2024年5月12日日曜日

12. 高校・剣道勝ち抜戦の想い出

  私の母校は成績重視の高校で、印象に残る事が少ない3年間でした。

しかし体育の綾部先生はスポーツへの熱意が凄く、またクラス全員がスポーツ音痴に近いガリ勉タイプでしたので、スポーツ苦手の私でも、少し努力すれば面白さを満喫出来ました。

1. ラグビー・・よく県大会に出場していた俊足の河野義和君にボールが渡ると独走になるので、私はその前にタックルする役割に徹し、鈍足の私でも『確かに男らしいスポーツだ!』と実感しながら夢中になりました。

2. 剣 道・・私が大好きなTVドラマ 「半沢直樹」 は甲斐総治郎君とダブります。 甲斐君は剣道盛んな高千穂出身、中学時代に有段者で、初めて防着をつける私達は赤子のようなものでした。 しかし綾部先生の 『授業の最後にクラス全員の勝ち抜き戦をやる』 の宣言に、『よし、甲斐君に勝ってクラスの剣道トップに立つぞ!』 と、負けず嫌いの私は燃えました。

それから下宿に帰ってから1~2時間、綾部先生から指導を受けた素振り、足さばきの練習を繰り返し『これなら竹刀のスピードは甲斐君にも負けない』というところまで来ました。しかし目標は有段者の甲斐君に勝つことです。基本の練習だけではとても勝てません。

『なにか得意技=秘剣が必要だ・・』 と考え付いたのが、佐々木小次郎の 『燕返し』です。甲斐君の鋭い第一撃を強く払いのけ、その反動で鋭く 横面か小手 をとる・・これを何回も練習しました。そして実際に試してみたいのですが、残念ながらイワツバメがいません。しかし格好の練習相手を見つけました。夕方に下宿前を何十匹ものコウモリが飛び交うのです。コウモリは自前のレーダーを持っており、障害物があってもひらりとかわして身の安全を確保します。『よし、あれを切り落とせば秘剣完成だ。名付けてコウモリ返しだ!』。そして精神を統一して正面に飛んでくるコウモリに切りつけました。 

コウモリが当然のようにヒラリとかわし、横をすり抜けるのを 『小手!』 と払うとバサリと手ごたえがありました。左足元を見ると翼を折られたコウモリがモソモソとうごめいています。

『できた!』 満足感から覚めると、コウモリの祟りはないか心配になり、そっと傷ついたコウモリを森に逃がしました。(コウモリ仲間に助けてもらえよ・・と念じながら) 

そして待ちわびた剣道最終日、名簿順の勝ち抜き戦が始まりました。

安藤英人君、五十嵐君、石崎君、稲井君、岩切君・・と順調に退け勝進みました。5人とも密かに研鑽を積んだ私の相手ではなく『あと4人で甲斐君だ・・』と思っていたところに、思わぬ落とし穴がありました。それは浦元君(現同窓会会長のお兄さん)です。真面目でおとなしい中高一貫組の中では規格外の西都の野生児です。『構えて、始め!』 の声がかかると、構えも何もあったものではありません。へっぴり腰で『ワー、ワー!』と大声でわめきながら、そこら中を動き回り、まるでガキ大将のチャンバラです。『これは剣道じゃない、どうするか・・』と思っているところに、無茶苦茶振り回していた彼の竹刀が腕に当たりました。

『小手、一本!』綾部先生の無慈悲な声が響きました。

『えー、それはないよ!』・・しかし体育の武道体験授業で判定は覆りませんでした。そのあと甲斐君が勝ち進んでいきましたが、私は放心状態で興味を失っていました。

 『敵わないまでも、甲斐君にコウモリ返しを使ってみたかった』いまでもそう残念に思っています。 

(エピローグ)

