2026年2月5日木曜日

9. 古希後は毎日一期一会(森田君逝く)

 大事な人には意識して会わないと二度と会えなくなる  を痛感します。

 先日、病院診察待ちしていたら、高校同窓の五十嵐君から『学友の森田君が逝去したらしい』と電話が入り本当に驚きました。

 S43年日向学院高校卒業後、私は50年間、学友と全く交流を絶ち『安藤は行方不明』となっていました。たまたま連絡を取った都城の五十嵐君から、2018年5月に卒業50周年同窓会を開催する話を聴き、古希の前年にようやく同窓生と再会しました。 言い出しっぺは英人君で「最初で最後の同窓会になるから、何が何でも開催しよう!」と宮崎市の料亭「杉の子」に20名が集まりました。

しかし同窓会3時間でじっくり話せるのは精々数人です。そこでその4時間前に、高校途中編入組=地方出身者6名だけが宮崎観光ホテルロビーに集まりプレミーティングを行いました。そこに学院中出身の森田君が唯一人参加していました。交流の長い五十嵐君が誘ってくれたのです。

事前会合は大正解で、在学時代から話したことのなかった森田君とも話が出来『森田君はこんなに魅力的なナイスガイだったのか!』と初めて知りました。以来メールのやり取りが始まり、1年後帰省するおり『もう一度宮崎在住の仲間を集めて会おうよ!』と8名で宮崎観光ホテルでランチ同窓会を開催しました。・・その時、森田君は50年来の知己・親友状態で「有機農法事業、中国への事業展開」を熱っぽく語ってくれました。そしてコロナ禍が始まり、2020年4月の「手作りマスク」のメールを最後に連絡が途絶え「どうしているのかな・・」と案じていました。

彼はこの直ぐ後に脳梗塞で倒れ、3年後の昨年12月に還らぬ人となっていました。「もう一度会ってあの熱っぽい話を聴きたかった・・」そう思いながら、貴重な彼との交流や写真を反芻しています。(合掌)

2019年9月古希同窓会
「50年行方不明の私」が高校同窓会幹事を引き受け、東京で3回、宮崎で1回企画実施しました。
これは古希同窓会二次会の喫茶タイム。宮崎観光ホテル1階のカフェーで再び盛り上がりました。左端が私、その隣が森田英則君、その前が五十嵐君です。

2018年夏、事務所での森田社長 温かい笑顔に、彼の優しい性格がにじみ出ています。

同じく2018年夏、メール添付の写真です。
宮崎市内のハウス栽培農家の主人に有機農法のアドバイスをする森田君です。宮崎県下の農家から、大きな信頼を得ていたようです。・・彼の最後のメールです。

2020428日 森田君より>
『簡単な自作マスク』 の紹介、よい情報ですね、ありがとうございます。幸い宮崎では感染者が少ないのですが、世界ではとても多くの感染者が増えています。でもマスクの発想はありがたいと思います。私も中国訪問での仕事が中断してしまして、このままコロナが続けば収入の減少となり大きな痛手です。色々と報道されていますが真意の所はいかに? それにつけても早く終わるのを祈るばかりです。 いま日本の仕事を軌道に乗せるべく邁進しています。また、連絡ください。 森田】

2019年5月12日 卒業50周年同窓会プレ会合 崎観光ホテル)

左から「河野義和君」自称日向学院の裕次郎

その右「森田英則君」有機農法指導者 その右「五十嵐可久君」都城木材㈱社長 その右「弓削俊章君」弓削建設会長

同窓会会場「杉の子」で。 中央が森田君、その左隣は高山君「お坊ちゃん学校の日向学院中」出身にしては、この二人は超然とした硬派で、在学中は近寄りがたい雰囲気がありました。

同窓会二次会のパブ(学友のお姉さん経営)。 中央が私、左が森田君、右隣は高山君 学生時代真面目なガリベンタイプの学友は、気が合うのか奥のボックスに集まっていました。私は当時とっつきにくい田舎出身の変人で、都会的なお坊ちゃんが多い中高一貫組は苦手だったのですが・・気が付くと、その中高一貫組硬派二人が隣に座っていました。特に英語力抜群で超然としていた高山君曰く「クソ真面目な学院中生と6年付き合ったので もう結構! と思っていたけど、安藤君が参加するので、それなら参加するか」と参加したよ」と嬉しいことを言ってくれました。

