2025年9月3日水曜日

1-11.『荒城の月』と岡城ものがたり

 中学時代、初めて聴いた 『荒城の月』 は衝撃でした。
 それまで音楽好きの母の影響で、明るく楽しい歌が大好きでしたが、この曲はまるで違っていました。土井晩翠作詞の歌詞は文語調で格調高く、メロディーはもの悲しさの中に気高さを感じ、思わず背筋をピンと正してしまいました。
音楽の教師から、『作曲者は豊後(大分)竹田市出身の瀧廉太郎。近代音楽の祖とされる明治中期の作曲家で、惜しくも24歳でこの世を去った。』と知り、ますます深く印象に刻まれました。
 大学時代、合唱団にはいり、再び 『荒城の月』 に出会いました。クラブ部長が竹田市出身の工藤忠義君。 いつも穏やかな包容力のある人格者で、練習後は必ず20名ほどが集まり、深夜まで合唱談義、文学・人生を語り合いました。 そして『いつの日か、彼の自慢する 瀧廉太郎が曲想を得た竹田市の岡城跡に行ってみたい!』 という思いが募ってきました。しかし貧乏学生で旅費が工面できず、就職後は時間の余裕かなく機会がありませんでした。

それから45年、先日九州で大学時代の同窓会があり、ようやく念願が叶い岡城を訪れました。


その間ずっと疑問だったのは、
『なぜ大分県の奥深い山間部に、大規模な石垣、大きな城が築かれたのか?』 でしたが、 やはり 百聞は一見に如かずです。 広大な城跡をくまなく歩き、この城が三方を断崖絶壁の深い谷に囲まれ、豊臣秀吉が 『日本一の難攻不落の堅城だ!』 と讃えたのが納得できました。

そして明治維新後、西欧の侵略・植民地化の脅威が迫り、近代国家建設が全国民総意の目的になると、それまで各藩防御上不可欠だった城郭が無用の長物となり、約700年間 ”天下一の堅城“ と讃えられた岡城も二束三文で売却され、建物は壊され、石垣は蔦や灌木が生い茂る荒城となっていきました。 そういう時期に尋常小学生だった瀧廉太郎は、この城跡で遊び、幼い心に『栄枯盛衰』の厳しい歴史の現実を心に刻んだのでした。(左上写真の石垣は城郭図の二の丸付近。城全体は7万石とは思えないほど大規模なもので、江戸期は上図右側の広大な西の丸が政務の中心でした。)

今回は、岡城の観光案内所で仕入れた逸話や情報等をもとに、明治維新後、竹田出身で代表的日本人となった偉人達と、天下の名城の歴史をかいつまんで紹介します。皆さんも機会を作り、ぜひ岡城を訪れ探索してみてください。きっと瀧廉太郎の心象と日本人の魂を追体験できると思います。

1.明治維新後、世界に羽ばたいた偉人達 (明治~)
   明治維新により、岡城はその役割を終え荒れ果てていきました。
しかしこの美しい山野や城跡で遊び、気骨ある竹田の精神に育くまれた二人の少年が、歴史に名を残すことになります。日本近代音楽の祖、瀧廉太郎と、軍神と称えられた海軍中佐の広瀬武夫です。

瀧廉太郎は15歳で東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学、『花』『箱根八里』そして『荒城の月』などの数々の名曲を作曲します。 1901年、21歳で念願のドイツ留学を果たしますが、5か月後に肺結核にかかり志半ばで帰国、 24歳で若すぎる人生を閉じます。彼は沢山の作曲をしたといわれますが、死後ほとんどが病気伝染を恐れて焼却され現存するのは34曲のみです。 死に際し嘆き悲しむ母親をこう慰め涙を誘います。『お母さん泣かないで。あの荒城の月が歌われる限り、僕は、あの美しい石垣の岡城と共に生きているのですから・・』

広瀬武夫は、自分を育ててくれた竹田の人々、美しい山野や岡城に代表される日本を、ロシアの南下・侵略から守るため命を懸けます。敵国政情・軍備調査でロシアに滞在する広瀬武夫を励ますために、瀧廉太郎は『荒城の月』の楽譜を送ります。ロシア貴族のサロンで武夫の恋人アリアズナが、この曲をピアノ演奏すると満場の喝采を浴びます。 日本人作曲の作品が世界で初めて外国人の心をとらえた瞬間です。
広瀬武夫は、その後ロシアからウラジオストックまで単騎偵察旅行を行い、ロシアの国情をくまなく調査しています。そして旅順港閉塞作戦を指揮し、廃船から撤退する際に行方不明となった部下の杉野上等兵を探しに行くこと3回、見つからず諦めて離船する際に敵砲弾の直撃を受け、跡形もなく吹き飛び戦死します。この武勇と部下を思う心に日本中が涙し『軍神広瀬中佐』と称えられます。奇しくも、瀧廉太郎が24歳の短い生涯を閉じた翌年のことでした。

 時代は下って1945年8月、2つの原爆投下でポツダム宣言受諾しかない状況にも拘らず、破れかぶれの一億玉砕に向かう陸軍組織のトップだった陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか) は、『聖断は下った。停戦して武装解除せよ!』 と厳令して終戦となります。 そして阿南惟幾は『一死大罪を謝す』と遺して戦争の全責任を負い割腹自殺を遂げました。国内外に戦闘力のある100万人の陸軍兵が残り、上官の命令でしか動けず、全軍が一億玉砕に向かう状態下で、軍トップ阿南陸軍大臣の命をかけた停戦命令でしか事態収拾の道はありませんでした。 この阿南は豊後竹田市の出身で、まさに鎌倉時代の武将 緒方惟栄、戦国期の城主 志賀親次、江戸時代の中川秀成・久盛・久清等の精神をそのまま受け継いだ生涯でした。

2. 岡城の歴史への登場 (鎌倉時代初期)
豊後武士団の棟梁、緒方惟栄(これよし)は、栄華に溺れて都落ちした平家を大宰府からも追い落とし、二年後に壇ノ浦で源義経を助けて平家を滅亡させました。その後、頼朝の猜疑を受けた義経は九州に逃れようとし、緒方惟栄は戦友の義経を受け入れるべく豊後竹田に岡砦を建設します。そして摂津国大物浦(兵庫県尼崎)から船路で義経一行を乗せて出航しますが、途中嵐に会って難破して惟栄はとらえられ流罪となり歴史から消えます。 義経は東北平泉に逃れますが、頼朝の圧力に屈した藤原泰時が裏切り、襲撃されて自害します。まさに東北平泉と九州竹田の地で『強者どもの夢』 が潰えたのでした。

