2024年10月6日日曜日

1-11. 日本と皇室を守った和気清麻呂

 皇居の東側、気象庁前のお堀端に和気清麻呂の銅像があります。日本歴史上勲一等の功臣ですが、道行く人は関心もなく通り過ぎます。

 歴史上、あまたの英雄豪傑偉人がいる中で、皇居周辺に銅像が建っているのは、西の楠木正成と、東の和気清麻呂の二人だけです。貴族文官からひとり。和気清麻呂は戦後、歴史からまったく消されてしまった人物ですが、戦前戦中の日本人なら学歴・居住地に関わりなく、誰でも知っていた人物です。ところがいまでは東大を卒業していても和気清麻呂を知らない。これはたいへんなことです。

和気清麻呂といえば、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、これに抗し、天朝を守り、そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前に改名させられた挙句、大隅国(鹿児島県)に流罪となり、後に赦されてからは、広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、また現在の京都である平安京への遷都を進言し、その造営を図った我が国の歴史上の大人物です。

和気清麻呂は、約1350年前の奈良時代末期に『皇室を貴ぶ日本の在り方』を守り救いました。この人がいなかったら間違いなく皇室は途絶え『焚書坑儒』で古事記も 日本書記も抹殺され、日本の歴史は塗り替えられていたことでしょう。日本人なら決して忘れてはならない大偉人です。

奈良時代から戦前まで千年以上、日本歴史上の最重要人物の一人として尊崇され、戦前の歴史教科書では『和気清麻呂、道鏡事件』 は大きく取り上げられ、明治23年~昭和14年まで50年間 十円紙幣(今の1万円紙幣に相当)に肖像画が使われていました。しかし敗戦・GHQの歴史改竄指令により、和気清麻呂や楠木正成などの日本にとって重要な歴史的偉人は記述が禁止され、日本人の記憶から消去されました。

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で名実ともに独立を取戻しましたが、独立したはずの私達 日本人は70年以上も『強制された間違った歴史・消去された歴史』をそのままにしています。日本の歴史的重要人物を 『和気清麻呂って誰? 何をした人?』 と全く忘れ去っていること何とも情けなく、先祖から『それで日本人と言えるのか、何という体たらくだ!』とお叱りを受けるのではないでしょうか?

和気清麻呂と言えば『道鏡事件』です。

神武天皇以来 守られてきた『男系で継承されてきた万世一系の皇統』が、悪徳僧侶の道鏡が天皇になろうとして 天皇家が消滅する寸前になった事件です。それまで幼少皇太子の繋ぎとして女性天皇は数例ありましたが、何れも世の中が乱れ、更に道鏡事件以降『例えピンチヒッターでも女帝は危ない』という認識が決定的となり、約900年女帝はでていません。 例外的に江戸時代2名出ていますが、明治維新の皇室典範で 『男系男子に限る』 と明文化されました。

第45代聖武天皇は、治政下の25年間 災害や天然痘が多発し、その平癒のために、奈良東大寺や全国 に国分寺を建立し、仏教を基幹とした政治を確立しました。その聖武天皇には男子が育たず、31歳の娘を 次の男系天皇が成人になるまでの繋ぎとして譲位させました。孝謙天皇=当時の女帝は全て独身。未婚か未亡人)  その孝謙女帝の病気を祈祷で治したとして道鏡は寵愛を得て政界に進出。病の為上皇となっていた女帝は764年に道鏡を引き立てるために重祚(再登板47歳)して称徳天皇となり、道鏡を僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣とし、766年には法王の称号と天皇と同格の権力を与えました。

そして名実ともに天皇になろうとした道鏡は、宇佐八幡宮と結託し『道鏡を皇位につければ天下は平定されるという信託が出た称徳天皇に上奏しました。・・さすがに称徳天皇は勝手に譲位できず、神勅を再度確認するために側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を派遣しようとしましたが、法均尼は 『私は虚弱で長旅は堪えられないため、代わりに弟を派遣してください』 と推挙し、和気清麻呂が宇佐八幡宮へ赴き神託を確認する事になりました。

道鏡と結託した神官は再度 『道鏡を天皇にすべし』 が神託だと伝えましたが、清麻呂はこれを道鏡の陰謀であると見抜き、直接大神に顕現を願うと『臣が君になること未だなく、道鏡はよろしく除くべし』の神託がありました。帰京してこの信託を報告すると、女帝と道鏡は激怒しますが、公式派遣の神託ですので受け入れざるを得ませんでした。女帝と道鏡には寵臣以上関係があったと伝えられます。)

女帝と道鏡は野望をくじかれて激怒し、和気清麻呂を 『別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)』と改名させ、大隅国(鹿児島)へ流罪とし、配流の途中に殺害しようと刺客を放ちます。しかしイノシシが300頭も現れ清麻呂を守り殺害は失敗します。(イノシシと伝えられていますが、女帝と道鏡の醜聞まみれの専横に危機感を抱いていた清麻呂の支持者300人が守ったとみるべきでしょう。)

770年に称徳天皇が崩御すると道鏡は後ろ盾を亡くして失脚、下向先の下野で2年後に没しました。 清麻呂は直ぐに京に呼び戻されて復権、 光仁・桓武天皇に深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍して、796年には従三位に叙せられ公卿の地位についています。

約1100年後の嘉永4年(1851年)、幕末期の孝明天皇は、和気清麻呂を「天皇家を守った勤王の臣」と称え、正一位および 「護王大明神」 の神号を授与し、京都御所西に護王神社が建立されました。


