2024年8月6日火曜日

3. 日本の心を学びなさい(麻生さん)

 令和5年1220日、元店主室長 麻生和正さんが旅立たれました。94歳でした。「あの素晴らしい方がついに・・」と深い悲しみに襲われました。


麻生さんは昭和28年に入社され、30歳の頃から約20年間、緑内障で殆ど視力を失った出光佐三店主の目となり手足となり 議論相手となって支えられました。そして昭和55年に経理部長、その後常務、専務となられて経営の中枢を担ってこられました。

 麻生さんが遠い遥かな存在となられても、私達の胸には『いつも私達の未熟な議論に、にこやかに目を細めて聴いて頂き、穏やかに温かく包み込みながら、日本人としての在り方を教えて頂いたお姿」を決して忘れることはありません。 深く感謝し 心から ご冥福をお祈り致します(合掌)

出光興産は、出光佐三氏が明治44年に門司で開業しました。日清・日露戦争を経て、日本が世界3大強国として列し発展した時代です。しかし開業以来大変な苦労をされ、ようやく大陸への発展を遂げて間もなくの終戦で事業の殆どを失いました。その苦労された様子は、小説・映画『海賊と呼ばれた男』でご存知の方が多いと思います。出光では出光佐三氏の事を 創業時の出光商会店主にちなみ今でも『店主』と呼んでいます。

出光佐三氏は『100年に一度の偉人』と言われる程の傑物ですが、中でも次の二つはいつも感動し、日本人としてのあるべき姿を教えられます。

終戦で会社資産を全て失いながら、復員者800人を含む従業員1000人を一人も解雇せず、終戦3日後には『愚痴を言うな、世界無比の三千年の歴史を見直せ、そして建設にかかれ!』と檄を飛ばし、ラジオ修理・タンク底油回収等色々な仕事に取組み乗切られたこと

英海軍封鎖下のイラン石油を、昭和28年5月世界で初めて輸入して世界中を驚かせ、敗戦に打ちひしがれた日本人が勇気と誇りを取り戻した『日章丸事件』



 戦後生まれの私は、高度成長絶頂期の昭和47年に入社しました。沖縄返還の年ですが、ベトナム戦争は泥沼化、嘉手納基地からB52が頻繁に出撃し、国内では水俣病や大気汚染などの公害が大問題になっている時代です。私は政府や企業に対して批判的で、反体制的な心情を持ちながらの就職でした。
 『数年努めて社会の実態を学んだら退職し、世の中の矛盾を正す役割を担いたい』  などと思いながら仕事を続けていました。

 しかし縁あって結婚、家族で暮らす幸せを味わっていた29歳の時に本社人事部へ転勤、出光の中堅社員教育=『店主室教育』を受けることになりました。この店主室教育は、昭和45年の中堅社員教育で受講生に接した佐三氏が『彼らは日本人の心を失っている!』と危惧され『僕が直接教育するから、全国の30歳前後の中核となっている社員を本社に集めよ!』と始まりました。所謂企業教育(実務、経営学等)とは全く異なり、そのテーマは『日本人にかえれ!』でした。当初教育期間は一年の予定だったらしいのですが、『思ったよりしっかりした日本人に育っている』 という事で半年に短縮され、その後40日となりました。

左の写真は出光旧本社8階店主室入り口にある宗像大社の神棚です。宗像大社は国民の祖神である「天照大御神の娘3女神」を祭ってあります。その御神勅は「天孫を助け奉りて 天孫に祭かれよ」(皇室を助け 皇室に祭られなさい)=皇室と国民の在り方を示されている国民の祖神です。佐三氏生まれ故郷の福岡県宗像郡にあり、佐三氏の心の原点です。宗像大社の神棚は出光の全ての職場に祭ってあり、出光社員は宗像大社を拝礼してから仕事につきます。

佐三店主の部屋はこの拝殿室の後ろにあります。店主は毎朝出勤すると、まず宗像大社を拝礼し、そして店主の部屋から皇居を遥拝されてから執務されました。また店主室教育は、この拝殿前に全員24名が整列して拝礼してから始まりました。

この店主室教育を主宰されていたのが、昭和28年入社で、店主室長として20数年間店主の側で仕事をされてきた麻生さんです。

麻生さんは最近まで出光OB誌に 『店主のお側で過ごした20数年のエピソード』を紹介されました。そこにはまるで昨日のような、生き生きとした店主との触れ遇いが、簡潔に印象深い名文で描かれ、読むたびに胸を打たれます。店主と接したことのない私は、店主室教育で接した麻生さんこそが店主のような存在です。麻生店主室長最後となった昭和55年4月の第20回店主室教育の受講生として感謝の思い出を紹介します。


(左の写真は、1985年のプラザ合意で米国為替レートに翻弄され苦労されていた頃の麻生経理部長。その右は天坊国際金融課長:のち天坊社長)

1. 店主室教育で生まれ変わる

 20歳代の私は入社以来問題児でした。先輩上司から聴く出光理念も、店主書籍を題材にした自問自答会も素直になれませんでした。特に入社10年前の昭和37年11月乗組員36名全員が焼死した「第1宗像丸事故追憶」(我が60年2巻P695)の出光店主の文章には反発を覚えていました。「従業員が何十人も殉職した悲惨な事故の追悼内容の殆どが世界平和使命とは・・日常的に火災爆発の危険性がある我々も、いざとなったら全員死ねという事か」 と・・ しかし店主室教育受講時「なぜ一旦避難して命を守らなかったのか・・」と嗚咽しながら弔辞を述べられる店主の録音声を聴き、初めて店主の思いを知りました。以来眼からウロコが落ちたように、出光理念や書籍が素直に納得理解できるようになりました。

2. 初めて日本の心の源泉に触れる


店主室教育は、伊勢神宮参集で始まりました。



 そして東慶寺での座禅、靖国神社参拝、夜久正雄教授による和歌入門講座、宗像大社の宮司体験・・それ以外は約40日間「仕事を忘れ、日本人と何かを考えなさい」のテーマで思索するのが店主室教育でした。こんなおおらかで自由闊達な教育研修は聴いたことがありません。よく先輩から『費用対効果はあったか、受講後のアウトプットは?』と言われましたが、そういう実利的なことは超越した重い体験でした。




3. 店主室教育で学んだこと

 私達の班は 『出光の経営の本質を学ぶ』 をテーマにして、我が六十年一~三巻を熟読し、店主の理念を『(1)人のあり方、(2)事業経営』 に整理していきました。私は 『(1)人のあり方』を担当し、その本質は『 務めて難関を歩め、神(皇祖・皇宗・祖先)を敬え、③独立自治、④無我無私、⑤人情を尊ぶにある』と整理して掘り下げていきました。しかしそれだけではない『もっと本質的な 何かがある』と思いながら、あっという間に40日間の研修は終わり『これからの宿題』としました。