3. 秀吉を震撼させた難攻不落の岡城 (南北朝時代~戦国時代)
緒方惟栄が歴史から消えて百五十年ほど後の南北朝時代、豊後(大分)を支配した大友一族の志賀貞朝が竹田に岡城を築き、以後 室町時代を通じて志賀氏十七代、二百六十年間の居城となります。その中で歴史に燦然と名を残すのは、弱冠18歳(現代なら大学1年生)で城主となった第17代の志賀親次(ちかよし)です。 
戦国時代末期、信長亡き後に秀吉が天下人に近づいていたころ、九州では薩摩の島津義久が九州制覇を目指し豊後の大友宗麟に5万7千人の軍勢で総攻撃を仕掛けました。いわゆる1588年に勃発した豊薩戦争です。特に豊後の守りの要の岡城には島津義久の弟、猛将の義弘が主力軍3万7千人で襲い掛かりました。 岡城に立てこもり守る志賀兵は僅か千人です。敗戦必至の状況の中で、若き城主の志賀親次は部下に檄をとばします。
『古より死なぬものなし! だが義に殉ずれば千年朽ちることはない!我々の息のあるうちは、この城に敵を一歩たりとも入れることはならん! 死して義に殉ぜよ!』

そして戦いが始まり37倍の敵の総攻撃を受けること三回、延べ6か月を持ちこたえ、秀吉の援軍20万が到着して島津軍は敗退、降伏して秀吉の日本統一は完成します。
この時、秀吉は志賀親次の武勇を称賛し、岡城の堅固さをこう感嘆しています。
  『わが大軍をもってすれば、薩摩は10日、肥後、豊後は3日で片付くと思っていたが、薩摩の大軍の猛攻を6か月も守り切った岡城は、日本一の難攻不落の堅城、落とすのは極めて困難なことを思い知った。 世の中には堅固な城があるものよ!』
   また37倍の軍勢を指揮し3回も撃退された敵将島津義弘は、若き志賀親次を『あっぱれ!天正の楠正成よ!』と絶賛しました。
  
4.中川氏による名城の完成と竹田城下の繁栄 (江戸時代)
しかし宗家の大友宗麟を継いだ義統(よしとも)は凡将でした。 第一次朝鮮出兵(1592年 文禄の役)で、第一軍の司令官だった小西行長が明の大軍に攻撃されると、志賀親次が 『小西の救援に向かうべし』 と換言するのを無視して大友義統は 撤退し、小西軍を危機に陥れてしまいます。 これに秀吉は激怒して大友義統は領地没収、配下の志賀氏も領地を失い、十七代二百六十年にわたって繁栄した志賀氏岡城の歴史は閉じられます。トップや宗家が保身に走り、判断を誤ると即座に滅亡・衰退を招き、配下が路頭に迷うのは現代においても全く同じです。
のちに秀吉は志賀親次の武勲を惜しみ領地を与えますが、主家が滅んで配下が栄えるのを潔としない親次は、領地を捨て歴史から身を隠します。 この高潔な生き様が現代の竹田市民のDNAにも受け継がれていると言われています。

 志賀氏の跡を継いだのは、元播州(兵庫県)三木城主だった中川氏です。 
遡ること10年、本能寺に倒れた織田信長の弔い合戦となる山崎の戦いで、秀吉軍の猛将 中川清秀は勝敗を決する天王山を奪い、柴田勝家との賤ヶ岳決戦では防御の要 大岩砦を700名で死守し戦死します。秀吉はこの武功を称賛し、清秀の息子 秀政・秀成兄弟に摂津茨木城12万石を相続させ、のちに播州三木城に栄転させます。
しかし長男秀政は第一次朝鮮出兵時に家臣の静止を聞かず鷹狩に興じ、その隙を突かれて敵の毒矢で落命します。 秀吉は激怒しますが、父清秀の武功に免じて二男の秀成(ひでしげ)に豊後岡(竹田)への移封を命じます。 

岡城主中川氏初代の秀成は名君で、戦国の世が終わったことを見通し、まず旧志賀氏館西側の天神山を切り開き、本丸・二の丸・三の丸を築き難攻不落の岡城を完成させます。 あの『荒城の月』 で良く目にする見事な石垣はこの時築かれた二の丸の石垣です。天神山を切り崩した大量の土砂は竹田村の湿地の埋め立てに使い、ここに碁盤目状の町割りと武家屋敷、商家、寺院を配置し、安土・大阪のような商業・文化の発展の街づくりを行いました。
 関ヶ原の戦い後、陰謀より秀成は徳川家康に疑われますが、西軍に加担した豊後臼杵の太田氏と激戦を繰り広げて滅亡させ、名実ともに徳川体制下で岡城主となり、幕末まで続く中川氏十二代二百六十年の繁栄の基礎を作りました。


 また二代目
久盛公と、三代目久清公も名君で、治山治水、用水整備、植林、郷村制度整備、農業振興などを行い、岡城と城下町を完成させて岡藩7万石を盤石のものとしました。また軍政、軍事訓練も強化して異国の侵略に備えました。 これを反乱準備と危惧する幕府に対し、熊沢蕃山門下の学友で久清をよく知る副将軍 水戸光圀『久清はそんなチンケな武将ではない。 外国の侵入があっても久清が防いでくれよう。有難い事で何も心配することはない!』と笑い飛ばしたと言います。 久清公は江戸の恩師:熊沢蕃山を岡藩に招聘して指導を受け、農業、商業、教育の振興を行い、現代に続く岡藩(竹田市)の繁栄を完成させました。

久清公は岡藩を見守るように北にそびえる 「大船山」(くじゅう連山のひとつ)をこよなく愛し、人馬鞍に乗って何回も登山し、高い頂から愛してやまない岡藩を飽かず眺めたと言います。そうした姿から晩年、久清公は「入山公」と称されました。 久清公は遺言により大船山八合目標高1200mの鳥居ヶ窪に葬られ、いまも山上から岡藩(竹田市)を見守り続けています。岡藩・領民、大船山をこよなく愛した久清公の辞世の句です。

  もとむへき隠れ家もなし おのづから 山より奥の山を心に

  静かには住みへましと思へども 山より山の奥をたづねん


 その後、岡藩は大火災や大風雨、洪水、地震などの大災害に何度も見舞われます。1776年、第八代藩主久貞は、こうした災害からの復興長期戦略として『人財育成』 を掲げ、藩校『由学館』を開校し、ここに竹田の文武両道を大事にする気風が根付き、近代そして現代まで脈々と生きつづけています。


 参考文献: 豊後岡城物語 (竹田市教育委員会、PHP研究所)

1-11. ”稲むらの火”(紙芝居:内閣府)

2015年12月 国連総会で、日本発議の11月5日を世界津波の日に』が全会一致可決しました。 

安政元年(1854年)11月5日の安政南海地震・大津波から全村民の命を救った和歌山の浜口儀兵衛の『稲むらの火』に基づきます。 ・・当時の安倍首相の強い思い=「津波防災意識を世界で共有したい。それは多くの人命が奪われた鎮魂の日(3月11日)ではなく、多くの人命が救われた成功例の日であってほしい』という願いが込められています。