20199月古希同窓会(宮崎観光ホテル)手前が大橋君(元東郷メディテック社長) 中央は森田君、その右が藤沢君

2018512日「3年B組同窓会」全体写真に森田君の姿が見えませんが・・この時トイレでした。右下の写真にしっかり写っています。

折角の「卒業50周年記念同窓会」でしたが、東京で仕事のある友人は参加できず、とても残念がっていました。そこで私が帰郷後声をかけて「東京分科会」を立ち上げ、その後3回の会合を開きました。場所は麻布の蕎麦銘店「更科本店」この夏、神父となった野口君を探しました。そして50年ぶりに再会!

左上写真の前列左から 岩切君・・新宿の大きな外科病院長 浦元君・・上智大特任教授 野口君・・星美学院神父 牧野君・・元動燃勤務(原子力発電技術者)

<後列右から>

英千代・・元出光人事、大学キャリア講師

高山君・・元日本ロビーインダストリアル

英人君・・元旭化成 医療機器 佐藤君・・元安田信託
なお最下段は、当時岩切君が住んでいた三田の高層マンション自宅を訪問。(やはり東京の大病院長は、庶民離れしたすごい生活です! 転居が趣味の岩切君は現在青山に住んでいます)

9. 萩原政人君の真摯な人生に学ぶ

  萩原君59歳の旅立ちから9年経過、先日 旧職場仲間6人で墓参しました。

 折しも、史上初女性の高市首相が登場し日本中に活気が出てきました。 国のトップが「働いて働いて働きぬいていきます!」と力強く宣言、その言葉通りトランプも習近平にも臆することなく堂々と渡り合い、日本が再び活力を取り戻し、世界から尊敬される国へと導く力強いスタートを切りました。 

日本人は、元来働くことに喜びを持つ国民」です。近年「楽して働かず、人の為でなく自分の為だけ、補助金は欲しい、悪いのは全て政府」とする他責・自己中が蔓延ってきました。しかし高市政権はそういう暗雲を吹き飛ばし支持率は80%超、若者に限れば90%以上となりました。

私達出光興産に勤務したものは、佐三店主から 「一生働け! 働くとは、人の為に動くという意味、傍(はた:周囲)を楽にすることだ」 と教わり、その代表選手の一人が「萩原政人君」でした。

 萩原君は高度成長末期のS51年入社、先輩20人の職場で最年少状態が30年以上続きました。平成20年代になり世代交代で漸く新人が入社し始め、構造不況下の人件費削減のために10数名となった極めて困難な時代「この難しい状況のリーダーは萩原君しかいない!」 と、先輩達を率いる電気係長に抜擢されました。使命感が強く仕事熱心で人間的魅力にあふれ、甲府出身であることから、私は密かに 『現代の武田信玄!』 と尊敬していました。

これは平成9年6月、以前電気係長だった山口輝昭さんが退職後タンク清掃会社を設立、出光エンジ事務所に来訪された時の写真です。この時萩ちゃん40歳の大ベテランですが、それまで後輩の採用はなく、22年目の「最若手社員」でした💦 (左から、竹内君41歳、萩ちゃん40歳、山口さん60歳、山田君44歳、森木君41歳)・・山口さんは親父のような存在で、部下の実家近くに出張や旅行で行くと、必ず部下の実家訪問され、ご両親に「元気に頑張っていますよ!」と近況や活躍状況を報告されました。そういう家庭的な職場の中で萩ちゃんは育ち実力をつけていきました。

私は平成5~9年の5年間千葉電気係長でしたが、電気係員として経験が全くなく、現場作業のできない係長でした。そういう私の片腕となってバックアップしてくれたのが若い萩原君でした。 工場は停電で全装置が停止します。私の係長5年間の間でも様々な全停電危機状況がありました。 

