーシップ類型(11型、19型、91型、55型、99型)に分類しました。 世の中が不安定になると9111が幅をきかすようになり注意が必要です。 この中で最も理想的なリーダーは99であり、私達が目指すべき姿です。

 このマネジリアル・グリッド理論が理想とする 9・9型リーダーの典型が下山さんです。 今回は下山さんのエピソードを紹介し、『時代が変遷しても変わらずないリーダー像』として、皆様が目指す理想のリーダーの参考としていただきたいと思います。

  43年前、私が漸く現場の仕事を任されるようになった頃、大変なボイラ事故が発生しました。 現場巡回点検が終わり夕食をとり、日勤者は帰宅して運転員がホッとしている21時ころ突然、ドドドーと火山噴火のような大音響が発生し、計器室にいた者は全員、身動きも出来ず、その場に凍りつきました。『一体何事が起きたのだ?』と思う間もなく現場から 平田さんが飛び込んできて『ボイラ事故だ!燃料遮断!』 と大声で叫びました。 この平田さんの沈着冷静な判断で二次災害は食い止められました。

 下の絵は、この時の水管ボイラを模式化したものです。 事故の原因は、気水ドラムの液面を制御している水面計器の内部機構が固着し、液面が無くなったにも拘らず液面あり“ の指示を出してボイラの水が無くなり(=空缶)、水管が直接燃焼炎に焙られ、開孔噴破して高温高圧のボイラ水が爆発的に噴出したものでした。   液体の水は蒸発すると1000倍以上の体積になります!

 事故後、この気水ドラム液面制御の不調時間が割り出されました。 
丁度、瀕死の患者の波打つ心電図が心拍停止で一直線になる様に、噴破前15分間は一直線となっていました。(15分間の無監視が問題になりましたが、沢山の計器に貼付いて監視する訳に行かず、その後の技術革新で、計器指示がこのような動きを示した時は、計器スティック故障として自動的にアラーム発報する様になっています。) 

 翌日、大変な事故が起きたと思う一方で『計器の故障では仕方ないな・・・』と心の中で思い始めた頃、所長スタッフの下山さんがやって来て、運転員一人ひとりと面談し厳しく詮議しているという話が聞こえてきました。『課長でもないのにこの人は何だ?』と思う間もなく自分の番が回ってきました。

  『オレは約1週間ほどボイラ担当ではなかったから火の粉は飛んでこないな・・・』 と思っている私の心を見通す鬼のような怖い目で、下山さんは厳しく問い正しました。

『お前は、今回の事故は自分に関係ないと思っているな? それなら聴くが1週間前はボイラ担当だった筈だ。その時、今回故障した制御用計器と現場水面計の指示差はどれくらいあったか? 完全に一致していたか?  なに? そこまで見ていない? それで仕事をしていると言えるのか?』

その時、『この下山さんは事故責任追及(=犯人探し)をしているのではない。一人ひとりの仕事の取り組み姿勢を正そうとしているんだ と悟りました。 この時一瞬にして、9・1(権力)型だ と思っていた下山さんは、9・9型だと思うようになりました。

 その後下山さんは係長となられ、仕事は厳しく 『鬼山さん』 と呼ばれましたが、人間面では、まるで家族に接する慈父のようでした。 例えば工場は夜昼なく一年中稼動するので、年末年始に大半の若手社員が帰省できず寂しい思いをしているだろうと、職場先輩家族に声をかけ『独身寮 年末餅つき大会』を始められました。これは独身寮の大事な行事となり、その後更に若い寮生が中心となって年末に孤児施設を慰問 (餅つき・ゲーム遊び・バンド演奏等)の企画へと発展して約30年間継続され毎年施設の子供達は、この日を楽しみにしています。 

下山さんが20歳代の若い頃のエピソードをもう一つ紹介します。 

群馬の実家へ帰省途中、JR(当時は国鉄)で事故があり、列車がある駅で立往生となりました。駅構内も駅前広場も大混乱で、路線バスが溢れる人垣でビクとも動けなくなっています。それを見かねた下山さんは、やおら近くの人に自分の荷物を預けてバスの前に立ち、大声で『みんなどけーっ!前を開けろー!』と叫びながら、相撲の土俵入りのように、右、左 と片手を上げながら進みました。 すると下山さんが手を上げるたびに、その方向の人垣がササッと道を広げ、バスはゆるゆると動けるようになりました。 人垣の中からは 『カッコ良イ!』 と掛け声がかかったそうです。

  私達は、こういう場面に遭遇した時、中々このような立派な行動は出来ません。 それ以来 『一体どのような訓練を積めば、下山さんのようなリーダーシップが取れるようになるのだろうか』 と考えます。 唯一思いついたのは、『常日頃から色々な非常事態を想定して、どんな時でもパニックに陥ることなく、沈着冷静な判断と行動が出来るように、自分を鍛錬し訓練しておく事が大事』 という事です。
 東日本大地震の際、釜石小学校の生徒達が、日頃の真剣な訓練どおりに行動して、ほぼ全員が津波にさらわれず助かったという 所謂 『釜石の奇跡』 が、常日頃の真剣な訓練の大切さを教えてくれました。


