2026年5月3日日曜日

1-5. 神父になった学友と長崎原爆

  高校時代の野口君は、宮沢賢治の詩 『雨ニモマケズ・・イツモシズカニワラッテイル・・』 の雰囲気の学友でした。 彼は神父さんを志しており『凄い男だ。そのきっかけは何だったのか?』とずっと疑問でした。そして50年ぶりに再会し、そのきっかけが父母やお叔父さんの長崎被爆体験だったと聴き本当に驚きました。以下はその彼との再会、そして彼から学んだ聖書の導きです。

  55年前、私が霧島山麓の田舎中学から宮崎市内のミッション高に進学した時、大きなカルチャーショックを受けました。国立大進学クラス50名の内35名は中高一貫生のエリート達で、常にトップの下村君は全国模試で一番になるほどの秀才、35名全員が洗礼を受けており、米国人マックリンデン先生に鍛えられた英語力はネイティブレベルでした。 高校編入組も高千穂中出身の甲斐君は勉学抜群の剣道有段者で、近寄りがたい雰囲気がありました。『頑張っても こりゃかなわん!』と早々に戦線離脱した私は、何かと拘束される学生寮を出てマイペースの下宿生活を送りました。
 そういう落ちこぼれの私にも、眩しいほど気になる学友がいました。それが野口君です。いつも穏やかでニコニコしており、神父を目指して日向学院中に入学したと聴き『なるほど!』と納得する雰囲気を持っていました。しかし迷える子羊(いや迷える狼!)で神様に顔向けできない私には、イエス様同様に彼は近寄りがたく、一度も話すことなく卒業し、その後は全く交流はありませんでした。

 2018年5月『卒業後50周年記念クラス会』 の企画があり、卒業後初めてみんなと会いました。残念ながらあの聖人学友の野口君は欠席でしたが、そうなると尚更会いたくなり、赤羽の星美学園の神父さんであることが分かり、電話して会いに行きました。 
50年ぶりに再会した野口君は、想像していた通り『"レ・ミゼラブル" で銀の燭台を与えたミハエル司教』のような暖かく包みこむような雰囲気の神父さんになっていました。

 『僕は未だに 増々迷える狼だけど・・・この50年間聖書を読んできて、益々疑問が募るばかりで、いくら考えても、誰に聴いても疑問は解けない。・・ぜひ野口君に教えてもらいたい。』と切り出した私は、彼の神父さんらしからぬ友人としての会話で、疑問が氷解していきました。以下はその記録です。(記憶をたどり順不同です。)

1. 野口君 高校卒業後の足跡
上智大哲学科に進学、当時学生運動真只中で、入学後2か月で構内はロックアウトされ講義が受けられなくなり、1年は全てレポートで単位認定する異常事態だったそうです。
上智大を卒業後、サレジオ神学校を経て、小平市にある『児童養護施設 東京サレジオ学園』 に36年間(後半20年間は園長)勤務しました。 学園生は最大130名、現在95名です。
児童養護施設とは保護者のない児童、虐待されている児童など、環境上養護を要する児童を入所させて養護する。また退所した後も相談や自立のための援助を行う施設】です。心に大きな傷を負った2歳~18歳までの子供たちを実父母になり代わって、心身共に健やかな若者に育て社会に送り出す】という本当に難しい仕事です。 誰にでもできる仕事ではなく、心の寂しい子供への深い愛情と博愛精神に満ち溢れる人にしかできません。その仕事を36年もやってこられた事に心から敬意を覚えます。

 2.(私)  なぜ神父を志したの?どうしてあんなに早く自分の人生を決められたの?
(野口君) 「僕が生まれる5年前、父が長崎で被爆した。当時造船所勤務だったので助かったが、浦上天主堂のミサに行ってたら生きていない。 母は長崎県北の田平に疎開していたが、長崎の実家にいたら死んでいて僕は生まれていない。 またのちに神父になった叔父がすぐ浦上天主堂に駆けつけたとき、瓦礫の中に頭部だけ焼け残ったマリア像を見つけた。それはのちに復興した天主堂に安置され、国連にも貸し出されて、原爆の悲惨さを伝えている。 ミサに参加していた信者は全員犠牲となったが、父も母も叔父も奇跡的に助かった。物心ついたときからその話を聴いて自然と神に仕える気になったように思う。」