〇甲斐君:旧国鉄民営化に尽力、JR九州専務、九鉄工業社長・会長歴任

〇浦元君:国際的活躍、ユニセフ、ILOアジア局長、上智大特任教授

12. 萩原政人君の真摯なサムライ人生

   今年は畏友 萩原君が旅立ち8年、先日 職場仲間7人で墓参しました。

 萩原君は高度成長末期のS51年入社、先輩20人の職場で最年少状態が30年以上続きました。平成20年代になり世代交代で漸く新人が入社し始め、構造不況下の人件費削減のために10数名となった極めて困難な時代「この難しい状況のリーダーは萩原君しかいない!」 と、先輩達を率いる電気係長に抜擢されました。使命感が強く仕事熱心で人間的魅力にあふれ、甲府出身であることから、私は密かに 『現代の武田信玄!』 と尊敬していました。

 その彼が平成28年(2016)11月5日、59歳の働き盛りに突然逝去しました。『何故?まだまだこれからの人生なのに!』 と本当に驚き残念でした。そして告別式の奥様の話で、改めて 『本当に偉大な男だった!』 と驚嘆しました。彼は末期がんで死期を悟り、死後に家族に迷惑のかからないよう 永眠するお寺と葬儀段取と樹木葬を決めて旅立ったのです! 何という見事な覚悟!何という夫婦愛・家族愛でしょう!

かっての同僚が毎年の墓参を申合わせ、今年は7名参加、1名は徳山から単身赴任の新城君です。『私達も潔く思いやり深い萩ちゃんのような人生を目指して頑張るよ!』と誓いながら、心づくしの花々でお墓を飾りました。

『萩ちゃん、今年も来たぞ』 いつもは寡黙で不愛想に見える田村君ですが、本当は優しい心暖かい後輩思いの男です。 職場仲間を大事にする思いは人一倍で、今年も50ccバイクで駆けつけてくれました。そして黙々とパンジーの植え付けをしてくれました。(写真右手前)


『萩ちゃん、こんな花の配置でいいかな?』
『ありがとうございます。皆さんの温かい気持ちが伝わってきますよ!』
此処に来ると、昔のままの楽しい会話ができます。確かに彼は私達とともにいるのを感じます。


萩ちゃんの樹木葬墓標を、心づくしのパンジービオラで囲みました。
『花さん達よ、これから一杯花を咲かせて萩ちゃんを楽しませてくれよ!』



花で囲まれた萩ちゃんを囲み 
『いつまでも萩ちゃんと一緒だよ』

『いずれ、オレ達もそちらに行くけど、その時も仲良く楽しく一緒に過ごそう!』

「萩ちゃんを偲んで献杯」 
「退職後も、こうやって顔を合わせられるのも、萩ちゃんが引き合わせてくれるんだよね、ありがとう!」

左から新生君(S47)、浅野さん(S46)、重永君(S47)、田村君(S47)、右手前から山田君(S47)、新城君(S50徳山から)

位牌安置された礼拝堂参拝へ
位牌が多いので、いままで萩ちゃんがどこにいるのか分からず、中央の釈迦牟尼をお参りしていました。


今年は浅野さんが住職さんに聴いて、萩ちゃんの位牌の位置が分かったため、ようやくその前で祈りを捧げることができました。
「輝雲政光信士」いかにも武田武士のような、輝く誇り高い生涯を送った萩原政人君らしい戒名です。(東ーG01 上から7番目)


千葉県袖ケ浦市の山寺、曹洞宗 瓦谷山真光寺は、弘治2年(1556年)9月、かって上総の高野山と言われた真如寺の八世、鷹山厳召大和尚により開山されました。「瓦谷山」という山号は、当地に平安時代の瓦や土器が出土したことから来ています。
釈迦牟尼をご本尊とし、福井の永平寺、横浜鶴見の總持寺の両大本山を信仰と修行の中心においています。教義は「日常の生活の中に悟りがある」という教えで、威儀即仏法とも修証一如とも言い表されます。

12. 古希過ぎたら毎日が一期一会

 大事な人には意識して会わないと二度と会えなくなる”  を痛感します。

 先日、病院診察待ちしていたら、高校同窓の五十嵐君から『学友の森田君が逝去したらしい』と電話が入り本当に驚きました。

 S43年日向学院高校卒業後、私は50年間、学友と全く交流を絶ち『安藤は行方不明』となっていました。たまたま連絡を取った都城の五十嵐君から、2018年5月に卒業50周年同窓会を開催する話を聴き、古希の前年にようやく同窓生と再会しました。 言い出しっぺは英人君で「最初で最後の同窓会になるから、何が何でも開催しよう!」と宮崎市の料亭「杉の子」に20名が集まりました。

