2024年9月3日火曜日

5..夢を育くみ心豊かにする道徳読本

                     2013年12月16日
  『知性と品格を磨いた女性は、男子以上に世の中を変える力がある』 
   日本初の私立大学 同志社大学を設立した夫 新島襄が残した言葉です。2013年NHK大河ドラマ 『八重の桜』 は、この言葉通りの人生だった新島八重と、過酷な運命にも屈することなく誠実一路に、懸命に生きた会津の人々を見事に描いていました。
  江戸末期、孝明天皇から絶大な信任を受け、徳川幕府から最後の頼みの綱とされながら、戊辰戦争以降、将軍慶喜に裏切られて置去りになり、いつの間にか賊軍とされ、死よりも辛い不名誉な人生を生きた会津藩の人々の姿は、毎回涙なしには見られませんでした。 以前、飯盛山の白虎隊 (城下炎上を落城と見間違い自刃) 20名の墓 を訪れた時、慄然とさせられたことを何回も思い出させられました。
彼らは、何故あのように純粋に私心なく公と大義の為に生きることが出来たのでしょう。
 気鋭のジャーナリスト 櫻井よしこ氏は、『日本人の魂と新島八重』 (小学館101新書)、 『日本再興』 (ダイアモンド社)の中で、藩祖・保科正之 (三代将軍家光の異母弟) が実施した徳政、特に教育がその根本にあると次のように述べています。
 
保科正之は、『上に立つ者の責任は、どんな時にも下にいる人々を守ること』 だと考え、凶作等に備えて領民救済のコメや金を貯えておく『社倉』制度を作った。 また教育には特に力を入れ、武士と庶民の身分を超えた教育目的の学校 『稽古堂』 を1664年に全国に先駆けて開校した。
また家庭教育も重視し、6歳から9歳までの子供は10人単位の集まり(什)を作り、礼儀・挨拶・言葉使い・正しい姿勢・正しい行いを自然の呼吸のように基本として身につけさせ、嘘や卑怯な振る舞い、弱い者いじめ等を厳しく戒める相互家庭教育を行うようにした。 (ドラマでもあった 『ならぬことはならぬものです』 と唱和する場面が、その什教育である。)
その代表例が、財政担当家老職にあった山川家の幕末の母親 “艶” の家庭教育だ。 彼女は、子供、下働きの者たちまで集めて、神話や偉人伝、故郷の物語、日本人の歴史・物語などを、毎日ひたすら読み聞かせた。 10歳以前の心の柔らかい子供達にとって、母親 “艶” が話し聴かせた物語が、どれ程大きな影響を与え、大事な心の財産となったか・・・その結果は、苛烈な運命に翻弄されながらも、それを乗越え明治維新後に大活躍する山川家の子供たちに結実する。 (ドラマでも八重や覚馬、新島襄と同じく主役として描かれた。)
○長女の双葉は、女子高等師範学校(現お茶の水女子大) の教育者として活躍
○長男の浩は、東京高等師範、女子高等師範学校の校長、のち貴族院議員
   晩年 『京都守護職始末』 『会津戊辰戦争史』を編纂し会津の汚名回復
○次女は、会津戦争中、鶴ヶ城内で死亡
○三女の操は、昭憲皇太后の女官として仕え、フランス語通訳を務めた
○次男の健次郎は、会津戦争後アメリカに留学し、学者となって東大総長
○末娘の捨松は、日本初の海外留学生、のち陸軍大将大山巌と結婚し、
日本外交の一翼を担い、後年、日本初の看護婦学校設立に寄与

この山川家のような家庭教育は、会津藩だけでなく、江戸・明治時代を通じて日本中の各家庭で実施されていたようです。 そして明治・大正期に、国際的な視野を持たせる為に、古今東西の偉人・賢人の具体的なエピソードを盛込んだ 『修身教科書』 へ集大成されていきます。

