2026年6月3日水曜日

1-5. 進路選択と 若者のキャリア形成  

 25年前の出光兵庫製油所人事課長の時 1週間の中学生キャリア実習を受入れました。兵庫県が全国に先駆けて中学キャリア教育を始めたのは深刻な事情がありました。それは平成7年の「阪神・淡路大震災」や平成9年の「連続児童殺傷(酒鬼薔薇)事件」などによる青少年の深い心の傷です。子供たちの豊かな心を育むために、発達段階を考慮しながら様々な体験活動が企画され、その一つが1週間の企業体験学習でした。自分のやってみたい仕事(パン屋、理髪店、工場、スーパーetc.)など大人の仕事を体験し、父母の働く喜び・苦労などを追体験し、感謝の心、自分の将来の夢、仕事観、職業観育成を図る目的でした。そしてその後 文科省により小学~大学までのキャリア教育として展開されることになりました。

10数年前から、私は大学キャリア教育に携わりました。その動機は「私が、もし高校・大学で キャリア形成や本当にやりたい仕事を考える時間があれば、もっと充実した人生になったのに・・」と痛感し続けた人生だったからです。「そういう私と同じ失敗を若者にさせたくない!」そう思いながら大学キャリア講師10年、そして今もブログやFB発信を続けています。今回は、そういう私の高校・大学時代の進路選択失敗物語です。

1.物理教師の凄い授業

高校時代「将来、こういう仕事をしたい」という目標が定まらないまま、受験一色の授業に辟易していた頃の高3で初めて出会った素晴らしい授業が猪俣先生(京都大卒)の物理でした。猪俣先生が話されるニュートン力学は実に面白く、全身を耳にして一言も聞き逃すまいと集中しました。

「皆さんは、ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万物に引力があるのに気付いたのを知っているでしょう? でもニュートンが偉いのは、それで終わらなかった事です。“それなら何故、月は地球に落ちてこないのか?” そして“求心力と遠心力が釣り合う作用反作用の法則、その釣り合いの中で直角方向に力が働くから円運動するのだ”ということを発見したのです。」 「こう考える中で、ある運動を表す関数のある時点tにΔtを限りなくゼロに近づけていくとその接点の傾き=速度となります。これが微分です。逆に運動関数の一定時間t1t2の間の面積を求めると進んだ距離が出ます。これが積分です。皆さんが受験数学で頭を悩ませている微分・積分は、元々ニュートンが自然界の物理現象を理論的に考える中から生まれた学問です。ニュートン力学により私たちの身の回りから宇宙の原理のほぼ全てが理論的に解明されました。アインシュタインの相対性理論は、その特殊現象を補完したに過ぎないのです・・」

こういう話に、理系志望の私達は、目を輝かせながら授業に聞き入りました。恐らく同窓生で抜群の理系頭脳だった甲斐君(東工大から旧国鉄へ)や、五島君(ハーバード大からバークレー大博士・教授に)も同じように猪俣先生に触発されたことと思います。

2.進路選択失敗の原因は・・

この魅力的な物理授業が続くのを楽しみにしていましたが・・「電気・電磁気」の単元に入るとガラリと変わり、教科書の記述をなぞるような授業になりました。

「なぜニュートン力学のように分り易く説明してくれないのか? 何故キルヒホッフ法則やフレミングの右手の法則が成り立つのか? 」そういう素朴な疑問に全く答えず物理の授業は終わりました。

「よし、それならその疑問を大学で追及しよう!」と、私は工学部電気工学科に進学しましが、これが大失敗の進路選択でした。電気科専攻者は、みんな電気大好き人間で、市中のジャンク屋(電気部品屋)から真空管やら抵抗やらコンデンサなどを買い集め、ステレオアンプを制作したり、無線機で見知らぬ無線仲間と交信を楽しむような〇〇オタクばかり・・授業も「キルヒホッフ法則やフレミングの右手の法則」は常識・前提の世界、「半導体に不純物を加えていくとある時点で抵抗がゼロになり電流が流れだす。これをトンネル効果と言います」・・「エッ?それは何故そうなるの?」そう考えているうちに授業はどんどん前に進み、益々分からないことだらけになっていきます。(これでは公式を覚えて問題を解いていく受験勉強と全く同じではないか!) 

こういう「工学部新入生」の講義が始まって直ぐ「しまった!専攻を間違った!」と気付きました。高校時代、数学・化学・物理が大好きで 当然のようにエンジニアの道に進みましたが 理論・原理を応用して物を作り出す分野工学だったのです。私が本当にやりたかったのは原理原則を追求、導き出す学問理学だったのです。

従って電気工学の授業には全く興味を持てず、最も基礎的な1年次履修の「電気回路」は3年で、2年次履修の「電子工学」は何回も追試を受けながら合格できず卒業式後の追試2回でようやく合格し、卒業留年を辛うじて免れました。(卒業式時点で電子工学の単位が取れず、卒業写真に私はいません💦💦 

3.二度とない大学生活だから2分野を学ぶぞ!