和気清麻呂の流罪先は長年不明でしたが、幕末期に島津斉彬が調査して確定し、記念の松を植えました。そして昭和21年(1946年)にその地に和気神社(鹿児島県霧島市牧園町)が建てられました。


また岡山県和気郡和気町には、和気氏の氏神として鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、1591に社殿が大雨で流されたため現在地に遷座し、和気清麻呂公、姉の和気広虫姫を祭神に加えています。

 皇居前の和気清麻呂像、京都・岡山・鹿児島の和気神社の近くにいく機会があったら是非お参りして、日本を救った偉人としてこれからも大事に語り伝えていきたいものです。

  最近、こういう日本の大事な歴史事実が軽視され、歴史教科書にも記載されず、殆どの国民が知る機会もなく忘れ去っています。

そういう中で、女性天皇や女系天皇の是非が無責任に論議されたりしています。そういうとき道鏡事件を思い起こす必要があります。・・神武天皇以来守り続けてこられた天皇家の譲位に際しての『男系男子に限る』という定め・伝統を無視した議論は、誠に恐れ多く無責任なことです。

 また、秋篠宮家、真子様は、道鏡事件の教訓、皇室の在り方(一般国民との違い)を どう考えておられるのか、とても気になるところです。

「滅亡する民族の3つの共通点」 歴史学者 アーノルド・J・トインビー

国の歴史を忘れた民族は滅びる

②全ての価値を物やお金に置き換え 心の価値を見失った民族は滅びる

③理想を失った民族は滅びる



1-11. 古事記物語1「天と地の始まり」

 はるか遠い昔、世界の一番初めの天と地の区別もないころ、高天原と呼ばれる天上の国に、世界の中心となる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が生まれました。続いて世界に色々なものをつくるタカムスビ神とカミムスビ神が生まれました。

この世界のはじめは、ただ天上に高天原があるばかりで、地は水の上に油が浮いているようなもので、クラゲのように頼りなく流れていました。そこに天にむけて勢いよく伸びていく神が二人生まれました。また油のようなものが次第に固まって地面らしくなる間に、男神と女神が7代にわたって生まれました。この一番後に生まれたのが男神のイザナギ神と、女神のイザナミ神です。そこで一番偉い神の天之御中主神は二神に命令しました。

「地面はまだ油のようにドロドロして固まっていない。だからお前たち二人で、人が住めるように作り上げなさい」

こういって綺麗な飾りのついた天沼矛(アメノヌボコ)を与えました。



命令を受けたイザナギ・イザナミ神の二神は、天と地のあいだに架っている天の浮橋の上に立って、海の上を見下ろしました。そして天沼矛を、油の漂っているところに突っ込んで ぐるぐる混ぜました。すると次第に油が冷えて固まるように形を成してきました。しまいに矛を海から引き上げると、その先から一滴また一滴と濃い潮がしたたり落ちて、積もり積もって島となりました。この島をオノゴロ島といいます。

二神は喜んで、新しい島へ降りていき、島の程よいところに太い天之御柱を立て、その周りに大きな御殿を作りました。そして二神で夫婦になろうと思い天之御柱を回って結婚式を挙げることにしました。



男神は柱の右から、女神は左から回り始めましたが、両方からやってきて顔を合わせた時に、まず女神の方が「あなたは、なんていい男なんでしょう!」と、続いて男神も「あなたは、なんていい女なんだろう!」と言われて結ばれました。こうして生まれたのは手足のない水蛭子でした。二神は悲しみ、その子を葦船に乗せて流されました。

二神は高天原に帰り天つ神に相談したところ、女神の方から声をかけたのが良くないと分かりました。さっそく二神はオノゴロ島に戻り、再び天之御柱を回って、今度はイザナギ神から先に「あなたは、なんていい女なんだろう!」、イザナミ神が続けて「あなたは、なんていい男なんでしょう!」と言われて結ばれました。そうすると次々と立派な国が生まれました。はじめが淡路島、次に伊予(四国)の島、隠岐の島、筑紫(九州)の島、壱岐、対馬、佐渡、最後に大倭豊秋津洲(本州)の八島です。そこでわが国の事を大八島の国というのです。



次に二神は、大八島に住むべき神々をお生みになりました。家の神、川の神、海の神、農業の神、風の神、野の神、山の神、船の神、食物の神などです。しかしイザナミ神は一番最後の火の神を生んだときに大火傷を負い、それが元でこの世を去り遠い黄泉の国に旅立ってしまいました。 

大事な妻に先立たれたイザナギ神は、身を悶えて男泣きに泣きました。妻の亡骸を葬ったあとも悲しみは募るばかりで、こんな不幸の原因になった火の神の首を腰の剣で切りました。すると火の神から炎がほとばしり沢山の神が生まれました。武器の神、雨の神、などの16神です。そんな腹いせをしても悲しみは消えません。どうしても妻に会いたい気持ちを抑えられず、決心して遠い黄泉の国へイザナミ神を追いかけていきました。

すると黄泉の国のイザナミ神が住まわれる御殿の固く閉じた扉が開きました。そこでイザナギ神が「美しき我が妻よ、私とあなたが作る国はまだ出来上がっていない。一緒に帰ろう」と言われると、イザナミ神は「もう少し早く迎えにきてほしかった! 私は黄泉の国の食べ物を食べたので、この世界の住人になってしまいました。もう戻ることはできません。でもあなた様がせっかくいらして下さったのですから、何とか帰りたいと思います。黄泉の国の神々と相談してまいりますので、その間、決して私を見ないと約束してください。」と答えました。

