2024年8月5日月曜日

3. 日本国民への遺言 (山田さん ➀)

 私が尊敬する山田治男さんは、令和2年4月6日 97歳で永眠されました
 山田さんに最初にお会いしたのは47年前です。販売支店長から千葉副所長として赴任された山田さんが着任早々取り組まれたのは、所員500名との個別面談でした。毎日17時過ぎから3~4時間、一人20~30分の面談を約4か月間続けられました。当時人見知りだった私が『500人と話すのは大変でしょうね』と尋ねると、『所員は僕の息子のようなものだからね。みんなと話すのが楽しみだよ。』『ドアを開けて挨拶した瞬間に、ほぼその人が分かるよ』と、にこやかに話されたのが今でも印象に残っています。
  35年前に退職されたあと「小学生登校班の見守り隊」を皮切りに、市原市青葉台地区の福祉活動を牽引され、特に一人暮らしのお年寄りの交流・介護支援の福祉活動は、沢山の協力支援者を得て発展しています。そして特定非営利法人『市原市青葉台さわやかネットワーク』として、保健・医療・福祉/社会教育/まちづくり/子どもの健全育成等の幅広い活動 (=赤ちゃんからお年寄りまでいきいき!) が全国に紹介され、老人福祉のモデルケースとして全国から見学者が訪れるようになりました。
 その山田さんが、終戦後70年訴えてきた事は日本人のあり方」です。

かって僕はシベリアに3年間拘束され、人間生活とは到底思えない極限のシベリア抑留生活 (奴隷生活)を体験した。日本が忠実に守ってきた日ソ相互不可侵条約を、ソ連は日本の敗戦直前に一方的に条約を破り宣戦布告もなしに侵略し、60万人をシベリアへ強制労働力として連れ去った。 
先年中国の南シナ海諸島の占拠を国際司法は 『違法』と判決』したが、中国は『その判決は紙くずだ!』 とあざ笑った。これが世界の国が考える条約、国際法への認識で、いざとなったら紙切れで何の頼りにもならないと思っていなければならない。
 シベリアの冬は零下30度以下で、まともな食事も与えられない劣悪な奴隷生活で約6万人の日本人が死亡した。死者への尊厳は踏みにじられ、まるで餓死した家畜のような粗末な扱いだった。あの思いだすのも嫌な悲惨な境遇に再び日本人が陥らない為にはどうしたらよいか・・正しいことが当たり前に考え実行される日本にするにはどうしたらよいか・・をいつも考えて訴えてきた。 
しかし我が国民は、北朝鮮に拉致された100名以上の奪還や北朝鮮の核ミサイルの危機に殆どが関心が薄く、中国の日本併呑工作 (=日本を2050年までにチベット、ウイグル、内モンゴル自治区と同じ“日本自治区” にする陰謀の進行) 全く危機意識がない。
 野党もメディアもこの日本をどうしようというのか。また国会議員・官公庁や企業の不祥事が頻発する現代日本を見ていると、国民は大事なこの日本を本気で守り発展させる気があるのか?  僕は90歳を超えたが、このままでは死ぬに死にきれない』 と語調が強くなりました。 

 そして『平和ボケした大人はあてにできない』 と、退職後から現在も続けられているのが『新時代を担う子供たちへ=青葉台小学校での “シベリア抑留体験の語り部』です。

この語り部活動は30年以上継続されており、昨年2月には何と千葉県日教組教研集会で300人の教職組合員に『平和教育』 として講演されました。 恐らく彼らが意図した講話とは正反対の内容・結論だったと思いますが、全員静かに傾聴し、後日地元小学校教員から 『誰がこの国を守るのか と考えさせられました』と感謝されたそうです。

 今回は、その山田さんの講演後記 (H29出光OB誌より) を紹介します。

『この国を守るのは誰か』  (山田治男)

私は昭和20年1月に関東軍に入隊、終戦直前の8月中旬になって突然参戦してきたソ連軍と交戦、数日後に敗戦となり捕虜となりシベリアに抑留されました。そして平和の尊さについてシベリア抑留生活の体験を語り部として語り継いでいます。