 3.(私) 新約聖書は最初から騙された思いになる。マタイ福音書は 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まり、旧約聖書で描かれるアブラハム子孫の血統が延々と続く。そして最後が「・・ヤコブはマリアの夫ヨセフの父である。このマリアからイエスが生まれた」とある。つまりヨセフはアブラハムの子孫であるが、マリアはアブラハムの子孫ではない。なのに何故、神の子を宿した処女受胎のマリアから生まれたイエス(ヨセフの子ではない)がアブラハムの子、ダビデの子なのか?
(野口君)「それは、ヨセフもマリアも神の子につながる家族になったということだよ」

4.(私) 聖書の神は何故人間を疑い試すような事ばかりするのか。「エデンの園の禁断の実」「カインとアベルの供物への差別」「敬虔なアブラハムの息子イサクを生贄要求」・・・
     特に人間の情からして、最愛の息子を生贄にしろという命令は納得・理解できない。私も妻も「そういうひどい要求をする神様ならいらない!」と意見が一致している。

 5.(私)民数記で神はモーゼに 「イスラエルの敵であるミデアンの民を、女も子供も家畜も全て殺せ、全て焼き払え。男を知らない娘だけはあなたたちの為に残してよい」 と命じている。こういう恐ろしい教えが堂々と旧約聖書にあるから、ナチスのホロコーストや原爆や化学兵器など使った大量殺戮戦争や、アラブ過激派テロが正当化される。(ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書は共通に信じている)
(野口君)「旧約聖書が成立する頃、中東は数多くの部族が勢力争いをしており、部族の結束を強めるために、あのような厳しい戒律が必要だったのではないか。そういう歴史的環境を理解しながら聖書を読むと違った理解ができるよ。」

6.(私) 洗礼を受けたはずの西欧人の歴史は、イエスが山上の垂訓で教えたことと真反対の事が多い。「汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」とあるが、キリスト教圏復活の為に十字軍は1096年の第1回から、1272年の第9回まで約2百年間も敵イスラムを攻撃している。その他も数えきれないほど宗教がらみの戦争を行っている。
『悪人に手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬も出しなさいとあるのに、キリスト教信者のヒットラーは、イエスを十字架にかけた復讐としてユダヤ人を迫害し、清教徒は新天地を求めてアメリカに流れ着きインディアンに助けられながら、恩を仇で返してインディアン殲滅に走り、黒人奴隷社会の繁栄を築いた。近代でも、洗礼を受け聖書に手を置き宣誓するアメリカ大統領が「汝姦淫するなかれ」をケネディもクリントンも平然と破り恥じなかった。
(野口君)「それは、イエスの教えをよく理解していない人たちの間違った行動。イエスの教えを守り実践し続けることは本当に難しく厳しい狭き門だ。」

7.(私) イエスは、「100匹の羊の中の1匹が迷い出たら、99匹を残し迷える羊を助けよ」と教えているが、イエスの弟子でイエスをローマから解放してくれる救世主と信じながら、イエスの本心を理解できない迷える羊はユダであった。 
なのになぜ最後の晩餐で 『裏切り者はあなただ。行って自分のなすべきことをやりなさい』と突き放しているのだろう。ユダの目的は金ではなかった証拠に、金を投げ捨て絶望で自殺している。イエスの目的(みんなの罪を背負い十字架にかかる)為に利用しただけのように思え、ユダが可哀そうに思う。一番イエスの救いを求めていたのはユダではなかったのか?(・・この問いへの野口君の答えは哲学的で、中々理解できず、今も自問自答しています。)
(野口君)「死ぬ間際の事は誰にも分からない。ユダが死ぬ瞬間、あるいは彼は自分のそばにイエスを感じていたかもしれない。」