 そういう研修の中でショッキングな出来事がありました。毎日独身寮~本社通勤で利用していた小田急線下北沢駅のホームで、盲目の女性が階段を探してウロウロしていました。私達は、危ないな・・と思いながら見守るだけでしたが、外人の若者が直ぐエスコートして階段を一緒に降りていきました。店主の深い理念と実践力に学ぼうと研修していた自分は、困っている人を助ける実行力すらない事に本当に情けない思いでした。以来、立派な空理空論よりも、小さなことでも実行することが大事と戒めています。

4. 「君の人生のテーマは 何かな?」

 麻生さんの個人面談で、世間話のような調子でこの質問がありました。私も世間話の様な気楽さで「私は入社以来問題児でした。学卒なのに交替勤務が長いのを腐っていましたが、先輩が見かねて三年がかりで指導し正してくれました。その指導があって人事部で仕事をさせてもらえるようになりました。」と話しました。そしてそこから学んだ「自分の様な迷える子羊が正しい道を見つける手助けがしたい。人事部でそういう役割を果したい。優秀な社員は自分で道を切り開いていくのでほっといてよいと思う」と話しました。すると麻生さんは『それはとても大事な仕事だ。頑張って欲しい』と背中を押して戴きました。以来退職まで三十年間、退職後も大学キャリア講師やブログ・FB配信(若者への応援歌)で、このテーマに取り組んでいます。

5. 麻生さん宅で研修打ち上げ

研修最後の相互発表会が終わると、麻生さんのご自宅に招かれました。

そしてご家族も一緒に、受講生全員が家族のように和気藹々と楽しいひと時を過ごさせてもらいました。当時小学校三、四年だった息子さんを 『孫だよ、孫だよ』 と照れながら紹介されたのが、とても印象に残っています。この時の実の家族のように楽しかったひと時は、いまも昨日のように思い出されます。

6. 私の日本人原点は店主室教育

 店主室教育受講後一番の変化は、出光の刊行物が嘘のようにスッと心に沁みとおることでした。また受講前は 『右翼の偏った論説者』 と思っていた、渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、青山繁晴氏、黄文雄氏などが、受講後は深い共感を覚えるようになりました。 『このままでは日本は滅びる!』 という強い危機感を持った憂国の士だとわかりました。特に渡部昇一氏は、アメリカ数校の大学教授として教鞭をとるほどの国際的英語学者でしたが、晩年は日本の歴史教育に危機感を抱き「日本の歴史」全7巻、「少年日本史」などの名著を残されました。それらを読むと、まさに店主が言われ続けた 『日本人にかえれ!』 の素晴らしい日本人の歴史が描かれています。戦後のGHQ自虐史観洗脳から78年経過しても、洗脳に束縛されたままの私達現代日本人ですが、渡部昇一氏の次の分かりやすい例え話で、全国民が目覚めて欲しいと思っています。「歴史を見る眼‣姿勢」への至言です。

【歴史とは虹のようなものです。水滴の様な歴史上の事実や事件を沢山集めても歴史にはなりません。数限りなくある水滴の集まりを、ある適度な角度と距離をとって眺めて初めて虹は見えてきます。また虹はその国民にだけ七色に見えてくるもので、それを 「国史」 (国の歴史)と呼びます。そのような美しい歴史の虹を見るためには、正しい歴史観を持つことが大切です。】


<エピローグ> 
 あれは私が人事部勤務2年目の昭和55年12月、店主が逝去される数カ月前の事です。麻生さんは新経理部長となっておられました。交代したばかりの新店主室長が「昭和56年 ”月刊出光” の新年号の仙厓画讃の年頭の辞をどうしたらよいか」(店主は入院し面会できない状態でした)、麻生さんに相談に行かれたところ、その場でサラサラと書かれたのが「はよふ、起きんかあぁの一文です。新店主室長は、ただ驚き立ち尽くしたとの事です。(『海賊と呼ばれた男』の終章では店主の絶筆となっていますが・・麻生さんは、視力をほとんど失った店主の目となり手足となった秘書・祐筆20年間、その精神性は店主と同じ世界に生きておられたことが分かるエピソードです。ただし麻生さんは生前、あれは店主の言葉だと固く否定されていました。)

新年おめでとう。今年は酉の年である。
仙厓さんのカレンダーも酉の年にちなんで鶏が声高らかに鳴いている。
東天に向かって羽ばたきつつ 夜明けを告げる鶏の声は清々しく力強い。
仙厓さんは大声で「はよふ、おきんかあぁ」と怒鳴っておられる。
この一喝は強烈だ。肝にずんと響く。
思わずパッと目が覚める思いがする。

36年前の終戦の時、私は「日本人は戦争に負けたのではない。あまりに日本人が道徳的に廃頽し、日本の民族性を失っておるから並大抵のことでは目が覚めないので、天が敗戦という大鉄槌を加えられたのである。これは天の尊い大試練である。だから愚痴を言わず、三千年の歴史を見直し、直ちに再建に取り掛かれ」と怒鳴った。
さて出光は本年、創業70周年のめでたい年を迎えた。70年の積み重ねは、出光人はかくあるべし、日本人はかくあるべきものなりという確固たる信念と共に歩んだ年月であった。

かえりみて、この人間尊重70年の道は正しい日本人の大道であった。
今後も永久に間違いない。
鶏鳴とともに東海の空に曙光がさしはじめている。
 (3か月後の昭和56年3月7日、店主は95年の生涯を閉じられました)

3. 心の師に巡り合う努力を (大岸さん)

若手の入社後定着率の悪さがずっと問題になっています。 入社後3年以内に退職する若者は3~4割、特に製造業が高いようです。

かく言う私も、50数年前、石油会社の装置運転業務が面白くなく、毎日退職ばかり考えていた時期がありました。そんな時に読んだ 『匠の時代』 に登場した三菱電機群馬製作所 神谷昭美所長の 『良い師に巡り合う努力を』 の一文に釘付けになりました。そこにはこんな事が書いてありました。

20歳代の私を育てて下さった上司なくして今日の私はなかった。深い感謝の念と共に、巡り合いの不思議さ、大事さを思わずには居られない。 定年間近になって思うのは次の事です。

1. 人生を左右する教育を受ける大事な時期は入社直後の3,4年。 所謂『三つ子の魂は百まで』。 この時期に学んだ『ものの考え方』は、定年退職するまで変わらない。

2. この時期に、自分にとって本物の先生は誰であるかを判断し選択しなければいけない。そして枝葉末節の小技ではなく、全人格的な薫陶を受けるべく、その師についていくこと