『稲むらの火』 は、小泉八雲が1896年に英語で “A Living God”(生き神様) として世界に紹介、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載り『津波』が国際語となりました。 しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話を全く忘れ去っています。そこで安倍元首相は各自治体や学校で活用しやすいように、内閣府から「紙芝居」の形で提示し、広報・周知徹底・継承を促しました。

【 稲むらの火 】 (紙芝居:内閣府)

それは、江戸時代の末のこと、11月のはじめ、ある日の夕方でした。和歌山の広村では、秋の取入れが終わり、田んぼには、いくつもの稲わらが並んでいました。

「米がたくさんとれたし、いいわらも残ったし、ありがたい ありがたい」 村人たちは、こういって喜びました。刈り取った後の稲のわらは、大切な使い道があって、束にして高く積み上げておきます。これが「いなむら」です。そして村人たちは、そろそろ冬の準備に取り掛かっていました。

そのとき「ごーっ!」という大きな地響きが起りました。



 ➁地鳴りがして、大地が、家が大きく揺れ動いたのです。

「おおっ!地震だ!大地震だ!」
村人たちは、家の外に飛び出しました。
「キャーッ!」「こわい!」子供たちは親にしがみ付きました。
壁が崩れ、傾いた家から煙のように、誇りが舞い上がりました。



広村を収める庄屋として、村人に慕われている浜口儀兵衛も、家族と一緒に外に出ました。

「我が家は大丈夫だが、村人たちは無事だろうか・・」
空には黒い雲と白い雲とが、怪しく入まじって広がり、遠くの雲を切り裂くように、鋭い光が走りました。しかも、その遠い海の向こうから、
ドドン、ドドン、ドドン
大砲が轟くような音が聴こえて来たのでした。
「これは、恐ろしい事になる・・」 儀兵衛は家族に 「いますぐ、丘の上、一本松から広八幡神社の方に避難しなさい!」 と命じて、自分は家の中に入りました。


➃「なにをなさるのですか?」と妻が問います。

 「津波だ。間もなく津波がおしよせてくる。村中に危険を知らせて歩く間はない。田んぼのいなむらに火をつけて、合図するのだ。」



⑤儀兵衛は走りました。いなむらのひとつに火をつけます。良く乾いているいなむらは、ぼっと燃え上がりました。次から次へ、次の田んぼへ

「みんな早く集まって来いよ。そして丘の上に避難するのだ!」



⑥「庄屋様のところが火事だぞ!」

「庄屋様に何かあったら大変だ。」

「それっ、火を消しに行け!」

村人たちが、すぐさま集まってきました。こんな時は、村中ひとり残らず、火消しに加わることになっていたのです。

「庄屋さまー!」



⑦真っ先にやってきた若者たちが、火を消そうとすると儀兵衛が押しとどめました。

「津波だ!いなむらの火を消すな!」

「庄屋さま、どうしてですか?」

「津波だ。津波が来る。村のみんなが集まってきたかどうか、確かめるのだ。そして一本松から広八幡神社の方へ、みんなを避難させるのだ。」

「はい、庄屋さま」

 こうして村人たちが高いところに避難した時、

「あれをみよ!」



⑧儀兵衛が海の向こうを指さしました。

「なんだろう?」

村人たちは、恐ろしいものを見ました。まさに、暗くなりかけた沖の海に、長く黒い帯が広がり、こちらにぐんぐん迫ってきます。

どどどどっん!

「津波だ!」 「津波が来る!」

ぐぉおーん!



⑨人々は、思わず身震いしました。

海辺の村が、水煙と共に、津波に襲われたのです。村の全てのものが、さかまく波に飲み込まれ、姿を失っていきました。

「津波が来ることを知らず、つい先まで、あそこのいたのだ。」村人たちは気付きました。

「おう、おそろしい事だ。」 時をおいて、津波は二度、三度と襲ってきました。



⑩村人たちは、ずらりと儀兵衛のまえにひざまずいて頭を下げました。

「おかげさまで、いのちがたすかりました。」

「庄屋さま、ありがとうございます。」 儀兵衛はうなずきながら言いました。

「浜口の家には、大地震の後には津波が来るという言い伝えがあってな。とっさにそれを思い起こした。ご先祖様の言葉のおかげだ。」



⑪儀兵衛は若者たちをひきつれて隣町に行き、貯えた米を借りてきました。そして、おかみさんたちが米を炊き、にぎり飯を作りました。

「さあこれを食べて元気を出しなさい。」儀兵衛が先頭にたって、みんなに配って歩きました。



⑫やがて余震が続く中、荒れ果てた村に、幾つもの仮小屋が作られました。村人たちが、立ち直りの一歩を踏み出したのです。

ところが、津波によって全てをなくしたある村人は、儀兵衛に 「もう広村には住んでいられません。働き口を探しに、よその村に移ろうと思います。」

またある村人は、「またいつか、津波が来るのではないかと思うと怖くてなりません。もっと安全なところにいきます。」と、涙ながらに訴えました。



⑬儀兵衛は、浜辺に打ち寄せる波を見つめていました。

「天洲ヶ浜」と、美しく名付けられたこの浜辺。

「ここに津波を防ぐ堤防を作ろう。村人に働いてもらえば、それが働き口になる。ふるさとがよみがえるのだ。」 儀兵衛は、ひとりうなづきました。浜口家では、昔から銚子で醤油を作り、江戸で大きな商売をしています。

「働く人の給料や、堤防づくりの全てのお金を出すと、大金が必要だが、なんとしてでも、やり抜こう!」 と、かたく決心しました。



⑭さっそく工事が始まりました。儀兵衛が調べたところ、広村は、ここ五百年の間に、ほぼ百年毎に大津波に襲われていることが分かりました。昔の津波の様子、今度の津波の様子をもとに、儀兵衛が堤防の設計をし、工事の指図をしました。

村人たちはよく働きました。

「村を守るために頑張ろう!」

「男も女も、働けばすぐに金がもらえる。ありがたい、ありがたい。」

「田畑の仕事が忙しくなれば、工事の方は休みになるとか。」

「こんなに働き甲斐のあることはない!」



⑮四年の月日、多くの人々の力、それに大金をかけて、立派な堤防が完成しました。

いなむらの火が燃えたときの、安政南海地震津波から92年後、昭和南海地震の時には、予想したように、大きな津波が襲ってきました。 しかし堤防はゆるぐことなく、人々を津波から守りました。



⑯和歌山県広川町の堤防では、毎年11月に津波まつりが行われます。

「いなむらの火を忘れません。」

「堤防つくり、ありがとうございます。」

子供たちが夫々に、一袋ずつの土を堤防に運び、積み上げて祈ります。 そして、

「みんなでふるさとを守ります!」と、防災の心を新たにするのです。

 『稲むらの火』 は、小泉八雲が1896年に英語で “A Living God”(生き神様) として世界に紹介、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載り『津波』が国際語となりました。 しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話を全く忘れ去っています。そこで安倍元首相は各自治体や学校で活用しやすいように、内閣府から「紙芝居」の形で提示し、広報・周知徹底・継承を促しました。(http://kamuimintara.blogspot.com/2014/02/4_3.html