<エピローグ>
浦上天主堂は、設計から20年をかけて1914年に完成しました。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備えたロマネスク式大聖堂で、「東洋一の大聖堂」と謳われました。
しかし、194589日午前112分、米軍が長崎市の上空に投下したプルトニューム型原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残されました。
「カトリック浦上教会」は、1954年に「浦上天主堂再建委員会」を発足、募金のためにアメリカとカナダを訪問、19582月に信者達に説明会を実施しました。天主堂の解体撤去が濃厚になったことに、長崎市議会から 「原爆の恐ろしさを伝える歴史的資源にするべき」などと反対意見が続出し、218日の臨時議会で天主堂の保存を求める決議が全会一致で可決されました。
しかし市議会の要請も空しく、教会は同年3月から解体工事を開始、被爆した浦上天主堂は解体撤去され、鉄筋コンクリート製の新しい天主堂が作られました。
 広島市の「原爆ドーム」も保存か撤去かをめぐって議論が起きていました。「悲惨な思いがよみがえる」として取り壊す案もありましたが、1966年に広島市議会は永久保存を決議。被爆から51年後の1996年には、世界遺産に指定されました。人類史上初めて使用された核兵器による負の遺産として、平和を願うシンボルとしての価値が評価されました。
もし被爆当時の浦上天主堂が現存していたら「確実に世界遺産になり、世界一信者の多いキリスト教徒の世界に向かって、もっとストレートに核兵器の恐ろしさ、核廃絶のメッセージが発信できるのに・・」と、悔やむ声は今も根強くあります。青森公立大学教授の横手一彦さんは次のように著書で書いています。
『天主堂は、被爆後の13年間、最も象徴的な被爆遺構であった。そして、半ば崩れ落ちた煉瓦壁や、鼻先や指先を爆風に吹き飛ばされ、熱線に傷ついた聖像たちは、あの瞬間の恐怖を、無言のうちに語り続けたに違いない。天主堂は、原爆の極限的な破壊をありのままに示した歴史遺産になったであろう。しかし、今となっては、それは幻の世界遺産なのである。』
(「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 ― 失われた被爆遺産」岩波書店)
・・この焼けたマリア像は、野口君の叔父さんが瓦礫の中から見つけ出したものです。国連からも貸し出し要請があり、世界中に原爆の悲惨さを今に伝えます。

長崎平和公園 『平和祈念像』に思う
 『平和祈念像』は、被爆10周年記念行事として長崎市が建設を計画、195588日完成しました。制作者は南島原市生まれの彫刻家「北村西望」70代の頃の作品です。

【像の柔和な顔は神の愛と仏の慈悲を、天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている】と、製作者は述べています。 しかし私は初めて訪れ 像のポーズの説明を聴いても、

「何だ、このプロレスラー像は?  被爆者の祈りもイエスキリストの祈りも微塵も伝わらない。どんな意味が込められようと 彫刻家の自己満足だけではないか!」

と感動も何もありませんでした。当時の長崎の信者への違和感が募り、次のようにと腹立たしく思いました。

『こんな分かりにくい彫刻をつくるよりも、そのころ未だ残っていた破壊された浦上天主堂を、何故残さなかったのか!その方が「人類の原罪を背負って十字架にかかったキリストの2000年後の信徒が、原爆で無辜の民を消滅させた愚かな行為」として、広島原爆ドームよりもっと直截に、人間の恐ろしさと、 反省と祈りと平和への誓いを、未来永劫 世界が共有化できたのに・・』

1-5 私のミニ個展と 絵画取組み歴

  私事で恐縮ですが、一生に一度開いてみたかった小さな絵画を開催中です。(期間 5月1日〜31日(場所 市原市青葉台ふれあいサロン(お年寄り交流場)(内容) 色鉛筆画10作品を展示しています。  

 家内と色鉛筆画描いていた作品を「最初で最後のミニミニ個展」として5月一杯展示しています。近くにお住まいの方にご来いただけると嬉しいです。勿論入場無料です(笑)

私が絵画に興味を持ったのは下山隆三先輩の影響です。本社勤務の58歳のころ、7年前に退職された下山さんから勤務中に「いま東京都美術館に来ている。俺の入選作を見に来ないか?」と突然電話がありました。大恩師の下山さんが北海道から東京に来ておられ、都美術館で入選されているなら、何をさて置き行かなかったら破門です(笑)「すぐ行きます!」と駆けつけました。その時の入選作「おばあちゃん」を見て本当に驚きました。20年前千葉製油所動力課時代、上司の下山さん宅によく招待されてお世話になり優しく接して頂いたおばあちゃんがそこにおられました。