1.    製油所工場変電所 低圧盤制御基板焼損対応

その一つが平成66月、係長1年目の「FCC変電所の低圧盤プリント基板の焼損事故」でした。メーカー耐熱設計不良によるもので、同じ基盤が製油所工場全体で2700台に使われており、これらが一斉に焼損すると製油所・工場すべてが停止し、メーカー対応も不可能で生産再開に1~2年はかかります。「このままでは 出光最大の生産拠点が長期間機能しなくなる!」 という私の75年人生で最大の危機でした。今思い出しても身の毛がよだちます。

「現場経験のない私が電気係長となったのは、この重大試練に対処せよという天の采配だ!」と覚悟しました。何より心強いのは、萩原君たち職場仲間が固く結束していることでした。

 本件は、別途詳しく報告しますが、係長の私はメーカー(明電舎)の重役と協議を重ねて緊急で新製品を設計製作させ、1年後のSDM(定期補修工事)1カ月で2700台を一気に交換する工事段取りを進めました。その工事監督・最終設定確認は千葉だけでは到底対応できないので、徳山・兵庫・愛知・北海道の電気係から6名の応援を出してもらい何とかクリアできました。この6名が「二度と千葉には応援に来たくない!」と悲鳴を上げるほどの繊細でハードな工事でした。この6人への工事手順説明・バックアップを精力的に務めたのが萩原君で、彼の行き届いた仕事に助けられ本当に心強く思いました。

2.    台風暴風雨による変電所雨漏れ多発危機

もう一つが、平成88月台風5号の大雨による変電所建屋の雨漏れ多発トラブルでした。30か所以上ある二次変電所の10か所で雨漏れが発生したのです。

中でもHD(3)変電所はひどく、天井から滝のような雨漏れがあり直流盤が水浸しとなりプラント停止したのです。同様の危険性が全変電所で危惧されました。中でも萩原君が担当するPP変電所は電気設備が多く、同様の停電が起きたら会社に与える損害は膨大となります。・・そう思いながらPP変電所に確認に行くと天井からの雨漏りが始まっていましたが、すでにブルーシートが被せてありました。そして萩原君が「PP変電所は危険予知して対策を進めていましたから大丈夫です。ほかの変電所担当者を支援してください。私も後から応援に行きます」と言うのです。私は「この危機的状況にも動ぜず 何と凄い男だ!」と心から感服しました。

現代社会において「電気」は便利で欠かせないものですが、技術理論は専門的過ぎ、取扱いは極めて繊細で難しく、一般社会 とりわけ工場の運転課からは常日頃「電気は空気や水と同じように存在して当然」と思われています。従って電気トラブルが起きるたびに「何やっている!」と激しく非難される 誠に損な見返りの少ない職種です。しかしそれを不満に思う電気担当者は一人もいません。そういう重要な技術分野であるからこそ、人に理解されずとも「電気トラブル・故障ゼロ」を自らに課し、人知れず黙々と努力を積み重ねる「求道者のようなサムライ人生が、電気係員の役割使命」なのです。

私は僅か5年間の電気係長で、そのあと兵庫製油所人事課長となり電気現場から離れました。しかし萩原君はじめ電気係員は、入社以来40年(今では70歳まで50年以上)、こういう大変な仕事に対処しています。それだからこそ会社を辞めて10数年経過した今も、再会すると現役時代そのままの率直な会話がはずみます。


 萩ちゃんは平成28年(2016)11月5日、59歳の働き盛りに突然逝去しました。『何故?まだまだこれからの人生なのに!』 と本当に驚き残念でした。そして告別式の奥様の話で、改めて 『本当に偉大な男だった!』 と驚嘆しました。彼は末期がんで死期を悟り、死後に家族に迷惑のかからないよう 永眠するお寺と葬儀段取と樹木葬を決めて旅立ったのです! 何という見事な覚悟!何という夫婦愛・家族愛でしょう!