しかし同窓会3時間でじっくり話せるのは精々数人です。そこでその4時間前に、高校途中編入組=地方出身者6名だけが宮崎観光ホテルロビーに集まりプレミーティングを行いました。そこに学院中出身の森田君が唯一人参加していました。交流の長い五十嵐君が誘ってくれたのです。

事前会合は大正解で、在学時代から話したことのなかった森田君とも話が出来『森田君はこんなに魅力的なナイスガイだったのか!』と初めて知りました。以来メールのやり取りが始まり、1年後帰省するおり『もう一度宮崎在住の仲間を集めて会おうよ!』と8名で宮崎観光ホテルでランチ同窓会を開催しました。・・その時、森田君は50年来の知己・親友状態で「有機農法事業、中国への事業展開」を熱っぽく語ってくれました。そしてコロナ禍が始まり、2020年4月の「手作りマスク」のメールを最後に連絡が途絶え「どうしているのかな・・」と案じていました。

彼はこの直ぐ後に脳梗塞で倒れ、3年後の昨年12月に還らぬ人となっていました。「もう一度会ってあの熱っぽい話を聴きたかった・・」そう思いながら、貴重な彼との交流や写真を反芻しています。(合掌)

2019年9月古希同窓会
「50年行方不明の私」が高校同窓会幹事を引き受け、東京で3回、宮崎で1回企画実施しました。
これは古希同窓会二次会の喫茶タイム。宮崎観光ホテル1階のカフェーで再び盛り上がりました。左端が私、その隣が森田英則君、その前が五十嵐君です。


2018年夏、事務所での森田社長 温かい笑顔に、彼の優しい性格がにじみ出ています。


同じく2018年夏、メール添付の写真です。
宮崎市内のハウス栽培農家の主人に有機農法のアドバイスをする森田君です。宮崎県下の農家から、大きな信頼を得ていたようです。・・彼の最後のメールです。

2020428日 森田君より>
『簡単な自作マスク』 の紹介、よい情報ですね、ありがとうございます。幸い宮崎では感染者が少ないのですが、世界ではとても多くの感染者が増えています。でもマスクの発想はありがたいと思います。私も中国訪問での仕事が中断してしまして、このままコロナが続けば収入の減少となり大きな痛手です。色々と報道されていますが真意の所はいかに? それにつけても早く終わるのを祈るばかりです。 今、日本の仕事を軌道に乗せるべく邁進しています。また、連絡ください。 森田】


2019年5月12日 卒業50周年同窓会プレ会合 崎観光ホテル)

左から「河野義和君」自称日向学院の裕次郎

その右「森田英則君」有機農法指導者 その右「五十嵐可久君」都城木材㈱社長 その右「弓削俊章君」弓削建設会長


同窓会会場「杉の子」で。 中央が森田君、その左隣は高山君「お坊ちゃん学校の日向学院中」出身にしては、この二人は超然とした硬派で、在学中は近寄りがたい雰囲気がありました。


同窓会二次会のパブ(学友のお姉さん経営)。 中央が私、左が森田君、右隣は高山君 学生時代真面目なガリベンタイプの学友は、気が合うのか奥のボックスに集まっていました。私は当時とっつきにくい田舎出身の変人で、都会的なお坊ちゃんが多い中高一貫組は苦手だったのですが・・気が付くと、その中高一貫組硬派二人が隣に座っていました。特に英語力抜群で超然としていた高山君曰く「クソ真面目な学院中生と6年付き合ったので もう結構! と思っていたけど、安藤君が参加するので、それなら参加するか」と参加したよ」と嬉しいことを言ってくれました。


20199月古希同窓会(宮崎観光ホテル)手前が大橋君(元東郷メディテック社長) 中央は森田君、その右が藤沢君


2018512日「3年B組同窓会」全体写真に森田君の姿が見えませんが・・この時トイレでした。右下の写真にしっかり写っています。


折角の「卒業50周年記念同窓会」でしたが、東京で仕事のある友人は参加できず、とても残念がっていました。そこで私が帰郷後声をかけて「東京分科会」を立ち上げ、その後3回の会合を開きました。場所は麻布の蕎麦銘店「更科本店」この夏、神父となった野口君を探しました。そして50年ぶりに再会!

