2024年2月1日木曜日

6. 42年前の母校初甲子園激闘の感動

母校 日向学院47年卒 小玉訓嗣さんから届いた感動逸話の紹介です。

 毎年沢山の感動を与えてくれる高校野球ですが、青春のエネルギー全て注ぎ込んだ彼らの熱い戦い、爽やかなスポーツマン精神は、42年経過したいま振り返っても、感動を新たにします。まさに『一生感動、一生青春』ですね。

 『高校球児の熱い青春、感動ふたたび』 小玉訓嗣さん 10月3日

私の母校日向学院高校は昭和55年夏と62年春と二回甲子園出場しています。

初出場の55年夏は、1-1で延長戦に入り、13回に2点が入って3-1となり「これは校歌が流れる!同級生に電話して今晩は祝盃をあげるぞ!」 と電話している最中に逆転負けしてしまいました。

しかし、私が在学中は県大会の一回戦突破もおぼつかない弱小チームでしたので、良くここまでなったものだと、当時の三原先生や部員の皆さんに感謝しかありませんでした。・・昔も今も、一応私立中高一貫の進学校なのですが、バレーボールも春高バレーに出場するなど文武両道を実践しています。

大島さん(札幌市在住) 返信コメント

小玉様 初めまして。 私は現在、札幌市に住んでいるのですが、高校まで旭川に住んでいて、旭川大高校出身ではないのですが、旭川の高校で野球をしておりました。

1980年のその試合で、旭川大高校野球部OBから聴いた後日談があり紹介させて戴きます。

1980年夏、旭川大―日向学院戦サヨナラの場面で、旭川大の鈴木貴久さんは、タイミング的にはアウトのところを激しいスライディングでサヨナラのホームインしています。後に近鉄時代「北海の荒熊」と呼ばれた片鱗がこのとき発揮されました。・・日向学院の捕手は、突き飛ばされて骨折するほどの激しいプレーで落球して逆転負けです。試合後の握手は日向学院ナイン全員から拒否されました。結果的に日向学院の捕手に怪我をさせたことは事実なので、その日の夜に旭川大の部長先生と当時2年生の鈴木貴久さんは、日向学院の宿舎に謝罪に行きましたが、日向学院の関係者から 「帰れ!」 と門前払い・・・

それから5年後、電々北海道を経て近鉄バファローズに入団した鈴木貴久さんでしたが、当時の近鉄キャンプは宮崎県日向市でした。近鉄ナインの中で新人の鈴木貴久さんだけがフリーバッティングをしたりノックをしてる時に誰よりも声援が大きく、鈴木貴久さんが 「何でこんなに俺の声援が大きいんだ?」 と首を傾げながら練習していました。するとスタンドから 「お~い 鈴木!」 と呼ばれたので、振り返ると当時の怪我をさせた捕手を含めた数名の当時の日向学院ナインが手を振って、鈴木貴久さんの激励の為にわざわざ球場に来てくれていました。

鈴木貴久さんは、それに感激し、当時の捕手に謝罪し、それから近鉄が毎年キャンプで日向に行く度に、当時の日向学院のナインと夜に一席を設けて交流していたそうです。

その鈴木貴久さんは、気管支炎で40歳前後で急逝されました。 旭川大学高校も来年、付属大学の旭川大学が私学から旭川市立に移管され旭川市立大学になるのに伴い、旭川大学付属高校と経営が分離される為に来年 「旭川志峯 (あさひかわしほう) として、2023年4月から校名が変わります。

私は小学生の時に 「旭川大と対戦した日向学院」 として、毎年宮崎大会の勝ち上がりを気にしておりました。 因みに私の母校は1964年夏、同じ宮崎県の宮崎商業に負けております。水谷実雄さんがエースで、当時はビデオが無かったのですが、試合を録音したカセットテープを学校側が保管していたので実況を聞いたことはあります。 また甲子園に日向学院さんが出場出来るよう、御活躍を祈念しております。

投稿者 小玉訓嗣氏 返信コメント

 大島様、貴重なエピソードをありがとうございます。思わず涙が出てしまいました。(歳を取ると涙腺が緩くなります・・) 試合終了後すぐに、謝罪に行かれたのに追い返すなんて、何という後輩たちだ! と思っていたら、その後のキャンプ地での話に 「さすが我が日向学院生!」 と思わず唸りました。 スポーツマンシップを貫いた両校に 「あっぱれ!」 をあげたいですね。

 本当に素晴らしいお話をありがとうございました。


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