 それ以来、心を入替えて『良き師』を見逃さないようにしました。そして出会った『心の師』が大岸さんです。 この師なくしては、その後の人生は全く違ったものになったと思います 。

JR内房線姉崎駅で下車すると、西側正面にひと際高い煙突が聳え立っています。高さ180mのてっぺんから、薄い煙が空高く勢い良く立ち上っていますが、良く見ると煙突の上部が円錐状に絞られています。 この煙突を見るたびに大岸さんを思い出します。

約45年前、この煙突の煙はだらしなく垂下がり、上方の1/4程が汚くよごれていました。それだけでなく風向きによっては濃い煤煙が市街地にまで達し、市民の皆様に迷惑をかけることもありました。

そんなある日、『今度、スゴイ怖い課長が着任するぞ!』 という噂の中で赴任された大岸さんは、着任錚々『なんだあの煙は!これはダウンウオッシュの一番ひどいやつだ。 近隣住民に大気汚染を撒き散らし迷惑を掛けている。何で5年間も放置していたんだ!』 と、大反対する他の課長(特に私の上司課長)を一喝し、あっさりと上部に絞りを設置してしまいました。他の課長が大反対したのは『絞りを入れると煙道に逆圧がかかり、ほかのボイラや加熱炉の火が消えて運転出来なくなってしまうのではないか・・』と懸念していたからです。

『そんな事はありえない。計算すれば直ぐ分る。問題をそのまま放置する方が大問題だ。』 と一笑に付し、そして全く問題ないことが実証され、45年後の今も快調に排煙し続けています。

第一番目の教えは、『問題を放置せず、必ず解決すべし』 (問題点は問題認識した者にしか解決できない)でした。 

次に大岸さんが問題視したのは世界初の公害防止設備=湿式排煙脱硫装置です。この装置は、そもそも250トン新設ボイラ二基の大量の排煙を浄化する目的で設置されました。その大型ボイラの燃料は安価なアスファルトで硫黄分が多い為、大気汚染防止目的で世界最初のシステムを採用しました。通常設計は排煙中のSox,Noxを処理した吸収剤は廃棄するのですが、この装置はキルンで蒸し焼き再生利用するシステムで、人手がかかり、事故故障も頻発する大変なプラントでした。これを題材にした 『虚構の城』 という小説が書かれたくらいです。

『何でこんな面倒な装置を作ったのか? 目的は排煙脱硫だから再生系は不要。世界初を目的化するのは本末転倒だ』 と、吸収塔だけの吸収剤使い捨て方式に取替えてしまいました。それまでの30人強の運転課はなくなり、他の運転課の遠隔監視だけで十分となりました。

第2の教えは、本来の目的を見失うな。見せ掛けの華々しさや名誉に惑わされるな。』安全・設備設計の基本は、Simple is the Best (単純が一番)、Fool Proof(間違えても大事に至らない設備対応)』 です。 

大岸さんが最も力を入れたのは人の成長 です。

 この当時、入社後20~30年を経過したベテラン社員が目的を失いマンネリに陥りつつありました。 大岸さんの危機感はこういう時に大事故が起きる。事故はチームのボトム(未熟な者・意識の低い者)を狙って起きる。一握りの優秀な者だけ育てるのでは駄目だ。 という事でした。 そして始めたのが 『アタック70活動 (一人一人が主役で仕事に取組む活動=業務改善活動。 牽引機関車型から新幹線型=各車両牽引型への脱皮) です。 この意識改革活動は事業所のトップから末端まで巻き込み、50年以上経過した今も脈々と流れています。

 また専門技術の事しか関心がなく社会性が全く身についていない私達現場の者達に、色々な質問をして啓蒙していました。例えば中国の新指導者 鄭小平氏の来日が話題になっていた頃、『君は鄭小平 “夾竹桃のような人間になるな” と言っている意味を知っているか?』 といった具合です。 

私が、『いや知りませんが、大気汚染に強く街路樹に使われているので、“逆境に負けず強くなれ“ と言う意味ですか? あれ?それなら良い意味ですよね?』 と答えると、『君は新聞やニュースを何も知らないな。もっと社会の事に関心を持て。彼が言いたかったのは ”夾竹桃は幹がなく小枝だけなので柱や壁板には使えない。小枝は枯れても燃えないので薪にならない。葉には毒があり家畜の餌にもならならず何の役にも立たない。そういう何の役にも立たない人間には決してなるな と中国10億人に諭した言葉だ。』 私は、ただただ赤面するだけでした。

物凄い読書家で、『これが面白かったから読め』 と、私は毎月1冊くらい渡されていましたが、中々追いつきませんでしたが、それをきっかけに読書が習慣になり、心の財産になり、自己確立の基礎となっただけでなく、今こうやってブログの新刊書紹介等でも役立っています。 

大岸さんと出会ってから1年後、現場の運転課から突然、本社人事部分室に移動になりました。「分室?何をするところだ?」と上司先輩に聴いても誰も知らず、赴任して初めて何の職場かが分かりました。「出光は切磋琢磨する厳しい職場だが、他方 会社風土は和気藹藹・家族主義の社是。その出光に、あってはならない労使対立闘争の組合が8つもできた。それを全て円満解決に導いた伝説のヨシダサンという凄い上司がいる部署」という事でした。「なんでこんなところに俺が行くことになったのか?」と呆然とする思いでしたが・・全ては大岸さんによるもので、上司でもないのに「なぜ安藤をこんな現場に6年も塩漬けにして遊ばせているのか!」と直接の上司を説得し所長に掛合い異動となったとの事・・転勤後ヨシダサンから「君が大岸が推薦した安藤か」といわれ、初めて異動の背景が分かりました。・・それから地獄の毎日が始まりましたが・・

しかしこの異動で、他の技術系社員にはあり得ない異質のキャリア人生が始まりました。入社以来 職務変更16回(転居12回)、普通はあり得ない技術系課長(電計)と事務系課長(人事、総務)を経験できたのは「大岸さんとの出会い」なしにはあり得ないことでした。その多彩な経験がベースとなり、退職後10年間『大学キャリア講師』として、若者の指導に携わることができました。

いま大岸さんは、60歳で退職後北海道厚真町の大原野に奥様と暮らし、今年25年目の85歳。歩行困難だった奥様の為に、現役時代から作り始めた足台や椅子などの木工細工が昂じていまや『匠の技を持つ木工師』で、『和机、蕎麦打ち鉢・俎板』などを手始めに、町の集会所などの修理やリニューアルなど、何でもやってのける町の名士となっています。


最大の作品は、住居の前にあった倒壊寸前の古い納屋を、設計から施工まで全て独力で建替えられたものです。『スゴイですね。どうしたらこういう事が出来るようになるのですか?』と私がたずねると、
『なに大した事じゃない。要は、“やりたいことをやるか、やらないか” だけだよ一歩踏み出せば、何でもやれない事はない』。まさに至言です。