かっての同僚・友人が毎年墓参し9年目になります。今年は6名参加、欠席の2名は勤務延長の田村君(S47)、成田空港水素ステーション勤務の田代君(S50)で、参加できないことを残念がっていました。

今年の墓参でも『私達も潔く思いやり深い萩ちゃんのような人生を目指して頑張るよ!』と誓いながら、心づくしの花々でお墓を飾りました。

『萩ちゃん、この配置でいいかな?』
『ありがとうございます。皆さんの温かい気持ちが伝わってきますよ!』
ここに来ると、昔のままの楽しい会話ができます。確かに彼は私達とともにいるのを感じます。

萩ちゃんの樹木葬墓標を、心づくしのパンジービオラで囲みました。『花さん達、これから一杯花を咲かせて萩ちゃんを楽しませてくれよ!』

墓標周りは前日奥様が植えられたもの。私達「萩ちゃんを囲む会(8名、欠席2名)」は、その周りを囲むようにビオラを8株植えました。

花で囲まれた萩ちゃんを囲み 
『いつまでも萩ちゃんと一緒だよ』

『いずれ、オレ達もそちらに行くけどその時も仲良く楽しく一緒に過ごそう!』

(昨年)『萩ちゃん、今年も来たぞ』 いつもは寡黙で不愛想に見える田村君ですが、本当は優しい心暖かい後輩思いの男です。 職場仲間を大事にする思いは人一倍で、毎年50ccバイクで駆けつけてくれますが・・今年は勤務中で残念ながら参加できませんでした。(写真右手前)

位牌安置された礼拝堂参拝
位牌が多いので、従来は萩ちゃんがどこにいるのか分からず、中央の釈迦牟尼をお参りしていました。
昨年、浅野さんが住職さんに聴いて、萩ちゃんの位牌の位置が分かったため、ようやくその前で祈りを捧げることができました。

「輝雲政光信士」いかにも武田武士のような、輝く誇り高い生涯を送った萩原政人君らしい戒名です。(東ーG01 上から7番目)
「萩ちゃんを偲んでコーヒーで献杯」 「退職後も、懐かしい仲間と顔を合わせられるのも、萩ちゃんが引合わせてくれるんだよね、ありがとう!」 左から吉田君(S51萩ちゃん同期)、浅野さん(S46)、重永君(S47)、右手前から新生君(S47)、山田君(S47)




千葉県袖ケ浦市の山寺、曹洞宗 瓦谷山真光寺は、弘治2年(1556年)9月、かって上総の高野山と言われた真如寺の八世、鷹山厳召大和尚により開山されました。「瓦谷山」という山号は、当地に平安時代の瓦や土器が出土したことから来ています。
釈迦牟尼をご本尊とし、福井の永平寺、横浜鶴見の總持寺の両大本山を信仰と修行の中心においています。教義は「日常の生活の中に悟りがある」という教えで、威儀即仏法とも修証一如とも言い表されます。

9. 紫陽花と大学合唱団友人の思い出

 間もなく梅雨入り。淡く美しいアジサイに目が奪われます。

私は宮大工学部時代、暗い青春に決別すべく、3年生から大学の混声合唱団に入りました。 同時に入部した1年生の田中敏夫君は特別音楽課程の声楽科、2年後輩なのに「安藤さんはサリンジャーのライ麦畑で捕まえてを読みましたか?あれは中々良い」などと文学談義を挑んでくる(小癪で生意気な笑)後輩でした。

これは昭和45年、宮大ブルースカイ合唱団の第5回定期演奏会の記念写真です。この時から観客2000人の宮崎市民会館で定期演奏会をするようになりました。
私は3年からの入部で、いきなりの晴れ舞台。思い出多い定期演奏会です。私は左端から2番目です。

宮崎大学歌 - YouTube

私が就職して3年後、上野の東京文化会館前で「安藤さん!」と声をかけられ振り返ると、その田中君が白いベレー帽をかぶり垢ぬけた姿でにこやかに立っていました。彼は東京芸大に入りなおして声楽に精進していました。

その後交流は途絶えましたが・・約10年前に私がFBを始めた時最初に「友達申請」してきたのが彼でした。以来交流が復活しました。彼は故郷の山口市で高校音楽教師と市民女性凝合唱団の指導者として活躍していました。

2020322日、家族も驚くほど急に旅立ちました。享年67歳!まだまだ若いのに本当に残念でした。

FBの彼のサイトに、あの張りのあるバリトン歌唱YOUTUBEを沢山残してくれたことに感謝しています。おかげでいつでもあの素晴らしい歌を聴き癒されます。シューベルトとシューマンが大好きでした。⇒田中敏夫 - YouTube

私は中でも「シューベルトの子守歌」が、彼の心優しさに包まれ大好きです。http://blog.livedoor.jp/.../15%20-%20%E3%83%88%E3%83%A9...