 審査員の最高顧問の先生からは「この絵の作者は20年以上水彩画に取り組んでおられるはず。刺繍に没頭しているおばあちゃんに向ける作者の優しい目線が、なだらかな肩や腕や、刺繍を見つめる目線に遺憾なく表現されている」と高く評価されていました。「実際は始めてから5年目なんだけどな・・」と笑いながらコッソリ話す下山さんの非凡な才能に本当に驚きました。そして「身近な大切な家族をこんなにリアルに描ける水彩画なら、私も退職後取り組みます」と言うと、「自己流じゃだめだ。よい先生を見つけろ」とアドバイスされました。(下山さんはのちに最高賞である文部科学大臣賞を受賞されました)

 そして私は退職後、水彩画教室に入り嘉指先生の指導を受けましたが・・その画風は私が描きたい写実画とは違い「この先生のもとでは、可愛い孫たちを描くには10年かけても無理」と絶望しました。しかし下山さんの星野先生のような写実画の先生は中々見つけられません。(その頃の私の作品です)

その水彩画教室仲間で、独自に色鉛筆画に取り組んでいたのが、元精密機械設計士の池田敏夫さんです。かれは、千葉市緑区土気にある「ホキ美術館」で現代写実絵画に感動し「色鉛筆で書けるのではないか」と自己流で取り組んでいました。その作品「サボテン」を見て「色鉛筆でこんなすごい絵が描けるのか!」と仰天しました。漆黒の背景に鮮やかに浮かび上がるサボテンの花の輝き、サボテンの刺さりそうな鋭いトゲ・・どこを見ても「どうやって描いたのだろう?」と驚くばかりでした。

 池田さんは「元々精密機械設計図をやっていましたのでその感覚で全て自分で工夫して描きました」とこともなげに言われますので益々驚嘆しました。


その池田さんが市原公民館で「色鉛筆画教室」を開くことになり、その案内用に公民館玄関に掲示されていた「リンゴ」に驚き、すぐ家内と参加を申し込みました。「初日には各自12~24色の色鉛筆と、リンゴを一個持参してください」ということで集合し、①色鉛筆の運指、②グラディエーションを練習し、そして「色鉛筆画には画用紙よりもケント紙が最適です」とケント紙を配布され、③「リンゴ画」の制作開始です。



「始めは黄色で薄く形を作り、段々橙や赤を加えてリンゴのリアルさを出していきます。影は茶、青、そして黒を加えます。5~6色で十分です。」と指導される通り進めていくと見事な初作品が出来上がりました。その最初に制作したのが次のリンゴです。夫々が持ち寄ったリンゴが違いますので個性が出ます。



2段階は「バナナ」です。「素人でもスーパーで買ってきた果物がここまで描ける!」と参加者は自分の隠れた才能に感動です。わずか2回目で色鉛筆画教室が本当に楽しくなってきました。



誰からともなく「せっかく色鉛筆画の楽しさを知ったので、これからも池田さんを指導者にサークルを作りましょう!」ということになり色鉛筆画サークル「カラーペン」が発足しました。唯一の男性の私が世話役、家内が会計で8人でスタートです。楽しいサークルでしたが、残念ながら5年後に、80歳となった池田さんが指導を辞退され解散となりました。その後、私たちは夫婦だけで細々と続けましたが・・やはり仲間がいて定期的な会合を持ち刺激しあい、年1回の作品発表会で一般の方々に鑑賞してもらうことが、趣味の上達には不可欠ですね。

 絵画をやりたい人は沢山いると思いますが・・一歩踏み出すには「あの絵をかいてみたい!」という動機が必要と思います。 実は私は、下山さんの水彩画に出会う前に「いつかあのニセコの感動を描きたい」と思っていました。北海道勤務の55歳のころ、紅葉のニセコ・神仙沼にドライブに行った時に、この世とは思えぬ神がかりの景色に出会いました。 その日は生憎の曇天で折角の紅葉がくすんでいてがっかりしたが、そのまま神仙沼に向かっていると突然雲の切れ間から一筋の光がさし白樺の大木を照らしました。それはあたかも『神様の降臨!』と思わせる神々しい風景でした。『美しい日本に生まれて本当に良かった!』という幸福感に包まれ、すかさず車を止めて写真を撮りましたが・・すでに最高の瞬間は過ぎていました・・