それっきりで、もう声は聞こえてきません。あまりに待たされるので待ちきれなくなったイザナギ神は、約束を破って御殿の中に入りました。中は真っ暗闇ですので、髪の櫛を取り一本折って火をつけました。すると光に照らされた妻は、腐敗し蛆にまみれ、体からは恐ろしい雷神が生まれて怖い顔で番をしていました。 

驚いて怖くなったイザナギ神は一目散に逃げだしました。ところが醜い顔を見られたイザナミ神は「あなたは約束を破って、恥ずかしい私の顔を見たわね!」と黄泉の国の恐ろしい醜女たちに後を追わせました。

必死に逃げるイザナギ神は追いつかれそうになり、髪に巻いた蔓草を投げました。するとツタが勢いよく茂り葡萄の実がなり、醜女達は葡萄にむしゃぶりつきました。その隙をついて逃げますが、猛烈な勢いでブドウを食べつくした醜女達は、その後もしつこく追ってきます。そこでイザナギ神は髪の左右にさしていた櫛を投げつけると、今度は筍が生えてきました。醜女達は筍を抜き次々に食べますので、またこの隙に逃げました。 

 しかし追ってくるのは醜女達だけではありませんでした。八種の雷神と千五百の黄泉の軍勢も追ってきます。どれも怖い顔をした恐ろしい悪霊です。イザナギ神はようやく黄泉の国と現実の世界の境にあたる黄泉比良坂に差し掛かり、そこに一本のモモノ木を見つけました。急いで桃の実を三個取り投げつけると、どういう訳か、悪霊たちはすっかり勢いを失い逃げ帰りました。桃の実に助けられたイザナギ神は 桃の木に「私を助けてくれたように、地上のうつくしき人々が苦しみ悩むとき、同じように助けなさい」と仰せになりました。 (下の絵は、青木繁「黄泉比良坂」)


 ところが最後の最後に、イザナミ神が、腐り蛆がわいた自らの体を引きずりながら追ってきましたので、イザナギ神は千人がかりで漸く動かせるという巨大な岩で黄泉比良坂を塞ぎました。そうして二神は岩を挟んで向き合いました。イザナギ神が夫婦離別の呪文「事戸」を述べると、イザナミ神は「愛しいあなたがそのようなことをするのであれば、あなたの国の人々を一日に千人絞め殺しましょう!」と恐ろしい声をあげました。それに対しイザナギ神は「愛しき妻がそのようなことをするのであれば、私は一日千五百の産屋を建てよう!」と仰せになりました。かくして現世では一日に必ず千人が死に、千五百人が生まれるようになりました。

 このように、イザナミ神は黄泉の大神として、そしてイザナギ神は現生の大神として、全く別の道をお進みになることになったのです。

1-11. 古事記物語2「天照大神誕生」

 イザナギ神は「どうして私は、あんな死人の住む、醜い、きたならしい国へ、わざわざ出かけていったのだろう? そんな良くないことをしたので、体がすっかり穢れてしまった。よく水で洗って清めよう」と考えました。

そこで日向の橘小戸の阿波岐原に出かけていきました。そこは海へ流れ込む河の入り口にあり、橘の葉が青々と茂り、朝日がキラキラと差し込む景色のいいところです。そこで着ているものをぬいで、みそぎという儀式を行いました。



まず手にした杖を捨て、帯を解き、腰の裳を脱ぎ、その下にはいていた袴を脱ぎ、冠も取りました。そして両手につけていた玉の腕輪も外して裸になりました。こうしたものを順々に脱ぎ捨てていく間に、からだにつけていたものから12人の神が生まれました。

そして裸のまま、朝日のさしている河の流れに目をやって、

「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがゆるやかだ。」と言って、真ん中の瀬のあたりに行き、冷たい水の中にくぐって、からだに水を注いで洗い清めました。この時、からだについていた穢れが落ちて、4人の神が生まれました。さらに、水の底や、途中や、表面に出て体をそそいだ時に、6人の神が生まれました。

その次に左の目を洗うと、太陽のように美しい女神「天照大神」が生まれました。それから右の目を洗うと「月読の命」が、その次に鼻を洗うと「須佐之男命」が生まれました。



この三人のこどもたちを見て、イザナギ神は喜んで、こう叫びました。

「わたしはこれまでに沢山の子供を生んだが、一番おしまいに、世にも尊い三人の子どもたちをももうけたことは、本当にうれしいことだ!」



そこで、玉という玉がお互いにふれあって、きれいな音を響かせている首飾りを外して天照大神に渡し「おまえは私の代わりに、高天原を治めよ」と命じました。

月読の命には「おまえは夜の国を治めよ」と命じました。

須佐之男命には「おまえは海の上を治めよ」と命じました。



こうして昼の国と、夜の国と、海とが、三人の子どもたちの手に委ねられ、夫々の国を治めることになりましたが、一番下の須佐之男命だけは、言いつけを守りませんでした。海の上を治めるように言われたのに仕事を始めず、朝から晩まで泣きわめいています。

時がたって、もうすっかり大人になって顎の下のひげが胸まで垂れ下がってきても、地団駄踏んで泣きわめいていました。その鳴き声の激しい事と言ったらまるで暴風雨のようで、青々と草木の茂った山が、鳴き声で枯れ木の山となり、波の騒ぐ海や河が、水の一滴まで乾いてしまうほどの勢いでした。国を治める人がこんな有様ですから、悪い神々が隅々から騒ぎ出し、五月の蠅がブンブンいって沸き立ったような大騒ぎになりました。