 厳しい世界情勢の中、いつしか70年間も続いた平和の尊さを忘れた平和ボケの日本人が多くなっています。

 このため要請があれば進んで語り部として、毎年地元の青葉台小学校や姉崎高校、市内公民館、先には自衛隊習志野空挺部隊や、去る2月11日建国記念日に千葉県教職員組合青年教研集会 (千葉県教育会館大ホール・300名) で『平和教育』について講話しました。

 その内容は、『ソ連軍が日ソ不可侵条約を無視して、一方的に参戦したこと、ジュネーブ条約を無視した60万人の捕虜・強制労働生活の実態』 です。

体感温度マイナス30度以下の極寒の重労働、粗末な食料や民主化と称する共産主義教育、東京ダモイ(帰国)後のソ連宣伝を目的とした洗脳・日本人同士の論争等・・・古代の奴隷生活と同じ悲惨で屈辱的な捕虜生活は、戦争・敗戦によるものです。 このような戦争を回避し、平和維持の為の参考例として欧州の小国スイスについて話しました。

 スイスは、ドイツ、フランス、イタリア、ロシアなどの大国に囲まれ、人口700万人、面積は九州とほぼ同じです。過去には強国間の戦争に巻き込まれた反省から、永世中立国として世界中に宣言しています。 しかし日本のように平和を憲法9条任せや人任せにはしません。 ①男子は全員兵役義務があり、②主に精密兵器を輸出し、③世界各国の機構本部や赤十字・オリンピック本部等を設置し、各国首脳や経済要人が結集・交流するダボス会議を毎年開催しています。

 そしてスイス国民には、『自国を守るのは自分達だ』 という国防教育が徹底され、また国旗を大切にし、公共機関はもちろん、各自宅にも常に国旗を掲げています。このように日頃から精力的に努力し平和を自らの手で守っているのです。  若者への応援歌: 4. スイスと ウイリアム・テルに学ぶ

 この例を発表し『我が国を守るのは、私達日本人一人ひとりである』 との誇りと自覚を促しました。

 このような内容を話したのは、『入学式や卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱を拒む先生の多い日教組教研集会』 での講演会だったからです。会場の正面には『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンが掲げてありました。そのような異様な会場でしたが、全員静かに聴いて、最後は花束を頂戴して会場を後にしました。彼らも本当の戦争、戦争捕虜の恐ろしさを知り、口先で平和を唱えれば平和が来ると信じていることに少しは疑問を持ってくれたと思います。

 後日、地元青葉台小学校の参加者から、『誰がこの国を守るのか を考えさせられました』 と、好意的な感想を貰いました。
戦後 70年以上経過し、戦争体験者も少なくなっていますので、私は体力の続く限り、語り部として、要請があればどこへでも出かけて語り継いでいきたいと思っています。

 最後に『日本を取り囲んでいる 中国、ロシア、アメリカは、過去どういう残虐な大量殺戮を行って成り立った国家、民族であるか』の資料を提示します。 
 習近平主席が『中国5000年の偉大な歴史』豪語しますが、その実態は『歴代の王朝が権力維持の為に数千万人を粛清・虐殺した血塗られた歴史』で、近年 共産主義政権になり、その規模・残虐性は人類史上類を見ません。
 かって文化革命時の毛沢東は、『一人を殺したら殺人犯だが、一千万人を殺せば英雄となる』 と凄まじい考えを述べています。鄧小平は、毛沢東独裁の反省から集団指導体制に改革しましたが、今回の全人代会議で習近平は、毛沢東体制への回帰方針を明確にしました。
 
