2024年9月3日火曜日

5. 椎葉の 純愛伝説と イモガラボクト伝

今回は、私が 『日本一美しい心の村』 と思う椎葉村の紹介です。
平家鶴富姫と源氏大将那須大八郎の悲恋伝説(ひえつき節)で有名な椎葉村は、県北の一級河川 耳川上流部に位置します。村としては日本第5位の広大な山村ですが、全体が峻険な九州山地中央部の標高10001700クラスの山々に囲まれ、人口は僅か2400人です。
 約800年前、壇ノ浦合戦に敗れた平家は九州の山奥に逃れ、ここ椎葉にもその一族がひっそりと暮らしていました。その追討に来たのが那須大八郎です。あの屋島の合戦で扇の的を見事射落とした那須与一の弟です。しかし大八郎は平和に暮らす椎葉の民を滅ぼすことができず、美しい鶴富姫と恋仲になり幸せに暮らしていました。
民謡 ”ひえつき節” は、敵姫に恋した道ならぬ秘密の逢瀬を庭の山椒の木に 鳴る鈴かけて 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれよ』と歌います。
 そこに鎌倉から 「早く帰ってこい」 という命令が届きます。その時 鶴富姫は身ごもっていました。この大八郎と鶴富姫の二度と会えない悲しい別れを ”ひえつき節” は 那須の大八、鶴富おいて 椎葉を旅つ時ゃ 目に涙よ』と歌っています。 そして800年を経た今も、その那須家の子孫がこの鶴富屋敷に住んでいます。そして椎葉村の人々の姓は『那須、椎葉、尾前』 が大半となり、お互いをファーストネームで呼び合う家族のような村となっています。


 椎葉村の主産業は林業でしたが、1955年に九州電力が社運をかけて、日本初の高さ110mの大規模アーチ式ダムと9万kwhの発電所を建設してからインフラ等が整い近代的な自治体に生まれ変わりました。 
しかし国内初アーチダム建設は困難を極め、工事期間5年、工事に携わった人は延べ500万人、105名の犠牲者が出ました。
ちなみに8年後の1963年に完成した黒四ダムは、高さ181m、工事に携わった人延べ1000万人、171人の尊い犠牲者が出ましたが、上椎葉ダムの経験がなかったら、犠牲者は更に大きなものになった事でしょう。
ダムの高台には、この尊い犠牲者の霊を悼んで三女神像が建立されました。左からキリスト教・仏教・水神です。イエスもブッダも男ですが、人々の魂を救うために命を懸けた聖人の母親の悲しみと祈りを込めたこの三女神像は、いかにも心優しい椎葉の人たちの真心をあらわし、思わず手を合わせてしまいます。  
(黒四ダムの東岸にある犠牲者像は、うなだれて疲れ切った姿で、暗く悲しい気持ちになり、あまり好きではありません。)
高度成長期が終わると、椎葉村は人口減少に転じ、1970年に10,000人以上あった人口も、年々減少し2023年1月で2,400人を割っています。
最近ネットで椎葉を検索すると、若い人を中心に 『椎葉まつり』などの町おこしが活発で、またインターネット、SNS等を通じて村内や村外進学・就職した子供さん達との盛んな交流があり、絆を深めておられるのを知り感動しました。 そのやり取りは、私が中学3年の一時期に接した温かく優しい椎葉村の方々そのもので、写真や文章を読むだけで50年前を懐かしく思い出し、ほのぼのとした幸せな気分になります。

伝説の恋 - YouTube

view〝椎葉のマチュピチュ〟に脚光 

宮崎県「仙人の棚田」 - YouTube


次に50年が経過しても鮮烈な、私の椎葉の思い出を紹介します。 
 【1976年(26歳)出光千葉所内報の "いもがらぼくと”  から 】
 神代の昔、初代スメラミコト神武天皇は、勇敢で有能な人材を率いて日向の美々津から東征し日本統一した。 そして日向の国には「イモガラボクト(里芋の茎のように見かけは木刀だが、弱くて直ぐ折れる優男)」と、「日向カボチャ(見かけは良くないが、料理すると極めて美味で働き者の女性)」が残った。 だから宮崎人は争いごとが嫌いで優しく親切。 「三日もいると日向ボケになってしまうほど居心地がよい」と民謡に歌われる。
 二千数百年を経て現代に生きる私にも、その血は脈々と流れ、トンチンカンな事をやっても頓着がなく、危険な目にあっても飄然としている。

 幼少のころ、近所の悪童が集まってワイワイやっている。
 『なぬしおっと?(何をしているの?)』と覗くと、力比べで大きなマサカリの持ち上げっこをしている。『なんだ、そんなもの訳ない。よっこいしょ!』と肩に担ぐと皆がギョッとした。力が足りず頭のてっぺんを切ってしまい血だらけになった。
 悪童仲間で鳥の罠が流行った。馬の尻尾の毛で輪を作り、小鳥の足に引っかけさせる簡単なものだ。その馬の毛を集めようと、家で飼っていた農耕馬の後ろから近寄り、一本一本コッソリと抜き取っていたら、いきなり後ろ脚で『パカッ!』と胸をけられ、しばらく絶息した。ともかくも引き抜いた五、六本の尻尾毛で罠を作って仕掛けたが、野生の小鳥はそんなものに引っかかるほど甘くはなかった。

 『ありゃま、んだもしたん。もどっきたね!(あれ、どうしたの。戻ってきたのね!)』 母の素っ頓狂な声に迎えられ、椎葉中3年間の勤務を終えた父の転勤に伴う転居の手伝いに椎葉に来たのだ。当時私は宮崎市内の全寮制の私立高校生だった。 家財の積み込みが終わり、さあ出発という時、父が大事に飼っていた雄鶏のことを思い出した。『お父ちゃん、テチョ(雄鶏)はどげんすっと?』 丸々と大きな七面鳥のように成長した雄鶏を、舌舐めずりしながら見る家族の目から、酉年の父は隠すように大切にして育てていた。雌鶏は近所の人にやり、その雄鶏はミカン箱に入れ車に積み込んで出発した。
 人恋しい平家落人の里椎葉も、春ともなると全てが明るい色調に生き返る。昨日までの雨が嘘のような深い青空だった。

 曲がりくねった谷道を揺られながら、トラックの助手席でついウトウトしかけたとき、物凄い上下振動を受け、頭を車の天井に何回もぶっつけた。右下は4、50メートルはある深い谷だ。運転手は必死の形相でハンドルをキープしている・・・・・。車を止めてみると、崖崩れが車を襲い、トラックの荷台に直径50センチの大穴が開いていた。「あとコンマ何秒かずれていたら運転席を直撃し命はなかった!」 運転手と私は顔を見合わせ震えが止まらなかった。
 呆然としてあたりを見渡すと、萌えたつ木々はかげろうのように淡い色彩で、その中に咲く山桜は一際あでやかだ。 深い谷底の渓流はコバルトブルーに透き通っている。ふと桜の木の下に目を戻すと、先ほどの落石で檻から逃れた雄鶏が、何事もなかったように凛然とこちらをむいている。それは狩野派のどんな屏風絵よりも豪華で美しい絵巻であった。
 毎年 桜の季節になると、あの孤高の雄鶏の姿を思い出す。 『あのように、突然の危機にも動じない毅然とした生き方をしたい!』 と決心したのに、いまだに私はイモガラボクトのままである。
 生涯をかけて鶏の美を追求した伊藤若冲、不世出の大横綱 双葉山が安芸の海に敗れて70連勝が達成できなかった時 『いまだ木鶏にあらず』 と自戒した言葉の重さを改めて味わっている。

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