その一方で「これぞ大学!」と楽しく学べたのは、一般教養の哲学・文学・地理学・心理学・教育学、そして教育学部中等教師課程の数学でした。 

【「やはりおれの適材適所は教師か!」と痛感しました。そこで工学部授業の合間に教育学部の高校数学教師課程も履修、4年次母校の日向学院で教育実習しました。】

その一方で人形劇クラブ「児童文化研究会」に入部しました。

私は身体は大人でも心は幼く、子供の頃好きだったNHKの『チロリン村とクルミの木』や『ひょっこりひょうたん島』の世界からまだ抜け出せていませんでした・・それに極めて口下手なので「大声で堂々と話せる様になりたい!」というのが入部動機でした。教育学部の一番奥の朽ち果てそうな木造建屋が「児童文化研」の部室。

このバトミントンをやっている左側の空き地で、50m離れて大声で早口言葉の発声練習を30分繰り返してから人形劇の練習でした。

「生麦生米生卵・・」

「隣の客はよく柿食う客だ・・」

「カエルぴょこぴょこ3ぴょこぴょこ 合わせてぴょこぴょこ6ぴょこぴょこ」

(私は貧乏学生でしたので、このころは高校時代のガクランにトレパン姿で通しました💦)


4.大学1年夏の僻地小学校への人形劇巡回

宮崎県北の諸塚小学校など3校を巡回公演しました。姉さんかぶりの私だけが工学部、あとはみんな教育学部小学教師課程の皆さんで、全員教師の道に進まれました。機材は中型トラックで運搬、部員は路線バスで、まるで「若い貧民の移動」状態でした。

僻地の子供達は人懐っこく、初対面でもすぐ駆け寄ってきて、まるで可愛い弟状態です。初めての人形劇出演(端役ですが)などやめて、この子らと一緒に遊んでいたい気持ちを抑えるのに苦労しました・・

 この写真は大学1年部活の「人形劇公演」の一幕です。その合間に6年生担任から1時間だけ算数の授業をやらせてもらいました。東諸県郡 諸塚小で1泊でしたが、何か心の故郷のような懐かしさを覚える僻地の山村でした。

5.この学級担任の平山先生(通称ゴリちゃん)も児童文化研究会OB
 「オ、君は工学部か。めったに体験できないから小学校の先生やってみるか」と誘われ、その場で俄か先生をやる羽目に・・教材研究もないままのぶっつけ本番でしたが、子供たちは背筋を伸ばし目は生き生きして熱心に聞いてくれました。
『ああ、やっぱり進路を間違った! こちらが俺の天職だった!』 後にも先にも、これが最初で最後の小学校の先生体験で、ゴリちゃんに感謝感謝です。

諸塚小の生徒達と一緒の給食子供達と一緒に食べる給食は、本当においしかった!

この瞳で見つめられたら「先生冥利に尽きる!」です。子供達は山奥に行けば行くほど、輝きを増すように思います。(ここから更に1時間ほど山奥に、椎葉村があります。)

 

この小学校で演じたのは、プロスパー・メリメ作「マテオ・ファルコーネ」 三島由紀夫が絶賛した作品です。 しかし子供には強烈すぎる内容で、私の違和感は膨らみ、このクラブは1年で退会しました。
(あらすじ) 19世紀のコルシカ島。 ファルコーネという羊飼いが山にいる間に子供4人の唯一男の10歳の子が、憲兵に追われて5フラン硬貨でお尋ね者をかくまった。・・やがて憲兵があらわれ銀時計をやるからお尋ねものの居場所を教えろと言われて、かくまつた場所を教えてしまう。・・お尋ね者は帰宅したファルコーネに向かい「ここは裏切り者の家だ」と毒づく。ファルコーネは息子を村はずれの窪地に連れていき「お前はオレの血筋で初めての裏切りものだ」と、お祈りと命乞いをしている10歳の息子を銃で撃ち殺す。
 この物語のテーマは、日本人の母性社会では考えられない、驚くべき厳しい西洋の父性です。・・「人を信じやすい優しい日本人」ですが、頭からの「人間皆兄弟」ではなく、「西洋もチャイナも私達とは全く違うマインドを持つ人間である」 ことをベースにしながら相互理解を深めていくことが重要だと教えてくれます。

 人形劇公演を終えて谷川で涼む私達1年生。「大したことやってないけど、楽しかったね!」この右の二人の女学生は小学教師課程で、卒業後小学校の立派な先生になりました。

 

他方、我が「児童文化研究会」と、部室が隣の「教育研究会」は学生運動(核マル)の拠点でした。しかし気候温暖で温厚な土地柄ですから、ヘルメット・角棒の過激な武装闘争にはなりえず、せいぜいジグザグデモくらいでしたが・・その頃の宮大付属中前のデモ行進です。左から2番目の白ズボンが私です。

1年生の年明けて、東京では学生運動が最高潮、東大の安田講堂攻防でこの年の東大入試が中止となりました。一浪して東大合格が確実だった学友は、断腸の思いで夫々別の大学に進学しました。しかし 『人間万事塞翁が馬』 、恐らくこの時の不可抗力の運命を力強く乗超えたからこそ、その後 甲斐君(JR九州専務)と五島君(カルフォルニア大バークレー校教授)は実社会で大活躍したのだろうと思います。