 最近は、荒れ放題になっている森の復興にも取組んでおられます。

曰く『かって日本の森は人間が手をいれて、薪や炭を生産し、色々な動物も共生する豊かな森であったが、経済面最優先で杉やヒノキや落葉松林に替えてしまった。 しかも外国材に席巻され山は荒れ放題になっている。
僕はそれを少しでも元の豊かな森にして自然に返したいと思っている。』と、約2ヘクタールを天から預り (決して購入してと言われません)、手入れして見事な花が咲き乱れる森にする。また同じ思いを持つ仲間を増やしていくのが夢だという事です。


そして85
歳となられた今も、北海道の野生児です。この大先輩を慕うかっての業務改革仲間は、2年に一回 『A70サミット』と称して、北海道の大岸さん宅に集まり、青年の気持ちに戻って熱い思いを語り合います。まさに 『人は心が若い限り、永遠に青春だ!』 を身をもって示されている 『偉大な心の師匠』 です。

3. 厳しく温かいリーダー(花淳さん)

会社生活40年間、人生70年間を振り返ってみると、尊敬してやまない恩師に共通するのは、『誠実に生き、厳しさの中にも温もりと人間味のある人』 、『失敗やミスを追求するのではなく、難問回避や検討不足や努力不足・衆知結集不足を決して許さない人』 であることです。  従って、どんなに厳しくても 『本当に部下後輩の為を思って叱っている!』 と素直に受止め成長の糧にすることが出来ました。 また優れた提案は最高責任者の前で説明させ、決定・全社展開するという仕事の醍醐味を体感させてくれました。 そういう経験を重ねながら 『これが創業者の基本理念 “人間尊重と家族主義” なのだ』 と実感し、見習い、有意義な40年間の会社生活を過ごす事ができました。 今回は、その中でも特別な存在として尊敬してやまない花淳さんを紹介します。

 入社10年目で上司として出会った花淳さんの印象は、まさに 『妥協を許さない仕事の鬼』 でした。 教育課長着任して直ぐに指示されたのが、工場部門で展開していた業務改善活動を本社・支店にも展開する事でした。 しかし前任地で花淳さんがこの活動に冷ややかだったのを見た私が反論すると、烈火のごとく怒りました。 『前任地は、新設工場業務をゼロから立上げている状態で業務改善などありえない。 しかしいずれ必要になるのでリーダークラスのQC勉強会を開始していた。 その延長線上で全社展開を考えている。 そう言う君は本社に来て一体何の具体的行動を起こしたか?』 と、その叱責の激しさに同席した課員6人全員が凍りつきました。

 初めて花淳さんの激しい怒りに接した私は、怯えながらも、『この人は筋を通し手加減しない凄い人だ。 自分もこの人のように強い信念を持ち行動する人間になりたい。 この上司に真正面からぶつかって鍛えてもらおう!』 と決心しました。

その後わずか1年半だけの上司でしたが、このような激しい叱責は1回きりで、その後は 『会社や仕事とはこういうものだ。男が生きるとはこういうことだ。』 という事を身を持って示され、私はそれまでの甘さを全て根本から叩直されました。 それ以来『花淳さんのようになりたい!』 と、遥か遠くに聳える高い目標として必死で追い続ける事になりました。 そして10数年後、想像もしなかった人事課長を今度は私がやることになったのも、満足できる現役生活を送れたのも、退職後に大学講師をやっているのも、すべて花淳さんに鍛えられたおかげと、その恩の深さに感謝し、花淳さんに巡り合えた幸運を本当に有難く思います。 

 花淳さんの姿を最初に見たのは、その5年前にさかのぼる1970年代後半です。 石化千葉工場の建設が終わった頃で、私は隣の製油所で三交代勤務6年目の運転員でした。 当時最新鋭の戦略型石化工場(モノマー:BTX,SM、ポリマー:PE,PP,PS,PC)建設ということで、全社から若い優秀な社員が集められました。 元気があり余っているだけに自己主張が強くチームワーク形成は困難を極めました。 その人心を統一する要として赴任されたのが人事課長の花淳さんでした。 真黒な顔と眼鏡の奥の怖いギョロメ、鼻の横に大きなホクロ、一目見たら忘れない風貌は、『人事課長というより土方の親分か、鬼軍曹』  という印象でした。

 他方 隣接する製油所は操業15年目で安定し、二度のオイルショックで新設プラント建設がなくなり、ベテラン所員にマンネリ感が漂い始めた時期でした。 それを打破して活性化する為に『一人一人が主役の業務改善活動=A70作戦』 を展開していました。 その指導者だった大岸課長から 『工場側もこういう活性化活動を始めたらどうかね』 と挑発されても、花淳さんは平然と無視していました。 後で知ったのですが、この時期の花淳さんは、『全国から集められた初対面同志、まずはお互いの交流を深めるのが最優先だ!』 と思い、大岸課長の挑発には、『いずれは始めるが、今はその時期ではない!』 と思っておられたようです。

 花淳さんが真っ先に取り組んだのが 『オアシス運動=人と人との交流は先ず挨拶から。 はよう! りがとう! つれいします! みません! をしっかり言って、明るく元気な職場雰囲気を作ろう!』 です。 これは見事に功を奏し、知らない者同士がアッという間に打ち溶けて、新工場を一緒に立ち上げるという固い絆で結ばれ、『隣の製油所なんかに負けないぞ!』 という気概が出来ました。

 そして今一歩お互いに踏み込んで連帯感を深めようと、社員食堂に 『おめでとうございます。今日は次の方々が、誕生日・結婚記念日です。』 と、該当所員の名前を毎日掲示されましたこれにより、お互いの大事な記念日に 『おめでとう!』 と言葉を交わす家族的な雰囲気ができました。 小さなことでも 『これが創業者精神の 家族主義だな』 と工場勤務者は実感しました。 またリーダー層には、質の高い科学的な仕事を展開・指導できるように、小集団活動・QC手法の勉強会をスタートさせました。

そういった中で悲惨な人身事故が発生しました。 

BTX装置の定期補修工事の際、塔槽底の残渣ベンゼン抜出し作業中に、大量に漏れ出したベンゼンを全身に浴びた山本さんが事故死したのです。 当時ベンゼンがこれ程危険だとは思われておらず、設備の不備や運転員の知識・経験不足などが絡み合った不運な事故でした。

 現場は事故処理、警察等の官公庁対応、現場復旧作業に忙殺されており、倒れた山本さんの病院への搬送や付添い、家族へ対応等は全て人事課員が対応します。花淳さんは課員の陣頭指揮を執り懸命の対応をされましたが,残念ながら帰らぬ人となりました。 感情豊かな花淳さんは、その話をされる時は、いつも言葉を詰まらせ涙ぐまれました。