かって山岳写真家の白川義員氏が、マッターホルンの真赤なモルゲンロートに出会い、見とれてシャッターを押すのを忘れた不覚を悔み、6年間マッターホルンに通ってモルゲンロート絶景を撮影・発表して世界中を驚かせました。しかし白川氏は「最初に出会った美しさには遥かに及ばない」と述懐されていました。世界至宝の白川氏とは比べるべくもない素人ですが、恐らく人生で一回しかない最高感動の瞬間でした。

 あれから10年「下山さんの水彩画の世界は自分には無理!」と悟り、色鉛筆画に乗換えて比較的思い通りの絵が描けるので「よし!「ニセコの神降臨」にチャレンジしてみよう!」と描いたのがこの絵です。

 もちろん実際目撃した「神降臨」とは全く異なりますが、前の写真よりは私の脳裏に刻まれたイメージに近く、私の一世一代の作品と満足しています。


 もう一つ描きたいモチーフは可愛い盛りの孫3人でした。「孫ってこんなに可愛いのか!」と感動する私に家内は「自分の子供は同じくらい可愛かったのよ。仕事人間のアナタは余裕がなく、いつも怒ってばかりいたけど(怒)」と・・「そうだったんだ、だから陰で瞬間湯沸し器と言われていたんだ」と猛反省です。その可愛くて仕方がなかった仲良しの孫三人を描いたのが「みんな大好き」です。

 そのあとは思いつくままに描いていきましたが・・最初から描きたかった2作品がうまくいったので、あまり苦労することなく描き続けました。何しろ失敗や思い通り表現できない部分は消しゴムで消せるのが色鉛筆画の優れた点です。油絵や水彩画のような面倒な絵の具が不要、画材が安くて、場所を選ばずいつでも暇なときに取り組めます。モチーフとなるものが身近に無限にあります。家内は主婦らしく、スーパーで買う野菜を主テーマとしていましたので、次々と作品ができ上達していきます。

 私の主テーマは「大好きな風景画」なので、なかなか作品が出来ず、家内から「もうやめたの?」とハッパをかけられます。そういう中で描いたものが、今回のミニ個展で展示したものです。

 「高千穂峡」 宮崎県北の高千穂町の絶景です。4回にわたる阿蘇山の大カルデラ噴火による火砕流大地を五ヶ瀬川が削って、この大渓谷ができました。

「宮崎青島と若者 青島・日南海岸は、かっては新婚旅行のメッカ、向こうの青島には縁結びの神が祭られて沢山の新婚さんが訪れました。いまはサーフボードのメッカとなって若者が波乗りを楽しんでいます。


「雪の姫路城」 かって2度勤務した思い出多き姫路。2回目は工場閉鎖前の人事課長。従業員の生活拠点を変える難しい気の重い仕事で、毎日夜中の零時過ぎに帰宅する大変な仕事でした・・重圧に耐えきれなくなると姫路城に行き、あの優美な姿に元気を取り戻しました。「こんな凄い仕事をした人々がいる。俺の仕事など大したことはない・・」

「息子のプレゼント 何と次男から結婚記念日にお祝いのフラワーバスケットが! しかし美しい花も一週間もすると萎れてしまうので、「この感激を形にのこしたい!」と描きました。



与勇輝の世界
おつかい
(家内)、「夕涼み」(私)

 与勇輝氏は、昭和20年ころの貧しくも心豊かだった子供たちをテーマに人形制作される人形作家です。私たち夫婦は与勇輝氏の人形が大好きで、河口湖畔にある「河口湖ミューズ館」によく出かけました。家内がお気に入りの「おつかい」の人形の雰囲気をとらえて見事に描きました。私も負けじと「夕涼み」(与勇輝氏の原題は「夕子」)を描きましたが・・あの可愛らしさが表現できず・・やはり家内の方が才能ありです。



 (家内)、「雪のカラマツ林」(私)




1-5. トンデモ新人を鍛え上げた先輩達

 コロナ禍を乗越えた若者、そのあとに続く新人も、入社後 夫々の配属先で、学生時代とは異なる厳しい実社会に戸惑いながら、必死で頑張っていくことと思います。『その苦しさは誰もが通る道、頑張れ!』と両親や恩師・先輩・友人達は心から応援しています。
  私は退職後、大学キャリア講師を10年間 やってきました。『50数年前にトンデモナイ新入社員だった私を厳しく愛情を持って導いた諸先輩の薫陶や教訓を少しでも若者に伝承したい、そして高い志を持った社会人としてスタートして欲しい!』 という思いで取り組んできました。
そこで今回は、諸先輩から受けた薫陶やエピソードを紹介します。
「私の上司には良い人はいない」 と思う方も、他人はみんな自分の師匠です。厭な上司や同僚は 『こんな人間になるなと教えてくれる反面教師』です。 周囲に尊敬する人がいないなら、古今東西の偉人伝記や歴史小説を読みましょう。司馬遼太郎は是非若いうちに愛読したい作家です。 きっと皆さんの心を揺さぶられる生き方が見つかるはずです。

