2024年11月6日水曜日

1-11.『荒城の月』と岡城ものがたり

 中学時代、初めて聴いた 『荒城の月』 は衝撃でした。
 それまで音楽好きの母の影響で、明るく楽しい歌が大好きでしたが、この曲はまるで違っていました。土井晩翠作詞の歌詞は文語調で格調高く、メロディーはもの悲しさの中に気高さを感じ、思わず背筋をピンと正してしまいました。
音楽の教師から、『作曲者は豊後(大分)竹田市出身の瀧廉太郎。近代音楽の祖とされる明治中期の作曲家で、惜しくも24歳でこの世を去った。』と知り、ますます深く印象に刻まれました。
 大学時代、合唱団にはいり、再び 『荒城の月』 に出会いました。クラブ部長が竹田市出身の工藤忠義君。 いつも穏やかな包容力のある人格者で、練習後は必ず20名ほどが集まり、深夜まで合唱談義、文学・人生を語り合いました。 そして『いつの日か、彼の自慢する 瀧廉太郎が曲想を得た竹田市の岡城跡に行ってみたい!』 という思いが募ってきました。しかし貧乏学生で旅費が工面できず、就職後は時間の余裕かなく機会がありませんでした。

それから45年、先日九州で大学時代の同窓会があり、ようやく念願が叶い岡城を訪れました。


その間ずっと疑問だったのは、
『なぜ大分県の奥深い山間部に、大規模な石垣、大きな城が築かれたのか?』 でしたが、 やはり 百聞は一見に如かずです。 広大な城跡をくまなく歩き、この城が三方を断崖絶壁の深い谷に囲まれ、豊臣秀吉が 『日本一の難攻不落の堅城だ!』 と讃えたのが納得できました。

そして明治維新後、西欧の侵略・植民地化の脅威が迫り、近代国家建設が全国民総意の目的になると、それまで各藩防御上不可欠だった城郭が無用の長物となり、約700年間 ”天下一の堅城“ と讃えられた岡城も二束三文で売却され、建物は壊され、石垣は蔦や灌木が生い茂る荒城となっていきました。 そういう時期に尋常小学生だった瀧廉太郎は、この城跡で遊び、幼い心に『栄枯盛衰』の厳しい歴史の現実を心に刻んだのでした。(左上写真の石垣は城郭図の二の丸付近。城全体は7万石とは思えないほど大規模なもので、江戸期は上図右側の広大な西の丸が政務の中心でした。)

今回は、岡城の観光案内所で仕入れた逸話や情報等をもとに、明治維新後、竹田出身で代表的日本人となった偉人達と、天下の名城の歴史をかいつまんで紹介します。皆さんも機会を作り、ぜひ岡城を訪れ探索してみてください。きっと瀧廉太郎の心象と日本人の魂を追体験できると思います。

1.明治維新後、世界に羽ばたいた偉人達 (明治~)
   明治維新により、岡城はその役割を終え荒れ果てていきました。
しかしこの美しい山野や城跡で遊び、気骨ある竹田の精神に育くまれた二人の少年が、歴史に名を残すことになります。日本近代音楽の祖、瀧廉太郎と、軍神と称えられた海軍中佐の広瀬武夫です。

瀧廉太郎は15歳で東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学、『花』『箱根八里』そして『荒城の月』などの数々の名曲を作曲します。 1901年、21歳で念願のドイツ留学を果たしますが、5か月後に肺結核にかかり志半ばで帰国、 24歳で若すぎる人生を閉じます。彼は沢山の作曲をしたといわれますが、死後ほとんどが病気伝染を恐れて焼却され現存するのは34曲のみです。 死に際し嘆き悲しむ母親をこう慰め涙を誘います。『お母さん泣かないで。あの荒城の月が歌われる限り、僕は、あの美しい石垣の岡城と共に生きているのですから・・』

広瀬武夫は、自分を育ててくれた竹田の人々、美しい山野や岡城に代表される日本を、ロシアの南下・侵略から守るため命を懸けます。敵国政情・軍備調査でロシアに滞在する広瀬武夫を励ますために、瀧廉太郎は『荒城の月』の楽譜を送ります。ロシア貴族のサロンで武夫の恋人アリアズナが、この曲をピアノ演奏すると満場の喝采を浴びます。 日本人作曲の作品が世界で初めて外国人の心をとらえた瞬間です。
広瀬武夫は、その後ロシアからウラジオストックまで単騎偵察旅行を行い、ロシアの国情をくまなく調査しています。そして旅順港閉塞作戦を指揮し、廃船から撤退する際に行方不明となった部下の杉野上等兵を探しに行くこと3回、見つからず諦めて離船する際に敵砲弾の直撃を受け、跡形もなく吹き飛び戦死します。この武勇と部下を思う心に日本中が涙し『軍神広瀬中佐』と称えられます。奇しくも、瀧廉太郎が24歳の短い生涯を閉じた翌年のことでした。