イザナギ神は、この様子をみて心配になり「どうして国を治めず泣いてばかりいるのか」と尋ねられると、須佐之男命は「私は亡き母のすむ根の堅州国に参りたいのです。だから泣いているのです」と答えられました。須佐之男命はイザナミ神を母と思っていたようです。それを聴いたイザナギ神はたいそう怒って、「それならばお前はこの国に住んではいけない」と追い払いました。

追放された須佐之男命はその後どうなってしまうのでしょう。ここからは天照大神と須佐之男命を中心とする新しい物語が展開します。



1-11. 古事記物語3「天照大神の怒り」

 (古事記は壮大な神話・歴史ドラマなので、中々読み通すことができませんが、 「まんがで読む古事記」全7巻(久松文雄:青林堂)は、原作に忠実で分かり易く、絵もきれいなのでお勧めです)

 父神から追放された須佐之男命は「それでは仕方ありません。お姉さんの天照大神に別れ告げお母さんの国に出かけましょう」と、高天原へ登っていきました。天照大神の方は知らせを聞いて吃驚しました。何しろ、乱暴者の弟が次第に近づいてくるにつれて、山も河も轟々と鳴り響き、まるで地震のように地面が揺れます。「弟が別れを言うために、わざわざ高天原に来るとは思えません。きっと私の国を奪いに来たのでしょう」と大神は考えました。そこで完全武装して尋ねました。「おまえはなぜ私の国にやってきたのです」


須佐之男命は「私に邪心はありません。ただ父神から、私が泣きわめく訳を聴かれたので『私は、亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです』と申し上げました。すると父神は『おまえはこの国にいてはならない』と仰せられ追放なさったので、姉君においとましようと参上したのです。やましい心はありません」と答えました。

しかし天照大神は納得できず「ならば お前の心が清明なことをどう証明しますか?」と聴くと、須佐之男命は「ならばお互いに誓約(うけい)をして子を産みましょう」と提案します。誓約とは 予め決めたやりかたで現れた結果で吉凶を判断する占いの一種です。

姉弟は天の安河を挟んで立ち、まず天照大神が、弟の腰の剣を受取り三段に折って河のほとりの真名井の湧き水ですすぎ、それを口に入れて嚙み砕き、ふっと噴出した息の霧から三人の娘が生まれました。宗像三女神の多紀理姫、沖津島姫、多岐都姫です。

今度は須佐之男命が、姉から玉飾りを貰い、同じように真名井の湧き水ですすぎ、それを口に入れて嚙砕き、ふっと噴出した息の霧からは、天忍穂耳命(瓊瓊杵尊の父)をはじめとする五人の男神が生まれました。

 誓約の儀式が終わると、天照大神は「後から生まれた五人の男の子は私の持ち物から生まれたので私の子です。初めの三人は、お前の持ち物から生まれたのだからお前の子です」と言われました。


すると須佐之男命は勝ち誇り「私の心が明るく清いから、たおやかな女の子が生まれたのです。だから私の勝ちだ!」と勝ち誇り、天照大神の田の畔を壊し、溝を埋め、神聖な御殿に糞をまき散らして、高天原で大暴れしました。

 この酷い乱暴狼藉にもかかわらず、天照大神は「糞をまいたというのは、酔って吐いたものでしょう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、耕せば良い田圃になると思ったのでしょう」とかばい続けます。しかし弟の悪態は度を増し、天照大神が神の衣を織らせていた機織小屋の屋根に穴を開け、そこから皮をはいだ馬を投げ入れました。機織女たちは驚き、そのうちの一人は驚きのあまり道具にぶつかり死んでしまいました。



 これには天照大神もカンカンに怒り、天の岩屋の洞窟に入り、入り口をぴたりと閉めて、もう出てこようとはしません。天照大神は日の神、太陽の神ですから、天にある高天原も、地上の国も、いっぺんに真暗闇になってしまいました。太陽がない夜だけの世界になり、今まで隠れていた悪い神々が騒ぎ、色々の災いがいっぺんに生じてきました。




1-11. 古事記物語4「天の岩戸」

  天地が真暗闇となった事態に、八百万の神は困り果て、天の安河原に集まり色々話し合いますが良い考えは出ません。そこで「知恵の神」と尊敬される思金神に相談しますと、思金神の考えたのは「祭」でした。早速 神々は祭りの準備に取り掛かります。



まず、暗闇の中ででも、長く尾を引いて鳴く鶏を沢山集めて、岩屋の前でひっきりなしに鳴かせました。鶏を鳴かすことは太陽の出現を促す呪術だったからです。次に鍛冶の神に命じて八咫鏡をつくらせ、玉造の神に命じて長い玉飾りの八尺勾玉を作らせました。これで必要な神器が揃いました。(この時作られた鏡と玉が、のちの天孫降臨の時に地上にもたらされた天皇皇位の印である『三種の神器』のうちの二つです。)

そして天の香具山から枝ぶりの良く茂った榊を根ごと掘出し、岩屋の前に立てました。そして八尺勾玉を上の枝に取りつけ、八咫鏡を中の枝に取り付け、白や青の布を下の枝に取り付けました。そして二人の占いの神が、なにとぞ早く日の神が岩屋から出てきてくださいますようにと祝詞をのべ始め、一番の力持ちの天手力男神がこっそりと岩屋戸の端に隠れました。



