海外への留学や旅行が増えていますが、内外から「日本人は真面目で優秀だが、自国歴史に無知・無関心、歴史議論には寡黙で存在感が薄くなる」と厳しく評価されます。 平成25年に福岡県で行われた高校生意識調査で「日本を建国したのは誰か、いつ建国したか」の質問に正しく答えたのは2%だけでした。高校生だけでなく大人も全く同じではないでしょうか。もし同じ質問をしたら、米国民全員が「ジョージ・ワシントン」、中国人は「毛沢東」と即答するでしょう。
世界の193の国連加盟国で建国の歴史を教えていない愚かな国は、恐らく日本だけでしょう。「建国何年目か、初代天皇は誰か」の素朴な質問に答えられない日本の外国駐在員・留学生が軽蔑されるのは当然です。それは米国に生まれ高校大学まで進学しながら米国初代大統領を知らない人間などいる筈もないからです。
日本人が答えられない理由は「学校で教えていないから」です。中学歴史教科書で、建国の経緯など飛鳥時代以前の歴史がすっぽり抜けて空白になっています。これは戦争に負けたことが原因です。GHQは30項目のプレス・コード(削除と発行禁止のカテゴリー)で言論統制を行い7000以上の図書を発行禁止にしました。そして更に強力な「教科書検閲基準」で次の5点を徹底排除し、日本の歴史教育を骨抜き固定させたのです。教育はいったん固定されたら方向転換は中々できず現在まで大きな影響を与えています。戦後から使われてきた東京出版や山川出版などの教科書を確認すると、現在もこの「GHQ教科書検閲基準」に沿った構成・内容となっており驚きです。(添付比較表参照)その検閲基準は次の5点です(高橋史郎「検証・戦後教育」広池学園出版部)
「GHQの教科書検閲基準」・・・現在もそのまま定着。記述忌避されている
➀天皇に関すること
➁国家拡張に関すること
③愛国心につながること
④神道や祭祀、神社に関する言及、
⑤日本国の神話の起源や、楠木正成のような英雄および道義的人物としての皇族、などなど
またGHQは占領政策として、昭和20年12月に日本教職者組合(日教組)を結成させ、「教科書検閲基準」に基づいた教育(戦前の教科書不適合個所の墨塗り)を徹底指示しました。
当時の教職員は、それまでの尊敬される「聖職者」から、占領軍手先の「労働者」に転向させられ断腸の思いだったに違いありません。そして昭和27年の講和条約発効・日本独立で、GHQの占領政策は終了したのですが、GHQ占領下で7年間徹底された➀~⑤の空疎な歴史教育は固定化し、教育関係者の反日・自虐史観教育が現在まで維持されているのです。小・中・高・大学と自虐史観の歴史を学び、卒業後教師となって子供たちに再び自虐史観を刷込んでいくのですから、「日本嫌いの日本人」がスパイラルに増産され、日本人の心を失った国籍不明の日本人になっていきます。(GHQの狙い通りです)
1.日本人の 日本人による 日本人の為の「「国史教科書」
そういう歴史教育環境の中で、令和6年に待望の「国史教科書」(令和書籍)が6年間の検定を経て合格となりました。下に現行の代表的歴史教科書の重要項目記述を比較しましたので是非ご覧ください。文科省も、教育委員会も、学校関係者も骨まで染込んだ仕組みを変える気はありません。まず私達一般市民が自腹を切ってでも「優良教科書(市販本)」を購読し、最寄りの図書館に購入要請し、一般市民の目に触れ、自虐教科書を排除できるようにする」ことから始めるしかありません。
3.建国・建国記念日
【令和書籍】・・「古事記・神武天皇東征物語」P51(略)「日本書記」によると、神武天皇は橿原に都を定めるにあたり詔勅を発せられました。ここには「八紘為宇=日本列島の人々が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らしていこう!」という我が国の建国の理念が示されています。この建国の理念が歴代天皇によって継承され現在に至るのです。
日本書記は神武天皇即位を紀元前660年元旦と伝えています。これを根拠に、わが国は太陰暦を太陽暦に換算した2月11日を建国記念日とし毎年建国を祝っています。
【学び舎】・・・記述なし
【東京書籍】・・記述なし
4.仁徳天皇・民のかまど