1.2019年6月9日投稿「田中邸ガクアジサイ」

 ガクアジサイの気品のある美しい姿は、田中敏夫君そのものです。この9か月後に旅立つとは夢にも思いませんでした(涙)

彼はガクアジサイが大好きで、毎年この季節になると自宅に咲いた花をFBで紹介し、私は我家のガクアジサイと見比べながら楽しみにしていました。彼のガクアジサイは主を失いましたが、今年も見事に咲いていることでしょう。そう思いながら、彼が新入生の今ごろ、合唱団員全員で宮崎市郊外の双石山ハイキングしたことを思い出しています。

 2.1970初夏、双石山へ新入生歓迎ハイキング
後列右から4番目が田中敏夫君(1年生ながら、早くも常任指揮者!) 前列右端の「姉さんかぶり」の労務者風が私です。



双石山は通常コースなら子供でも簡単に登れる山です。別コースに急峻な岩場がありロッククライミングの練習場になっています。ただ岩が砂岩で脆く崩れやすいため、滑落して死亡する事故が多い危険な山です。宮崎市内から近いので簡単に考えるのでしょうが・・ロッククライミングなら県北の大崩山が固い花崗岩なので一番適しています(私は岩登りは怖いので絶対にやりません)

ただ双石山の簡単な登山コースでも、ところどころに危険場所があり要注意です。現にこの登山の後の下山途中に同期の角田さん(敏夫君の左隣)が、細い岩棚を渡るときに濡れた岩肌に足を滑らせて2m滑落してしまいました。その時は健気にもすぐ立ち上がり「大丈夫!」と、バス停まで歩いていきましたが・・後年股関節痛に苦しんだのは、この時の滑落で腰骨が変形した為でした。そして10年前に人工関節手術が成功し、再び元気に世界中を旅しています。

3.同じく双石山山頂で「世界に届け!」と大合唱

右から3番目が新入生の田中敏夫君(その右隣りが3年生の私)白い背中は村上君
4.女声合唱 花いずみ(田中君が指導する合唱団)

「ありがとうコンサート」で歌う田中敏夫君
(彼のFBより)2018224日(土)

5.我が家のガクアジサイです。
「田中邸と同じだ!」と、毎年彼の投稿する額アジサイと見比べています。





9. 芸術に生きる学友・富夫君と作品群

国立新美術館「二紀展」 開催!(令和7年1015~27日)

 高校同窓の河野君から今年の「二紀展」の招待状が届きました。

 彼は元母校日向学院の美術教師の傍ら、2002年から120(1900×1300)クラスの大作を制作し出展しています。「二紀展」は「二科展」と並ぶ国内最大級の美術展です。「戦前の旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく第二期の紀元を画する!」という壮大な構想で発足し発展してきました。



第78回の今年も、1階から3階まで出展者1000名近い展覧会で、その主張通り独創的で見事な作品のオンパレードで見飽きることはありません。 勿論学友の河野富夫君も出展します。下は2年前の二紀展の作品「ラプソディ in南郷2013(旧都城市民会館5)」で、会場の目を引いていました。いつもの1階 第6展示室奥の指定席で、その温かい色調と幻想的な世界がひときわ目を引きます。





2年前は隠し絵の「平原綾香」が格別に素敵でした。またお孫さんと沢山の恐竜たちが一緒に登場しています。「遠くから楽しみ、近寄って隠し絵を楽しむ」何度も楽しめる実にユニークで楽しい作品です。

「芸術の候」、皆様も是非足を延ばして見られては如何でしょうか?