神楽が始まり天宇受売命が踊り始めました。天の香具山の蔓を襷にかけ、真榊を髪飾りにして、手には笹の葉を束ねて持ち、逆さにした桶の上で踏み鳴らし、手拍子足拍子も面白く、着物はだけて胸乳や腰もあらわに、おもしろおかしく踊りまくりました。八百万の神々はすっかり喜んで手を叩いて笑い転げたので、高天原が揺れ動くかと思われました。(下の絵は、小杉放菴「天宇受売命」出光美術館蔵)



この時、天照大神は不審に思い、岩屋戸を少し開けて内側から次のように言われました。「私が洞窟の中にこもっているから、高天原も地の国も真暗のはずだけど、この騒ぎはどうしたことです。天宇受売命は何故そんなに踊っているのです? 見物の神々は、どうしてそんなに大声で笑うのです?」

天宇受売命はそれにこたえて「あなた様より尊い神が、ここにおられますので、私達は嬉しくてなりません。それで笑ったり踊ったりしているのです」と申し上げました。



こうしている間に二人の占いの神が、岩屋戸の隙間に八尺鏡を差し入れました。すると天照大神は鏡に映るご自身の姿を、自分と同じような太陽の神が別にいると勘違いして、びっくりされました。そして不思議に思い、ゆっくりと岩屋戸から外を覗こうとしたとき、戸の脇に隠れていた天手力男神が、天照大神の御手を掴んで外に引き出し、すかさず占いの神が、後方の岩戸に注連縄を張って「これより内側には二度とお入りにならないでください」と頼みました。


こうして天照大神が再び姿を現したので、高天原も地の国も、また以前のように明るく照り輝くようになりました。大事件はめでたく収まったのですが、その原因となった須佐之男命をどうするかと、八百万の神は再び天の安河原に集まって会議を開きました。その結果、須佐之男命には罪穢れを祓うための品々を納めさせ、髭を切り、手足の爪を抜いて、高天原から追放しました。 ここからは須佐之男命の新しい物語が展開します。



1-11. 古事記物語5「八岐大蛇」

  高天原を追放された須佐之男命は、出雲の斐伊川の鳥髪に降りました。

 お腹を空かせて上流 下流どちらに行こうと迷っているときに、上流から箸が流れてきましたので、川上に誰か住んでいると思い、上流に向かって歩き始めました。すると立派な屋敷に行き当たりましたが、どういう訳か老夫婦が娘を挟んで泣いています。

 名を尋ねると「私はこの国を治める大山津見神の子で足名椎(アシナヅチ)で、妻は手名椎(テナヅチ)、娘は櫛名田姫(クシナダヒメ)です」と答えます。続けて泣いているわけを尋ねると「私達の夫婦には、はじめ八人の娘がいたのですが、毎年八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が来て一人ずつ食べてしまうのです。残りはこの娘一人になってしまい、今日その怪物がやってくるのです。たった一人残った娘まで食べられてしまうのかと思うと、悲しくて泣いている訳です」 さらに「その怪物は、どんな形をしているのか」と尋ねると、「それは恐ろしい奴で、眼はホオズキのように真赤で、頭は八つ、尾が八つ、胴体には苔がむして、その上に檜や杉などの木が生え、体の大きさは八つの谷、八つの峰にわたり、その腹はいつも血だらけで、赤くただれています」と震えながらおじいさんは答えました。


須佐之男命は武者震いをして、「よろしい、私が退治してあげよう。その代りあなたの娘を私の妻にください」と言いました。おじいさんは、この旅の若者が、怪物の話を聴いてもビクともしない様子を見て、これはただの人ではないと思いました。そこで名前を尋ねると、須佐之男命は名前を名乗り、「私は天照大神の弟です。ちょうど今天の国からこの地の国へと下ってきたところです。

これを聴いて足名椎も手名椎もびっくりして「そんな立派な方とはぞんじませんで、失礼しました。娘は喜んで差し上げます」と言いました。櫛名田姫もたいそう喜びました。そこで須佐之男命は、その娘を櫛の形に変えて自分の髪に刺して、怪物を退治するための準備をするよう足名椎と手名椎に命じました。

「八度醸造した強い酒を用意し、垣根を巡らせて八つの門をあけ、門を入ったところに酒樽を置いて強い酒で満たして待ちなさい」

 そして準備が整い、怪物が現れるのを待っていると、本当に聴いた通りの姿をした八岐大蛇が現れたのです。八岐大蛇は八つの酒樽にそれぞれ頭を突っ込んで、がぶがぶと強い酒を飲み始め、暫くすると酒が回ってその場でぐっすりと眠ってしまいました。須佐之男命の目論見通りです。



 そこで須佐之男命は腰の十拳剣を抜いて寝ている大蛇の頭を一つずつ切り落としていきました。真っ赤な血がほとばしり斐伊川は朱に染まりました。胴体も切り刻んだのですが、最後にしっぽを切り刻んでいる時に手にした剣の刃がポロリと欠けました。これは怪しいと尻尾を切り裂いてみると、中からそれは神々しい「天叢雲剣」が出てきました。

 須佐之男命は、高天原の天照大神にこのことを報告して天叢雲剣を献上しました。これがのちの草薙剣で、皇位の印「三種の神器」の一つとなります。

 戦いが終わり、須佐之男命は出雲で新婚のための宮殿を作るべき場所を探されました。そして「この地は私の心がすがすがしい」と言われその地に宮を作って住みました。それ以来この地を「須賀」と言うようになりました。(島根県雲南市大東町須賀)