【令和書籍】・・第16代仁徳天皇の治世では、大阪平野の開発、治水工事が行われました。これは日本史上最初の大規模工事とされます。治世4年の春、仁徳天皇が高台から遠くをご覧になると、人家から煙が立っていません。民が貧しくて困窮しているのではと心配され「今から三年、全ての課税と役務をやめて、民の苦しみを和らげよ」と命じ、宮中も質素倹約に努め、宮殿の壁が敗れても、屋根が雨漏りしても修理しませんでした。三年後民の生活は豊かになり、天皇が高台に登ると頻りに炊煙が立ち上っていました。諸国の民は豊かになったので税を納めようとしましたが、天皇は許さず更に三年が経過した治世10年の秋、漸く課役を命じました。すると民は昼夜を問わず力を合わせて新しい宮殿を建てました。以来仁徳天皇は「聖帝」と讃えられ、歴代天皇は規範とされ、その聖徳は1700年経った今の皇室に受け継がれています。
【学び舎】・・・記述なし
【東京書籍】・・記述なし
5.聖徳太子・・「随」との対等外交
【令和書籍】・・「聖徳太子の対等外交」 589年大陸に隋が成立、593年に初の女性天皇の推古天皇が即位し聖徳太子(厩戸皇子)が天皇に代わって政治を行う摂政の役割を担いました。 600年 第一次遣隋使を随成立11年後に派遣。文帝は政治を改めるよう要求、大国の強さと文化水準を思い知らされ、国家存続の為に隋の先端文化と制度を受入れつつも「朝貢しても冊封は受けず」方針を固めました。中央集権国家を作り冠位12階を定め、17条憲法で日本人が大事にしてきた「和の精神の大切さ」を第1条に定めました。 607年 第二次遣隋使、国書「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なしや・・」を送り煬帝は激怒 608年 第三次遣隋使、国書「東の天皇慎みて西の皇帝に申す・・」で対等外交を確立します。
【学び舎】・・・「厩戸皇子の誕生」 厩戸皇子(聖徳太子)は仏教に強い関心を持っていました。皇子は589年に随が中国統一すると随に使者を送り、隋から政治を改めるよう助言されました。こののち倭国では冠位12階を制定しました。
【東京書籍】・・「聖徳太子の政治」 地方では豪族同士が争い、大和政権内でも蘇我氏と物部氏が権力を求めて争いました。これを和らげようと女性の推古天皇が即位すると甥の聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子と協力しながら中国や朝鮮に学んで大王(天皇)中心の政治を整えました。冠位12階では才能功績ある者を取立て、17条憲法では天皇命令に従う事など役人の心構えを示しました。
<近代・・植民地化されるアジア・アフリカ、 独立維持に苦闘する日本>
6.日清戦争
【令和書籍】・・わが国は朝鮮や清と協同で欧米露の侵略防衛を考えましたが、ロシア不凍港獲得目的の極東進出に強い危機感を持ち、朝鮮半島に独立してもらう必要がありました。しかし清は弱体化、朝鮮は清の属国のままで改革派と保守派の主導権争いの渦中です。そのなか農民の東学党の乱が起こり朝鮮王国が宗主国の清に援軍を求めたので、朝鮮での日清権力均衡の為に日本も出兵し、朝鮮独立を目的とした日清戦争が始まりました。
【学び舎】・・・朝鮮政府が農民蜂起鎮圧のため清に出兵を求めたので日本も出兵しました。1894日本軍は朝鮮王宮の門を破壊して突入し占領、国王らを監禁して日本のいう事を聴く政府をつくりました。朝鮮政府は清と縁を切り国内の清兵を追払うよう日本に要請しました。
【東京書籍】・・朝鮮では、日清両国の対立の中で、政治や経済が混乱したため1894年、民間信仰をもとにした民間宗教の東学党が半島南部で蜂起しました。腐敗した役人の追放・政治改革や、日本・欧米などの外国人の排除を目指しました。朝鮮政府が宗主国の清に出兵を求めたのをきっかけに、日本は朝鮮に出兵し、日清戦争が始まりました。
7.三国干渉
【令和書籍】・・明治28年(1895) 我が国と清の間で下関講和会議が開かれて下関条約が結ばれ、➀清は朝鮮の独立を認めること、➁清は日本に賠償金を支払う事、➂清は遼東半島と台湾を譲るなどを約束しました。こうして日清戦争は終わり日本は近大国家の実力が認められましたが、弱体化した清は欧米列強の侵略の対象になりました。日清戦争中もロシアは南下政策を進めました。東アジアの領地獲得を狙っていたロシアはドイツ・フランスと共に日本に遼東半島を清に返還するように迫りました。これを三国干渉と言います。遼東半島は清との条約で国際的に合法的に割譲された地域でしたが、日本には三国に対抗する力はなく、この要求に従わざるを得ず、国民はロシアに対する不満が高まりました。ロシアは日本から返還された遼東半島の旅順と大連を清から租借して軍事拠点を構築、東アジアへの勢力拡大をしようとしました。