  今年の中国全国人民代表会議で、習近平の終身主席への道を賛成2970 反対0 と全会一致で採択し反対派を封殺しました。反対は絶対に許さない これが 『中華民共和国』の正体です。そして『人類最悪の4000万人の大量殺戮を行った毛沢東を目指し、終身独裁を憲法に書込ませた習近平』は、実質 ”皇帝” となりました。そういう共産党軍事独裁中国の脅威 を前にした私達日本人は、どう国民・国土を守り、平和な日本を将来も維持し発展させていくか を、国民一人一人が自分の切実な問題として真剣に考えるべき時です。
【 世界の残虐な大量殺戮 上位20 】
(出典:『殺戮の世界史:人類が犯した100の大罪』 マシュー・ホワイト) 
順位
事 件 名 (発生年)
死者数
第二次世界大戦 (193945
6600万人
チンギスハン侵略戦争 (1206~27)
4000万人
毛沢東:大躍進・文化大革命 (1949~76)
4000万人
英領インドの飢饉 (1820世紀)
2700万人
明王朝の滅亡 (1635~62)
2500万人
太平天国の乱 (185064
2000万人
スターリン大粛清 (192853
2000万人
中東の奴隷貿易 (7~19世紀)
1850万人
ティムール (13701405
1700万人
10
大西洋の奴隷貿易 (1452~1807)
1600万人
11
アメリカの原住民虐殺 {1492以降}
1500万人
12
第一次世界大戦 {191418}
1500万人
13
安禄山の乱 {75563}
1300万人
14
新王朝 (9~24
1000万人
14
コンゴ自由国 (18851908
1000万人
16
ロシア革命の内戦 (191820
900万人
17
三十年戦争 (161848
750万人
18
元王朝の滅亡 (134070
750万人
19
西ローマ帝国の滅亡 (395455
700万人
20
中国の内戦  192737194549
700万人
 ヒットラーのユダヤ人虐殺は合計575万人、この表では20位にも入りません。
 なお、ホワイト氏が指摘する日本の虐殺は島原の乱(37,000人)のみで比較にもなりません。東西軍合計20万人が戦った関ヶ原合戦の死者はこれ以下だったとしています。 私達日本人は世界の中で類を見ない、最も戦争・虐殺に縁のなかった平和な民族だと言えるでしょう。(毛沢東も周恩来も鄧小平も話題にしたこともない『南京虐殺20万人』 が、日本人にできる訳がなく、天安門事件以降の民主化運動弾圧から目を眩ます為の捏造事件です。 )

 しかし私達日本人が考える平和常識は、世界の常識ではあり得ません。
 山田さんのシベリア抑留は、上表7番目のスターリン大虐殺2,000万人の中の出来事です。 
 その更に上を行く中国は、権力体制を確立し維持するためには、何千万人を平然と虐殺する価値観・歴史を持った民族であることを片時も忘れてはなりません。
 左の図は1949年中華人民共和国が独立宣言した時の版図と周辺国です。当時『内モンゴル、チベット、ウイグル』 は独立国で、世界が朝鮮戦争に注目している間隙をぬって侵略し併合しました。そして大量の中国人を送り込み、悪逆な民族浄化・宗教弾圧を進めています。 
 かって日本が国家予算をつぎ込んでインフラ・教育等の充実を図った朝鮮併合とは真逆の侵略・圧政です。

 そして留まる事を知らない中国の覇権野望は日本へ、太平洋へと向かっています。
 平成7年、当時の李鵬首相は、『日本という国は40年後には無くなってしまうかもわからぬ』と発言しました。その後、 日本国が『日本自治区、東海省 と記述された"2050年極東マップ”』が、中国国内で拡散されています。(左図)
 

 私達日本人は、『歴代中国体制の中で、現共産主義政権 (毛沢東⇒習金平)は史上最大の危険な独裁体制だ』という事をしっかり認識して、山田さんの魂の叫びを心に刻み対処していく事が必要です。そして、国民一人ひとりが自分の最重要な生存の問題として、日本の安全保障・平和を真剣考える必要があります。

3. 出光佐三店主を語る(山田さん➁)

 令和2年(2020)46日、山田治男さんが永眠されました。
奇しくも山田さんがこよなく敬愛された出光佐三店主と同じ享年97歳(数え)でした。心から感謝と哀悼の意を表します。 
山田さんは、生涯を通じて後輩・若者を育てられ、地域社会の福祉に尽力され、近年は『戦争語り部』として、平和ボケした現代日本人に警鐘を鳴らし続けてこられた、本当に偉大な生涯でした。この『シベリア抑留体験』、そして3年後復員して舞鶴港に着いたとき、夢にも思わなかった出光との再会、そして『佐三店主から直接受けた指導の数々』・・この二つを後輩・若者たちに伝えきることが山田さんの晩年の使命感でした。