1-11. 津波から村人を守った男  

 あの恐ろしい東日本大震災から14年が経過します。

死者・行方不明1万8千人以上という、とてつもない大勢の方が津波で犠牲になられましたが、その中で常日頃から大地震直後の津波を想定した真剣な避難訓練を繰り返していた釜石の小学生達は全員避難して助かり、『釜石の奇跡』 と呼ばれました。  津波の恐ろしさと、常日頃の真剣な避難訓練の大切さを全国民が教えられました。

かって戦前の尋常小学校5年の修身教科書では、1854年の安政南海地震で和歌山広川町を襲った大津波から村人を救った浜口五兵衛の話 “稲むらの火” が1937年から掲載され、数ある教材の中でも特に深い印象を国民に与えていました。

上皇后美智子様は1999年10月の宮内記者会の中で、次のような話をされています。

『子供のころ教科書に、 “稲村の火” と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残りました。 津波であれ洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で具体的に教えられた一つの例として思い出されます。』

しかし残念な事に、戦後この話は教科書から削除され、国民は忘れ去っていました。 そこで、今回は戦前の尋常小学校国語教科書から、“稲むらの火” 全文を紹介します。

江戸時代末期の1854年、紀伊半島を大津波が襲った時の事です。

『これはただ事ではない。』 とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきました。 いまの地震は、ことさらに激しいものではありませんでした。 しかし長いゆっくりとした揺れ方と、腹に響くような地鳴りとは、年老いた五兵衛もかって経験した事のない不気味なものでした。

五兵衛は、高台にある自分の庭から、心配げに下の村を見下ろしました。 村人たちは豊年を祝う宵祭の支度に心をとられているのか、地震をさほど気にかけない様子で働き続けていました。

ふと海の方へ目をやった五兵衛は思わず息を呑みました。 大波が風に逆らって沖へ沖へと動いて行き、その後を追うように、海水で見えなかった黒い砂原や岩底が、グングンと広がっていくではありませんか。

『大変だ。津波がやってくる。このままでは四百人の村人がひと呑みにされてしまう!』

急いで家に駆けこんだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出しました。 そこには取入れたばかりの稲束を積重ねた 稲叢(いなむら) が、たくさん並べられていました。 一年の収穫の全てですから、農民にとって命の次に大切なものです。

『これで村人の命を救うしかない!』 五兵衛はいきなり、稲むらの一つに火を移しました。 風にあおられて、火の手がぱっと上がりました。 一つまた一つと稲むらに次々と火をつけながら五兵衛は夢中で走りました。 こうして自分で刈り取った全ての稲むらに火をつけてしまうと、五兵衛はまるで気を失ったように突立ったまま沖の方を眺めていました。 日は既に没して、あたりはだんだん薄暗くなってきました。 次々に燃える稲むらは天を焦がしました。

『火事だ。庄屋さんの家が火事だ!』   村の若者が急いで高台へ向かって駆け出しました。 続いて老人も、女も、子供も、若者の後を追って駆け出しました。上から見下ろす五兵衛には、それが蟻の歩みのように遅く、もどかしく思えました。やっと20人ばかりの若者が駆け上がってきました。彼らはすぐに火を消しにかかろうとしましたが、五兵衛は大声で止めました。

『火を消してはならぬ。 村中の皆に少しでも早くここに来てもらうんや!』

村の人々は次々に集まってきました。五兵衛は、後から後から駆け上がってくる村人達を一人一人数えていました。

集まって来た人々は、命がけで育てた稲が燃えている様と、これまでにない厳しい目をした五兵衛の表情を不思議そうに見つめました。 その時、五兵衛は力いっぱいに叫びました。

『見ろ、やってきたぞ!』   たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方に目をやると、暗い海の彼方に、かすかに白い一筋の線が見えました。 その線は、みるみる太くなり広くなって一気に押し寄せてくるではありませんか。

『津波だ!』   誰かが叫びました。海水が絶壁のように盛り上がって迫ってきたかと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷が一時に落ちてきたような轟で陸にぶつかりました。 人々は我を忘れて、後ろへ飛びのきました。 水煙が雲のように高台に降りかかって来たので、一時は何も見えなくなりました。

村人は、波にえぐり取られて跡形もなくなった村を、ただただ呆然と見下ろすばかりでした。

収まりかけていた稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕闇に包まれたあたりを明るく照らしました。初めて我に返った村人は、自分たちがこの稲むらの火のおかげで救われたことに気付くと、ものも言わずに五兵衛の前にひざまづき、手を合わせるのでした。


2004年12月26日スマトラ島沖でM.1の巨大地震・津波で死者22万人の大災害が発生し、ジャカルタで緊急の東南アジア諸国連合首脳会議が開かれました。その時シンガポールのリー・シェロン首相が当時の小泉首相に、『日本では小学校教科書に “稲むらの火” という話があって子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?』 と尋ねました。 小泉首相は戦後世代でこの話を知らずすぐに東京の文部科学省に照会しましたが誰も知らず それっきりになりました。

そして7年後の2011年3月11日 東日本大震災が発生しました。 

もしあの時、小泉首相が即座に調査して、小学校教科書に“稲むらの火” を復活させ、国民に周知徹底させていたら・・・ 『釜石の奇跡』 は、もっと大きく広がって、津波による死傷者の大半は助かった可能性があります。

 (参照)http://kamuimintara.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html

“稲むらの火” は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が1896年に英語によってA Living  God”(生き神様) として世界に紹介し、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載って 『津波』 が国際語になる起源となりました。

しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話をすっかり忘れ去っています。

2011年から光村図書出版の国語教科書(5年)で 『100年後のふるさとを守る』 として、“稲むらの火”の一部と、浜口儀兵衛(=五兵衛) の事蹟を紹介していますが、果たして皇后様の言われた『戦前の教科書のような深い印象』 を与えてくれる話になっているか疑問です。

また千葉県が採用している教育出版社の国語教科書では全く記載がありません。

今回、現代小学校3~6年の国語教科書を通読しましたが、心に響き、心に残る話が少ないように感じました。 小学校時代は、心が柔らかく鋭敏で人間性形成の上で最も大事な時期です。小学・中学の教科書は、学校だけでなく家庭でも子供と一緒に学び共有化する事が不可欠です。現代人の心の荒廃や、無目的で怠惰な若者が増えている最大の原因の一つは、初等国語教育にあるのかもしれません。私達一人一人が、人間形成の基盤となる国語や道徳教科書に対して、出版社や学校任せにせず、もっと関心を持って、より良いものを求めていく努力が必要だと思います。