【学び舎】・・・清は日本との戦争に敗れ、1895年両国は下関条約を結びました。清も朝鮮の独立を認め、遼東半島と台湾を日本領とし2億両(約3.1億円)の賠償金支払いを認めました。しかしロシア・ドイツ・フランスの3国が、遼東半島を清に返還するように求めた為、日本はこれを受け入れざるを得ませんでした。
【東京書籍】・・日清戦争での清の敗北により、古代から続いていた中国を中心とするアジアの国際関係は崩れました。朝鮮は1897年に清からの独立を宣言しました。清の弱体を見て列強は争って清に進出、鉱山開発、鉄道建設など様々な利権を手に入れ清の国内に独占的勢力範囲を作っていきました(中国分割) 中でも満州へ進出を狙うロシアは下関条約後、日本が獲得した遼東半島を清に返還するようドイツ・フランスと共に勧告してきました。対抗する力のない日本は受入れましたが、その後ロシアは日本が返還した遼東半島の旅順と台連を租借し自らの根拠地としました。
8.日露戦争
【令和書籍】・・ロシアは義和団事件後も極東から軍を撤退せず増強し、日本国防上の重大懸念になりました。伊藤博文など大国ロシアとは協調すべきという意見もありましたが、日英同盟でロシア対抗の環境が整いました。しかしその後もロシアの満州占領・軍備増強は続き、日本の独立が脅かされ続けます。日本は「満韓権益交換」の妥協案を出しますがロシアは拒絶。ここにロシアの満州・朝鮮占領植民地化意図が明確となり、国交断絶し開戦しました。
【学び舎】・・・ロシアはシベリア鉄道を完成させ、義和団事件後も中国東部に軍隊を増強していました。 日本は日清戦争の賠償金で軍備拡張し日英同盟を結んだことから日露の対立は一気に高まりました。こうした中で日本はロシアに宣戦布告して日露戦争を始めました。
【東京書籍】・・ロシアは義和団事件後も大軍を満州にとどめて事実上占領し、更に韓国への進出を進めました。韓国での優位を確保したい日本はロシアに対抗し、ここに日露戦争が始まりました。
9.日露戦争後の日本とアジア
【令和書籍】・・ 日露戦争後、大韓帝国と保護条約を締結して外交権を取得し伊藤博文が初代総督になりました。日本は対ロシア安全保障の為に朝鮮半島安定が必要で、日本主導で朝鮮の近代化を進めようとしたのです。高宗皇帝は「朝鮮が実力を備えたとき当条約は撤回する」旨を要求、伊藤はその一文を加えたので高宗は満足し、日本の保護国となりました。大韓帝国は財政破綻(歳入748万円、歳出3,400万円)「約80%の大赤字に日本国家予算約30%を負担する韓国併合には強い反対」がありました。併合反対筆頭の伊藤博文が朝鮮人青年に暗殺された為、一気に併合方針が纏まり、朝鮮は日本統治となり、大漢帝国は消滅しました。ロシアとイギリスは韓国併合を了承し、アメリカと清は異議を唱えませんでした。
【学び舎】・・・日本はポーツマス条約で朝鮮半島優越権、遼東半島租借権等を得ました。続いて韓国の外交権を奪い保護国としました。(P198)1919年京城近くの並川で3,000人が集まって「独立マンセー」を叫んで反日独立運動が始まり朝鮮全土に広がりました。(P212)
【東京書籍】・・日露戦争での勝利によって日本は列強としての国際的地位を固めました。国民の中には大国意識が生まれ、アジア諸国に対する優越感が強まっていきました。一方、欧米列強の圧迫に苦しんでいたインドなどのアジア諸国では日本に学ぼうという機運も高まりました。
10. 教科書に登場する 「中国人名・地名のルビ」
(学び舎) (東京出版) (令和書籍)
11. 満州事変
【令和書籍】・・大陸では1911年に辛亥革命で清朝が滅亡すると軍閥が各地で政権を建てました。孫文後継の蒋介石は、南京に国民政府を建て、張作霖が統率する北京政府などを討伐すべく進軍しました。日本は蒋介石の北伐から在留日本人を保護するため1928年 山東省に出兵。国民党兵士の日本人店舗略奪事件が起きたので増派し、日本軍と国民党軍衝突「斎済南事件」となりました。国民党軍が北京に迫ると張作霖は本拠地の満州に引上げ、その途中で列車が爆破され死亡しました。南満州鉄道守備のため日本が派遣していた関東軍の一部軍人による暗殺と言われます。張作霖の子・張学良は蒋介石と和解し国民党に合流しました。