 後日談ですが、奥様は 『もう少し早く救急車が到着しておれば、主人は助かったかも・・』 の思いにかられ、その後30年以上、医療後進国ネパールの救急医療支援の為に日本の中古救急車を贈呈するNPO活動を続けておられます。 またこの時一緒にベンゼン抜出し作業をしていた後輩の福永君は、その時以来、毎年命日に山本家を訪れ仏壇礼拝を続けています。

 花淳さんが、この後異動されたのが本社人事部教育課長でした。最初の大きな課題が、創業70周年を迎えて創業者の理念である“社員一人一人が経営者” を実践する為に、『夫々が自分の持ち場で主人公になり仕事を経営する=工夫・改善・改革する』 という職場活動を全社で展開する事でした。

 『まずは先行している製油所・工場の業務改善活動を事務部門に分かり易く広める“情報紙”を発行しよう!』  という事になり、課員があれこれ紙名を考え提案しましたが、いずれもありふれており却下となりました。 そして花淳さんが助言されたのが 『輪』 でした。 その心は・・・『活動を展開する職場の母体は小グループのQCサークル活動で、チームの和がないと上手くいかない。そして小さな沢山の輪が成長して、改善の輪を大きくして全社に広げていく。 人の輪も和も大きく広がって行く・・・そういう思いが全社員に伝わるんじゃないか?』 という花淳さんの思いに関係者は全員納得しました。

『その前に“まず隗より始めよ” だ。 専門性が高くお互いに壁が厚い暗い雰囲気の人事部内にグループ活動を展開して、明るく開かれた 気軽に社員が相談にくる人事部にしよう!』  と、人事部内で業務改善活動を始め、少しずつ風通しの良い職場になっていきました。

そして全事業所に向けて月1回の情報紙発行を始めました。 まだパソコンは勿論、ワープロ専用機も普及されておらず全て手書きでした。 この情報紙は約1年間13号まで続け、 瞬く間に業務改善活動は全社に普及しました。 そして全社に活動が定着したのを見届けて、本来の統括部署である総務部に移管し 業務改善推進班が正式にスタートしました。 その活動は30年経過した今も全社で活発に取組まれており、改善手法勉強会や全社業務改善事例発表会など増々進化して活発化しています。

  もう一つ印象に残っているのが、採用人数激減に伴う教育・育成システムの改革です。

この当時、高度成長期が終焉し長い不況が始まっていました。 それまで多い年は500人以上を新規採用していましたが、販売量も生産量も頭打ちとなり、プラント運転要員として大量採用していた工業高校卒採用はゼロに、大卒中心の採用数を技術・事務系合わせて100人程度に激減させる時期に来ていました。 当然技術系社員の教育・育成システムは大変革する必要があり、当時30歳の私自身がそれまで居心地の良いぬるま湯システムに浸りきっていたので、自己反省も込めて業務の合間に問題意識を調査・取りまとめました。そして 『技術系社員数推移から、今後の教育・育成システムの改革・大転換が必要だ』 との趣旨で、 『鉄は熱いうちに打て=入社3年間の育成強化。 3年目社員相互啓発研修開設。 製販一体感の早期醸成=入社1年目に技術系は販売体験、事務系は工場体験を組込む』 という提案書を花淳さんに説明しました。

『うん、これは良い。いまから製造部に説明に行こう。』

その場で判断した花淳さんは、そのまま私を連れて技術部門育成責任者の御舩次長席に行き、『重要な提案がありますので説明させてください。』 と前置きして私に説明させました。 一通り説明が終わると御舩次長は、『なるほどこの提案の通りだ。直ぐ実行しよう。』 と即断即決されました。 そのあまりに早い進展に私はポカーンとするだけでしたが、『良い事は最短で実現させるのが”本当の仕事”』 というあるべき姿を身を持って示された花淳さんは、私の目指す姿になりました。 (この時の改革案は、そのまま採用され、30年経過した今も続いています。)

その年の年末 『みんな忙しく頑張っているけど、時には息抜きも必要だ。 松野さんの得意なボーリング大会でもやらないか?』 という花淳さんの提案で、第1回人事部ボーリング大会を開催する事になりました。 前評判通りマイボール・マイシューズの松野人事部長が平均スコア220 のぶっちぎりで優勝。『なんだ君達、若いのにだらしないな。 時には遊ばないと良い仕事は出来ないぞ』 とにこやかな部長の優秀スピーチで、人事部内は一気に和やかに緊密になりました。

花淳さんの元で色々な事に取り組んでいる内に、あっという間に1年が過ぎて転勤辞令がありました。『君は良くやってくれたから、松野さんが送別ゴルフに連れて行ってくれるそうだ。』 と言われましたが、本当は花淳さんが話を進めてくれたようです。 有難い話でした。

当日は大変な大雨で、殆ど全てのプレーヤーがキャンセルしています。 しかしゴルフ好きな松野部長が 『もちろんやるよな?』 と言われるまでもなく、キャディなしでしたが貸切状態のなか喜び勇んでスタートしました。 そして想像以上の水没状態のゴルフ場で送別ゴルフが始まりました。 グリーン上も完全に水浸しで、力いっぱいパッティングしてもバシャバシャと水煙が立ち、2~3mも前に進みません。 ・・上がってみると4人とも200以上の滅茶苦茶なスコアでした。

するとまだまだ元気な松野さんが『もう1回行くか?』 と言われるので、水没ゴルフの2ランド目が始まりました。私のゴルフは下手くそな付合いゴルフでしたが、この時の送別ゴルフだけは心底楽しくて印象深く、30年以上経過した今でも私の最大の勲章だと有難く思っています。

そして花淳さんの元で経験した公私に亘るひとつひとつの出来事や経験は、遅蒔きながら私の中で血となり肉となり、それからの会社生活、職業人生の柱となりました。

花淳さんと一緒に仕事をしたのは僅か1年半、しかし10年以上も一緒に仕事をしたかのような信頼関係ができていました。 夜 東京から姫路の私の自宅に 『取りたい番組(NHK心の時代 河井隼雄)のビデオセットを忘れたから悪いけど録画して僕の自宅に送ってくれないか?』等の電話があるのです。『また誰かの相談に乗っているんだな・・人事部には頼める部下がいないから・・ま、いいか!』 など思いながら、姫路の私に気楽に依頼されるのを心から嬉しく思ったりしました。 

その後退職まで30年間 全く違う部署でした。花淳さんと出会ってから10年後の40歳時、私は胃全摘出手術を受け、集中治療室で麻酔から覚めて苦しんでいるときに、真っ先に見舞いに来られたのが花淳さんでした。家内には『親兄弟にも知らせるな』と言っていたのですが、どうやって知られたのか・・その時花淳さんは千葉の副所長になっておられました。 