1.トンデモナイ新入社員
出光の昭和47年度入社は過去最大の採用人数で約800名でした。社員の10%が入社してきた訳です。先輩方は新人教育が大変だったことでしょう。後で紹介する人事部上司の吉田さんから「君達は石石混交だ。玉石はいない!」とよく言われました。その中でも私は特にヒドイ新入社員でした。採用が決まって人事部から送られてきた出光佐三店主の著書「人間尊重の事業経営」「マルクスが日本に生まれていたら」等の書籍を読み、その偉そうな文体と内容に反感を持ち古本屋に売ってしまいました。 そして入社式直前に「新入社員教育で使うから送付した店主の書籍を持参する事」との連絡を受けて真っ青になりました。
 
 2.1年目の素晴らしい先輩達の愛情鍛錬
最初の配属先の千葉製油所計装係で素晴らしい先輩方から公私に亘りお世話になりました。 富士見寮では西村敏男さんから朝6時に叩き起こされ、30分のマラソンで一日が始まりました。職場では操油地区の担当で、5か月後には球形タンクの安全弁定期点検を任せられ、目を白黒させながら、自分の親父のような年代の協力会社の方々を指示して、レッカー作業や安全弁摺合わせ・吹出し圧検査に取り組みました。後で聞くと、木原さん、岩岸さん、蓮覚寺さんらが交代でこっそりとフォローされていたことを知り心から感謝しました。

3.人間味豊かな生涯現役の小番勝造さん
最初に 「この先輩のようになりたい」 と思ったのが小番さんです。 秋田弁丸出しで笑顔の絶えない人間味あふれる先輩でした。特にS50年代にパワハラ課長によりメンタル不全社員が頻発し職場が危機に瀕した時、小番さんは常に課長の前面に立って若い後輩を守り抜きました。本当に後輩達の事を真剣になって考えてくれる頼りになる兄貴でした。仕事だけでなく趣味の邦楽部の重鎮で、また懇親会ではお国自慢のドンパン節 『ウチの親父は禿げ頭、隣の親父も禿げ頭、禿げと禿げとが喧嘩して、どちらもケガなくてよかったな・・』 で盛り上げてくれました。
出光退職後は協力会社の安全専任で生涯現役、次の言葉が口癖でした。「勇退後働かなかったら一日中ゴロゴロして酒びたりで死んでいた。 大事なのは金ではなく 生涯現役でこの世に必要な存在であり続ける事だ。」
小番さんは、惜しくも2011年7月67歳で逝去されましたが、今でも天国から叱咤激励されているような気がします。(写真は小番さんと洋一さん、真中の美人は職場のアイドル節ちゃん)
 4.トンデモ社員を鍛え直した現場の神様 :田中洋一さん
仕事の面白味を覚えた入社10ヶ月目に、運転要員不足の理由で突然運転課異動となりました。 上司・人事課に「場当たり的な人事異動は納得できない。人員計画はどうなっていたのか?最初の仕事に打込み早く一人前になれと教育したではないか。社員育成が社是ではないのか。」 と抗議しましたが、「会社の決定だ。我慢して頑張れ」 の一点張りでした。
「出光も会社都合しか考えない普通の会社だ。人間尊重なんて嘘だ。一年ぐらい勤務し金貯めたら退社しよう」 と思っていた矢先、母校から高校数学教師にならないかと打診がありました。
   『大学卒24歳の私が1年遅れで19歳の同期に指導され、交替勤務の新入社員として再スタートする・・社会貢献できるのは当然高校教師だ!  考えるまでもない。 これぞ天命!』 と辞表を出したところ、工務部長から会社は入社後2年間君に投資した。その恩返しもしないうちに退職するのか、この恩知らずが!』と恫喝されました。 恩を受けた意識は無かったのですが、止む無く1年留まることになりました。 
入社3カ月目に独身寮で大事件がありました。私と同室の優しい物静かな5年上の先輩(大学卒交替勤務) が自死され大変なショックを受けました。これを契機に『人は何の為に働き、何故生きるのか?をいつも考えるようになりました。 入社式以来 『人間尊重、家族主義が社是だ』と叩き込まれてきた私は、それ以後、実態の伴わない建前だけの会社に対する不信・人間不信で人を寄せつけず、いつも険しい目をしていたようです。 
そういう心の荒んだ私を見て『あいつは他のチームでは扱いきれない。私が3年間預かる』と引き取ったのが洋一さんでした。 事情は全て知った上で、それには触れず普通の直員として扱い、仕事は厳しく、直明け連休で直のドライブ旅行企画をしたりするうちに、いつの間にか 『洋一さんのような人望のあるリーダーになるのが一番価値ある人生だ!』と思うようになっていました。
その後も色々な場面で会うたびに洋一さんは遥か遠くに聳える存在です。出光を退職された後も石油連盟に10年間勤務。そのあと諸企業の電気主任技術者代行として厳密な電気設備点検維持管理をされました。その世界でも 『無資格者のデータ偽造が横行している!』 と憤る正義感の強い75歳現役技術者でしたが、惜しくも令和元年6月15日急逝されました。