世界中を震撼させた新型コロナは、日本でも深刻な感染爆発・医療崩壊を引き起こしました。国連常任理事国ロシアはまた2年前、世界平和の大原則である国連憲章を自ら破りウクライナ侵略戦争を開始しました。この緊急事態にこそ全国民が一丸となって耐え忍び、乗り切らなければならない時です。その後 中東ガザ地区でもハマスとイスラエルの悲惨な戦争にイランも加わり大戦争への危機が迫っています。一方東アジアでは軍事力を急速に高める中国が、米国の混乱・分断に乗じて台湾併合しようと虎視眈々です。こういう時に、私達日本人が是非参考にしたい戦後のエピソードを紹介します。
 かって今とは比べられない悲惨な非常事態がありました。戦没者310万人、日本中が焼け野原となり、海外戦地からの復員兵が満溢れ、夜露をしのぐ家もなく、食べるものもない悲惨な非常事態でした。しかし先人達は歯を食いしばって乗切り、戦後の繁栄を築き上げました。
終戦後、出光佐三店主​​会社資産を全て失い無一文となりながらも、​800人の社員を一人も馘首せず、糊口をしのぐ事業を次々と立ち上げて社員の生活を守り抜きました
『焼け野原の中でどうやって暮らしていこうか?』と思いながらシベリアから復員してきた山田さんもその800人の中の一人でした。舞鶴港で思ってもみなかった出光に​​迎えられた時の山田さんの感激!・・この頃を述懐された文は何回読んでも、もらい泣きしてしまいます。日本人なら、苦しい時こそ歯を食いしばり、助け合って乗り切らなければ・・と改めて思います。私達現代人は、物質的な繁栄はあっても誠実・堅実な生き方を見失っています。今こそ原点に立ち返える時です。 
 終戦後、出光佐三氏が、800人の社員を一人も馘首せず守り抜いたこと。 終戦3日後には、打ちひしがれている社員に向け、”日本人に帰れ! 愚痴を言うな。2600年の日本の歴史を思い返せ。そして建設にかかれ!” と訓示されています。 更に自社々員にとどまらず、『イラン石油事件』 のように、日本の復興・国民の幸せの為にとことん働こうとされた経営姿勢。 またそのトップの生き様に心を熱くして、不屈の闘志を燃やして立上がり現代の豊かな日本を築きあげてこられた山田さんら先人の姿を手本にする』しか日本再建の道はないと思います。
 今回は、平成21年の出光OB誌の山田さん随想 『店主を語る』 を紹介します。いつ読んでも何回読んでも涙なしでは読めない山田さんの思いのこもった文章が、日本中の働く人々、とりわけ経営者やマネージメントの方々の心を打ち、参考にして戴ければこの上ない幸いです。



『出光佐三店主を語る』 (平成21年 山田治男さん記 ・・当時84歳)

OB誌の編集委員から、店主との思い出を語って欲しいという依頼がありました。私も高齢になってきたので、これが最後の機会になるかもしれないと思っています。
私は昭和18年末に出光に入社し、20年1月に陸軍に入隊、関東軍の満州国境警備隊に配属、7か月後の終戦とともにソ連のシベリア抑留となり、昭和23年6月に復員しました。後で知った事ですが、この抑留期間中も出光は社員として扱っていてくれました。 
この間、出光勤務は僅か1年そこそこでしたが、爆撃で日本中が廃墟となった中で、出光の会社が残っているとは思いませんでした。もし残っていても、勤務年数が少なく、すでに解雇されているものと覚悟して舞鶴港の土を踏みました。 そこで桟橋に出光の旗を見つけ、出張所長の東堂さんの出迎えを受け、わが目を疑いました。 そして会社の状況を聴き、また未帰還社員の確認情報の収集に努力されているのを目の当たりにして、心底から感激し驚いたことを、今でも鮮明に覚ています。