「国立新美術館」・・7東京メトロ千代田線乃木坂駅下車徒歩5分



「芸術に生きる学友・富夫君と作品群」    記:令和5年10月10日
高校卒業後50年間、顔を合わせることのなかった学友との再会は、誠に驚きの連続です。同じ高校で3年間共に過ごし、ある程度分かったつもりでいた学友が「彼は高校時代、本当はこういう事を考えていたのか!」と初めて知ることばかりでした。また「夫々が卒業後どのような人生を送ったか・・」を垣間見ることができ、自分の残りの人生充実の糧にすることができます。「ああ、自分も、あるいはこういう人生も送れたんだ!」と・・

今回は、高校卒業後美術家の道を歩き、約40年間母校の美術教師だった「河野富夫君」の半生と作品群を紹介します。

 彼はS40年学院中入学、当時は成績順に座席が決められ、常に右端の最前列で学年トップの秀才だったようです。私は高校からのつきあいで、3年間同クラスでしたが、彼はガリベンには興味のない哲学者然としていました。高校時代の成績上位は、努力家の下村君, 甲斐君, 河野修君、英人君、重文君らが占め、富夫君は私と同じようにアップダウン激しく、超然とした雰囲気を持つ大人しい性格だったので3年間話したことはありませんでした。・・そして私は宮大工学部へ、富夫君も宮大教育学部に進学し、キャンパスで数回すれ違ったくらいでした。その富夫君と再会したのは学院卒業50周年記念クラス会でした。「学院で美術の先生をしていました」という自己紹介にビックリ! ・・その彼は退職後2010年、2019年と2回脳梗塞で入院し、利き手の右が使えない後遺症のなかで今も制作活動を続けています。今回はその不屈の画家「河野富夫画伯の作品群」を紹介します。

1.「アントニウスの誘惑」シリーズ  1998年~2009

富夫画伯は、宮崎日日新聞社が創設した宮崎県美術海外留学賞の第一回受賞者で、199719981年間イタリア留学派遣、ローマ歴史遺跡やルネッサンス美術などを学びます。そして「聖アントニウスの誘惑」を主要テーマとする取組み沢山の作品を生み出しました。「聖アントニウス」は有名な聖人で、その修行中にしばしば悪魔の誘惑にさらされて信仰心を試されました。西欧ではよく取り上げられる題材で、空想的な魔物や魔女が登場しますが、富夫画伯は、あたかも自分が聖アントニウスの試練を受けているような強烈さで私達に迫ってきます。

富夫君が描く「聖アントニウスの誘惑」は、悪魔の誘惑というよりも、この世の破滅を見せつける悪魔の脅迫のように感じます。あのおとなしい富夫君のどこにこんなエネルギーが秘められていたのでしょう!2009年のシリーズ最後の作品では、この世を亡ぼした悪魔は、全てを天空に巻き上げて拡散させます。よく見ると竜巻の中に色々な悪魔や恐竜や蛇などが混ざって瓦礫を食い荒らしているように見えます。


2002年 どんなところにも目に見えない生きものが沢山いる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

 



2003年 「ローマのコロッセオとたくさんの生き物を組み合わせて画面を構成したいと思っています。巨大建築は構造的に生き物を感じさせます。建物の崩壊は生き物の死を連想させます。コロッセオの空間に満ちた生き物たちは、建物のエネルギーの変容かも知れません。」 



2004年 「ものは常に変化している。頑強に構築されていた、不動のように見えていた塔もまた、今変容しようとしている。その一部は翼となり天に広がり、一部は水となり滝となって地上に降り注ごうとする。不変を期待する自分と変化を待つ自分があって、どちらともつかないものの内側にあるものを描きたかったのかも知れない。」


2005年 「青い空の下、海が割れて巨大な艦橋が現われる。やがてそれは暴発しありとあらゆるものが吹き出してくる。それらは相手を求めて追いすがり追い越し待ち構えて飲みつくそうとする。攻撃をかわしたものは逆に相手をつかみ、果てへ飛び去ろうとする。・・・それらの荒々しいものたちをキャンバスに閉じこめたいと思う。」