残念なことに、書店には教科書は置いてなく、アマゾンなどのネット販売でも取り扱ってなく、膨大な蔵書がある市立図書館でさえ小学・中学校教科書は置いてありません。

日本国民の関心の薄さ・低さを証明しており、某国の捏造・歪曲の歴史教育を笑えない危機的状況といえます。

  http://kamuimintara.blogspot.jp/2014/03/5.html

2015年12月、国連総会は『115日は世界津波の日』 と決定しました。 日本の発議で142ヶ国が共同提案、全会一致での制定です。 東日本大震災大津波の3月11日(2011年)でも、インド洋大津波の12月26日(2004年)でもありません。 安政元年11月5日(西暦1854年12月24日)の安政南海地震・大津波の大災害から全村民の命を救った和歌山県広川町の浜口儀兵衛の実話 『稲むらの火』 に ちなんで記念日を11月5日に制定しました。

 それは 『津波防災の意識を世界が共有する日、多くの人命が奪われた”鎮魂の日” ではなく、多くの人命が救われた成功例にちなんだ日であってほしい』 という人類共通の願いが込められています。


1-11. 桜島難民の極貧を救った3偉人 


 ビッグバンで宇宙誕生してから138億年、地球が誕生して46億年、日本列島が大陸から切離されて現在の位置に移動したのが3,000~2,000万年前です。そして20万年前にホモサピエンスがアフリカで誕生し、食料を求めて世界に拡散し、日本列島に到達したのが4万年前ころです。

 こういう宇宙規模の時間軸で見た時、私達人類の歴史20万年は本当に一瞬ですが、その中の人間の営み、特に偉人と尊敬される人々の『利他の精神』は、私達の心を揺さぶり『宇宙の存在と同じくらい 有難く素晴らしい!』と感動に満たされます。
 現代の私たちの身の回りには沢山の情報が満ち溢れていますが、その殆どは凶悪事件やスキャンダルや低次元な政府批判・誹謗中傷だけで『世の中はこんなにひどいのか!』と若者をネガティブにしている原因になっています。本当はその何千・何万倍も心温まる美談や心の交流がある筈ですが、ニュースで取上げられることは極めて稀です。
 私達が本当の人間らしい心や生き方を身につけるには・・温故知新・不易流行の精神で、先哲・偉人・尊敬する先輩達の美談や生き方を学び、手本として自分を磨くことが欠かせません。そこで今回は、明治~大正時代にかけて極貧の農民を救い 120年経過した今も尊敬されている坂元源兵衛、前田正名、石川理紀之助 の3偉人の伝記を紹介します。

1. 舞台となる南九州の地勢
日本列島は、ユーラシア プレートの東端がマントル対流で引裂かれて移動し、約2000万年前に現在の位置に固定されました。そして太平洋プレートとフイリピン プレートが沈込む境界線の地下100km付近で高温・高圧下で水と岩石が溶け合ってマグマを形成し、世界でも有数の火山地帯を形成しています。
中でも九州地方は、この10万年で4回の破滅的噴火で巨大カルデラを形成している最も激しく若い火山フロントです。この南九州で約2.2万年前に破滅的噴火が発生し姶良カルデラができました。


      この時、周辺に膨大な火山灰が降り積もり、その厚さは数10m~150mに達し、シラス台地と呼ばれています。シラスの成分はケイ酸を主成分とする火山ガラスで水捌けが良過ぎる為に水田・稲作はできず、養分が少ないためにサツマイモや大根などしか栽培できない厳しい環境でした。

   
鹿児島や宮崎県南部には下の図に示すようにシラス台地が広がっています。





2.桜島・安永の大噴火と島移り貧民
   その後も姶良カルデラ真下のマグマ溜りに は膨大なマグマが供給されており、カルデラ南端に形成された桜島は、頻繁に噴火を繰り返す日本有数の危険な活火山となりました。


 中でも240年前の1779年10月1日に発生した、安永の大噴火では、南岳から北部へ、そして錦江湾へと噴火が移動し、最後の錦江湾中央部の噴火では6m以上の大津波発生で 150名の死者が出るという大被害となりました。島内では井戸が沸騰し、灼熱地獄で人は住めなくなり、全島民は全てを失って帰島も叶わず、垂水島津家の殿様は都城島津家に避難民の受け入れを依頼、148名の島民が谷頭地区に移住しました。しかしここも約2万年前の姶良カルデラ巨大噴火で出来たシラス・軽石台地で、水田はできず荒れた土地だったため、取れる作物はソバやサツマイモだけで想像を絶する貧困の苦しい開拓生活でした。
 それから120年後、明治中頃に、この貧困に苦しむ村人達が心豊かに暮らせるよう使命感に燃え、気の遠くなるような苦難と英知を結集し奮闘した3人の偉人がいました。 庄内川の上流にある関之尾の滝から用水路を作り、開墾事業を興し、更に人づくりへと発展させ繁栄の基礎を築いた坂元源兵衛、前田正名、石川理紀之助の3偉人です。

3.坂元源兵衛翁(1840~1916 享年77歳)
  坂元源兵衛は、現在の都城市吉之元町に生まれ、みんなから慕われた心優しい人でした。薩摩藩に伝わる「水流し工法」というシラス台地に適した土木技術を使って、付近の荒れ地を開墾し、多くの水田を造成しました。その技術を買われて明治2年に庄内町に移住し、今でいう助役に就任して福祉と教育に尽力しました。当時関之尾地区は水田がなく貧しい生活を強いられていた為、村人は源兵衛に開田を依頼しました。そこで源兵衛は明治20年、 落差18mの「関之尾の滝」の上流に隧道(トンネル)を掘り用水路を作って開田し、また安永川(庄内川)の洪水対策に役立てようと工事着手しました。

 当時は土木機械はなく「クワ、スキ」で土を掘り「もっこ」で運ぶ大変な重労働でした。トンネル工事も「ノミ、カナヅチ」 で岩を削り、想像を絶する難工事が3年間続きました。源兵衛は 『人間の意志が固いか、この石が固いか根競べだ!』 と不撓不屈の精神で人々を励まし難工事に挑み続けました。そして明治24年(1891)、約16町歩(≒ヘクタール)の水田を得ることができ、念願の叶った村人たちは喜びに沸きました。
 さらに下流域の延長工事に着手しましたが資金が底をつき断念せざるを得ませんでした。 そして明治31年、明治日本の農政に大きな力を有していた前田正名が、この中断していた用水路の権利を買い、谷頭・志和地地区までの大規模灌漑「前田用水」が動き出しました。
前田翁は潤沢な人脈・資金を使い、東京の技師たちを呼び、最新鋭の土木技術でダイナマイトを使って最短の直線ルートで工事を進めましたが、軟弱で透水性の高いシラス・ボラ土壌の為に崩落や漏水で水が届かず工事は失敗。前田翁は失意のうちに東京に引き上げました。
しかし村人たちの強い要請を受けた前田翁は、改めて源兵衛親子に従来の「水流し工法」での改修工事を依頼しました。そして前田翁が『3年間と9万円』と見積もった難工事を、源兵衛親子は、わずか『6か月と5千円』の費用で竣工し、現在の満々と水を運ぶ『前田用水の基礎』を造り上げました。