出光最大の危機、有利子負債3兆円で倒産の危機にあった時、花淳さんは石油化学部門の総務部長で、それまでお荷物とされてきた赤字事業に大ナタを振るい極限までスリム化され、本体と経営統合する牽引車となられました。のちに副社長となられたNさんが花淳さんの葬儀の際、『当時石化部門の終活ともいえる事業整理を一緒にやりながら、出光にここまでやられる方がいるんだ!と 本当に驚嘆した・・』 と述懐されていました。

退職後は、終戦引き上げの苦しい子供時代からやりたかったというハーモニカに取り組まれました。勿論一流の先生に入門しての本格的な挑戦でした。晩年は不治の難病に侵されましたが、旅立ち直前まで美しいハーモニカ演奏を楽しんでおられたようです。

奥様も花淳さんと同じように終戦時満州から島根県浜田市に引揚げてこられた方です。美しく優しい方で、晩年難病に侵された花淳さんに、少しでも普通の生活をさせたいと、ご自身が脊柱管狭窄症に苦しまれながら、40kg以下の細い身体で献身的に介護されました。なるべく車椅子で昭和公園などに連れ出して、四季折々の美しい花々を一緒に楽しまれたようです。

花淳さんの晩年は、手紙もメールもできなくなりましたが、奥様からのメールで 『花淳さんらしい日々を送られているな・・』 と感じながら嬉しくなりました。

現役時代は部下が震え上がる『瞬間湯沸かし器の仕事の鬼』 でしたが、朝霞市のマンションではエレベータ前で車椅子の花淳さんになついている近所若夫婦の幼児とのツーショットが、とても微笑ましく思えました。

その頃、このブログ 『厳しく温かいリーダー(花淳さん)』を送付した時、奥様から次の返信があり、本当に嬉しく思いました。いずれ私達も同じように老いていきますが『花淳さんご夫婦のような信頼と愛情あふれる素敵な夫婦でありたい!』と話し合っています。

回は主人を取り上げて頂き感激しています。少し病状も進んできたように思い、悩んでいました折に、今日はこんな素敵なラブレターを主人に送って頂き、心より感謝申し上げます。プリントアウトして主人に見せてあげました。忘れていた記憶が少し戻ってきた様子で、「こんなに尊敬されてたんだなぁ~ 」 と大変嬉しそうにしていました。

何よりのお薬になったと思います。日々 物忘れが進み、本人が一番悩み、自信を失くしている様子が私にはよく分ります。 そんな折に「素敵なラブレター」を頂き少し元気が出てきたように感じます。 「安藤君に手紙を書かなくては」と申していますが、多分 無理かな??と私には思えます。 気長くお待ち頂だければと存じます。 

(追悼) 花淳さんは令和元年11月16日旅立たれました。心からご冥福をお祈りします。

下に添付したのは、昭和56年11月より、教育課から花田さんと私が全社に向けて月1回発信した改善情報誌 『輪』 です。 まだパソコンは勿論、ワープロ専用機も普及されておらず全て私の手書きでした。 この情報紙は約1年間13号まで続け、 瞬く間に業務改善活動は全社に普及しました。

3. 「スイカ事件」と洋一さんの教え

  あれはジッとしていても汗が噴き出す真夏のことでした。 私は入社3年目の25歳、職場で起きた小さな事件です。当時の私は、東洋一の大製油所全体に電気・蒸気・冷却水(海水・工業用水)・計装制御用圧縮空気・飲料水などの用役を供給する動力課に勤務していました。その仕事性格上、24時間・365日間、間断なく運転する必要があり8時間交替の 『4直3交替制』 でした。1日を『1勤(8:001600)、2勤(16002400)、3勤(2400800)、もう1チームはシフト休み』 という勤務で、夫々を4日間勤務して休み、次の勤務時間に移るというものでした。


ある暑い夏の2勤の初日、自宅が農家の泉水さんが大きなスイカを4~5個持ってきました。田中洋一さんがリーダーで、総員12名のメンバー全員がゲップが出る程食べても、まだ1個余りましたので、明日の為に冷やして残しておこうという事で、マジックで『田中直所有、無断で食べるべからず』 と大書して、飲料用井戸水砂分離機フロー水のトレンチの中に保存しておきました。


さて次の日、舌なめずりしてトレンチカバーを開けるとスイカが蒸発しています さあ、曲がったことの大嫌いな洋一直長が、人間離れしたギョロ目を更にひん剥いて
怒りました。事実を確認するために、ゴミ箱を見るときれいに食べられたスイカの皮にマジックの文字が残っています。 『私の直で頂きました』とは、シフト申送りミーティングでも記録帳にも一言も述べられていません。・・こうした事実が一つ一つ明らかになるにつれて皆も怒りがこみあげてきました。なかでも洋一直長の怒りは凄まじいほどでした。 

 私が恐る恐る 『たかがスイカ1個、そんなに青筋立てて怒らなくても・・・』 というと、『冗談じゃない。食べたことが問題じゃない。あれだけマジックで書いておいたのだ。食べたのなら何か申し送りがあって当然ではないか。仁義を知らぬやり方だ!』 と、益々火に油を注いだような怒りようで手が付けられません。 このままでは2勤から3勤への申し送りが険悪になるのは必定で、そういう葛藤状態に耐えられない私は、こっそり3勤の独身寮友人に電話しました。すると律儀な木村君が直ぐにマイカーで大きなスイカを2個届けてきました。『1個はお詫びのしるしです。』 と首をすくめて謝ります。

 その日の申し送りは、3勤の面々が心から申し訳ないという顔をしており、2勤の仲間は、先程の逆上も忘れ、気の毒に思ったのかスイカの話題はついに出ませんでした。 

 これだけの他愛もない小事件なのですが、なぜか古希になった今でも、時折鮮明に蘇えります。あの頃の動力課仲間は兄弟のような人間関係を他職場から羨ましがられ 『仲良し集団』と揶揄されることもありました。結束力が強くバカなこともやりますが、自らの失敗は素直に認め反省する、実に人間臭い集団でした。

 ただ今になって思うと、あの時 『連絡するな。奴らがどんな顔をして出社してくるか見ようじゃないか』 といった洋一直長の言葉が、非常に大切な意味を含んでいたのだな・・と思います。 

【私たちは日頃、相手の立場になって考える半面、緊張・葛藤を避け、丸く収めようという傾向が強いのではないだろうか・・。これはその場は一時的に上手くしのげても、本当は大きく成長する機会を自ら放棄しているのかもしれない。もしスイカ事件も真正面からぶつかっていたら、あるいは 『食べ残すくらいなら、次の直にお裾分けするくらいの度量が欲しい』 くらいの反論は出たに違いない。】 ・・・と.