5.家族と接するように部下後輩と接した :下山隆三さん
その洋一さんが若いころ、現場で鬼の形相で竹箒を持って追いかけたのが下山さんです。『あの時何で怒られたのか未だに分らない』と下山さんの厳しさを洋一さんは回想します。 
その10年後の下山係長は慈父のようなリーダーでした。 驚いたのは、係長最初の朝礼が『今日は〇〇君の誕生日です。(パチパチ)』 から始まった事です。これは 『家族に接するように部下後輩に接するのが出光の家族主義だ』 という下山さんのポリシーから来るものでした。
 わずか1年間の上司でしたが、その間スタッフ業務のイロハを教わり、アフター5はカラオケ 『怪獣バー』の常連、凧揚げ大会やキノコ狩り、家族会、餅つき大会etc. と、下山私設秘書の私は仕事以外の企画を山ほど経験しました。忙しいと感じる暇もない毎日でしたが、現役時代一番楽しい充実した1年間でした。
 下山さんは退職後水彩画を始められ、真面目・几帳面な人生観そのままの超写実主義の画風で、上野美術展で毎年上位入賞、何と文部科学大臣賞まで受賞されました。それがこの「自転車」です。

  6「24時間思考を停止するな」 :吉田保之さん
運転課交替勤務を5年、スタッフ業務を1年経験し、ようやく技術社員として歩み始めたころ突然本社人事部転勤となりました。『相変わらず支離滅裂な人事だな。それでも人事や採用・教育なら面白いかも・・』 と思いながら赴任した職場上司は、アルカポネのような鋭い眼光をした恐い人事部分室の吉田さんでした。
当時、組合を必要としない家族的経営のはずの出光に8つの組合ができ、それを円満に解決したのが吉田さんでした。「次に組合ができるとしたら製油所・工場だ。その布石として君が選ばれた。いわば会社から毒矢が当たった。どうしたら出光らしい職場になるか、君達団塊の世代が退職年代になる30年後に必要となる人事施策は何か を考えよ」と着任時に言われ、それ以外のことは何一つ指示はありません。工場で三交替勤務をやってきた私には、出光全体で何が問題か、何をどう進めたらよいか全く見当もつきません。
それからは地獄の日々でした。徹夜で纏めた報告書の内容が薄いと叱り飛ばされ、一年たつと自己嫌悪でうつ状態になるほど精神的に追い込まれました。
吉田さん自身の使命は『組合が必要ない筈の出光に8つの組合ができた。何とか円満に解決できたが、組合を必要としない自由闊達な本来の出光にするにはどうしたらよいかでした。 少しずつその強い思いがわかってきましたが・・もっとちゃんと指示しろよ・・と思いながら、それは口が裂けても言えません。24時間思考は当たり前で、地獄の閻魔さまも恐れ入るのでは・・と思う厳しさでした。 叱られた言葉は吉田語録として残しており一部を紹介します。
これが吉田さん流の愛の鞭で、出光史上ダントツの厳しい上司でした。その部下で辞表を書かなかった者はいないほどです。・・勿論みんな乗越えて大きく成長しましたが・・二度と部下にはなりたくない上司です(笑)
〇仕事をせよ。君たちはアルバイト レベルの作業だ。
〇人事部門は一万人の社員の人生を預かっている意識で仕事せよ。
〇人事部の毒矢が当たった君達が、不運か僥倖かは君達次第だ。
〇24時間思考せよ。寝ている間も考え続けてブレイクスルーせよ。
〇馴合い仲良し集団では人間は鍛錬できない。互いに切磋琢磨せよ。
〇社員が労使対決の組合は不要だと思う職場を模索し実現せよ。
〇組合を必要としない出光人事課長は 信頼される組合委員長たれ。
〇全能力を使いたいか、能力を使い楽をしたいか、どちらなんだ?
〇頑張ったと言うが血反吐や血尿が出るくらい徹底してやったか?
〇プロの実力無きものは恥じて努力せよ。アマチュアは不要。
〇僕が厳しいと言うが 僕の遥か彼方にもっと厳しい店主がいる。

