令和3年2月24日、ロシアによるウクライナ侵略は世界を一変させました。第二次世界大戦後、人類破滅の大戦争は三たび起こしてはならないと発足した国際連合。その最重要常任理事国のロシアが、あろうことか国連憲章で定める「すべての加盟国は、いかなる他国に対する武力威嚇・行使を行なってはならない」をあざ笑うかのようにウクライナを侵略しました。平和な暮らしを突然破壊されたウクライナの人々は、間もなく3年目を迎える今も、零下20度以下になる極寒の冬を電気も石油もない状態で、命を懸けて侵略者と戦っています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終前回は、日本の命運を決めた「承久の乱」直前の執権義時の覚悟と、尼将軍 政子の血の出るような演説が、ウクライナ・ゼレンスキー大統領の大演説、凶弾に倒れた安倍元首相の姿と重なり涙が止まりませんでした。
「もしこの時、政子の大演説がなく、唯々諾々と後鳥羽上皇の院宣に従っていたら・・」 想像しただけでも身の毛がよだつ事態となり今の日本は存在しません。・・長子泰時は、有力御家人排除ができず、質実剛健・公明正大・質素倹約・誠心誠意・信頼一致の日本精神は生まれず、初の武家法「御成敗式目」も発布できず、孫の名執権五代目 時頼も、その子の救国の英傑 八代目 時宗も誕生せず・・日本は再び平安末期の陰謀と腐敗と堕落の摂関政治に逆戻りして「50年後の元寇襲来」で日本人は消滅していたことでしょう。
そういうことを思いながら・・録画した政子の演説を何回も見て涙し感謝しています。
【「政子の大演説」 あらすじ】
日本史上初の武家統治による鎌倉幕府、頼朝が急死したあと有力御家人13人による合議統治が始まりました。しかし2代目頼家は合議を無視し専横に走り伊豆修善寺に幽閉されて暗殺。3代目実朝は鎌倉統治を朝廷に返上しようとして甥の公暁に暗殺されます。
実朝を通じて実権を取り戻そうと画策していた後鳥羽上皇は、鎌倉の最高実力者である2代目執権北条義時を追討・排除しようと決心します。
幕府の後継者争いが発端となり乱れる京の朝廷、その象徴である御所内裏が焼け落ちると、後鳥羽上皇は激高し、再建費用を日本中の武士から取立てるように幕府の執権泰時に要求します。上皇が幕府の弱体化を狙っていることは明らかでした。しかし義時は尼将軍政子と大江広元と相談し、そのころ多発した民衆家屋火災や農業不作の救済を優先させ、上皇の内裏修復要求は先送りにすることを決断します。
長男の泰時をはじめ御家人たちが、上皇と鎌倉幕府の関係悪化を心配する中、上皇は義時に反発する8人の有力御家人に義時追討を命じる院宣を送ります。
その院宣を全て押さえた義時は、上皇の狙いが鎌倉を攻め込むことではなく自分の首であると知り、鎌倉が戦場になることを避けるために自ら京都に赴き首を差出す決意を固めます。そして鎌倉の今後を託された泰時は、初めて、父が鎌倉(武家統治)を必死で守ろうとして生きてきたことを理解し、官軍との戦を辞さない決意を固めます。
「おまえは、いつも私と逆のことを考えるなあ。この院宣をよく見ろ。これは、鎌倉に攻め込むためのものではない。私を追討せよという院宣だ。太郎、私は、おまえが跡を継いでくれることを何よりの喜びと感じている。おまえになら安心して北条を、鎌倉を任せることができる。私一人のために鎌倉を灰にすることはできんということだ」
そして義時は、尼将軍となった姉の政子にこう告げます。
「姉上、これは執権としての最後の役目にございます。頼朝様から引継ぎ、何とかここまでやってまいりました。多少手荒なことはしましたが、いささかの後悔もございません。私を憎む御家人たちも多い。よい頃合いかもしれません。元はと言えば、伊豆の片田舎の小さな豪族の次男坊。その名を上皇様が口にされるとは・・それどころか、この私を討伐するため兵を差し向けようとされる。平相国清盛、源九郎判官義経、征夷大将軍源頼朝と並んだのです。北条四郎時政の小倅が。(微笑みながら)面白き人生でございました」 ――
そして義時は自分の命と引き換えに鎌倉を守る覚悟を告げるため、御家人たちを招集しました。御所に御家人が集結、上皇との経緯を話そうとしたとき政子が現われ「上皇の狙いは鎌倉ではなく義時の首だ」と真実を語り出し、義時のこれまでの行いはすべて鎌倉のためだったと強調します。
「鎌倉始まって以来の危機を前にして選ぶ道は2つ。ここで上皇様に従って未来永劫
西の言いなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか。ならば答えは決まっています。速やかに上皇様を惑わす奸賊どもを討ち果たし、三代にわたる源氏の遺跡を守り抜くのです。頼朝様の恩に今こそ応えるのです。向こうはあなたたちが戦を避けるために執権の首を差し出すと思っている。 ばかにするな! そんな卑怯者はこの坂東には一人もいない!そのことを上皇様に教えてやりましょう!」
毅然とした尼将軍の檄に、御家人たちは 「おおーっ!」と雄叫びを上げ、心は一つになりました。
泰時は 「そのような後鳥羽上皇に付きたい者が、ここにいるはずがございません。今こそ一致団結し、尼将軍をお守りし、執権殿のもと敵を討ち払う!(そして立ち上がり)ここにいる者たちは皆、その思いでいるはずです。違うか!」と後押しします。
頼朝亡き後、鎌倉幕府を一身に背負って “修羅の道” を突き進んできた鬼の義時の目から涙がこぼれ止まりませんでした。
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