 時代は下って1945年8月、2つの原爆投下でポツダム宣言受諾しかない状況にも拘らず、破れかぶれの一億玉砕に向かう陸軍組織のトップだった陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか) は、『聖断は下った。停戦して武装解除せよ!』 と厳令して終戦となります。 そして阿南惟幾は『一死大罪を謝す』と遺して戦争の全責任を負い割腹自殺を遂げました。国内外に戦闘力のある100万人の陸軍兵が残り、上官の命令でしか動けず、全軍が一億玉砕に向かう状態下で、軍トップ阿南陸軍大臣の命をかけた停戦命令でしか事態収拾の道はありませんでした。 この阿南は豊後竹田市の出身で、まさに鎌倉時代の武将 緒方惟栄、戦国期の城主 志賀親次、江戸時代の中川秀成・久盛・久清等の精神をそのまま受け継いだ生涯でした。

2. 岡城の歴史への登場 (鎌倉時代初期)
豊後武士団の棟梁、緒方惟栄(これよし)は、栄華に溺れて都落ちした平家を大宰府からも追い落とし、二年後に壇ノ浦で源義経を助けて平家を滅亡させました。その後、頼朝の猜疑を受けた義経は九州に逃れようとし、緒方惟栄は戦友の義経を受け入れるべく豊後竹田に岡砦を建設します。そして摂津国大物浦(兵庫県尼崎)から船路で義経一行を乗せて出航しますが、途中嵐に会って難破して惟栄はとらえられ流罪となり歴史から消えます。 義経は東北平泉に逃れますが、頼朝の圧力に屈した藤原泰時が裏切り、襲撃されて自害します。まさに東北平泉と九州竹田の地で『強者どもの夢』 が潰えたのでした。

3. 秀吉を震撼させた難攻不落の岡城 (南北朝時代~戦国時代)
緒方惟栄が歴史から消えて百五十年ほど後の南北朝時代、豊後(大分)を支配した大友一族の志賀貞朝が竹田に岡城を築き、以後 室町時代を通じて志賀氏十七代、二百六十年間の居城となります。その中で歴史に燦然と名を残すのは、弱冠18歳(現代なら大学1年生)で城主となった第17代の志賀親次(ちかよし)です。 
戦国時代末期、信長亡き後に秀吉が天下人に近づいていたころ、九州では薩摩の島津義久が九州制覇を目指し豊後の大友宗麟に5万7千人の軍勢で総攻撃を仕掛けました。いわゆる1588年に勃発した豊薩戦争です。特に豊後の守りの要の岡城には島津義久の弟、猛将の義弘が主力軍3万7千人で襲い掛かりました。 岡城に立てこもり守る志賀兵は僅か千人です。敗戦必至の状況の中で、若き城主の志賀親次は部下に檄をとばします。
『古より死なぬものなし! だが義に殉ずれば千年朽ちることはない!我々の息のあるうちは、この城に敵を一歩たりとも入れることはならん! 死して義に殉ぜよ!』

そして戦いが始まり37倍の敵の総攻撃を受けること三回、延べ6か月を持ちこたえ、秀吉の援軍20万が到着して島津軍は敗退、降伏して秀吉の日本統一は完成します。
この時、秀吉は志賀親次の武勇を称賛し、岡城の堅固さをこう感嘆しています。
  『わが大軍をもってすれば、薩摩は10日、肥後、豊後は3日で片付くと思っていたが、薩摩の大軍の猛攻を6か月も守り切った岡城は、日本一の難攻不落の堅城、落とすのは極めて困難なことを思い知った。 世の中には堅固な城があるものよ!』
   また37倍の軍勢を指揮し3回も撃退された敵将島津義弘は、若き志賀親次を『あっぱれ!天正の楠正成よ!』と絶賛しました。
  