下山さんは退職後北海道に定住され、長年の夢であった水彩画を始められました。 そしてめきめきと腕をあげられ5年目から上野の展覧会で連続入賞されるようになりました。 テーマは40年以上一緒に暮らしてこられたお義母さんの日常の姿 です。

  絵画展の最高顧問の先生から 『この作者は20年以上描いて研鑽している。この刺繍をしているオバアチャンの肩から腰にかけてのなだらかな線は、この作者が如何に家族に愛情の目を注いでいるかを余すところなく表現している。』と、最高の賛辞で絶賛されました。『本当は5年しか描いていないんだけどな・・・』と、下山さんは首をすくめながら告白しました。 

今その優れた才能を見込まれ、統合失調症者デイサービスで水彩画教室を開いておられます。『かなり症状の進行した人が水彩画に取組み始めてから見る見る症状が改善して来るんだよ!』 と目を輝かして話される下山さんは、『加齢を超越して、生涯9・9型の理想的リーダーだ! と畏敬の念を新たにしています。
       
【追記
】長年一緒に生活されたおばあちゃんは、20121020日逝去されました。 下山さんご夫妻に見守られて安らかな旅立ちだったと聴きます。 本当に優しかったおばあちゃんのご冥福を心よりお祈り致します。(合掌) 
下は、そのおばあちゃんとの思い出の『追想』です。













【追記 2013年秋の日輝展(東京都美術館:上野)でまたもや上位入選(三上賞)されました。今回は北海道の原野で逞しく生活されている大岸さん愛用のカナダ製 本格的 『スノーシュー』 雪景色ながらお二人の熱い友情が伝わってくる心温まる作品です。 

【追記 201311月中旬、おばあちゃんの1周忌を終えた下山ご夫妻は、久しぶりに長期旅行されました。故郷の群馬桐生から北へ、渡良瀬渓谷から日光へ抜け会津へ、更に東北へ・・・本当に楽しい旅行だったそうです。
しかし、何とその1か月後に、奥様が突然急逝されました。 近くに住まれている旧友の大岸さんは、その頃の下山さんを 『あまりに気落ちしていて、あわれで声がかけられない状態だった。』 と述懐されています。 そういう辛い日々の中で、『もう一度二人の思い出の場所を巡り歩いてみよう!』 と思い立ち、ひとつひとつを号泣しながら辿られました。 そして沢山の涙を流すうちに心の重しが取れていったそうです。
 2014
年の日輝展の作品は、昨年最後の夫婦旅行された時の一番の思い出の場面で、大事な奥様を失った悲しみの中で描かれた『上州長尾根の里』です。下山さんの故郷の稲藁積。奥様が大好な風景だったそうです。 水彩画と思えない程、稲藁の一本一本が光り輝き、下山夫妻が最後に一緒に眺められた鮮やかな思い出が凝縮されており、本当に仲の良かったお二人の暖かい夫婦愛が伝わってきます。上野の日輝展の200点強の出典作品の中でも別格の印象深い作品でした。






















【追記 2015年度日輝展で優秀賞受賞の作品は『軒下』 です。
 通りがかった古い農家の壁に放置され壊れかけた二つの木桶、そこから目が離せなくなって、『よし!今年の出展作品はこれだ!』 と製作を始めたとのことです。  凡人の私は、電話でその話を聞いたとき思わず 『えっ!そんなものが絵になるんですか?』 と口走ってしまいました。しかし東京都美術館で作品を観て、下山さんが立ち止まって目が離せなくなった訳が理解できました。
 味噌樽か漬物樽として『長年黙々と働き続け、役割を十分果たしたものが放つ "輝き、存在感、満足感、安らぎ" 下山さんは、そういったものを感じとり描きたいと思われたのでしょう。身の回りの全てのものに感謝し、感動の目を向けられる下山さんの生き方が伝わってくる作品です。

【追記2016年度日輝展でグランプリ賞の作品は『登り窯への径』です。
 キャンバス60号(100×130cm)の大作です。登り窯そのものではなく、陶器を出し入れしたり、焼き具合を管理するための作業径を題材にされています。主役ではなく、それを支える構成物=作業道を雨露から守るために敷かれた古瓦一枚一枚にまで、賞賛と労りの眼差しが向けられています。『どのような境遇にあろうとも、何らかの役割を果たし、一隅を照らす!その心意気を忘れるな!』という声が伝わってくる入魂の作品です。





【追記2017年度から日輝展は5年間、3月最終週に開催となりました。
その最初の展覧会で下山さんは、いきなり「文部科学大臣賞」受賞です。

 赤煉瓦の建物の前に止められた婦人用自転車に温かく降り注ぐ太陽光と壁の影。白い車体とスポーク一本一本まで磨き上げられた持ち主の愛車を愛する心が見事に表現されています。『これが水彩画なの?』と、思わず驚嘆してしまいました。