終戦後、GHQは 『修身、日本歴史、地理の授業停止、教科書の回収』 を命じ廃棄処分にしました。その後、歴史と地理はGHQの承認を得た教科書と授業が復活しましたが、『修身』 は葬り去られ、日本人自身も 『国家主義と軍国主義のイデオロギーの宝庫』 と見なして否定し恐れ、その延長線で道徳教育さえ忌避されてきました。恐らく多くの人は実際の「修身教科書」 を見ないまま修身教育を恐れ遠ざけています。 今の若者が、『礼儀・挨拶・言葉使い・正しい姿勢・正しい行い』 が身についていないのは当然ではないでしょうか。 

しかし近年、日本の修身教育は、それを禁止したアメリカ本国で見直されました。
1981年合衆国大統領に就任したロナルド・レーガンは、就任早々教育改革に着手しました。
60年代以降の米国の教育界は 『子供中心主義』 に傾き、子供に親や教師の枠をはめず、自由放任や個性重視の教育が行われるようになりました。その結果、学校はストリート同然となり、やがて校内暴力、麻薬・アルコール乱用、セックス・十代の妊娠へと発展し、1519歳の子供の自殺は以前の三倍になり、少年犯罪も激増し、その様子は次のように指摘されています。
“このような学校の自由化、人間化の動きにより、教師は昔の毅然たる姿勢を失い生徒の歓心を買う芸人と化し、生徒は権威への尊敬を忘れて刹那主義に陥る者が多くなった。” (加藤十八『アメリカ教育のルネッサンス』 学事出版) <まさに今の日本かと見まがうばかりです。> 
この “病理現象” を憂慮した父母達が 『基本に帰る教育改革 (①読み書き計算の充実、②子供中心から教師主導型への回帰、③厳しい進級・卒業認定)』 の 草の根運動を展開していきました。この運動を83%のアメリカ国民が支持しました。

政権についたレーガン大統領は、国家教育委員会を組織して 『危機に立つ国家』 を発表し、その中で、『過去20年間の凡庸な教育内容ではアメリカは亡びる』 との危機感を示しました。 そして当時まだ平均的学力と規律の正しさを維持していた日本の教育に学べと、各種の教育視察団を頻繁に日本に送り込んで教育再生に取組み、その後の政権でも継続されています。 今のアメリカの教育再生の基本的考えは、『ゼロ・トレランス (Zero Tolerance 寛容さなしの厳しい指導=子供達を断じて“不良品” にしない)』 です。 <日本の無気力で怠惰な若者達を見ていると、今の日本にこそ必要な教育姿勢だと思います。>

このレーガン政権の最後の教育庁長官を務めたのがウィリアム・ベネットです。
ベネットは教育庁長官退任後、1993年に832ページの 『道徳読本』 を刊行、1年間で250万部の大ベストセラーとなり、その後も売れ続け、現在アメリカ家庭の第二の聖書となっています。 その内容は、『自己規律、思いやり、責任、友情、仕事・勉強、勇気、忍耐、正直、忠誠、信仰』 という十の徳目で構成され、関連する古今東西の民話や偉人賢人の逸話、随筆を短く纏め掲載しています。 それは『修身教科書』 を参考にしてもっと大がかりにしたもので、 『修身教科書は児童・生徒の為に作られた』 のに対し、『ベネットの道徳読本は、親と子の為に作られた』 と言えます。 日本では次の3分冊で発売されており、是非各家庭に購入し親子で愛読していきたい本です。
  『魔法の糸』、 ②『モラル・コンパス』、③『不思議な翼』 刊:実務教育出版社
この中から 「ジョージ・ワシントンと桜の木」 を紹介します。 幼い6歳のワシントンの正直さと勇気を礼賛するだけでなく、親として子供に接する真剣さ、誠実さ、厳しい中にも温もりのある愛情の大切さを教えられる逸話です。

【日本の戦前 修身教科書 3年生 『しょうじき』 】
ワシントンはにわへあそびに出て、父のだいじにしていた桜の木を切りたおしました。
「これはだれが切った。」 と父にたずねられた時、「私が切りました。」 とかくさずに答えてわびました。 父はワシントンのしょうじきなことをよろこびました。これはワシントンの6さいの時のことでありました。