日本はポーツマス条約により、ロシアが租借していた旅順と大連の租借権と南満州鉄道の権益を獲得、満州には大勢の日本人が居住していました。ところが国民党政府が成立してからは、国民党が日本の満州権益を回収しようと排日運動を扇動、日本人殺傷事件が頻発しました。その対処の為に関東軍主任参謀の石原莞爾により計画されたのが満州事変です。当時大陸には統一政府がなく軍閥による内乱状態でした。石原はソ連南下を阻止するには、日本が満州全体を領有する必要があると考えていました。満州事変を起こした時に満州の国民党軍20万人以上に対し関東軍は1万人と戦力差は歴然でしたが、短期間で満州を占領します。石原が「戦争の天才」と言われる由縁です。
【学び舎】・・・中国では孫文の後継者・蒋介石の国民革命軍が各地軍閥を打倒し中国統一を目指す革命を進め1927年南京に国民政府を建てました。この年から日本は山東省に軍隊を送り、翌5月 中国側と激しい戦闘が行われました。中国統一の革命が山東省や満州に及ぶのを止めようとするものでした。1928年奉天付近の鉄道で張作霖の乗った列車が関東軍により爆破されました。更に柳条湖で満鉄の線路を自ら爆破して中国軍の犯行であるとして攻撃し次々と戦闘を広げていきました。(満州事変)
【東京書籍】・・1927年、蒋介石の率いる国民党が南京に国民政府を樹立し、翌年には中国をほぼ統一しました。国民政府は不平等条約の撤廃を求める満州権益の回収を唱えるようになりました。満州を中国から分離することを主張していた日本の現地軍部(関東軍)は、奉天近くの柳条湖で満鉄線路を爆破し、軍事行動(満州事変)を起こしました。満州の主要部を占領した関東軍は1932年、清の最後の皇帝溥儀を元首とする満州国の建国を宣言し、実質的に支配しました。
12. 南京事件の嘘・実
【令和書籍】・・昭和12年(1937)北京郊外の盧溝橋事件が発生(日本軍に銃弾が撃込まれ戦闘に発展。最近は共産党工作説が有力)。7月末に中国防共自治政府の保安隊(中国人部隊)が日本軍守備隊110名と一般日本人223名の333名を虐殺した「通州事件」の大残虐行為が発生しました。しかもその虐殺方法があまりに猟奇的で日本中を震撼させ国内の強硬論を後押ししました。陸軍参謀本部作戦部長だった石原莞爾は不拡大を主張しましたが、作戦課長の武藤昭が強硬路線を主張し纏まりませんでした。
9月には大陸で相互に戦っていた国民党と共産党が手を結び抗日統一戦線が発足(西安事件で蒋介石が共産党につかまり合意させられた)12月に南京陥落、国民党は拠点を重慶に移し長期化します。
ところで終戦後の東京裁判で、南京占領中に日本軍が20万人以上の中国人を虐殺したとされました。その後中国は30万人と主張しますが根拠はいまだ示されません。当時国民党軍の多くが民間人に扮して便衣兵(ゲリラ)となって民間人を人質に敵対行為をしていました。これは国際法違反なので、逮捕され処刑された便意兵が多く、これを「虐殺」と指摘されている可能性があります。 日本軍入城時の南京人口は20万人。日本軍入場一カ月後には人口が5万人増えています。大虐殺直後に5万人移住する訳がなく、30万人大虐殺の根拠はありません。
【学び舎】・・・中国ではそれまで、蒋介石が率いる国民党と、毛沢東が率いる共産党が激しく対立し内戦を続けていましたが、日本の侵略に一致して抵抗するために、抗日民族統一戦線を結成しました。日本軍は多数の死傷者を出しながら上海を占領し、さらに国民政府の首都・南京に向けて進撃しました。日本軍は食料などの物資を十分に供給されず、現地で調達せよと命令されていました。そのため日本軍が通過する地域の住民は食料を要求され、略奪・殺傷などの被害を受けました。12月、日本軍は南京を占領し、国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人・女性・子供を含む多数の市民を暴行・殺害しました。(P235)
【東京書籍】・・中国では、1927年の国民政府樹立以来、国民党と共産党の内戦が続いていましたが、日本の中国北部侵入に対する抗日運動が盛り上がる中、毛沢東を指導者とする共産党は、抗日の協力を訴え、1937年に抗日民族統一戦線が結成されました。戦火は中国北部から中部に拡大し、日本軍は同年末に南京を占領しました。その過程で、女性や子供など一般人や捕虜を多数の中国人を殺害しました。(南京事件)