 須佐之男命が須賀の宮殿をつくられたとき、その地から白い雲が重なり合って立ち上るのが見えました。そこで次の歌を詠みました。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 「雲の湧きおこる出雲の国に七重八重に雲がわく、八重の垣根を巡らすように。私と妻はその中に」(この歌が日本最初の和歌です。)

 そして足名椎を宮殿の首長に任命し、櫛名田姫と結婚式を挙げて幸せに暮らしました。この須佐之男命の六世の孫にあたるのが「大国主命」で、次の話の主人公です。

 なお須佐之男命は、須賀の宮殿に長い間いましたが、のちに、はじめの望み通りお母さんの国である黄泉の国に旅立ちました


1-11. 古事記物語6「大国主命の受難」

 「古事記で一番尊敬する神は?」と問われたら、私は即座に「大国主命!」と答えます。最初の因幡の白兎から胸を打つ逸話が続きますが、特に最後の「国譲り」の話は、「争いでなく話し合いで平和を築く日本の在り方」を決定づけました。平成15年(2003)、出雲大社を訪問された美智子皇后陛下(当時)は次のお歌を詠まれています。

 国譲り 祀られましし大神の

       奇しき御業を 偲びて止まず

 大国主命は沢山の別名を持ちますが、それだけ逸話の多い偉大な神様だったという事です。童謡「大黒様」ではこう歌われます。「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡の白兎、皮をむかれて赤はだか」

大黒様とは、大国主神(この時の名前は大穴牟遅神)のことで、大きな袋の中は、八十人もいた沢山の兄神(八十神)の下着や服や持ち物が入っていました。大国主神は一番下の弟神なので八十神の荷物を持たされ、荷物が重くて八十神よりだいぶ遅れて歩いていました。行く先は因幡の八上姫のところで、八十神は皆、自分のお嫁さんにしようと思い先を争い、下の弟に荷物を持たせて召使のような扱いをしていました。

こうして一行が気多の岬まで来た時のことです。皮を剥がれた白兎が海岸で震えて泣いていました。皮を剥がれたのは、海のサメを騙したのでかまれて皮がはげたのです。八十神は、その可哀そうな白兎を見て「塩水で身体を洗って風にあたってかわかせば治る」と嘘を教えいじわるをしたのです。苦しむ兎は教えられたとおりに塩水で洗って風にあたっていると、身体がひりひりと死ぬ痛みで、サメに噛まれた時よりももっと苦しみました。

大国主神は、兎が苦しんでいるところへ通りかかり、話を聞いて、海の塩水ではなく川の水で身体を洗い、ガマの穂綿で身体をつつんで休みなさいと教えました。すると兎は傷が治って元の身体になりました。大穴牟遅神は、このようにやさしい神様でした。

八十神たちは、因幡の八上姫のところへ到着していました。そして代わる代わる色々なことを話してお姫さまの気を引こうとしますが、元々意地悪な八十神たちですので、八上姫は知らん顔で話は聞きません。そこへだいぶ遅れて大国主神が到着しました。荷物が重い上に兎の傷を治してやったりしたので、すっかり遅れてしまったのです。

八上姫は、大国主命を一目見るなりその優しさがわかり、すっかり気にいって大国主神と結婚すると宣言しました。これを聴いた兄神たちはカンカンに怒って大国主命を殺そうと相談しました。そして出雲への帰り道で大国主命をだまして「山の上から赤い大きなイノシシがおりてくるから下にいてつかまえろ」と命令し、山の上から真っ赤に焼いた大岩を投げ落としました。そんなこととは知らない大国主命はしっかりと受け止めましたが、身体が焼かれて大やけどを負い死んでしまいました。(下は青木繁「大穴牟遅命」)



これを見たお母さんは、たいへん嘆き悲しんで高天原の神様に大国主命を助けてくださいとお願いをしました。高天原の神様は、キサガイ姫とウムガイ姫という二人の貝の神様をおくりました。この貝の神様の治療のおかげで大国主命は生き返ったのです。このことを知った兄神たちは、また、弟神の命をねらいだしました。そこで、お母さんはこのまま兄神たちと一緒にいたら大変なことになると思い、大国主命を根の国(黄泉の国)へ逃がしました。

根の国へ到着した大国主命が最初に出会ったのは須佐之男命の娘の須勢理姫でした。根の国を支配していたのは須佐之男命だったのです。須勢理姫は大国主命が美男子で優しそうな青年だったので、一目見るなり すっかり気に入り、父神に紹介すると、須佐之男命は一目で「これは大国主命だ」と一目で見抜きました。そしてこの神は自分より立派で娘が好きになったらしいと知って内心穏やかではありません。昔から乱暴者で知られた須佐之男命は誰よりも負けず嫌いだったのです。そこで恐い顔をして娘婿としてふさわしい男かどうかを試そうと思いました。

まず始めの夜は毒蛇がうようよいる部屋へ泊まらせました。その陰で須勢理姫はこっそり毒蛇をおとなしくさせる布切れを渡し、毒蛇が襲ってきたらこの布を三度ふりなさいと教えました。そのおかげで毒蛇はおとなしくなり、ぐっすりと眠ることができました。