 大学4年間工学部では熱が入らず、空き時間で教育学部の高校数学教師課程も修得し、4年次母校の日向学院で3年C組の教育実習を2週間ほどやりました。「・・高校数学が大学ではどういう学問に展開されていくのか・・」も織込みました。後ろで丹生先生が評価点をつけながら指導してくれて「君の授業は、彼らには難し過ぎるよ!」と指導されましたが・・「私は高校時代にこういう授業を受けたかったんだ」という思いが少しは実現できて満足でした。授業中に3人が早弁して私をからかっていましたが・・

先日電気科卒の友人(元富士通の営業部長)と箱根で遊んだ帰り「安藤は教育学部に入りびたりで、女子学生のお尻を追いかけてばかりいる軟派と思っていた。教職課程を履修し教育実習までやっていたとは! 50年目にして初めて知ったよ!」と驚いていました。 私が知らなかった50年間の誤解(名誉棄損!)が溶けて苦笑いでした。

「軟派する暇も金もなかった。4年で工学部と教育学部両方を履修し卒業したようなものだ。お陰で出光では電気計装課長と人事課長の両方をやることになり、無駄ではなかったけどね。」

1-5. 進路と生涯現役(50年前の私)

                       令和7年3月3日
 大学3年生にとって春休みは就職活動の正念場です。 
 各企業の人事部門は4月から入社式・新入社員教育・職場配属等で最多忙期となる為、その前の3月が次年度採用スタートとなり本腰を入れて採用選考を開始します。就活中の学生もGW明けからは正念場を迎えます。これは50年前の私達団塊の世代からほとんど変わっていません。
私は大学1・2年生のキャリア教育のほか、某工学系大学3年生の就活支援講座として、SPI基礎講座・ES対策・面接対策・企業説明会等を担当してきました。その中で、学生さんに常に強調してきたことは次のことです。皆様の
就活中の子供さん・お孫さんに紹介し参考にして戴きたいと思います。

〇 志望企業を考えるとき大事にしたいのは『この企業に入社すれば、自分が活躍したい分野のスキルを20歳代で徹底的に鍛えられるか否か?』です。まさに自ら『鉄は熱いうちに打て!』 です。
 20代は自分を鍛え抜き、社会で活躍する実力を養い向上させる人生最大の修練の時期です。孔子は『15志学、30而立、40不惑、50知天命、60耳順、70従心』 としており、20歳代は言及がなく、あの孔子でさえ迷いと悩みと鍛錬の中にあったようです。
少子高齢化のこれからは、”生涯現役=専門性を持ちいつまでも活躍する” ことが当たり前の世の中になってきます。そういう時代に唯一頼りになるのは 『自分自身の知力・気力・体力』です。 企業は社員の一生を保証できる訳ではありません。特に世界規模の政治経済激変が頻発する現代では、有名な大企業でもアッという間に経営危機に陥ったりして当てになりません。唯一頼りになるのは、自分の力(気力・知力・体力、人的ネットワーク)です。
 
〇希望の企業に採用内定されることを目標とするのは勿論大切です。 しかし一方で学生の皆さんも、
  ➀ この企業は自分が全力で働く価値のある企業か? 
   ➁ 社会に貢献する理念と実態があるか? 
   ➂利益だけを最優先で求める会社ではないか?  

の視点をしっかり持つことが重要です。あくまで就職活動する主役は自分自身です。企業の採用部門は、ありのままのあなたを見て、この企業で一緒にやっていける人物か否かを判断するのが仕事。だから自分を飾ることはない。自分が何を大事にして頑張ってきたか、この企業で自分のどういう力をどう生かしたいのか、をありのままに正直に表現することが一番重要です。

 今の学生には余り参考にならないと思いますが、以下は私の就職活動です。
47年前の昭和46年の今頃、私も必死で就職活動していましたが、最後まで決まらず、就職担当の恩師:贄田先生(現在96歳)泣かせの学生でした。
電機メーカー5社(東芝、日立、三菱、東京サンヨー、ビクター)をことごとく不合格。重役面接までは行くのですが、志望動機を聞かれ『御社はチッソ水俣のような公害を出さないからです』 と答えていました。当時の私は『企業は社会の公器の筈。地域住民の健康や幸福を阻害し企業利益最優先の企業は存在価値がない』 という事を価値基準の一番目に考えていました。

ところが電機メーカ企業面接では、『うちもカドニウム電池で住民と揉めているが、それでもいいかね』などと言われたりすると『それなら嫌です。不採用にしてください』と答え不合格を繰り返していました。今考えると危ない左翼学生と判断されていたのでしょう。
同窓生が一発で電機メーカー採用を決めているのに『余計なことを言う安藤は電気関係は無理だ』と判断した恩師は『石油の出光からも求人があるけど受けてみないかね』と薦めました。『エッ?ガソリンスタンドで働くんですか?』と怪訝に思いましたが『どうせだめだろうから受けてみるか』と軽い気持ちで受験しました。