あの小事件から45年が経過します。 私達は人生の半分以上は職業人生で、その間 睡眠時間を除く生活時間の半分以上を職場で過ごします。 その中で色々な出来事・体験が積重なり、より深い人間性が形成されていくのだな・・・とシミジミ思います。いわば意見が対立する場面や葛藤状態こそ重要な成長の機会であり、そういう場面を忌避したり逃げたりするのは自らの成長の機会を放棄することになりかねません。


恐らくスイカ事件が45年たっても鮮明で忘れられないのは、そういう大事な事を教えてくれた事件だったからに違いありません。 

如何だったでしょう? 読者の皆様なら、こういう場面に遭遇した時どうされますか?



3. 生涯現役を貫いた先輩 (小番さん)

  今思い返しても、2011年は本当に大変な年でした。

 311日に東日本大震災発生、近隣のコスモ石油で地響きを立てて4回爆発発生、600mのファイアーボールが大空へ立ち上りました。20日後に退職を控えていた私は、経験したことのない大揺れと大爆発を間近に見て「ああ これで東京湾は火の海、日本は壊滅だ! 退職どころではない、大変な事態になった!」と呆然としました。

そして福島原発の危機、千葉県柏市の放射能値が異常に上昇している情報をキャッチした臨月の娘から「長男を連れて山中湖に避難して!」と懇願され、「どうせすぐに退職だから」と、有給休暇を全て使って山中湖畔に移動し出産する手筈を整えていました。しかしあまりの寒さに「これでは子育てできない」と再び千葉にUターン、直後の3月20日に娘は出産しました。そしてすぐに退職。

その夏の猛暑を避けて山中湖に移動した翌日の7月16日朝、小番さんが逝去されたとの電話が奥様から届きました。「いま主人が亡くなりました。主人が病院で、自分が亡くなった後の諸手続きを説明しても私の呑み込みが悪いので、あとは人事をやっていた安藤に聴けと言われましたので・・」と申し訳なさそうな電話でした。「大恩ある小番さんの葬儀!」とすぐさま取って返し葬儀委員長を務めました。3連休で関係者への連絡が届かない中の通夜に190名が参列されました。平日だったら、恐らくこの倍の方が参列されたことでしょう。小番さんがS37年に入社されて以来、多方面の交流で築いてこられた人間関係、また公私にわたって後輩を親身に指導・育成され、勇退後は協力会のまとめ役として尽力され、本当に頼りにされ尊敬されてきた素晴らしい存在だったことをかみしめました。

小番さんの67年間の人生は、将に『生涯現役を貫き通した人生。誠実に自分の使命を果たし続けた人生』で、私達に大きな教訓を示されました。また小番さんの暖かい満面の笑顔と、秋田弁丸出しの楽しい会話、何時の間にか楽しい飲み仲間を作ってしまう温かい人柄・・・そんな素晴らしい小番さんに接することが出来、楽しい思い出を沢山与えてもらった幸運を感謝し、小番さんの教えを伝え広げたいと紹介するものです。

 小番さんは、昭和18年5月、秋田県由利郡矢島町(鳥海山のふもと)に生まれました。小学生時代から高校まで同級生だった友人の話によると、小学生時代はヤンチャで、中学時代は暴れん坊、高校時代は何と『応援団』で活躍する硬派のコワイ存在だったそうです。出光での穏やかな紳士のイメージを高校時代のご友人に話しますと『あの暴れん坊の小番が?信じられん!』と言っておられました。また最県南の矢島町から秋田工業高校への通学は、何と片道1.5時間、往復3時間です!

 S37入社の秋田工業高校同期は、鈴木昭悟さん、佐々木武男さん、佐藤賢了さんです。


 工務課計装係に配属され、入社4年目で早くも潤滑油精製装置建設PJの計装責任者となります。その大工事の真最中にお父さんが危篤状態になりました。 仕事のピーク時でどうしても現場を離れられません。仕事が一段落して漸く家に駆けつけた時、お父さんは既に亡くなっておられました。そのことは小番さんの人生最大の痛恨事でしたが
『長い人生、こういう試練もあるさ』が口癖でした。

 また、このハードな建設工事の影響で重度の椎間板ヘルニアとなり、20歳半ばで約1年間休務を余儀なくされました。これには元暴れん坊の小番さんも流石に参ってしまい、人生観を変えざるを得なかったと述懐されていました。 10年後に入社した私達S47入社にとっての小番さんは、『穏やかで優しく、1階の一番会社に近いB101号室で柴田錬三郎の大菩薩峠などの剣豪本を読みながらウイスキーを飲んでおられた最長老の永久独身の大先輩』という、いわば牢名主のような存在でしたが、苦しい腰痛をかばって、仕方なく横になっている事が多かったようです。


 そして1年後輩の井上喜義さんとの出会いが人生を狂わせ、尺八の世界にはまり込んでいきます。邦楽界トップの大作曲家、船川利夫先生が尺八部の顧問だった事もあり、井上さんに引きずり込まれる形で、小番さん、猪川さん、本間さん、濱部さん、廣川さん、安藤等が富士見寮の一室で夜の22時、23時までブカブカ大騒音を発して、若い寮生に迷惑をかけていました。(皆さん本当にスミマセンデシタ!)

 船川先生からは、『小番君の春の海は、最初の2小節だけは日本のトップクラスだよ』と誉められるほどの絶品でした。 (でも3小節目から息が切れメロメロになることが多かったのですが・・)


井上さんに惑わされて邦楽に入れ込み過ぎて人生設計が狂い、34歳でようやく結婚される時に貯金はほぼゼロ状態でした。これは他の邦楽メンバーも全く同じ運命をたどっています。(私も27歳で妻に結婚を申し込んだとき貯金ゼロで、それを50年過ぎた今も冷やかされます
💦💦一流の先生方との交友関係はかけがえのない体験でしたが、やはり趣味・道楽は程々に。計画的な貯蓄は不可欠です。

 小番さんの本領発揮は、オイルショック後のクラブ活動予算削減が吹荒れる中で発揮されたマネージメント力と政治力、会社行事での邦楽演奏の働きかけ、パフォーマンスでした。そして人気がなくなって廃部寸前となった箏曲部存続の為、毎年新入女子社員に働きかけ部員確保に奔走されていた事です。そして出光エンジの木下節子さん、森田裕子さん、若井小百合さん、倉島さんらが出光千葉筝曲最後の黄金期を築きます。この女性達が結婚した後、S37年から約25年間続いていた出光千葉邦楽部は歴史を閉じたのでした。