須佐之男命は次の朝、元気な大国主命を見て吃驚し、次の夜はムカデとハチが一杯いる部屋へ泊まらせました。このときも須勢理姫が毒虫をおとなしくさせる布切れを渡し使い方を教えました。その通りにすると、たくさんの毒虫たちはみんなおとなしくなり、ぐっすりと寝ることができました。須勢理姫のおかげで二度の試練を無事に乗り越えました。

これには須佐之男命も吃驚して、中々すごい男だと心の中では思いましたが、娘の須勢理姫を嫁にやることは嫌で大変な問題を出しました。背の高さぐらいに草が生えている野原に大国主命を連れてきて、弓に矢をつがえ草原の中へヒューッと放ちました。そして、その矢を取って来いと命令したのです。大国主命はすぐに草原の中へ駆込みました。大国主命が草原へ駆込んだのを見た須佐之男命は草原の周りから火をつけたのです。大国主命がかけこんだ周りから火がすごい勢いで燃えてきます。このままでは焼け死んでしまいますが、どうすることもできず困っていました。

そこへどこからともなくネズミがあらわれ何かを言っています。耳をすましてよく聞くと「なかはほらほら、そとはすぶすぶ」と言っているではありませんか。「これは外は火が燃え上がっているけど、内はほら穴という意味か」と思い、足の下をドンと踏みつけると穴があいて体がすっぽりと入ってしまいました。火は穴の上を通り過ぎ、大国主命は助かりました。

そこへネズミが、須佐之男命が放った矢をくわえてあらわれました。その矢を持って大国主命は帰って来ました。須勢理姫は大国主命が焼け死んでしまったものと思い、悲しみながら葬式の準備をしていましたが、生きて帰ってきたのを見て大喜び、須佐之男命はしぶい顔で、なんてすごい男だと感心しました。

それでも須佐之男命は意地悪をして自分の頭の髪の中にいるシラミ取りを命じました。須佐之男命の頭の中にはシラミではなくムカデが一杯いたのです。須勢理姫は赤土と椋の実を大国主命に渡して椋の実を音をたてて噛み、赤土を口にふくんで吐き出し、ムカデを噛んで血のまじったものを吐き出していると思わせるように教えました。

須佐之男命はすっかり気を許して大いびきをかいて寝込んでしまいました。大国主命は、須佐之男命が寝ている間に長い髪を何本かの家の柱にしばりつけて、須勢理姫を背負い、須佐之男命の宝物の弓矢と大刀と琴を持って地下の国から抜け出しました。逃げ出す途中須勢理姫の持っている琴が木の枝にふれてボローンとものすごい音が鳴りひびきました。その音で目をさました須佐之男命は飛び起きましたが、髪が柱に縛ってあったので家を引き倒して、大国主命の後を追いかけました。

大国主命と須勢理姫はその間に根の国と地上の国の境目までやってきました。そこまで必死で追ってきた須佐之男命も、さすがに大国主命の見事さに立ち止まり、大声で笑いながら、遠くから二人に向かって言いました。「おれは、おまえたち二人を祝ってやる! おまえが持っている弓矢と大刀で、お前の兄神たちをやっつけて従わせ、須勢理姫を嫁にして、大きな宮を建てて、偉大な国主となって出雲の国を築け!」と祝福の言葉をおくりました。 こうして二人は出雲の郷をめざして出立し、立派な国つくりに励みました。

芥川龍之介は「老いたる素戔嗚尊」で、こう描いています。

【素戔嗚は「おれもお前たちを祝(ことほ)ぐぞ!  おれよりももっと手力を養え。おれよりももっと智慧を磨け。おれよりももっと仕合せになれ!」と祝ぎ続けた。この時、わが素戔嗚は、高天原の国を逐われた時より、八岐大蛇を斬った時より、ずっと天上の神々に近い、悠悠たる威厳に充ち満ちていた。

龍之介は老いたる素戔嗚に「力を養い智慧を磨いて文武を具え、人生の確かな幸福をつかめ!」と次の世代の船出を言祝ぐ老境の満足を吐露させています。龍之介の心に描く人生の理想がここに提示されています。私は30歳の頃、島根県浜田市出身の尊敬する上司 花田さんからこの話を聴き、素戔嗚尊と芥川龍之介がさらに好きになりました。

1-11. 古事記物語7「大国主神 国造」

 黄泉平坂まで追ってきた須佐之男命は、さらに大声で激励します。

「その生太刀と生弓矢で、お前の兄弟たちをやっつけろ。山の裾、また川の瀬に追って行って打ち払え。そしてお前は大国主神、そして国玉神となって国を作り、我が娘の須勢理姫を正妻として、出雲の山に、石を土台にして太い柱を立て、天空に千木を高く上げて、壮大な宮殿を建てるんだぞ! 」 こうして大国主命(大穴牟遅神)は、二つの立派な神様名を賜り、以降は大国主神となります。

 大国主神は言われたとおり、生太刀と生弓矢で、大人数の兄弟である八十神を山の裾、川の瀬ごとに次々と追い詰めて倒していき、そして初めて国を作りました。これが大国主神の国造りの始まりです。

 ところで大国主神には既に因幡の八上姫という妻がいました。そこへある日、大国主神が新しい正妻の須勢理姫を連れて帰ったのです。八上姫は正妻に遠慮して、自分の子どもを木の股に置いて実家に帰っていきました。それでその子を木俣神と言います。

 一族繁栄の為には沢山の子どもをもうけなくてはなりませんが、それにしても大国主神は恋多き神でした。あるときは越の国(新潟)に美しい沼河姫がいると聴き、求婚するために出かけて歌を詠まれました。(日本初の男女の問答歌。長くなるので省略)