左上写真の前列左から 岩切君・・新宿の大きな外科病院長 浦元君・・上智大特任教授 野口君・・星美学院神父 牧野君・・元動燃勤務(原子力発電技術者)

<後列右から>

英千代・・元出光人事、大学キャリア講師

高山君・・元日本ロビーインダストリアル

英人君・・元旭化成 医療機器 佐藤君・・元安田信託
なお最下段は、当時岩切君が住んでいた三田の高層マンション自宅を訪問。(やはり東京の大病院長は、庶民離れしたすごい生活です!)


12. 輝き続ける義和君の ”人生讃歌”

  長い人生で高校3年間は、社会飛翔前の「サナギの時代」です

「自分は一体どういう人間か? どう生きるか? 大学で何を専攻し将来どんな仕事をやるか? 」そういう悩みは尽きません。周囲を見渡すと脇目も振らず受験勉強に励む学友だけ、私はボンヤリしていて、あっという間に3年が経過しました。そういう印象に残ることが少ない私の高校時代ですが、ひときわ輝く学友がいました。それが「日向学院の裕次郎=義和君」です。


彼は入学当時から存在感があり、まるで都井岬の野生馬のように自由奔放で存在感があり、大きな旋風を巻き起こしては私達を驚かせました。当時の彼は
「日向学院に嵐を呼ぶ男」で、本人も裕次郎を意識して行動していました。(写真のサングラス男が義和君、その右が私)

石原裕次郎は、生涯を心優しく自由闊達に生き、光り輝く国民的大スターでした。そして50年後の同窓会で再会した「学院の裕次郎」の人生も目を見張るようなエピソードに満ちています。今回はその一部を紹介します。(なお50年前であり微妙な話もありますが、本人から掲載了承は貰っています。) 

1.エピソード 「真夜中に女子高の円形校舎屋上に登頂!」

串間中出身の義和君は、野生馬のように奔放で行動的でした。近くの宮崎女子高へ通学する女生徒を寮のベランダから眺め品評会。「今のは80点。今度は今一だ。これは〇〇〇がクサル」などと、およそミッションスクールにはふさわしくない、当方は真っ赤になるような品定めでしたが・・・


そういうことに驚いていたら、ある朝 「昨夜 谷川君と二人で女子高の円形校舎屋上に登ってきたよ」というので、私達寮生友人みんなビックリ仰天です。「おい義和君、バレたら退学ものだぞ!」しかし彼はケロリンタンです。「昼間ここに登ったら、全校の女生徒を眺められたのに・・と残念だったよ」ムムッ!この男は本当に大物だ!

2.エピソード 「英語詩暗記宿題に真向から反抗」

 2年一学期の授業で、スマイルマークそっくりの英語東後先生が 『H・W・ロングフェローの英詩 A PSALM OF LIFE(人生の讃歌)を次の授業まで暗記してきなさい』 と宿題にしたのを『そんなこと何の意味があるんですか!』と、義和君が真向から異議を唱え大激論が始まりました。 


中高一貫組35名は中学3年間、米国人のマックリンデン先生が担任して県の英語弁論大会で上位独占してきた英語力抜群の生徒たちです。「そんな簡単な宿題に反抗して・・」と迷惑顔です。
 他方地方から高校転入の私は、ピコ太郎の PPAPPen-Pineapple-Apple-Pen )レベルの英語力・・「義和君頑張れ!」と内心応援です。しかし教師の名誉にかけて頑張る東後先生が「覚えてもみないのに何故意味がないといえるのですか。まず覚えてから抗議しなさい!」と一歩も引かない姿勢を見せ、それ以上食い下がっては先生の顔をつぶすと悟り「わかりました!」と義和君は引き下がりました。・・そして次の日、彼は見事「4行9節の英詩」をスラスラと暗唱して見せました。彼は自身の美意識からガリベン嫌いで、納得できないことを率直に述べていただけで、本当は抜群の頭脳の持ち主でした。(私は残念ながら半分くらいしか暗唱できませんでしたが・・)