宮崎大4年の私の出光一次面接は、当時出光出張所だった宮崎市江平町の橘通り沿いにあるガソリンスタンドで受験者は私一人だけでした。面接官の山路さんに『遅刻欠席は何回ぐらいありますか?』と私が聞くと『10年間1回もない』と当然顔で答えられました。大学では遅刻常習犯の私は『こりゃ私には出光は務まらない!』と愕然としました。
筆記試験は平和台公園近くにあった厚生寮の応接室で、山路さんは仕事があるので試験中2時間ほど事務所に戻ると言われます。部屋には出光関連の書籍や辞典などがおいてあり『山路さんがいなくなると私はカンニングするかもしれませんよ』 と言うと『見たければその部屋の本は何を見てもいいよ』と屈託なくニコニコと答えられました。『何といういい加減な会社だ!』と思いながらも、そこまで信用されると不正はできるものではありません。
 そして上京して重役面接となりましたが、あんないい加減な一次面接筆記試験だったので合格できるとは思っていません。『せっかく交通費会社負担の上京だから、ついでに上高地でも行ってくるか・・』と、面接用の学生服とは別に、登山道具一式持参で上京しました。  
そして重役面接で『わが社(出光)を受験する動機は?』といつもの定番の質問があり、何も前知識のない私は答えに窮しました。苦し紛れに『いつも夜行で通る出光の徳山工場の夜景が綺麗で、このような会社なら公害は出さないはずだと思って受験しました。』と答えた所、10数名の重役がみんな大笑い!
『君は一生の仕事を夜景で決めるのかね!』
 そんなつもりで言ったのではないのですが、真っ赤になって答えに窮した私を見て、重役の爆笑はさらに大きくなりました。 『こりゃまた不合格か・・贄田先生に合わせる顔がないな・・』と落胆した私は、気分を取り直す為に予定通り上高地に直行しました。
そして前々から憧れていた大正池に写る穂高連峰、焼岳、河童橋、明神池、梓川の芽吹き始めた化粧ヤナギのまぶしい新緑・・その素晴らしい大自然に『下界の人間の営みの何と小さくてつまらない事か!』と、すっかり元気を取り戻しました。 
 そして横尾にテントを張り、明日は憧れの槍ヶ岳に立てる! とワクワクしていた夜中、暴風雨となり止む無く引き返しました。
ところが帰宅してみると『出光合格』の通知。半信半疑の入社となりました。後で考えると『地元と共に発展する、公害のない公園工場』を目指す出光は、私のあの『工場の夜景が素晴らしい!』の一言で合格させてくれたのかもしれません。
それから30年後、何と今度は私が採用に関与する人事課長となっていました。そして出光40年勤務後、人事経験を活かして大学キャリア講師を10年やっています。
『君は 夜景で一生の仕事を選ぶのかね!』と大笑いしながら採用してくれた出光は、50年後の今思いかえしても、何ともおおらかで懐の深い不思議な有難い会社でした。

1-5. 船川先生の名曲と「人生とは?」

  企業退職後、大学キャリア講師に10年間携わりました。

 現代の大学生は想像していた以上に純朴で、内向的で、殻に籠っており、そういう学生達に危機感を抱きながらの大学講師でした。 干渉を嫌い孤独でバーチャルな世界に逃避しがちな現代学生を見ていると、卒業後、厳しい不自由な社会人生活に耐え切れず、早々に退職する者が後を絶たない現実が理解できます。しかし、それでは折角の『二度とない人生』を意味のない逃避の人生にしてしまいます。今回は、そういう迷える若者に是非参考にして欲しい作曲家『舩川利夫の人生』と、名曲『出雲路』ほかを紹介します。

私の新入社員時代は正直、毎日の仕事に生涯をかけて打込むほどの魅力を感じることはなく、独身寮の大先輩が紹介してくれた邦楽のレコードに魅せられ尺八を始めました。 その尺八指導の先生が、レコードの作曲者で邦楽界の第一人者の舩川利夫先生でした。先生の名曲には、若いころ直面した社会との葛藤や人間関係で悩む傷ついた心、それを乗り越えようと藻掻く姿が余すところなく描き出されていました。それが昔も今も人々の心を打ち、愛され続けている由縁ではないでしょうか。

入社後 舩川先生に師事して5年ほど邦楽にのめり込み、一時東京文化会館(小ホール)で演奏するなど、プロになろうと思った時期がありました。
そして初めての大舞台、芝ABC会館ホール演奏会(2000人の観客)の幕開けで、憧れの名筝曲家 羽賀幹子先生と『春の海』を演奏することになりました。しかし緞帳が開くと満員の観客席を見て凍り付きました。そして唇が震え「ハロー」と朗々と始まる『春の海』が、『ハフー』と音が出ず、その後は無我夢中でした。ようやく演奏が終わると酸素欠乏症で立ち上がれませんでした。
羽賀先生の名演奏を聴きたくて来場された観客の方も沢山おられたことでしょう。私は憧れの羽賀先生に本当に申し訳なく、その後しばらく目を合わすことができませんでした。初めての大舞台で大失敗して自分の限界を知り、サラリーマンに徹する事に決め、40年勤め上げて今に至っています。(写真はABC会館ホール。1976完成したばかりの音楽用大ホールで、此処で演奏するのが夢でした。残念ながらその後閉館・撤去されました。)

そして70歳を過ぎた今でも、舩川先生の名曲を聴くと、もがき苦しんだ若き日々と、全てを忘れて『出雲路』『飾画』『箏四重奏曲』 などを必死に練習することで救われ、人間らしさを取り戻していったことを昨日のように思い出します。