13. 世界恐慌と第二次大戦前夜
【令和書籍】・・昭和の初期は世界経済が不安定で、国際的不安が広がった時代でした。昭和4年(1929)に米国で起きた株価大暴落で米国経済は大混乱に陥りました。人々は銀行に殺到し、銀行が連鎖倒産、金融システムが機能不能になりました。そこに誤った高金利政策が拍車をかけ、多くの会社が倒産、失業者が溢れかえりました。この不況は世界中に広がり、10年続く世界大恐慌となりました。この事態に対して、世界中に多くの植民地を持つ英仏蘭は、域内の関税を低くし、域外からの輸入品には高い関税を課す自給自足のブロック経済で、自らの経済圏を守りました。これにより世界の国際協調時代は終わり、自由貿易は一気に衰退します。
世界がブロック経済に移行すると、日独伊の世界に植民地のない工業国は大打撃を受けました。独伊は個人よりも国家の利益を優先するファシズム(全体主義)に傾き、外に植民地を求めました。
日本は資源・材料を輸入し加工品を輸出して成立する国なので、世界恐慌による輸出の激減は深刻でした。この打開のため金本位制に復帰しますが失敗し経済はデフレに陥り、昭和5年から昭和恐慌に突入します。そして昭和11年226事件、日中戦争、世界大戦の泥沼へ進んでいきます。
【学び舎】・・・1929年になると米国はそれまでの好景気から不景気のどん底に陥りました。そのきっかけは、株価の大暴落で銀行破産、多数の会社が倒産し失業者が1933年に1,300万人になりました(全労働者5,000万人)この不景気は世界中に広がりました(世界恐慌)英仏蘭は関係国とだけ貿易しそれ以外の国とは貿易制限するブロック経済政策をとりました。
【東京書籍】・・米国は第一次大戦の被害を受けず繁栄が続き世界経済の中心でしたが、1929年株価が大暴落し、取り付け騒ぎが起きて銀行や工場が倒産して失業者が溢れ、更に世界中に広がり世界大恐慌となりました。米国は高い輸入関税をかけ、各国は自国第一制作を追求したので国際連盟や軍縮などの国際協調体制は大きく揺らぎました。資源・産業の豊かな米国は孤立主義に、英仏蘭は本国と植民地の自給自足(ABCDブロック)経済をとり第、植民地の少ない日独伊はブロック化に反発しながら、夫々の対策を探っていきます。関税をかけ、各国は自国第一制作を追求したので国際連盟や軍縮などの国際協調体制は大きく揺らぎました。資源・産業の豊かな米国は孤立主義に、英仏蘭は本国と植民地の自給自足(ABCDブロック)経済をとり第、植民地の少ない日独伊はブロック化に反発しながら、夫々の対策を探っていきます。
14. ポツダム宣言と原爆投下
【令和書籍】・・7月16日米国で人類史上初の核実験が行われ、その威力はTNT火薬15,000トン以上、爆発台21mの鉄塔は瞬時に気化しました。大統領はこの日を境に別人になったと言います。しかし高官たちは原爆を使用しても日本は降伏しないとみて反対でした。すでに東京はじめ66都市を空爆されても戦闘意欲を失っていないからです。しかしバーンズ国務長官だけは原爆使用に積極的でした。ソ連は米国の原爆使用前に参戦すべきだと決断、米国はソ連参戦前しか原爆使用できないと考え、7月25日大統領は、日本に二つの原爆投下を命令します。 7月26日、日本降伏勧告のポツダム宣言が発せられました。当初米国政府案には天皇の地位保証の文言がありましたが、調印直前に大統領はその一文を削除しました。(スチムソン案から削除=「日本国民は天皇を立憲君主制として維持するかどうかを自由に選ぶことができる」)大統領に助言する高官たちは、この一文を入れることで日本は確実に降伏するとみていました。トルーマン大統領は日本が受諾できない文面を作成したとみられます。原爆を投下する為に、ポツダム宣言は日本によって一度拒否される必要があったのです。
日本政府と統帥部は天皇地位保障が終戦の絶対条件でしたが、ポツダム宣言に天皇の地位の記載がないので大論争となりました。
【学び舎】・・・1945年7月、米英中の首脳が、日本の無条件降伏を求めてポツダム宣言を発表しましたが、日本政府は「ただ黙殺するのみ」と言明しました。 8月6日に広島に、9日に原爆が投下され、8日にソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦、ここに至り御前会議で昭和天皇の裁断によりポツダム宣言受諾を決定しました。