4.前田正名翁(1846~1921 享年75歳)

前田正名は明治の一大傑物で、数多くの人士を世に出しました。前田翁は鹿児島藩士の6男として生まれました。若い頃兄弟2人で外国船に密航して渡航しようとして見つかり、兄は弟の助命を哀願し、兄は殺されましたが弟は生かされて、フランスに渡って傭奴となって苦学、フランス語・英語を覚え、やがて仏国公使館二等書記となりました。

 そして欧米事情を視察研究し、産業・実業界の機運旺盛を見聞し明治15年に帰国、熱心に実業界の発展を説いて、農商務省と教育省を兼務勤務し国政を牽引しました。さらに明治18年官を辞して鹿児島・宮崎・大分・福島の払下げ地を纏めて『一歩園』とし 各地に支部を置いて園芸適産物の生産を興しました。 明治21年には山梨県知事となり、この時に秋田の農村改革者として高名だった石川理紀之助を呼び県内巡回講演を依頼しました。 両氏は意気投合し無二の同志となります。
 その後 前田翁は殖産興業を進め、自ら実行者として北海道・福島・宮崎・鹿児島で開墾事業を行いました。 
 特に宮崎の谷頭地区は不毛のシラス台地で、桜島安永大噴火の際に移り住んだ住民が、120年続く極貧の生活で心も身体も衰退しきっていました。前田翁は 『ここを豊かにすれば全国のモデルケースとなり、全国の農家は豊かになる!』と考えていました。そして明治31年に坂元源兵衛から用水権利を取得して、34年から都城地区の『庄内・谷頭・志和地』の開墾事業に資金をつぎ込み、近代的疎水工事を進めました。しかしシラス台地の特性を無視して直線ルートで強引に進めた為に、水は目的地に届く前に地中に消えていきました。この失敗から坂元源兵衛に旧来工法での工事継続を依頼しました。

 前田翁は『用水路が完成しても村人の心は荒んだままでは生活向上はない。しかしこの住民は人智幼稚だが純朴な心は全国比類ない。ここはあの農聖と謳われる秋田の石川理紀之助先生の助けを依頼するしかない! と、渾身の手紙を書き、現地指導を依頼します。 理紀之助は、この手紙に心打たれて7名の同志を連れて協力することを約束しました。前田翁の感謝感激は言うまでもありません。理紀之助の手紙の末尾には旅費・日当報酬等は一切不要と書かれており、まさに無我無私、利他の精神そのものでした。

5.石川理紀之助翁(1845~1915 享年71歳)
➀生いたち
 石川理紀之助は、秋田郡金足村小泉の奈良家3男として生まれました。奈良家は弘治年間(1555~58)に奈良から移住した十数代続く庄屋で、天保時代に士籍を与えられている名家です。幼少から利発で、祖父が句会で硯の墨が凍らないように酒を入れたのを思い出し『硯にも酒を飲ませる寒さかな』と詠み句会一等賞。それが9歳児の作と知り宗匠は仰天しています。
 20歳の頃、隣の秋田山田村で没落した石川家の再興のため婿養子に入りました。そして経費節減・昼夜農耕に努め、僅か5年で債権者に売り渡した田畑や土地を買戻し、その後も同じように精励したのでたちまち村一番の身代となりました。

➁長男・民之助の死
 明治維新の地租改正があり、算法にも秀でた理紀之助は総代となり公共の為尽くしました。 また山田村耕作会の指導者として農事の改良、耕作奨励、研究指導で有名となり、秋田県庁に採用、山田村から県庁まで毎日往復13里(約50km)を歩き、登庁は1番、帰宅は夜中という厳しい勤務を続けました。しかしこれは本意ではなく、県庁に30数回の辞職願を出し、後任の篤農家4人を推薦して漸く辞職が認められます。理紀之助の気がかりは、火が消えたように貧しくなっていた山田村の救済と、石川家の農業経営と我が子の教育、特に長男の教育でした。
 明治20年10月、長男民之助は父親の生き方を受入れられず、武道で身を立てようと家出し行方不明になります。半年たっても長男は帰らず音信不通です。
明治21年4月 長男の徴兵検査が間近に迫ったので理紀之助は覚悟を決めて民之助探しの旅に出ます。少ない情報の中から千島国後の鉱山で働いていると聴き、流氷で足止めをされながら漸く国後の鉱山に辿りつくと既に民之助は死亡、その亡骸は荼毘に付されたあと粗末な石油缶に入れられ、墓標もなく打ち捨てられていました。理紀之助は、愛児民之助の希望を叶えてやらなかった自分への反省、鉱山職場が墓標も立てず打捨てた我が子への侮蔑と人間とは思えない薄情さに慟哭し、後悔の念に苛まれながら遺骨と形見を背負って帰村し、ねんごろに葬りました。その時の心情述懐の一首です。
  なさけなき人の仕業を見てしより 涙も出ずになりにけるかな

➂前田正名との出会い
 明治21年の秋、農商務大臣井上薫の内命で上京、農商務省で農家経済の方策を講演、その講演録が公報として全国の各官庁各有志に頒布されたので、理紀之助の名声は全国の篤農家に知れ渡りました。この旅行は長男を失った夫婦の悲しみを癒す旅でもあり、旅の途中 山梨県に赴き県知事の前田正名を訪ね、この時初めて日本の実業の先覚者二人が出会うのです。両氏は意気投合して無二の同志となりました。

④草木谷山居

理紀之助の全国的名声が高まるにつれ、地元秋田では反論する者も増えました。その最たるものは『石川理紀之助は相当の資産家で極貧者の暮らしを理解していない。貧しい家に限って病人があったり子沢山だったりする。そういう極貧者には適合しない経済論である。』というもので、理紀之助は『それなら実証して見せよう』と心に誓いました。




 

長男の葬式が済むと、わずか18歳の次男老之助に家督を譲り、自分は母屋から離れた草木谷で単身移転し、米、味噌なども一切自給自足し自力だけで生きる生活を始めました。その生活は明るい昼間12時間働き、6時間は夜業のワラジ・竹籠作り、睡眠時間は6時間と、普通の人の1.5倍働きました。そして結果的に1年間の『山居生活』でも年間収入7百円、純益2百円を得られ『いかなる貧民も勤倹を守って怠らなければ、十分収益を上げられる』と証明したので、全国の名声はさらに高まりました。


⑤前田正名との再会、九州巡歴講演
 明治28年11月、盟友となった前田正名から電報があり上京します。前田翁は北白川宮殿下を総裁とする大日本農会を創設し幹事を務めていました。再会した二人は、日本の農業・殖産の重要性を再確認しあいます。そして北白川宮殿下から理紀之助に九州巡歴委嘱の辞令が発令され、理紀之助の九州巡歴講演が始まりました。
 12月19日の天草郡山口村を皮切りに、翌年4月21日の大分県四日市での講演まで、その全行程は延べ166日、聴講者は15,000人を超え、農業振興・刻苦勉励の精神を作りました。その講演を聴いた長崎県松浦郡の山川郡長は、『日本人で二宮尊徳先生を知らない人はいないが、石川理紀之助先生の話は尊徳先生と同様に素晴らしかった。それは全て実践によるものだから当然の道理である。』 と称賛しています。