1972新入社員時代、出会ったLP「舩川利夫作品集」より】 

 (このLPの羽賀幹子先生と横山勝也氏の「出雲路」は、「不滅の名演」として有名で、後世の他の追従を許しません)


1.組曲『出雲路 

出雲路(船川利夫) - YouTube

  尺八:横山勝也、箏:羽賀幹子/藤田都志、17弦:菊地悌子
 作者の膚に染みついた出雲の香りに、しばし酔いしれてください。東京の雑踏の中に一人取り残された作者の孤独を救ってくれる故郷の出雲路、『あの懐かしい出雲がほしい』 という心の声が聴こえてきます。それは私達が故郷を想う心と同じです。
(1) 清水寺の暮色
松並木に続いて、鬱蒼とした老木の生い茂る道を登っていくと、小高い丘の中腹に清水寺がある。鐘楼の鐘が鳴るころ、木陰を伝うそよ風が静かに暮色を運んでくる。
 (2)  
      社日神社の境内に笛が流れ、町には神輿が練り歩く。人々は祝い酒を飲み安来節を唄う。ざわめきの中にふと哀愁が漂う。
 (3) 宍道湖の夕映え
 静かな日の黄昏、宍道湖に夕映えが訪れる。空も水も金色に輝き、一陣の夕風にさざ波がきらきらと砕け散る。秋ならば陽はつるべ落としに一刻の饗宴はたちまち終わりを告げる。初夏ならば天地の運航に自分をまかせ、暫し我を忘れる。

2.『箏四重奏曲』 

箏四重奏曲(船川利夫) - YouTube

 箏:羽賀幹子、尺八:宮田耕八郎、ビオラ:菅沼準二、チェロ:高橋忠男
1965年さわらび会(代表:羽賀幹子)の委嘱作品。本来 尺八と箏3人による四重奏曲ですが、作者は楽器構成にはこだわらず、この演奏ではビオラとチェロを使っており、邦楽器の可能性を拡大しようとした意図がうかがわれます。
(1) MODERATE
  大らかな旋律と力強く躍動する細かい旋律からなる主題が絡み合って動きます。各パートへの旋律移行と対比は、暖かい母の眼差しの元で無邪気に遊び惚ける子供の情景なのでしょうか。それとも複雑な人間の心理を暗示するのでしょうか。
(2) LENT
  静かな、息が長く憂いに満ちた旋律が続き、その寂しさに泣きじゃくる子供をあやすような歯切れの良い中間部、そして元の旋律に戻ります。
(3) ALLEGRO
   さあ、遊ぼうよ! さあ、踊ろうよ! もう悲しい事なんかいいじゃないか。  さあ! さあ、踊ろうよ!

3.『複協奏曲』 

複協奏曲(船川利夫) - YouTube

      指揮:福田一雄、 尺八独奏:船川利夫、箏独奏:羽賀幹子、 他33名 
 1963年の作曲で、若き船川利夫のひとつの頂点と言われる作品です。箏と尺八という二つの邦楽器を対等に扱って、夫々の協奏曲を一つにまとめたという意味で、この題名になっています。 しかし作者は、自己に内在する二つの相反する性格、あるいは現実批判と理想追求の矛盾、そうした二面性をこの曲でさらけ出すことによって、何かを求める 「祈り」 を捧げようとする意味で、この複協奏曲を作曲したとのことです。 
確かに箏独奏の語る所と、尺八独奏の歌う所とは、全く趣を異にします。それぞれのカデンツアは互いに無関係であるとも言えます。しかしながら、それを3部の箏群と17弦、2部の尺八群、及び横笛とファゴット、それに和洋とりまぜた打楽器という大編成の合奏の中に、あるいは埋没させ、あるいは浮き上がらせ、不調和と調和とを混在させています。作者は、自分の心の祈りを野放図にうたい上げるという態度で作ったと述べています。そういう心の葛藤と祈りは現代人の私達に共通の思いであり、心に染み透る名曲です。
尺八独奏は船川先生自身の演奏です。 船川先生は、かって大江賢次が、『ハムレットとドンキホーテが同居している』 と評しています。普段はとても無口で、どんな会合でも人の話にじっと耳を傾けておられました。「不完全な自分をさらけ出すのを好まない」 という先生の姿勢を知らない人は、「彼は孤独で無口な人だ」 と評する人も多かったといいます。しかしこの作品の尺八カデンツアでは、立板に水の如く実に雄弁に自身の内面を語り尽くしています。

4.交響詩 『海』  指揮:福田一雄他 http://www.musicon.co.jp/mp3/umi.mp3
 1965年の作曲。先生はこの作品に作曲活動の生命をかけたと言います。この前年8月、台風接近の予報にかまわず、太平洋の怒涛に惹かれて犬吠岬にでかけました。

白々と明け行く海、どこか不気味な力を秘めている・・・
やがて明け放たれた海は青く青く澄み、そよかぜに海鳥の声も明るい

不気味な風が吹き、うねりが出始め、海鳴りが腹に響く
うねりはやがて岩壁に荒れ狂う怒涛となり、
風は稲妻を従えて大暴風雨と化す
ああ、天地も引裂かれ滅尽するか・・狂う波・・狂う風・・海の狂乱・・
 風は止む・・ 
 暴風雨は海の彼方に去ったのか、静かな海に帰る・・
 静かに・・ 静かに・・・