この場面は50年以上経過した今も深く印象に残り、高校・大学の全テキストはとっくに処分しましたが、この英詩 A psalm of life が掲載されている高2英語Reader だけは捨てきれず、今も大事に保管しています。義和君の思い出とともに・・この文末に全文を掲載していますので、ぜひ皆さんも味わってみてください。

【なお、1年生から担任だった西島先生は、試験の点数や成績しか眼中にない初老の偏屈な数学教師で、高校スタートから腹立たしく暗い授業でした。雑談で自分の奥さんを「うちの飯炊きは」と蔑称で話されるのにはみんなウンザリでした。自由奔放で型にはまらない義和君には特に風当たりが強く、何でもないことで毎日文句をつけぶつかり合っていました。「義和君もよくめげないな・・」と感心しましたが、若い数学教師の丹生先生が、義和君を陰で援護してくれたそうです。(丹生先生はのちに教頭になられました)。 西島先生は2年生時、脳溢血で倒れられ担任は国語の大川先生となりました。人格者の大川先生が「入院中の西島先生をお見舞いに行こう」と希望者を募りましたが、みんな顔を見合わせるばかり・・自主的に大橋君ら寮生が見舞いに行くと、西島先生は涙を流して喜ばれたそうです。】

3.エピソード 「仮装用女性服を 宮女高教頭先生宅へ借りに行く!」


 毎朝学生寮ベランダから眺める宮女高通学生の中で抜群の美形が、寮近くの宮女高教頭先生の娘さんで、下宿生も何人かいることを突き止めた彼は、なんと教頭先生宅を堂々と訪問。「体育祭の仮装行列で使うので女性服を貸してください」と交渉したのです。何しろ品行方正で有名な日向学院の生徒の依頼ですから教頭先生も娘さんたちも快く受諾してくれました。それが今も残る女装の義和君です。あのヤンチャ坊主が中々の美形です!(後述しますが、彼は社会人になってからもっと美人で素晴らしい女性と出会い一目惚れ。その直後プロポーズして結婚しました。)

4.エピソード④ 『足が長くスタイル・運動神経抜群!」

「学院の裕次郎」を自認するだけあって、彼は足が長くスタイル・運動神経抜群でした。体育祭の200m走は後続を20m以上離してブッチギリ。サッカーもラグビーも彼がボールを支配すると試合にならないので、束になって彼にパスができない様に壁をつくりました。俊足の彼は中学時代から陸上競技選手、高校でも毎年県大会出場しました。 

・・高校時代のエピソードは、まだまだ沢山あったと思います。そいう規格外の義和君の社会人生活はどうだったのか・・2年前の50年周年同窓会で一番興味ありました。そして聴いた話は私の想像以上の波乱万丈人生で感動の連続でした。(次からは、その談話記憶です。)

5.エピソード⑤ 『東京に就職後すぐ視力を失い退職』

 就職後偶然にも山手線で、かってのクラスメートと(藤沢君高山君?)ばったり出会い、お互いに『東京で会うなんて奇跡だね!』と、その時のやり取りを50年たってもはっきりと覚えているそうです。電車の中で突然『義和君、まだ暴れているの?』と話しかけられ『いや、今は暴れていないよ』と答えると『ああ、やっぱり義和君だったんだ。目つきが前と全然違うよ!』と返ってきました。そして電車の中で先ほどから義和君に似ている人がいるが、本当に彼だったら声を掛けると大変だと思い、声を掛けられなかった。しかし、目つきが昔の義和君でなかったので、恐る恐る声を掛けたんだ・・』

東京で会社生活を送っているときに、彼は突然視力を失いました。回復の兆しがないため串間の自宅に帰郷し療養することになりましたが、この時は『いったい、オレのこれからの人生はどうなるんだろうと、暗澹たる気持ちだった』 ということです。 自宅で療養すること半年、視力はすっかり元通りに戻りました。 私が推察するに 『あの天衣無縫の自然児の義和君は、鋳型に嵌まった大都会のサラリーマン生活が窮屈すぎて、無意識のうちに身体が拒否反応を示していたのだろう!』と思います。