15. 昭和天皇とマッカーサー元帥の会談 |
この昭和天皇のお言葉をマッカーサー元帥は、次のように回想しています。「死を伴うほどの責任、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨の髄まで揺り動かした」マッカーサー元帥は、昭和天皇との会談を経て、皇室を存続させることを強く意識するようになったとみられています。
(コラム「昭和天皇の全国巡幸」)昭和天皇は終戦の翌年から、全国を巡って傷ついた人々を激励されました。昭和21から29年までの8年半で、全行程は約33,000km、総日数は165日に及びました。昭和天皇のお姿を拝し生きる勇気を得た人がいた半面、傷ついた人たちと接する昭和天皇のお気持ちはいかばかりだったでしょう。昭和天皇が広島でお詠みになった御製があります。
「ああ広島 平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えて嬉しかりけり」
冒頭の「ああ」に、昭和天皇の言葉にならない広島への思いを感じることができます。そして勇気づけに行って、逆に勇気づけられる複雑な思いも混在しているように思えます。 (以下略)
【学び舎】・・・記述なし
【東京書籍】・・記述なし
16. オバマ大統領の広島訪問
【令和書籍】・・オバマ大統領は平成28年5月、米国現職大統領として初めて広島の平和記念公園を訪問しました。約50分の滞在でしたが、美しい歴史の一頁として両国民の胸に記憶されました。両国には不幸な戦争があり、その後高度な同盟関係を築いても両国民には未だ心の溝があり、オバマ大統領は広島でその溝を埋めていきました。大統領は厳しい表情で献花し黙祷を捧げ、17分の演説を始めました。
「71年前、雲一つない明るい朝、空から死の灰が降り世界は変わった。閃光と火の壁は都市を破壊し、人類が自らを破壊する術を手に入れた。なぜ我々は広島に来るのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について考える為、10万人を超える犠牲者を追悼する為である」
「全ての人のかけがえのない価値、全ての命が貴重であるという主張、我々は人類という一つの家族であるという根源的で必要な考え、我々はこれら全てを伝えなければならない。だからこそ我々は広島に来たのだ。我々が愛する人々の事を考えられるように。子供達の朝一番の笑顔を考え、妻や夫が優しく触合うことを考え、父と母が心地よく抱きしめてくれることを考えられるように。我々がこうしたことを考える時、71年前にも、ここで同じように貴重な時間があったのだ。亡くなった人々は我々と同じだ。」
「世界はここで永遠に変わってしまったが、今日、この都市の子どもたちは平和の中で生きていくだろう。何と貴重な事だろう。それは守る価値があり、全ての子供達に広げる価値がある。それは私達が選ぶことのできる未来だ。その未来では、広島と長崎は核戦争の夜明けではなく、道徳的な目覚めの始まりとして知られるだろう」
【学び舎】・・・記載なし
【東京書籍】・・記載なし
17.現行「自虐歴史教科書」 の危険性
現代の若者に「日本が侵略されたらどうするか?」と聴くと、かなりの若者から必ず「今の暮らしができるなら占領されてもいい。戦争で殺し合うのは嫌だ」という答えが返ってきます。何という平和ボケでしょう。「侵略は、相手国の尊厳・日常生活・家族・経済・文化・宗教など、アイデンティティ一切を奪い、侵略国に置き換えること」です。2年半に及び破壊と大量死が続くウクライナを見れば一目瞭然です。「今の暮らしが保証されたら・・」など歯牙にもかけられません。現代日本人の思考力はここまで低下しています。
強権独裁大国が経済破綻すると、その隠蔽固塗のため戦争を始めます。こういう危機から国・国民を守る備えなくして独立国家は守れません。反日教育で塗り固められた隣国が日本占領したらどうなるか・・戦前の「通州事件」「上海事件」の身の毛もよだつ惨殺、かの民族の残虐さを、現代日本人は知るべきです。反日・自虐歴史教科書に対して多くの日本人が危機意識を持ってほしいと思います。
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