1年半後私は教育課に異動となり、在職中16回も職務変更がありました。
思い返すと兵庫製油所閉鎖前の人事課長や、25年採用停止していた現場技術系社員の大量採用再開企画推進、ベテラン勤務延長目的の50歳台研修・・など、あの気弱で口下手な私が、社運を左右する大事な仕事を任せてもらうことになりました。吉田さんとの出会い以降は、どんな難しい課題でも「何とか突破する道はある」と思うようになり道は開けてきました。何よりどんな理不尽なパワハラ上司にも平然と対応できるように強く逞しくなっていました。
吉田さんは、その後、人事部長、副社長を歴任され、退職後はKDD(現KDDIの前身)社長となられました。

7.「社員が一番大事に決まっているじゃないか」 :高木猛さん
高木さんは神戸大時代に偉大な先輩たちの事蹟を訪ね、出光佐三店主の書籍と出会い、その生き方に惚れ込んで入社。早くも入社2年目で社長室勤務となり店主の薫陶を直接受けました。
 その後 名古屋油槽所や兵庫旭興産の組合問題を円満に解決に導き、兵庫製油所人事担当時代は独身寮敷地内で生活する寮務長を兼務されました。 直明けの若い寮生が昼間から自宅に上り込み、風呂にはいってビールを飲んでいる内に勤務を終えた高木さんが帰ってくるという毎日に音を上げた奥さんが『あなたは家族と寮生とどちらが大事なの?』と聴くと、『寮生に決まっているじゃないか。馬鹿な事を聴くな。』と答えたと言います。 (寮務長は、親元を離れて勤務する18、19歳社員の父親代わりが仕事でオレの飯の種だ。俺たちの子供には母親のお前がいるではないか)という思いだったのでしょう。しかし若し私がその立場で同じ発言をしたら即離婚です。 奥様は呆然として二度とこの質問はしなかったと聴きます。奥様も本当にスゴイ人です。
神戸支店長時代の平成7年1月に阪神淡路大震災が発生。高木支店長は『真冬の石油供給は命の綱だ』 と即日ガソリンスタンド営業再開を指示し、神戸復興の陣頭指揮をとられ全国の出光グループがバックアップしました。
  千葉製油所長時代には、『厳しさの中にも温もりのある職場つくり』 を実践されました。小さなトラブルに大騒ぎする技術屋の性癖を戒め 「足が1本2本折れたぐらいの赤チン災害でガタガタするな。 何、PD-V8 タンクが破裂した? タンクが新しくなって良かったじゃないか。知恵を絞ってコストダウンを図っている時に、小さな失敗を咎めていたら改善なんかしなくなるじゃないか。」は、まさにトップとして至言でした。 
そういう中の創業家3代目の社長継承問題で 『資本と経営は役割が全く違う。創業家でも資質なき人がトップに就くのは存亡の危機となる』と主張・説得して思い留まらせ、その責任を一身に背負って早期退職されました。 後年シェルとの合併問題で障壁となった創業家の混乱を17年も前に予見して布石を置かれた、まさに出光人の中の出光人、店主の再来と言われた偉大な先輩でした。