4.中川氏による名城の完成と竹田城下の繁栄 (江戸時代)
しかし宗家の大友宗麟を継いだ義統(よしとも)は凡将でした。 第一次朝鮮出兵(1592年 文禄の役)で、第一軍の司令官だった小西行長が明の大軍に攻撃されると、志賀親次が 『小西の救援に向かうべし』 と換言するのを無視して大友義統は 撤退し、小西軍を危機に陥れてしまいます。 これに秀吉は激怒して大友義統は領地没収、配下の志賀氏も領地を失い、十七代二百六十年にわたって繁栄した志賀氏岡城の歴史は閉じられます。トップや宗家が保身に走り、判断を誤ると即座に滅亡・衰退を招き、配下が路頭に迷うのは現代においても全く同じです。
のちに秀吉は志賀親次の武勲を惜しみ領地を与えますが、主家が滅んで配下が栄えるのを潔としない親次は、領地を捨て歴史から身を隠します。 この高潔な生き様が現代の竹田市民のDNAにも受け継がれていると言われています。

 志賀氏の跡を継いだのは、元播州(兵庫県)三木城主だった中川氏です。 
遡ること10年、本能寺に倒れた織田信長の弔い合戦となる山崎の戦いで、秀吉軍の猛将 中川清秀は勝敗を決する天王山を奪い、柴田勝家との賤ヶ岳決戦では防御の要 大岩砦を700名で死守し戦死します。秀吉はこの武功を称賛し、清秀の息子 秀政・秀成兄弟に摂津茨木城12万石を相続させ、のちに播州三木城に栄転させます。
しかし長男秀政は第一次朝鮮出兵時に家臣の静止を聞かず鷹狩に興じ、その隙を突かれて敵の毒矢で落命します。 秀吉は激怒しますが、父清秀の武功に免じて二男の秀成(ひでしげ)に豊後岡(竹田)への移封を命じます。 

岡城主中川氏初代の秀成は名君で、戦国の世が終わったことを見通し、まず旧志賀氏館西側の天神山を切り開き、本丸・二の丸・三の丸を築き難攻不落の岡城を完成させます。 あの『荒城の月』 で良く目にする見事な石垣はこの時築かれた二の丸の石垣です。天神山を切り崩した大量の土砂は竹田村の湿地の埋め立てに使い、ここに碁盤目状の町割りと武家屋敷、商家、寺院を配置し、安土・大阪のような商業・文化の発展の街づくりを行いました。
 関ヶ原の戦い後、陰謀より秀成は徳川家康に疑われますが、西軍に加担した豊後臼杵の太田氏と激戦を繰り広げて滅亡させ、名実ともに徳川体制下で岡城主となり、幕末まで続く中川氏十二代二百六十年の繁栄の基礎を作りました。


 また二代目
久盛公と、三代目久清公も名君で、治山治水、用水整備、植林、郷村制度整備、農業振興などを行い、岡城と城下町を完成させて岡藩7万石を盤石のものとしました。また軍政、軍事訓練も強化して異国の侵略に備えました。 これを反乱準備と危惧する幕府に対し、熊沢蕃山門下の学友で久清をよく知る副将軍 水戸光圀『久清はそんなチンケな武将ではない。 外国の侵入があっても久清が防いでくれよう。有難い事で何も心配することはない!』と笑い飛ばしたと言います。 久清公は江戸の恩師:熊沢蕃山を岡藩に招聘して指導を受け、農業、商業、教育の振興を行い、現代に続く岡藩(竹田市)の繁栄を完成させました。

久清公は岡藩を見守るように北にそびえる 「大船山」(くじゅう連山のひとつ)をこよなく愛し、人馬鞍に乗って何回も登山し、高い頂から愛してやまない岡藩を飽かず眺めたと言います。そうした姿から晩年、久清公は「入山公」と称されました。 久清公は遺言により大船山八合目標高1200mの鳥居ヶ窪に葬られ、いまも山上から岡藩(竹田市)を見守り続けています。岡藩・領民、大船山をこよなく愛した久清公の辞世の句です。

  もとむへき隠れ家もなし おのづから 山より奥の山を心に

  静かには住みへましと思へども 山より山の奥をたづねん


 その後、岡藩は大火災や大風雨、洪水、地震などの大災害に何度も見舞われます。1776年、第八代藩主久貞は、こうした災害からの復興長期戦略として『人財育成』 を掲げ、藩校『由学館』を開校し、ここに竹田の文武両道を大事にする気風が根付き、近代そして現代まで脈々と生きつづけています。


 参考文献: 豊後岡城物語 (竹田市教育委員会、PHP研究所)

0 件のコメント:

コメントを投稿