2026年10月6日火曜日

16.『青年よ 大志を抱け! Boys, be ambitious!』

 北海道最大の都市、札幌は紅葉の名所でもあります。

 特に北海道大学のイチョウ並木とポプラ並木は見事です。場所的にもJR札幌駅から徒歩10分で北大、アクセス抜群です。

 私は苫小牧勤務時代、この季節になると、50歳半ばの北大部外者ですが、北大の先生のような顔(さすがに学生顔は無理)をして、この銀杏並木を散策して楽しみました。銀杏並木のあまりの美しさに、時間を忘れて立ち尽くすばかりです・・

 中学時代、初めて英語を習う様になり、日常で使わない I am a boy. や This is a pen など、クラス全員で呪文のように唱え「なんとつまらない言語だ!」思っていました。しかしある日、図書室で読んだクラーク博士と札幌農学校の学生たちの9か月の交流、特に別れの時 博士が発した激励「Boys, be ambitious!」は強烈に印象に残りました。のちに、クラーク博士を招聘したのは、当時博士が学長だったマサチューセッツ農科大学の初の日本人留学生=新島襄だったこと、札幌農学校の「卒業生に新渡戸稲造、内村鑑三」がいる事などを知り、『いちど札幌農学校(現北大)に行ってクラーク博士像に挨拶しなくては!』と思って大人になりました。しかし念願の博士像に会ったのは、それから35年後の55歳になってからでした。初対面の北大クラーク博士の胸像は、質素であまりに小さく、がっかりしました。

 そのあと羊ヶ丘公園の銅像を見つけ「これぞ Boys be anbisius! のクラーク博士だ!」と納得、同じポーズをとり、老いても大志を持ち続けようと誓いました。

1. キャンパスの一隅に佇むクラーク博士

 約150年を経たいまも博士のまなざしは、日本の若者が大志を抱いて世界で大活躍する姿を見守っているようです。

 日本人にとってクラーク博士の人気は高く、以前は北大キャンパスに観光バスが乗り入れ、このクラーク博士像の周りは特に賑やかでした。これでは学生の勉学の妨げになるということで、観光バスは入港禁止となり、ようやく静かな北大になりました。

2. 羊ヶ丘公園のクラーク像

 初めて北海道大学に行ったとき、クラーク博士の銅像を探しましたが、やっと見つけた銅像は誠に小さい胸像で、「これがあのクラーク博士?ちょっと粗末過ぎない?」と、ガッカリしましたが、この羊ヶ丘公園の銅像と出会い「これぞ Boys be anbisius のクラーク博士だ!」と納得、同じポーズをとり、老いても大志を持ち続けようと誓いました。

3.北大農場に至る「ポプラ並木」

 子供のころから「これぞ北海道!」とイメージしていた通りのポプラ並木です。

 20年前に50m以上の強風が吹き荒れ、半数近くが倒れ歯抜け並木になってしまいました。しかしそのあと植えられた若木が着々と育ち、昔日の姿を取り戻しつつあります。

 かって北海道大学のシンボルでもあった農場に続くポプラ並木の大木。並木の向こうに北海道大学のキャンパスがあります。

4.ポプラ並木の雪景色

 いかにも北海道らしい光景です。100万都市のど真ん中で、この景色が楽しめるのも北海道の魅力ですね。


5.羊ヶ丘展望台とクラーク博士像(さっぽろ羊ヶ丘展望台 観光案内より)

 クラーク博士は、明治9年7月、北海道開拓使長官黒田清隆に、将来の北海道開拓の指導者を養成するため「札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭として招かれました。 1期生16名に、動物、食太額のほか、キリスト教の教えによる道徳を英語で教えるなど、大きな影響を与えました。来道してわずか8カ月余の札幌滞在でしたが、翌年明治10年4月16日、クラーク博士は教え子たちと島松(北広島市)で、馬上から、有名な言葉「Boys, be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」と別れの言葉を叫んだと伝えられ、まさに北海道開拓精神を代表する言葉として、後世に伝えられてきました。

もともとクラーク博士像は、北海道大学構内にある胸像のみでしたが、有名なポプラ並木の景観とこの胸像を目的として北大を訪れる観光客が年々増加し、いわゆる観光公害現象が生じていました。その結果、昭和48年に北大当局は、学術研究のさまたげになるとして、観光バスの構内乗り入れを制限しました。しかし、クラーク博士の像はその時点で既に札幌観光のシンボルとなっており、観光客が像を見学できない事態を憂慮した札幌観光協会は、北海道開拓の原点ともいえるフロンティアスピリットの精神を全国に伝えていきたいという想いから、羊ヶ丘展望台に新しいクラーク博士像を建立する計画を立て、北大の了解を得ました。
 北海道女子短大教授の坂 坦道氏に新しいクラーク像の制作を依頼し、坂氏は『丘の上のクラーク』というテーマのもと、早春の風にひらひらはためくフロックコートを着たクラーク博士が、右手を掲げて「Boys, be ambitious!」と叫ぶイメージで制作しました。掲げた右手は「遥か彼方の永遠の真理を指す」とされています。

 昭和51年4月16日、北大開基100年およびアメリカ合衆国の建国200年祭を記念し、ウィリアム・スミス・クラーク博士像『丘の上のクラーク』除幕式が執り行われました。この年はクラーク博士の来道100年であり、またこの日は100年前に島松で別れの言葉「Boys, be ambitious!」が叫ばれた日でもありました。

6.「クラーク博士のその後」(Wikipedia より)

 クラーク博士は、日本政府の熱烈な要請を受けて、当時初代学長だったマサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形で、札幌農学校教頭に赴任しました。教頭と言っても実質校長で全てをクラークが取り仕切り、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入しました。

クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促しました。そして9カ月の札幌滞在のあと1877年5月に離日しました。

帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想しますが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収しました。当初は大きな利益を上げましたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、179万ドルという大きな負債を抱えました。

叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはありませんでしたが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去りました。あの馬上から「Boys, be ambitious!」と激励してから、わずか11年後のことでした。

彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられます。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにあります。

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