「一旦郷里にかえり、近くの四日市出張所と連絡を取るように」 と指示を受けました。 1か月後上京し、奇跡的に焼け残った歌舞伎座横の出光本社を訪問しました。 
店主より、『ご苦労さんでした。みんな日本の復興と会社の再建に努力しているので、君も頑張ってくれたまえ。』 と温かいお言葉を戴き感激いたしましたことは、生涯忘れる事はできません。
今の日本、百年に一度の大不況、未曽有のデフレ20年と大騒ぎしています。しかし今とは比較にならない終戦時の混乱の中で、店主は私達に『何を騒いでおるのか、出光唯一の資本は社員である。 会社が無一文になっても解雇はならぬ。 僕は乞食になっても社員とともにある!これが出光経営の根本理念だ!』と宣言された。 あの気概を、今の世の中の経営者の皆さんは、どれだけお持ちだろうかと、寂しい思いがしています。

もう一つ話しておきたいのは、昭和38年11月におきた石油連盟脱退です。
出光は、昭和32年に当時国内最大の徳山製油所を作り、同38年に千葉製油所が完成し国内供給体制は完備しました。  ところが石油業法により各社の生産枠はがんじがらめでした。この年の冬は例年にない大雪となり、灯油不足で国民が困窮していましたが、国も石油業界も既得権益最優先で何ら有効な手を打たず、出光は完成したばかりの千葉製油所の稼働を50%に制限されたままです。『国民の生活困窮を無視したこんなバカな法があるか!』 と店主は石油連盟脱退を決断されます。
丁度 本社会議室で店主を中心に、出光計助副社長、加藤正常務、営業幹部が最終協議を行っている最中でしたが、その席に私も呼ばれました。この時私は、たまたま別件で広島から本社に出張しておりました。
そしていきなり店主から『君たち営業の第一線は、現物が不足して消費者に迷惑をかけているのではないか』と声をかけられました。まさにその通りだったのですが、国や石油業界全体を敵に回すことになるという幹部たちの異様な緊迫した空気から返答に窮しました。そういう私の様子を見て『この通り国民の役に立とうとしても出来ず、第一線は困っている!』と言われ早速行動されました。弘永次長に需要家台帳を持参させ、植村石油審議会々長に面会を求め、急遽交渉に向かわれました。それは 『たとえ政府や業界を敵に回しても、出光は国民と消費者の為に働くのだ』という気迫が言動に満ちており、まさに『士魂商才そのもの!』と感激いたしました。

店主は常に若い社員の育成に気を配っておられました。軽井沢での支店長会議では、何時でも店主が質問されるのは、社員の育成についてでした。そして店主は君たちの使命は、世の中 人の為に真に働いて、人々から尊敬される存在になることだ。これを法律上の定款とは別に、これを精神上の第二の定款として忘れず実行せよ。』 と、いつも訓示されました。
その背景には、かって店主が神戸高商(現神戸大)卒業後、福岡宗像の実家が没落・困窮した時、救いの手を差し伸べ、出光商会立ち上げ後も窮地に陥るたびに支援し『出光君となら一緒に乞食をしても良い』と物心両面で支えた 日田重太郎氏 の存在があったと思います。
 
店主は昭和56年3月7日、97歳で天寿を全うされました。 
昭和天皇陛下は、『出光佐三逝く』 として

  国の為 一世貫き 尽くしたる  きみまた去りぬ  寂しと思う 
と詠まれました。 このような事は一般民間人としては大変少ない事であり、私達の誇りであります。

 最後になりますが、激動する国際・国内環境の中で、多くの会社がいつも存亡の危機にさらされ、各企業は生き抜くために経営統合や合併を余儀なくされています。しかしどのような業界・業種・企業であろうとも、店主が生涯をかけて示された精神、
『世の中 人の為に真に働いて、人々から尊敬される存在になること』を実践していくことを忘れてはならないと思います。その延長線上にこそ、個々人の成長も、企業・日本の永続的発展もあります。

3. 出光佐三氏に学ぼう!