2009年 「中庭のまわりに数本の糸杉が植えてある。数十年毎日目にしていたものだが、ある日その木肌が気になった。凹凸のある節くれだった表面はある形状を見せている。ゆるやかに時計まわりにラセンをえがく。数本の糸杉がすべてラセンをえがき頭上で大きく枝を広げる。電子顕微鏡の世界でなく気象衛星の画像でなくほんの身近なところにラセンがあった。」
 

2.脳梗塞を乗り越えて  2010

 201060歳となった富夫君は脳梗塞で入院。 同じころ発生した宮崎の口蹄疫は、日本一の宮崎牛を約30万頭も殺処分する非常事態となりました。自身の不安に追打ちをかけ、誕生後60年間過ごす宮崎が未曽有の大危機です。公私ともに極限の絶望の中で、右手が使えず 慣れない左手で描きあげた渾身の傑作がこの絵です。日向灘で巨大なクジラが「こんなことに負けるな!」と大きなジャンプをしてエールを送っています。彼はこの絵で自分自身や宮崎を鼓舞するだけでなく、あらゆる人々を「フェニックス(不死鳥)のように何度も生き返れ!」と元気づけてくれています。・・当時、彼はこの絵を次のように解説しています。


2010みやざき(堀切峠)」100F1,620×1,303
「自分の身の上に起きた出来事と宮崎に発生した口蹄疫の惨状を重ね合わせてこの半年を過ごした。生まれたばかりの子豚が眠ったように死んでいる。新聞の写真を見たとき、気持ちを抑えきれず紙面を破り取りちり箱へ投げ入れた。不安感がこみ上げてくる夕刻、左手で描きなぐるままにできていたのがこの絵のラフスケッチだった。おのれと宮崎の再生を込めて紺碧の日向灘をバックにしたフェニックスの風景を描いた。」 

3.平安への祈り 「ラプソディ・イン南郷」シリーズ 201120018

 2010年 脳梗塞の衝撃、宮崎口蹄疫、2011年新春早々新燃岳が大噴火、3月東日本大震災・大津波・・社会不安は増々大きくなっていきます。しかしその前年、人生の不安を乗り切った富夫君の心は微動だにしませんでした。彼のメインテーマは「大好きな南国宮崎の青島海岸、南郷亜熱帯植物園とそこの潜む妖精たち」になっていきます。・・彼には常人にない霊能力があるのでしょうか。・・彼はかってローマの地でこう述べています。

 「どんなところにも目に見えない生きものがたくさんいる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

この常人にない眼差しが、南国宮崎の穏やかな大自然に向けられていきます。それが「ラプソディin南郷」の連作です。

2011「ラプソディー・イン・南郷」150F



「広い太平洋を見下ろす丘の上にある小さな亜熱帯植物園、そこに何かがあると思ってスケッチに行った。彼らは枝を伸ばし葉を茂らせ思い思いの色彩を身につけて「生」を謳歌していた。その生命力に沿うように鉛筆を滑らせ絵具を流していく。気持ちとは裏腹に指先はぎこちない動きをするが、彼らの生きる力は少しずつ画面の上に再構成されていく。渡しはキャンバスのプリンティングの中に動物を追いかけイメージを定着させる。」


2012年 「プリンティングでキャンバスを覆ってしまうと、下書きの植物たちは消えてしまい取り留めのない絵の具の模様がだだっ広く広がっているだけ。その前に立つとこれから先どうなるかと不安に襲われる。しかし、何者かがすぐにうごめき始める。アイチアカの根元に潜むのは獣脚類の仲間か?葉陰にたたずむ耳の長い人影は妖精?それともウサギのお化け?彼らは続々と亜熱帯植物の吐き出す熱気のようにキャンバスの中に満ち溢れてくる。」