船川先生は、1931年 島根県安来市に生まれ、16歳から都山流尺八を松田垂山に師事して24歳で師範昇格。 その頃 邦楽を通じて恋仲だった良家のお嬢さんの両親に大反対されて傷心の上京・・筝曲家古川太郎 (宮城道雄の高弟)に師事、筝と作曲を研鑽されます。 作曲は洋楽の乗松明弘(山田耕作の高弟)にも師事。 その間 寝食もままならない程の大変な苦労をされ、 初期の溌剌とした作風から、内向的で寂しく自己の内面にのめり込んでいく心の変遷を経て名曲 『出雲路』(1960) 、『飾画』(1963) を生みます。
古典芸能界特有の愛憎渦巻く異様な世界で下積みの辛酸を耐え忍ぶうちに、人間に対する不信と憎しみが 異常なまでの自己への執着となり、無力な自己への苛立ちと執着を経て狂信的な祈りとなり、大作 『複協奏曲』 (1963へと昇華していきます。 
この大曲の成功を得て作曲家としての社会的地位と生活を得て、『箏四重奏』(1965羽賀先生のさわらび会委嘱作品。 この頃結婚)、交響詩『海 (1965) へと、主観的自我の世界から客観的な自我の世界へと展開していきました。
船川利夫先生は、数々の名曲を生み「現代邦楽の至宝。邦楽と洋楽を融合させ新たな音楽の可能性を切り開いた革命児」と惜しまれながら2008104日 永眠、77歳の旅立ちでした。
皆様方も、この日本の至宝、大作曲家の作品を、是非ご堪能ください。




【エピローグ】
 誰しも自由気儘な学生から社会人になると、仕事に、職場人間関係に、自分の将来に、人生の意味等々、深刻な悩みやストレスに次々に遭遇します。 私は新入社員時代、どん底の精神状態で悩み苦しんでいた時期に、船川先生の 『出雲路』と『複協奏曲』に出会いました。『複協奏曲』は私の葛藤・悩みそのもののような心にしみわたる名曲でした。その尺八を演奏しているのが船川先生、また悩める心に寄り添うように美しい筝を奏でているのが当時のトッププロの羽賀先生でした。この名曲と巡り合わなかったら、ささくれ立った荒んだ心のまま齢を重ね、優しさも思いやりもない嫌な人間になっていたと思います。

50年前に就職して最初の仕事が石油精製工場の保全工事、1年後に運転業務(三交替勤務)となりました。入社3か月の右も左も分からない時期に、独身寮同室の優しい物静かな4歳年上の先輩(大学卒 交替勤務)が不審死を遂げ大変なショックを受けました。いつも寂しげで「どこか具合悪いのですか?」と訊いても寂しい笑いを返すだけの物静かな先輩でした。その前夜の特に沈んだ様子に胸騒ぎし、両隣室の先輩に相談しましたが「そういうことは良くあるさ」と軽く受け流された翌日の突然の旅立ちでした・・山口から駆付けたお母さんと妹さんの泣きはらした顔が今も忘れられません。
【自分は楽になっても、残された家族・友人は一生悲しみを抱えることになる・・嫌なら辞めれば良かったのに・・会社・仕事は命を懸ける程のものではない!】と思いながら、その後『人は何の為に働き、何故生きるのかをいつも考えるようになりました。 
入社式以来『人間尊重、家族主義が社是だ』と叩き込まれてきた私は、それ以後、実態の伴わない建前だけの会社に対する不信、職場の人間不信で人を寄せつけず、いつも険しい目をしていたようです。そういう扱い難い新入社員の私を救ってくれたのが、以前ブログ紹介した『現場の神様=洋一さん』です。この上司は『あいつは他のチームでは無理だ。 私が3年間預かってまともな人間に育成する!』と、自分の部下にして厳しく鍛えてくれました。 まさに救いの神、導きの師匠でした。
しかし毎日の仕事には、正直生涯をかけて打込むほどの魅力はなく、独身寮の先輩が紹介してくれた邦楽レコードに魅せられ尺八を始めました。その指導が船川利夫先生でした。そして約5年邦楽にのめり込み、一時プロになりたいと思った時期もありましたが、ある演奏会で大失敗して自分の限界を知り、サラリーマンに徹し40年勤め上げて今に至っています。

そして今でも、この船川先生の名曲を聴くと、もがき苦しんだ若き日々と、全てを忘れて『出雲路』『飾画』『箏四重奏曲』 などを必死に練習することで救われ、人間らしさを取り戻していったことを、まざまざと昨日のように思い出します。









1-5. 船川先生 の名曲「嘆詩」に学ぶ

 舩川利夫先生との出会いと 『嘆詩』の思い出

私は社会人になって直ぐ、船川利夫先生の音楽の世界に引き込まれました。

仕事中にも「出雲路」や「箏四重奏曲」のメロディが頭の中を流れて離れず、仕事が終わるとすぐ出光会館へ行き空いている会議室で4時間、休みの日は一日中練習していました。