  2012年夏に発刊された 『海賊と呼ばれた男(出光佐三)』 が、今なお沢山の読者を獲得し、若者から 『こういう経営者のいる会社で働きたい』 と人気が続いています。
その一方で、2015年の東芝の粉飾決算~東芝解体、三井不動産・旭化成建材のマンション杭施工不良、2017年神戸製鋼・東レのデータ改竄、日産の無資格検査員問題、更には新幹線の台車亀裂放置走行・制作時の底板肉厚不足等々、目を覆いたくなる低次元の不祥事件が続いています。 『安全・安心・高品質の日本は、どこに行ってしまったのか? これからの日本は大丈夫か?』 と、全国民が日本の現状に危機感を感じています。 

  2014年8月、32年間も虚偽の慰安婦報道を続けてきた朝日新聞が誤報であったことを認めました。 しかし『朝日新聞の長期間の誤報道で、日本国や国民の国際的名誉を著しく損なわれた』事には一片の謝罪もなく、ついにサンフランシスコに慰安婦像が建立される等、世界中にその悪影響が拡散しています。 加えて昨年の森友・加計学園の根拠・証拠のない安倍批判報道等・・・ 良識・良心不在の報道としか言えません。 朝日新聞社は名門大学卒のインテリ社員が多く目的のためには嘘の情報でも構わない。』という現実無視の犯罪的報道体質がはびこっています。(参照:『徹底検証=森友・加計事件』(小川栄太郎)、『逆説の日本史』(井沢元彦 これは朝日新聞社が非難する戦前の軍部粉飾報道や、中国・北朝鮮・韓国の反日思想誘導と全く同じです

 こういった非常識で醜い諸企業の姿が常態化している事が、『"海賊と呼ばれた男” のような会社で働きたい』 という若者の声の背景にあると思います。  こういう純粋で瑞々しい若者に応えるべく、私達は勇気を持って、しっかりと襟を正すべきだと思います。
ところで、かの出光佐三氏は、会社の存在意義、採用・若手育成を、どう考え対処されたでしょうか? 戦後の大変な苦境を乗切った後、1957年(S32)に 初めて徳山製油所を建設し、その運転技術者として、都会の裕福に育ったオボッチャンではなく地方の工業高校卒、また貧しくて進学できない優秀な中学卒を大量に採用し、『出光学校』 で2年間高等教育を与え、希望者には定時制高校に通わせました その後、1963年千葉、1970年兵庫、1973年北海道、1975年愛知と矢継ぎ早に新製油所を建設しましたが、この中卒・工高卒者が中心となって建設し、運転を立ち上げました。
また1966年、当時世界一のマンモスタンカー出光丸(21万t 竣工披露では、これからの日本を背負う若い人達に世界最高のものを見せてやりたい!』 と、全国津々浦々から一万五千名もの中学生を招待し見学させました。
『僕の事業目的は、社員が真に働く姿を社会に示し、人々から尊重される人間を作る事だ。 石油業はその手段に過ぎない。』 
『卒業証書を捨てよ。新人に大事なのは仕事の基本をしっかり学ぶ事であり学歴は関係ない。 だから僕は丁稚奉公からスタートしたんだ。』   (出光佐三氏)
しかしいまの世の中はコスト・人件費削減最優先で、派遣や中途採用多用で新規採用を極力抑え、即戦力・早期育成の掛声のもと若手社員を追い立てています。 また全国3千人しかいない高専卒の就職希望者なら誰でも良いと、仕事内容と全く無関係の建築・土木・都市工学等までプラント運転員として採用し、高専卒割合を80%以上としている企業があります。 その裏返しとして優秀で志が高く人物的には魅力的な学生が多い全国13万人(高専卒の40倍以上) の工高卒は採用を避けています。  こういう企業姿勢で、工業高校によっては学科閉鎖や他校との合併に追い込まれ、深刻な 『日本の ものづくり衰退、震災復興・東京オリンピック需要の中での土建業種後継者不足』 に拍車をかけています。 従って近視眼的な学歴偏重企業は社会的責任を果たしているとは言えません。
恐ろしいのは、短期的には頭数を揃え辻褄を合わせても、志の低いやる気のない新人を大量採用して中々期待する戦力に成長せず、技術レベルやモチベーション維持が困難となり、 『S40年代後半の技術力不足による石油コンビナート大火災事故多発のような危機的状況』 に陥る事が懸念される事です。 さらには 『他社の高専卒同期は課長・係長になったのに一生交替勤務か・・・』 と悩む中堅社員が増え、モチベーション低下で企業風土が一変し、やがて企業存続が難しくなる事態になることが予想されます。