【道徳読本 (①『魔法の糸』) :ウィリアム・ベネット より】
 小さい頃、ジョージ・ワシントンはバージニア州の農場に住んでいました。 父親は、息子が大きくなったら畑を耕したり、馬や家畜の世話ができるようにと、まだ幼いジョージに馬の乗り方を教え、よく一緒に農場へ連れて行きました。
 ワシントン氏は、果樹園に見事な果物の木を植えていました。 リンゴの木、桃の木、梨の木、杏の木、桜の木など様々です。ある時、とても立派な桜の木が、海を越えて送られてきました。ワシントン氏は、その木を果樹園の隅に植え、農場の人々に、この木が折れたり痛んだりしないように気を付けてくださいと頼みました。 桜の木はすくすくと育ち、春になると、一面に真っ白い花を咲かせました。 ワシントン氏は、もうすぐこの小さな木からさくらんぼを収穫できると思って喜びました。
ちょうどその頃、ジョージはピカピカの新しい手斧をもらいました。斧を手に歩き回っては、棒を切り刻み、フェンスの植木を叩き切り、通りがかりに目にするものは何でも切りました。果樹園のはずれまで来たとき、ジョージは手斧の素晴らしい切れ味のことしか頭になくて、小さな桜の木を切ってみました。 樹の皮はやわらかく、簡単に切れます。ジョージは桜をすっかり切り倒して、そのまま遊び続けました。
 夕方、農場の見回りからもどったワシントン氏は馬を厩舎に入れると、桜の木を見ようと果樹園まで歩いていきました。 すると桜が無残に切り倒されているではありませんか。 ワシントン氏は驚いて立ちすくみました。 一体、だれがこんなひどいことをしたのだろう? 農場の人々にたずねまわりましたが、だれも知りません。 ちょうどその時、ジョージが通りかかりました。 「ジョージ」 と、父親は怒った声で呼び止めました。 「だれが桜の木を殺したのか、知らないかね?」
 きびしい質問に、ジョージは一瞬ためらいましたが、すぐに告白しました。
 「嘘はつけません、お父さん。 僕が手斧でやったんです。」
 ワシントン氏はジョージを見ました。 子供の顔からは血の気が引いて青白くなっていましたが、父親の目をまっすぐに見ています。
 「家に入りなさい」と、ワシントン氏はきびしく言いました。

 ジョージは書斎に入って父親を待ちました。 ジョージはとてもみじめで、恥ずかしくなりました。自分が馬鹿で、あさはかで、お父さんが怒るのも当たり前だ、と思ったのです。 ワシントン氏はすぐに部屋に入って来ると言いました。「ジョージ、こちらに来なさい」  ジョージは父のそばに行きました。 ワシントン氏は長い間、無言でジョージを見つめています。
 「息子よ、言ってごらん、何であの木を切ったのだ」
 「遊んでいて、何も考えずに・・・・・」 と言うと、ジョージは口ごもりました。
 「あの木は死ぬだろう。 もう、さくらんぼを取ることもできない。 でも、そんなことよりもっと悪い事がある。おまえは、お父さんが言っておいたのに、木の世話をしなかったね」
 ジョージは首をうなだれ、恥ずかしさにほおを真っ赤にしていました。「お父さん、ごめんなさい」
 ワシントン氏は、ジョージの肩に手を置いて言いました。
 「わたしを見なさい。桜の木を失ったのは残念でたまらない。だがおまえが真実を言える勇気のある子だったと知って、とてもうれしい。私には、おまえに正直さと勇気がある方が、果樹園中に素晴らしい桜の木があるよりも大切だ。このことを決して忘れないように」
 ジョージ・ワシントンは、父の言葉を決して忘れませんでした。 生涯を終えるまで、あの少年の日と同じように、常に勇敢で誇り高かったのです。

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