(その経緯は・・将来の見えない工場交代勤務で悩んでいた時に、母校高校教師の勧誘がありました。創業者出光佐三店主の社是「仕事を通じて国家社会に貢献せよ」に鑑みると、私には、工場運転の歯車に徹するよりも高校生を育成することが社会貢献することでした。「これぞ出光佐三氏の社会に貢献できる道、これぞ天命だ!」と退職願を提出しました。

すると信じられないことに工務部長は「会社は2年ただ飯食わせてやった。その恩も返さず退職する? この恩知らずが!」と怒鳴り退職願いを握りつぶし、1年待てと厳命されました。その間に母校教師は補充され、私は会社生活を継続することになりました。建前と本音を使い分ける会社に絶望し、尺八練習に打ち込み、その合間に仕事をしている状態でした。かの工務部長は、その後取締役、常務になりました。これが理想と現実か・・)

「将来の夢がない理不尽な会社勤務はいずれ辞めて、尺八のプロになろう!」・・当時は宮崎出身の村岡実(「柔」の伴奏)や、ジャズ尺八の山本邦山が活躍しており、船川先生を通じて広がる美しい世界にあこがれました。そして4年後、先生の初期組曲「嘆詩」を千葉文化会館で演奏することになり「これは夢か?」と雲に乗る気分でした。当日は邦楽界トッププロ=箏の羽賀幹子先生や十七弦の大塩寿美子先生、そして船川先生自身も尺八演奏する演奏会でした。

その後順調に進み、芝増上寺前のABC会館ホールでの演奏会トップバッターとして、憧れの羽賀幹子先生と「春の海」を演奏することになりました。

しかし・・ああ、50年経過した今も冷や汗が出ます。緞帳が開くと、目線のはるか上まで埋め尽くした約2000人の観客に肝をつぶし、唇が震え始め・・羽賀先生の箏前奏が始まり、尺八が「ハロー」と低音を朗々と吹き始める筈が、2音目から「ハフー」と掠り音にしかなりません・・後は必死でしたが、ムラ息のような音の出ない状態は増々ひどくなり・・緞帳が降りると酸欠状態で眩暈がして立てませんでした。つくづく「オレにはプロは無理だ!」と思い知り、二度と大舞台の独奏には立つ勇気が出ませんでした。

さらに1年後結婚することになって現実の世界に引き戻され、仕事(家族)と尺八(道楽)の二足の草鞋を履ける器用な人間ではなかったので仕事に打ち込むことにしました。

・・あのまま尺八、邦楽の世界に進んだらトンデモナイ厳しい世界に突入し、大変な挫折と貧しい人生になっていたことでしょう。結婚で現実の世界に引き戻してくれた家内に今も感謝です。やはり趣味は程々に、日常生活で楽しめる程度が良いですね。



左から、大塩寿美子先生、羽賀幹子先生、船川利夫先生)


『嘆詩』は船川先生初期の作品で、5篇の漢詩から曲想を得られました。

1.峨眉山月の歌・・冒頭の尺八が美しい半月を連想させます

2.易水送別・・刺客荊軻の緊張感が尺八のムラ息で表現されます。

3.春日雑詩・・「山上酒宴の酔払いが千鳥足の様を表現しなさい」

4.事に感ず・・千変万化、諸行無常の世界、終章椿の花がポトリと・・

5.江南の春・・唐末期、杜牧が昔の南朝四百八十寺の帝都を回想

「江南の春」は高校の古文に出てきて大好きな漢詩ですが、中国民主化運動の元闘士で追放され日本に帰化した中国出身の石平氏が初来日したころの感動をこう記していました。

「私は中国人だから漢詩が大好きで、特にかって繁栄した帝都健康(現 南京)を描いた江南の春が大好きだった。しかし残念ながら唐末期には、かって繁栄した四百八十寺も衰退し荒廃、唐は滅び、宋、元、明、清、更に共産主義となった現代は仏教は軽視され遠い悲しい過去の美しい世界となってしまった。そして留学で初来日して京都を訪れた時、江南の春の世界が、現代日本でそのまま生きている奇跡に出会い心底驚き感動した!」 

 石平氏は帰化し、最も日本人らしい日本人として、日本の心を見失いつつある私たちに「このままでいいのか、中国と同じ心貧しい国になってしまうぞ!」と叱咤されています。

私たち日本人は、世界に類のない京都・奈良の文化遺産を当たり前と日常と受け止め、全く関心のない日本人が多数を占めるようになってきました。しかしその原型となった中国では千年以上前に失われた「奇跡の生き続けている世界遺産」です。私たち日本人が日本人であることの原点としてもっと敬意を払い大事にしていかなければ・・と思います。

「嘆詩」 船川利夫 昭和45年作曲

嘆詩 船川利夫作曲 2004年録音Tanshi Hunakawa Toshio /koto /

1.峨眉山月の歌  李白

峨眉峨眉山月 半輪の秋

影は平羌江水に入りて流る

夜清溪を發して三峽に向ふ

君を思へども見えず渝州に下る

 秋、故郷の清渓を離れて、三峡に向かえば、峨眉山の上に半月が出ている。その月影は平羌江に写り、船と共に流れゆく。やがて三峡の山に迫り、岸は聳えて名月は没し、月影を見るすべもなく、船は空しく渝州に下る