 仕事面では、S50年代に厳しい電計課長が就任し、メンタル不全に陥る社員が出たり、職場内の協力体制が危機に瀕する中、小番さんは常に課長の前面に立って若い後輩を守り抜きました。後輩にとっては、『本当に自分達の事を親身になって考えてくれる、頼りになる兄貴』 でした。そして製油所側の計装係長となられます。この当時若い後輩が次々と結婚しますが、その殆どは小番さんが仲人を勤められ、公私にわたって良き指導者であり、人生の相談相手でした。 2年後の組織変更で係長を外れた後は、S35年入社の山中逸雄さんと共に大型工事のプロジェクトマネージャーを担当されています。

 そして大型工事が終了すると、出光エンジの重要課題であった『工事安全・品質の確立の専門スタッフ』として活躍され、出光内での第一人者になられました。そして勇退までの5年間は、苫東国家石油備蓄の出光エンジ所長代理として勤務され、出光と石油公団からの社長が交互に入替わる(当時)対応の難しい職場でしたが、約20名のエンジ所員を見事に指揮・統括されていました。 

 次々と難しい新たな仕事に就かれながら、常に『人の和』を大事にされ、明るく楽しく仕事に取組み、固い信頼関係で結ばれた強力な集団に育て上げられるマネージメント力は、本当に見事でした。

 北海道勤務時代、休日には、二人の娘さんによく携帯メールを送り、娘さん達からの返信メールに細い眼を更に細くして喜ぶ子煩悩な親父でした。このころ良く述懐されていたのが次のことです。

  俺はずっと千葉勤務だったけど、北海道の単身生活がなかったら家族にメールすることはなかった。北海道家族旅行も何回も出来て絆が深まった。そういう意味で本当に有難い経験だった。

  最初の息子に対しては、初めての子育てで勝手が分からず厳しくし過ぎたかもしれないと、今頃になってようやく気づき、反省しているよ。

  道産子の所員と初めて一緒に仕事をすることになったが、S46の平山義春君を代表として、本当に気の良い有難い仲間だった。平山君には家に何回も招待されて所員全員でバーベキューをやったり、室蘭へウニ取りに連れて行ってもらったりして、北海道の素晴らしさを満喫させてもらった。どっちが所長か分らないくらいだった。


 勇退後は、昭和アステックの安全・品質専任者として7年間パート勤務されました。

 昭和アステックは、その前身の昭和電工の時代から構内協力会社として入構されていますが、当時大小のトラブルが頻発し、工事安全・品質面の強化が重要課題となっており、小番さんは将に救世主でした。『出光退職後3ヶ月ほどゆっくりしてから』 という希望もありましたが、結局勇退後2ヶ月目から出社されることになりました。そして入社後直ぐに事務所内のパソコンネットを構築し、5S活動を立ち上げて書棚・書類整理を一新されました。構外協力会センター時代の昭和アステック事務所を知る人は、今の製油所構内にある昭和アステック事務所を訪れると、別会社と思うほど5Sの行き届いた様変わりの職場に驚かれることでしょう。これは小番さんの尽力によるものと聴いています。


この7年間で経験された、『外から見た出光、下の立場から見た出光の欠陥、問題点』の話は、含蓄があり、珠玉のように深く心に響き、耳に痛く、反省させられることばかりでした。 いわく、
 

人として生まれて、自分に与えられた仕事が楽しくなければ、その人生は全くつまらない人生だ。自分の仕事を面白くするのは、自分しかいない。『自分はこの職場に必要とされている、必要な人間だ』と感じるのが人間として一番嬉しい事だ

○ 勇退後働いてなかったら、一日中ゴロゴロして昼間から酒びたりで、今頃は飲み過ぎで死んでいただろう。長生きの為にも人間は働き続けなければいけない。

  大事なのは“金”ではない。現役として第一線で働き、この世に必要な存在であり続ける事だ。

〇 最近の出光の保全マンが協力会社を紙切れ一枚でアゴで使うようになってきているのを危惧する。協力会社は出光の一番重要な第一線を支えてくれる大事なパートナーだ。

〇 かって協力会社の人達は、出光構内で仕事をする事を誇りにしていたが、今は『出来るなら出光の現場だけは勘弁してください』と言われる。こういう現実と、それは何故かという事を、出光の人間は、もっと真剣に考えなければいけない。

〇 出光はネームバリューで優秀な学生ばかりを採用できるが、一般の保全会社はそういう訳にいかない。出光から『低コストでよい品質の仕事を』と要求されて、一生懸命それに応えようと努力している。過重な要求ばかりしていては信頼を失う。 保全会社は人件費が大半を占め、要求コストに見合い、しかも一流のレベルの人材を揃えるには限界がある。高い人材を集めるとコスト面の要求を満たせなくなる。

〇 『あの担当者は駄目だから人を入替えろ』と簡単に要求する出光の担当者が増えてきたが、これは個人の生活・人生を断ち切る大問題であり、会社経営の根幹に関わる問題であり、そう簡単に実現できる話ではない。 出光の人間は、まずそういう事を洞察できる人間であって欲しい。何といっても、出光の人間は先輩から鍛え上げられ、素晴らしい実力を身につけている。

出光の人間なら当たり前に書ける報告書でも、協力会社に同じような文章力を求めるのは不可能だ。必要に応じて中途採用するので、ある程度の仕事は誠実にこなせても、出光が要求しイメージするレベルにはとても及ばない。それが保全会社の現実だという事を出発点にしないと、出光の保全現場には、『出光の現場で働ける事を誇りに思う協力会社は、全く存在しなくなる。』

  S32徳山製油所建設から54年間、出光と同じ目的・目標に向かって協力し合う関係だから、『下請や業者』ではなく、『協力会社』としてきた歴史を大事にしなければいけない。

〇 一番心配するのは、今の大ベテランの姿勢・仕事のスタイルを正として育っていく若い世代の事だ。本当に今のままのスタイルで今後世代交代して、技術革新していく計装現場保全を4050年間、責任持って担っていける人材が育つだろうか・・・そこを一人一人が真剣に考えて欲しい。



ひとつひとつの場面を思い返す度に、入社以来40年間、これ程の素晴らしい人と共に過ごしてきた幸運を感謝せずにはいられません。小番さんが生涯を通して示した、あらゆる人に対する温かい思いやり、珠玉の言葉の数々、常に前向きな生き様をいつも思い出し、これからも人生の指針としていきたいと思います。

(この写真は、私が尊敬するS37入社の大先輩の田中洋一さんと小番勝造さんとじっくり話したくて「美人の節子ちゃんにも声をかけたら是非一緒させてくださいといってましたよ!」と誘って実現した4人の会食です。まさかこの翌年に小番さんが、9年後に洋一さんが旅立たれるとは、夢想だにしなかったことでした)