⑥ 桜島安永大噴火難民の貧困の救済決心
 明治34年12月、前田正名から手紙が届きます。前田翁は同年、宮崎県荘内・谷頭・志和地で開墾事業を起こし、特に桜島噴火で避難した谷頭の貧民を救済し、模範的疎水工事によって水田を作り全国の農業者に範を示そうとしていましたが、中々思うように進まない状況でした。そこで失敗した疎水工事は坂元源兵衛に、農民の指導・教化を石川理紀之助に協力を求めたのでした。 この 『模範疎水事業を成功させ全国の貧しい農民を救おう』 とする前田翁の手紙に心を打たれた理紀之助は、直ちに森川他数名に相談し、了解の返事を出しています。
 『私共は開拓のお手伝いに過ぎない事をご承知下されたく候。従って旅費・日当報酬等は一切不要で、滞在中の宿舎だけを考慮していただきたい。何しろ私も老衰にて、我が家の後事を託し後顧の憂いなきよう整理してすぐに出立し6か月滞在します。』 当時人生50年の時代で理紀之助は57歳、決死の覚悟の出立でした。その時の覚悟をこう詠んでいます。
  世をかりの旅と思えば行きめぐる 千里も家の内にぞありける
  いたづらに寝ても老いゆく年月を 世の為めぐる旅で嬉しき

「秋田からの爽風」石川理紀之助翁物語(著者:瀬之口ヤス子)より
 前田正名からの手紙には『開田事業のため事業費が膨らみ、私財を投じた上に無一文となり、夢が果たせなくなっている。理紀之助翁が秋田の村々を貧乏のどん底から見事に立ち直らせたように、谷頭の民に農家経済、風俗改良などを指導して模範となる村づくりをしてほしい。滞在中の生活費は、最低限 寝起きする小屋と食べ物くらいは用意できるが、報酬も往復の旅費も準備できない。しかしどうか力を貸して欲しいと必死の思いが綴られた内容でした。
 秋田県でこの手紙を受け取った理紀之助は、嬉しさで胸がいっぱいになりました。親友がこれまでの自分の仕事を認め、頼んできたのです。理紀之助は意志の強い優れた農業指導者でした。どんなに遠くても、どんなに困難が待ち受けていようとも、苦しんでいる村の人々を放っておけませんでした。

明治35年正月、58歳となった理紀之助は、ともに苦労して村づくりに励んできた同志たちを集め手紙の内容を話しました。そしてその高い志に感動した7人(森川源三郎、伊藤与助、佐藤政治、伊藤甚一、田仲源治、伊藤永助、佐藤市太郎) が同行を希望しました。いずれも理紀之助に心酔し適産調などの責任者として活躍した人たちでした。

みんな夫々の家族を納得させ身辺整理をしたうのち、一人100円(現在換算:百万円位)の旅費・予備費を用意し、滞在中は決して帰らないと心に決め、死を覚悟して旅支度を整えました。

 そして明治35年4月2日、8人は秋田能代から出発しました。長い距離を歩き、汽車や船を乗り継ぎ、鹿児島を経て、錦江湾国分から馬車に乗って谷頭についたのは 4月20日でした。一歩園谷頭事務所に着くと、旅装も解かずに明日からの行動計画と生活時間割を壁に貼りました。
 翌日、理紀之助は、およそ70人の村人を前に、谷頭に来た目的を話しました。
「私達は、みなさんの暮らし向きが少しでも良くなるように手伝いに来た。その為には、早寝早起きすること、節約して貯金をすること、勉強や仕事に精出すこと、悪い生活習慣を改める事が大事だと秋田弁で話しました。しかし薩摩弁の村人たちはその内容が理解できず、只々びっくりして聞いていたのでした。
理紀之助たちは、早速 人々の暮らしぶりを見て回りましたが、目にしたのは想像をはるかに超えた貧しさでした。家は小さい上にとても古く、屋根が破れ壁も囲いもありません。食器もなく、ソバやサツマイモなどを手掴みで食べています。人々は破れた長い着物を着て裸足で歩き、働く意欲もなく遊んでばかり、文字の読み書きもできませんでした。
 「さて何から始めたら良いか・・」秋田弁と薩摩弁では言葉が通じないため、理紀之助は村の人々に相応しい指導法を懸命に考え、7人の同志たちに指導法の方針を話しました。
 〇まず、指導に来たという考えを捨て、こちらから村人に溶け込もう
 〇この村の人々の悪口は決して言わないこと
 〇我々の生活の仕方や行動を見て、欠点に気づいてもらうようにしよう
そこで、村を回り行きかう村人とにっこり笑って挨拶し、心を通わせることから始めました。すると、まず子供達と仲良しになり、やがて村人たちも自然に笑顔で挨拶を交わすようになりました。
 谷頭に来て4日目、理紀之助は、一歩園に夜学を開き人々に学問を教えることにしました。最初の生徒は、一歩園の世話役で36歳の福島嘉之助ただ一人でしたが、次の夜から村の有力者たちが進んで参加しました。当初早朝2時起床としていた生活時間割は、谷頭の生活リズムに合わせて起床3時に変更しました。
 そして次の朝から3時に板木をたたく音が響き渡りましたが、まだまだ村に起きる気配はありません。理紀之助は、人々が早起きしないのは仕事がないからだと考え、竹細工やワラ細工の指導をしました。まず8人が秋田に伝わるワラジ、モッコ、竹細工を作って見せます。そして 「今朝、ワラジを作り荘内の店で売ったら10銭儲かった。竹かごを打ったら15銭儲かった」などと教えました。すると張り切って朝仕事をする人が段々増えてきました。さらに理紀之助は、この土地のことを知るために各家を訪ね、農具を調べ絵に書き写したり、地区の地図を作りしました。
 そのうち理紀之助たちの慎ましく誠実な人柄を慕って、一歩園には大勢の人達が訪ねてくるようになり、夜学会では子供たちが目を輝かせて学ぶ姿がありました。
 そこでは読み書きやソロバン、ワラ細工や竹細工、稲作りの基本、お母さんたちには料理や裁縫、衛生、身だしなみ、言葉使い、女性の心得など沢山のことを教えました。やがて勉強が楽しくなった生徒たちは、帰る時間も惜しんで一歩園に泊まるようになりました。小さな事務所に60人から80人がひしめき合ったと言います。学ぶ喜びは素晴らしい効果を上げ、夜学生たちは短歌も詠めるようになりました。
 次に「人々が貧しさから抜け出す為には、節約して貯金することが大切だ」と考え、庄内郵便局に協力を頼みました。そして雨の日も風の日も、各集落に通い、貯金の大切さや節約すること、真面目に働くことなどを教えて歩きました。時には竹細工などの展覧会を開き賞金を出したり、ワラ細工や地区の人々が差し入れた卵なども買い上げ、まとめて郵便局へ持っていきました。
 村人は届けられた通帳に感激し、生活に張り合いを感じるようになりました。
理紀之助たちの親切な指導は人々の心を動かし、早起きする人もぐんと増え、そのエネルギーは、大きなうねりとなって村中が明るく生き生きとしてきました。