『鶏口となるも牛後となるなかれ』 という格言があります。 『牛後ばかりを採用し、牛後の職場にしていないか?』 という厳しい自省と視点が人事部門には不可欠です。 
 
石油・化学・電力・鉄鋼・ガス等の製造基幹産業では、交替勤務業務は全て工業高校卒です。これは学歴偏重からではなく複雑・高度化されたプラントを安全に運転し、想定外の非定常操作を含めたあらゆる状態への対応が出来る一人前の運転員育成には、ベテランの指導を受けながら最低10~20年間の習熟訓練・育成期間が不可欠 だからです。 かって高度成長期に初歩的ミスによる大火災・爆発事故が頻発したのは、この育成期間が不足し未熟な若い運転員が大半だったからであり、習熟とともに重大事故は減少しました。 こういう歴史から、交替勤務業務は、製造業に不可欠の基幹業務であり、約40年間を交替勤務に従事する事に使命感と誇りを持って取組む人材が必要で、工高卒業生が最適任である。 という認識が、世の中では一般的であり、こういう社会的ニーズに基づき全国の工業高校数・学生数は決定されています。 大事なのは、こういう現場ニーズや国内教育環境を熟知した者が、企業の戦略的採用・育成・人事を担当しているかどうかです。

 バブル崩壊から約20年が経過しました。
各社とも世代交代の真最中で、高度成長期最後の戦士達が大量に退場していく中、20年前のデフレ不況の就職超氷河期に就職し頑張ってきた優秀な若者が今や各社の中心的存在となり、新たな時代が到来しました。 そこで今回は、この40歳前後の中心的社員が、20年前にどんな若者であったかを紹介したいと思います。 これから社会人となる人、入社直後の若い人は 『目指す姿』 として是非参考にしてほしいと思います。













  平成一桁後半当時、各社ともバブル狂乱で抱えた不良債権で経営危機に陥り、中でも拓銀や山一証券等の大手金融会社が相次いで倒産して、銀行の貸渋りで経済界は大混乱し、殆どの会社は新卒採用中止している状況でした。前出の出光佐三氏が生前、Speculation (投機)は絶対やるな!』 と戒め、危惧していた未曾有の経済危機が到来した訳です。

 こういう中で20年後の大量世代交代到来を見越して、この会社は毎年20~30人の高専卒採用を継続していました。 超氷河期の時代背景から、みんな各校トップクラスの優秀な新人達で、向上心も使命感も高く、短期間で一人前に成長していきました。
また職場の先輩達は育成意欲が高く、緻密な修得課題表を与えて、毎日口頭試問し実技訓練を繰返し、『星取り表 掲示板』 で修得進捗状況が職場全員にリアルタイムに一目で分かるようにし、 また上司・先輩は多忙な業務の合間にも修得課題レポートを確認し、コメントを記入して、木目細かくフォロー・激励していました。
   ある程度の実力が身に付くと、『この操作を一人でやってこい!』 と、重要な操作を次々と任せ自信をつけさせました。 しかし指示後 『手順通り正しい操作を間違えないでやっているか?』 と、ハラハラしながら物陰から見守っていました。 若手もまた、その先輩達の思いをヒシヒシと感じ頑張りました。 先輩達は仕事以外でも独身寮に頻繁に顔を出し、町に繰り出して痛飲したり、町内の草刈や祭りに参加したりと、公私にわたって面倒を見ました。

こういう指導をされた若手は、当然ながら成長著しく、画期的な創意工夫・改善を行い、当時取組んでいたTPM活動で、日本プラントメンテナンス協会上席コンサルタントの大島名誉教授(東工大)や佐山名誉教授(岡山大)の前でも堂々と改善事例を発表し、先生方から 『入社2~3年でこんな素晴らしい仕事をしているのか?』 と絶賛されるのが常でした。


こういう優秀な若手と面倒見の良い先輩が一体化した工場に対して、前出の大島・佐山名誉教授からは 『世界一の精鋭集団だ!』 と絶賛されました。 しかし残念ながら重質油分解装置がなかった為に競争力が低く、2003年工場閉鎖となり全所員は他工場に配置転換となりました。
入社数年で愛する職場と仲間を失い、見ず知らずの人間集団の中で新しい仕事をゼロから覚える・・・想像を絶する苦労があったと思います。  それから10年、今や新たな職場で高い信頼を得、早くもリーダー格・中心的存在となって活躍しています。
 まさに 『艱難辛苦、汝を玉にす』 の言葉通りです。
先日、その一人から以下の便りがありました。