 大国主神が遠征や恋で忙しく、正妻の須勢理姫は、国許で悲しい寂しい思いをしていました。大国主神が大和国(奈良)へ出陣するとき、須勢理姫があまりに寂しそうにしているので、妻に次の歌を詠まれました。

 愛しい我が妻よ、私が去って、

お前は「泣かない」と強がってはいても、

 嘆き悲しんで、きっと泣くだろう

 お前は美しい、一番愛しいと思っているのはお前だよ

かって二人は、根の国で運命的な出会いをして結ばれたのですが、須勢理姫は恋多き夫に嫉妬や怒りで苦しんでいました。しかし優しい夫のこの歌に気が晴れて、元々の美しい優しい女神さまに戻ったのでしょう。お酒の入った大盃を手にして、大国主神の側に近寄り次の歌を返しました。


八千矛の神、我が大国主命、

あなたは男ですから あなたの巡る

行く先々の島のどこにでも、

 もれなく若草のような妻を持つことができるでしょう

 けれど、私は女ですから、あなたのほかに男はおりません あなた以外に夫はいないのです

 さあ、綾織の絹のとばりの中で 柔らかな麻の寝具の下で

 淡雪のように白い私の若々しい胸に優しく触れて愛撫して抱擁してください

 そして私の白い腕も優しくなでて

 まるで玉のような私の手を あなたに巻き付けて

 手枕にしあって いつまでもお休みなさいませ

 さあ、あなた このお神酒を召し上がれ 

そして二人は盃を交わし、愛する心が変わらないことを固く誓い合い、仲睦まじく手をかけあって、今に至るまで出雲に鎮座しておられます。(縁結びの神と言われる由縁です) 大国主神は、その後も領土を広げながら三人の妻を娶り子孫を繁栄させました。地方の権力者の娘と結婚することは、その土地の霊力を手に入れることと考えられていました。



 大国主神が出雲の美保岬にいた時、海の方を見ていると、沖合から小さな船が近寄ってきました。その小さいことと行ったら、船はガガイモのさやが二つに割れたのが船なのです。乗っているのが、これまたミソサザイの皮を剝いで着物にした、小人のような神なのです。それで上手に船を操りながら、大国主神のいる浜辺に近づいてきました。



 不思議な見知らぬ神ですが、上陸して名前を聴いてもニコニコして何も答えません。そこで何でも知っている山田の案山子神に聴くと「これは神生巣日神の御子、少名彦那神です」と答えました。「神生巣日神」は天地初発の三番目に生まれ、天照大神より古い偉い神様です。かって大国主命が八十神に殺されたとき生き返らせたのが神生巣日神です。 そこで大国主神は高天原に登り、神生巣日神のところに連れて行きました。

すると母神の神生巣日神が言うには、「確かにこの子は私の子です。沢山いる子供のうちで、小さすぎて、私の指から零れ落ちた子どもです。と言っても、とても賢い子だから、大国主神は、この少名彦那神と兄弟になって、一緒にその国を作り固めなさい」

こう命じられましたので、それから二人の神は、力を合わせて国造りの仕事をしました。この小さな神は色々なことを知っており、その賢さには大国主神も目を見張りました。薬草を教え、稲を育てるのに適した土地を教え、二人の協力で各地に木を植え、荒れ地を開墾して穀物生産の大地を広げました。少名彦那神は正しく知恵の神でした。農業技術の知識により、豊饒な国づくりに貢献したのです。

ところが仕事が終わらないうちに、少名彦那神は常世国に去っていきました。

良き相棒を失った大国主神は「自分一人でどうやって国を作って行ったら良いのだろう。どの神と国をつくれば良いだろうか」と悲しんでいました。

このとき、遠い海の沖から、海一面を光り輝かせながら、近づいてくる神がありました。そして大国主神を光で包みながらこういいました。「私をしっかり祀るならば、私が一緒に国をつくろう。もしそうしないなら国は成り立たない」



大国主神は「ではどのようにして祀り奉れば良いでしょうか」と尋ねられると、その神は「私を大和の国を青垣のように回っている山の、東の山のてっぺんに祀りなさい」と答えられました。この光の神は、御諸の山(奈良県の三輪山)に鎮まる大物主神で、森羅万象に宿る目に見えない力を象徴している存在です。 このあと大国主神が大物主神を祀ってから、農耕の国造りは大きく発展しました。

出雲大社の祝詞最後に「くしみたま(奇魂)さちみたま(幸魂)まもりたまえ(守給) さきわへたまえ(幸給)」と唱えられます。この詞は大国主命が伝えられた言葉とされています。
神の姿には荒々しい魂である荒魂と、恵みをもたらす和魂があります。 恵みをもたらす和魂は、さらに幸魂奇魂に分けられます。幸魂は人に幸を与え収穫をもたらし、奇魂は奇跡によって幸を与えるとされています。 大国主命は、国造りの半ばで
少名彦那神を失い、困難に直面した際に「幸魂奇魂」の存在を知ることとなります。そして自分自身の中に潜む「幸魂奇魂」の霊力により、国造りの偉業を成し遂げ「縁結びの神」になられたというわけなのです。

名前を多く持つ『大国主大神』は御神格も多く、そのご利益もたくさんお持ちであると言われています。なぜこれほどまでに多くの名前をお持ちであったのか?それは国造りをする上でも、色々と多くのお役目を果されていたからだと考えられています。