(峨眉山は、中国の四川省ある山の名前です。李白が故郷を離れて旅を始めたときの歌とされています。)峨眉山・平羌江・清溪・渝州・三峽と、5つもの地名を含めたのは、旅立ちを読み手にリアルに連想させるためでしょう。

2.易水送別 駱賓王

此の地 燕丹に別れ
壮士 髪 冠を衝く
昔時 人 已に没し
今日 水 猶ほ寒し

 この易水の地はかつて刺客の荊軻が燕の太子丹と別れたところだ。当時の壮士たちは、髪が冠を突き上げるほど悲憤慷慨していた。その昔の人々はすでにみな亡くなり、今日、川の水だけが昔のまま冷たく流れている。

 3.春日雑詩  袁枚

千枝千枝の紅雨  万重の烟
画き出す  詩人  得意の天
山上の春雲 我が懶きが如く
日高くして猶宿る 翠微の巓

春の雨は花という花に注ぎ、山々は春雨にけぶって詩人画、人々の描き出す絶景を思い出させる。山の上の春雲は怠け者の私に似て、日が高くなったというのに新緑の頂嶺に眠っている。

4.事に感ず  千墳


花開蝶滿枝 花開けば 蝶枝に満つ
花謝蝶還稀 花謝すれば 蝶還た稀なり
惟有舊巣燕 惟だ旧巣の燕 有って
主人貧亦歸 主人 貧しきも亦た帰る

 花が咲いているときには枝に集まっていた蝶も、花が散ってしまえば戻ってくることはない。同じように盛りの時に人は集まるが、衰えてくると人は見向きもしない。ただ燕ばかりは古巣を覚えていて、家主が貧乏していても、もとの巣に帰ってきてくれる。

 5.江南の春  杜牧

千里鶯啼いて  緑紅に映ず
水村山郭  酒旗の風
南朝  四百八十寺
多少の楼台  煙雨の中

 江南千里、鴬はいたるところでさえずり、緑の若葉は紅の花に映じて春たけなわである。水のほとりの村、山沿いの町には酒屋の旗が春風にひるがえる。さてこの辺りは南朝の遷都の地で、仏法興隆の当時建てられたという四百八十の寺院があちこちの堂塔にその名残をとどめ、そぼ降る雨に見え隠れしている。

1-5. 「かくかくしかじか」と私の恩師 

 話題の映画「かくかくしかじか」を観て涙々でした。

誰にも、大人への脱皮・成長の契機となった恩師、人生の骨格を作ってくれた尊敬してやまない存在があると思います。この映画を見て、皆さんの恩師に思いをはせる契機にして頂ければと思います。

 この映画は、人気漫画家の「東村アキコ氏」が若いころに通った絵画教室のスパルタ教師 日高先生との交流物語です。日高先生の「絵画への真直ぐで真剣な姿勢」に、ぐうたらで怠け者のマンガ好きの女子高生が、人生で大事なものを学び目覚めていく・・そして人生の岐路と断腸の思いの別離・・宮崎の美しい風景、穏やかで優しい人々、特徴のある宮崎弁に、暖かく優しく清々しい気持ちに包まれて、時間を忘れて作中に溶け込み、元気と力をもらいました。

若者のいい加減さや迷いや葛藤、それに対して妥協やごまかしを許さない厳しく真摯な日高先生に、自分の恩師が重なり涙が止まりませんでした。ぜひ沢山の方々に、特に若い世代に見てほしい映画です。



1.映画のあらすじ

宮崎の温厚な家族、友人に囲まれ、ボーッとした日々を過ごすマンが好きな高校生・林明子は、美大に進学して漫画家になるという順風満帆な夢を抱いていました。しかしシビアに現実を見つめるクラスメイトに紹介され、海のそばの絵画教室に通うことになります。そこには市内片手の日高健三先生が怒号を飛ばす大変なスパルタ教室でした。

「描け!」の怒号にひたすら描き続ける毎日、しかし日高先生は、厳しいながらも明子の才能を信じ、画家になることを応援していました。

 金沢美術工芸大学に進学し、先生と離れた明子は、絵を描かない日々が続いていました。そんなある日、金沢まで日高先生が訪ねてきます。しかし明子は先生の思いも知らず冷たくあしらってしまいます。「本当は漫画家になりたい」とは日高先生に言えなかったのです。

先生が望んだ二人の未来、明子のついた残酷なウソ、日高先生から逃げるように、ついに夢だった漫画家になり、忙しい日々を過ごす明子は、先生から衝撃的な事実を告げられます・・


2.仰げば尊い 私の恩師(中学時代)

 誰しも、大人への脱皮・成長の契機となった恩師、尊敬してやまない存在があると思います。私は中学三年の担任だった財部三郎先生です。出会いから60年間、32年前に逝去された後も、いつも心の奥で対話し『この恩師との出会いがなかったら今の自分はなかった!』と深く感謝します。先生はその頃40歳直前の働き盛り、小柄な身体に熱血が溢れかえっていました。『将来、あの先生のようになりたい!』14歳の私はそう決心しました。

 (続き⇒)若者への応援歌: 1-5. 仰げば尊い恩師(中学時代)