2013年 「描き続けていくとますます上手くなっていくと思っていたが、そうでもないことに気付いた。中心になる植物の周りに脇役の羊歯が繁茂している。主役を引き立てるには面倒でもこの雑多に見える面々をしっかりした植物に仕立て上げなくてはならない。庭先から最適な個体を選び出し根こそぎとってきて、キャンバスの隣に据える。何度も描き直しながら名脇役へと育て上げる。役者がそろったところで幕が上がり舞台が始まる。」


2014年 「モチーフは突然向こうからやってくる。初夏のある日、良く知っている道路沿いの海外にマッコウクジラが漂着したニュースを聞いた。朝早く出かけた。それは朝日の逆光の中波打ち際に横たわっていた。時折大きな波が巨体を揺らす。スケッチを進めるうち足下に波が打ち寄せ、逃げそこなって転倒した。起き上がると全身が油にまみれ、動物の臭いに包まれる。クジラの何かに追われるように車を走らせて帰った。彼の昇天の図を描いた。

4.「 旧都城市民会館レクイエム」 シリーズ 2002年~2009

富夫君は、2019年再び脳梗塞に襲われます。2010年1回目の時は宮崎口蹄疫と次の年に東日本大震災が発生、今回は次の年に『新型コロナ』が世界中を危機に陥れています。・・今思うに、感性の鋭い富夫君は、この人類未曽有の危機を事前に感じ取り、2度の脳梗塞になったのではないでしょうか。・・幸い2度目は比較的軽く心機一転、その頃老朽撤去が決まった「旧都城市民会館」が、彼の新たなモチーフになります。

 旧都城市民会館は1966年に建設され、当時日本発の建築運動「メタボリズム」(新陳代謝を意味する)の中心的存在だった菊竹清訓の代表的建築物です。旧都城市民会館は世界的にも有名で「存続か撤去か」で20年以上もめてきましたが、具体的活用案がなく市民アンケートでも83.5%が解体に賛成で撤去が決定しました。・・市民に愛されながら撤去されていく貴重なモニュメントに、富夫君は限りない哀惜を込めて描き続けています。 


 2019年、間もなく撤去される前の市民会館です。人間の構築物が撤去される・・それは植物や動物たちの永遠の生命の輪廻と混ざり合うこと・・そういう暖かい眼差しで富夫君は見つめています。


2020年 この年から、コロナ禍が全世界を恐怖に陥れます。しかし2度の大病を乗り越えた富夫君は微動だにしませんでした。「命あるもの、いつかは命が尽き、形あるものは、いつかは大自然に戻る・・」彼の眼には、そういう悠久の時間を超えたいのちの営みが、混然一体となって見えているようです。


2021年 左の大木に溶け込んでいる美人は歌手の平原綾香。富夫君が脳梗塞から蘇りリハビリを続けているとき、たまたま宮崎で公演があり3回も出かけたという事です。そしてその天使の歌声に生きる力を呼び覚まされたと言います。それ以来、彼の絵画には、色々な場所に平原綾香が顔を出しています。



2022年 近代都市の都城市も、太古の昔は大木生い茂るジャングル、やがて人間が移り住み、都城市民会館ができ、撤去され、そして未来へ・・すべては悠久の大自然の中にある・・そういうことをこの一枚は教えてくれます。ここにも左下に愛してやまないお孫さんが、コロナ予防のマスクをつけて登場・・元気に遊びまわる筈の子供たちも我慢の生活でした。

5.「2023二紀展」開催のお知らせ

   河野画伯が2002年から出展している「2023二紀展」が国立新美術館で開催されます。「二紀会」とは、戦前の美術界の頂点であった「二科会」が戦時下の1944年に解散し、戦後再結成する際に、主張の異なる9名が分離独立して創立したものです。旧二科会の活動を一期とし、戦後新しく第2の紀元を画するという主旨のもとに毎年秋に展覧会を開催しています。現在は「美術の価値を流派の新旧に置かず、また具象、非具象を論じない」という主張を掲げて、全国で活躍する多くの美術家から共感を得て、毎回100点以上の斬新な作品が展示される一大美術展となっています。

2023年は、10月18日~30日の間、「国立新美術館」で開催されます。勿論河野富夫画伯も出展しますので、ぜひご来展戴きたいとお誘いいたします。