6. エピソード⑥ 『奥様との運命の出会い」

視力が回復した彼は、その後宮崎でホテルの仕事に就きました。


そういうある日、お客さんを観光案内して
堀切峠の「フェニックスドライブイン」に立ち寄った時、対応した女性があまりに素晴らしい応対をしてくれました。彼女に「すぐ戻るから」と言い残し、お客様を空港に送った後、彼女がまだそこにいるのを願いつつ急いで引き返しました。そしてドライブインで再び彼女を確認すると『僕と結婚してくれ!』 とプロポーズしました。 その女性はあまりの突然の結婚申し込みに返事もできず、目を白黒させていたそうです。 
 

出会った瞬間に結婚することを心に決めた。それが今の僕の妻だ。40年経過したが僕の目に狂いはなく素晴らしい妻だよ! 

・・そう語る彼は本当に幸福そうでした。 おそらくこれからも一生そういう思いながら奥様を愛し続けることでしょう。 (何と素晴らしい人生でしょう!)


7. エピソード⑦ 『LEMAN HOTEL支配人に、そして今』


その後南宮崎に1973年オープンのLEMAN HOTEL の支配人となりました。色々な独創的企画でホテルは順調に伸び、「ホテルマンとして充実した仕事人生を送った!」と、40周年となった2013年9月に 区切りとしてホテルを閉鎖しました。その後は要請に応じ 経営者団体や官公庁で講演や指導を行って、宮崎市の発展に貢献しています。

A Psalm of Life(人生讃歌)   

               Henry Wadsworth Longfellow

Tell me not, in mournful numbers,

Life is but an empty dream!

For the soul is dead that slumbers,

And things are not what they seem.

 

Life is real! Life is earnest!

And the grave is not its goal;

Dust thou art, to dust returnest,

Was not spoken of the soul.


Not enjoyment, and not sorrow,

Is our destined end or way;

But to act, that each tomorrow

Find us farther than today.

 

Art is long, and Time is fleeting,

And our hearts, though stout and brave,

Still, like muffled drums, are beating

Funeral marches to the grave.

 

In the world’s broad field of battle,

In the bivouac of Life,

Be not like dumb, driven cattle!

Be a hero in the strife!

 

Trust no Future, howe’er pleasant!

Let the dead Past bury its dead!

Act,—act in the living Present!

Heart within, and God o’erhead!


Lives of great men all remind us

We can make our lives sublime,

And, departing, leave behind us

Footprints on the sands of time;—

 

Footprints, that perhaps another,

Sailing o’er life’s solemn main,

A forlorn and shipwrecked brother,

Seeing, shall take heart again.

 

Let us, then, be up and doing,

With a heart for any fate;

Still achieving, still pursuing,

Learn to labor and to wait.

 

悲しげな調子で言わないでください、

人生は儚い夢だ!と。

眠っている魂は死んでいるも同然、

その魂が見るものは真実ではない、

 

人生は現実だ! 人生は本質だ!

そして人生のゴールは墓場ではない;

塵から生まれ、塵に還る、

魂のことではない。

 

最終の目的地、進む先は、

喜びでもなく、悲しみでもない、

行動すること、今日の行動が明日を導き、

明日の行動がそのさらなる明日を生む。

 

芸術は長く、時の流れは速い、

我々の頑健で勇敢なる心臓も、

常に、重苦しい太鼓のように、ビートを刻む、

それは墓場へと向かう葬送行進曲。

 

この世界の広い戦場で

人生の野営地で、

黙って追い立てられる家畜になるな!

戦い、英雄となれ!

 

未来を信じず、今を楽しめ!

過去は死んだ過去に埋葬させよ!

行動あるのみ 生きている現在に行動せよ!

心に勇気を、頭上に神を抱いて、


偉大な人々の人生は教えてくれる

我々も人生を昇華できると、

死んだときには、

時の砂の上に残した足跡を残せることを

 

その足跡を、ひょっとしたら他の誰かが、

人生の大海原に船を進め、

侘しく難破した仲間が

見つけ、勇気を奮い起こすことだろう。

 

やらせておくれ、奮起して励もう、

どのような運命が待ち受けようが勇気を持って;

必ずやり遂げ、絶えず追い求め、

力を尽くし、待つことを学ぼう。