世代交代は、私の職場でも現在大きな課題となっています。
この1、2年でベテラン社員は殆どいなくなります。
60歳代勤務延長組やキャリア採用組に頼らざるを得ない状況で若手育成に苦労しています。 最近の若者は、育ってきた環境や価値観の違いが大きく、思うように成長していないのが実態ではないかと思います。』 

 の危惧は、今私が大学で感じている 『向上心・覇気のない若者』 と一致します。
いま職場の中核で信頼厚い平成一桁入社 中堅社員の若い頃と、今の若者と何が違うのか?  最大の違いは 『ハングリー精神』 です。 そして 『少数化で多忙すぎる先輩は自分の事で精一杯で、若手を育成指導する余裕もマインドも薄くなってきている』 という現実です。

平成一桁世代は一流大学を出ても就職できない超氷河期の真只中だったので、文武両道に優れたトップクラスの高専卒が全国区で採用でき、その後輩も 『あの先輩が選んだ会社なら間違いない』 、『早く世の中に役立つ人間になりたい!』 と目的意識、使命感がしっかりした優秀な若者が入社してきました。
 20年続いたと言われるデフレ不況の中で高専の学生意識は変化しました。全国約1万人の向学心の高い学生の約70%が国立大学進学(大学3年編入)するようになり、就職組は30%(1学年3千人)程度となりました。  その中には経済的理由で進学できなかった優秀な学生もいますが、勉学意欲が低く自由気儘な5年間を送った学生も少なくありません。 もしこういう学生が大量入社すると育成に大変な苦労をすることでしょうし、将来の経営を危うくする事が危惧されます。

今の若者は家庭でも学校でも過保護に育てられて、変化やプレッシャーに弱く、自立心も向上心も進取の気風も低い傾向があると言われます。 携帯・スマホ・ゲームの刹那的な楽しみに熱中して、人生の目的意識を持たず、他者との交流、コミュニケーションが苦手で、自分の狭い世界に閉じこもり満足する傾向が強くなっています。
こういう若者に接する先輩が 『早期育成』 の掛声だけで知識やスキルを詰込もうとしたり意識改革しようとしても、『馬耳東風、暖簾に腕押し、豆腐に鎹・・・』 。 大学でも同じで、90分1コマのキャリア教育では如何ともしがたく途方に暮れる日々です。 恐らく前出の40歳中堅社員も同じ思いで若手育成に悩んでいるのだと思います。
これは根本的には、小学・中学時代の家庭教育や学校教育で、人生目的・目標意識を育む徳育が等閑にされ、根本的に不足している事に起因していると思います。 本当はそこからやり直さないと解決できない大きな問題です。 

しかし、だからと言って目の前の若者の問題を放置するわけにもいきません。 
 大事なのは『君はこれから10年後、20年後どうなっていたいのか? 会社40年間・人生80年間で何を目的として、何を目標に、どう生きていくのだ?』 と、常に問いかけて夫々の人生のビジョンを考えさせ、目的・目標を持たせる事が一番大事な事ではないでしょうか? 賽の河原の石積みのような作業ですが、『何時かは、その大事さに気付くだろう』 と信じながら、今日も学生に自分の将来ビジョンの大事さを問いかけています。
 これは、かの学歴偏重企業の若手社員にも同じです。 その会社の採用・育成方針は根本的に間違っていますが、入社させたからには社員は大事な家族です。 崇高な理念に向かって徹底的に愛情鍛錬し、また若手社員自身が、入社したからには、自分自身の輝かしい将来ビジョンを描き、その実現に向けて地道に努力していくのみ!』 と開き直り、突き進むしかありません。 まさに出光佐三氏が愛した仙厓和尚の禅画 『布袋図』 の教えの通りです。
  ”目先の指だけを見るな。 指さす先にある月(目指す姿)を見よ!”