 さて、島移りの歴史は120年以上の歳月を経て人々の記憶から消え去ろうとしていました。これを心配した理紀之助は、先祖の苦労と慰霊を将来に伝える標(しるし)として「島移りの碑」を建てることを提案し準備にかかりました。
 8月の半ばの炎天下、早朝から村民総出で御池の護摩壇から石材を運び、下旬には老人を集めて、噴火当時の移住民について調査しました。古老からの聞き取り役は、山田小学校教員だった松元才之丞が務めました。

そして碑前面には、理紀之助みずから「しまうつりの碑」と書き、裏には移住した33戸の名前を伊東与助が書きました。9月中旬になると鹿児島から石工が到着し碑は完工しました。その費用の多くは理紀之助たちの寄付金によって建立されました。人々は「心のよりどころができた」と喜びを噛み締めながら記念写真に納まりました。(※なお現在の碑は、街路拡張工事のため昭和27年に移設。新しい土台は人々の望郷の思いもあり、桜島から溶岩を運んで作られたものです。)


 秋風が吹き、理紀之助たちが秋田へ帰る日が迫っていました。一行は忙しさを縫って、こつこつ調べた谷頭の人口や、この土地に適した作物のこと、実施した活動や生活指導のすべてを記録し、その文書を「置き土産」として残しました。また青年達には、理紀之助の志を受け継ぐことができるように「夜学生108人・158日間」に及んだ夜学会の事や、日課としていた貯金の纏め方を教え、帳簿を引き継ぎました。
 9月28日、夜学生の今村磯盛という14歳は、わずか2か月の夜学指導で次の見事な惜別の文を書いて別れを惜しんでいます。このほか15,6名の子供達も同じように惜別の文を残しています。佐藤・田中は農事だけでなく教育者としても優れていたことを示しています。
「拝啓、述ぶれば、私共は秋田から御出になった佐藤、田中先生のお陰により夜学会を始めてくだされ、勉強の都合よろしく御座候、・・・・石川先生は、吾等の如き者を親切になし下されて誠に有難く存じ候、然るに只今に至り申しては、いつか別れを致すかもしれぬ時と相成り申しては、実に別れ惜しきことと存じ候 匆々」

 明治35年10月1日、6か月の指導を終えて村を去る日が訪れました。理紀之助は午前3時に別れの板木を叩きました。松明の明かりに、夜学生や村人たちの涙でくしゃくしゃになった顔が見えました。共に「島移りの碑」を拝み、見送りは鵜ノ島までと約束して出発しました。長い坂を2キロほど下り、鵜ノ島のたもとに夜学生108名が並び、その後ろに各村から大人たちが200人、みんな別れを惜しんで泣いていました。挨拶に立った理紀之助はじめ7人の同志たちも同様に泣いていました。その後も夜学生たちに帰るように促してもなかなか帰らずどこまでもついてきます。理紀之助たちは身を切られるような思いで別れたのでした。
 会い難きことを語れるつらさは 死に別れよりかなしかりけり 
                      (石川理紀之助)
 ふるさとに帰る心のうれしさも 忘るるまでに悲しかりけり 
                      (田仲 源治)
 理紀之助たちが命懸けの真心指導に訪れてから130年がたちました。谷頭は商店街が立ち並び、水を満々と湛えた豊かな田園風景が広がっています。商店街中心の交差点わきに「島移りの碑」があります。
 またそのすぐ横には、平成8年に山田町民が感謝の意を込めて建立した石川理紀之助翁の胸像があり、いまでも優しいまなざしで町の移り変わりを見つめています。その胸像の下には理紀之助翁の人生訓が刻まれています。

 石川理紀乃助翁が村民に教えた生き方は、この碑の名言「寝ていて人を起こすことなかれ」に集約されます。その意味は『自分は何もせずに人にさせてはいけない。人に先立ち自ら進んで努力しなさい』ということです。 その言葉通り、当時の理紀之助翁は誰よりも早く起き、雨風の日でも朝3時に木を打ち鳴らして村人を起こして 『お金になる草鞋作り、竹細工仕事』 を教え、明るくなると夕方まで先頭に立って開墾仕事に励み、夜は夜学を開き読み書きを教え続けました。働くことで農民たちのやる気を引き出していきました。

 理紀之助翁の和歌に「世にはまだ生まれぬ人の耳まで 響きとどけよ掛け板の音」があります。ある秋田の吹雪の朝に村を回った後、いつものように朝3時に理紀之助が村人を起こすために掛け板を打鳴らすと、妻の志和子が、「こんな日は誰にも聞こえないし、起きてこないでしょう」と言ったことに、こう答えたと言います。 「掛け板は、この村の人々だけではなく、遠く500里離れたところの人々にも、また500年後に生まれる人々にも聞こえるように打っているのだ」

7.『120年を超えた秋田と宮崎の心の絆」令和2年1月14日宮崎日日新聞
石川理紀之助翁の言葉通り、120年を超えて掛板の音が現代中学生の心に響き現代に蘇りました。理紀之助翁の出身地=秋田県潟上市の中学生が1月10日、都城市・山田中(田口校長 166人)を訪れました。



この交流の始まりは、10数年前に山田町の瀬之口ヤス子さんが自費出版した絵本『秋田からの爽風(かぜ)』がきっかけです。 内容は 『明治35年に、命も惜しまず遠く秋田県潟上市から山田町谷頭地区の貧困を救うため訪れ指導した理紀之助翁と7人の同志が、村人に農業技術や人としての生き方などを教え、村を変えていく物語』 が描かれています。この本を元に平成23年に『山田のかかし笑劇団』が設立され、地元の小中学校や一般公演で伝承活動し、秋田の地でも公演されて山田中と潟上中との交流が始まりました。

8.山田中学校田口校長のお話(令和元年11月訪問時の談話)
『私は30年以上県内の中学校を異動してきましたが、山田中学校の生徒たちは、他校とは違う面があり感心します。真面目で頑張り屋が多く公共心がとても高いのです。
例えばボランティアに70%以上が参加しています。(他校なら30%くらい)川翁・しまうつり碑清掃かかし祭やラジオ体操運営、公民館清掃など、活発に活動して町民に感謝されています。全校生徒160名(各学年60名以下)と生徒数が少なくなりましたが、勉学面でも部活でもみんな頑張っており、素晴らしい生徒たちです!』
 参考文献:「秋田からの爽風」著者:瀬之口ヤス子
      「石川理紀之助の生涯」著者:田中 紀子