2025年12月31日水曜日

1.私の人生を導いた 敬愛する姉

  FB友人の「タイムスリップ青春記」を愛読しています。

 このようなワクワク・ドキドキの青春記は、若いころ夢中で読んだ「ドクトルマンボウ青春期」「青春の門」以来です。懐かしい曲「神田川」「あずさ2号」「22歳の別れ」「青春時代」が心に蘇ります。 それにしても熊本玉名の友や、埼玉越谷の友(中学陸上選手とバスケ・キャップテンが後年結婚)など、皆さん素晴らしい青春逸話がありますね。私は、26歳まで彼女なしの暗い青春が情けなくなります。【私は小さい時から虚弱な味噌っかす、このような感動エピソードは一つもない!】とただ涙々です。「それではあまりに悲しい。何かエピソードはないのか」と錆びた頭を叩いてみたら・・ありました。「私の青春を輝かせ導いた大好きな美千代姉がいた! だから“恋人”をつくる必要性がなかったのだ!」ということだったのです。今回はその大好きな姉の追憶です。


昭和611222日、美千代姉が旅立ちました。危篤の報に集まった一人一人にお礼と別れを告げた姿が蘇ります。享年41歳。

 臨終を告げた医師は、交替で看病した夫・私・弟を別室に呼び告げました。 「いままで沢山の患者の最期を看取ってきましたが、こんな立派な患者さんは初めてです。本当にすごい患者さんでした」 それは美千代姉と共に暮らしてきた私と弟、何より姉を生み育てて誇りに思いながら先立たれた母が嘆き悲しんだ思いと同じでした。私はその後何年も、姉のことを思い出すたびに涙があふれて困りました。 

1.私たち姉兄弟の生い立ちと母の思い

 安藤家は戦国時代の記録もある古い家柄ですが、昭和10年頃祖父の遊興で家屋敷・田畑・山林を全て失い破産しました。その極貧の中で、父は官費学費免除の京城師範(現ソウル大)を卒業し教職に就きました。しかし給料は実家の生活費と借金返済で全て消え、校長から借金して生活していました。そういう中で隣家の桂木斉二翁は、安藤家救済のために娘を嫁がせ全面的にバックアップしました。本当にすごい祖父でした。 結婚一年後、身重の母は不衛生な朝鮮での出産を避けて桂木家の実家に戻り、産後は3年間実家で子育てしたのち朝鮮に戻りました。

しかし劣悪な生活環境で、9カ月後に長男は疫痢に罹り貧困で医者に診せられず6日後に亡くなりました。気落ちした両親は朝鮮での生活が継続できず実家に戻りました。ここから母方祖父・斉二翁の全面的なバックアップが始まり、借金の返済に尽力、生活の糧となる田畑を与え、教職復帰の道筋を立ててくれました。そのおかげで父の弟妹4名は宮崎師範を出て教職に就きました(これがなかったら3人の叔父は出征して戦死していたことでしょう)

長男を医者にも見せられず死なせた両親は、その後子供を大事に育てる決心をしますが、父と母は人生観が正反対でした。 母は現実を見据え「夫の稼ぎは実家の生活費・兄弟の学費で消え頼れない。母親の自分が命を懸けて働き子供を育てるしかない!」と死に物狂いで農作業・養豚・家事・地域活動に打込みました。子供に「清く正しく美しく」と厳しい子育てをしました。

父は、長男を4歳で死なせた反省もあり、長姉・兄を甘やかし二人は我儘放題に育ちました。長姉は高校卒業後すぐに恋に落ち妊娠して結婚しましたが、夫は酒乱のDV男でした。やがて命の危険を感じるまでに暴力が酷くなり、長姉は子供二人を置いて蒸発生活を10年以上続けることになります。この二人の子供はDV夫の実家が引き取り、二人とも中学・高校と新聞配達して卒業、自力で人生を切り開いていきました。 両親に捨てられた形の長姉娘は、小さい時からの貧困から抜け出したくて「競艇」の道に進み、努力を続け「レースクイーン、レジェンド、ゴッドマザー:日高逸子」と絶賛されるトップレーサーとなり、還暦過ぎまで30年以上大活躍して令和78月引退しました。

安藤家の長男が4歳で亡くなり、兄は「総領跡継ぎ」として父から可愛がられ「総領の甚六」そのものに育ちました。高校教師になりましたが、共稼ぎなのに子育ては妻任せのパチンコ三昧・自己中で子育てから逃げ、家庭はバラバラで今に至っています。 

2.誠実無比な美千代姉の誕生・成長

美千代姉は、昭和20120日に7人兄弟の4番目(次女)として生まれました。

多感な美千代姉は、「戦後の苦しい時期を必死で働く母の苦労、特に父の過保護で我儘放題になっていく長姉・兄への母の悩み」に心を痛めながら育ちました。そして母の息遣い、心の動きを自分のことに感じ共感する「母と一卵性双生児」のようになりました。母が一言いうと全てを察してテキパキと処理する孝行娘でした。

私は美千代姉より遅れること5年、昭和25年に生まれましたが、物心ついたころから、この優しい思いやり深い美千代姉が大好きでした。小学1年生の時、6年生の姉と一緒にいた時に姉の友達から「美千代ちゃんの弟さん?可愛い!」と言われて本当に嬉しかったことを覚えています。

山田中学校ではブラスバンド部で、なんとヴァイオリンを弾いていました。ブラバンでヴァイオリンとは妙な組み合わせですが、新たな試みとして3人の奏者に努力家の姉が選ばれたものでした。

3.修学旅行自由行動で「羽田空港レストラン就職決める!」

 母は美千代姉には「女性のたしなみ、料理・裁縫を身につけ結婚修行になる家政科」に進学させました。上の姉が高校普通科卒業すぐに18歳デキチャッタ結婚して苦労している反省からでした。しかし美千代姉は東京への憧れがありTVドラマ「東京丸の内」の小林千登勢の大ファンで「東京で働きたい」と思っていました。

 高校3年の東京修学旅行で、半日の自由時間に叔父と会い「羽田に行きたい」と頼み込みました。羽田につくと「叔父さんは此処で待っていて、就職を決めてくるから」と空港レストランに消えました。そして出てきてニコニコ顔で「合格しました」と言われ、叔父はビックリ仰天です。「美千代ちゃんには驚かされたよ。美千代ちゃんにとって修学旅行は観光ではなく就職試験だった。あんなしっかりした娘は見たことがない!」と、叔父は死ぬまで美千代姉を絶賛していました。

 姉の本当の目標は、羽田空港レストランで外人さん客の相手をし、英語教室に通い、スチュワーデス(キャビン・アテンダント)になることでした。努力家の姉のことなので、そのまま数年頑張れば必ず夢は実現したと思います。

 半年後の3月、都城駅から急行高千穂で上京する美千代姉を見送るとき「大事な恋人がいなくなる・・」と、私は胸が締め付けられるような悲しみが襲いました。(私は中2)

4.椎葉中校長の父重篤、姉は退職して看病支援

 父は20年近く万年教頭で「校長は無理か・・」と思っていました。しかし50歳半ばに中郷中学校々長から指導・推薦を得て、55歳でようやく宮崎県僻地の椎葉中校長を拝命しました。広大な村域のため、大きな円形学生寮に大半の生徒が寄宿し、校長宿舎はその真ん前にありました。初校長としての責任、環境整備と寮生の生活指導などで過労状態となった父は、1年後突然、十二指腸潰瘍による大量吐血・下血で重篤に陥りました。急遽延岡県立病院にドクターヘリで運ばれ、心臓停止の仮死状態で手術を受け一命をとりとめました。この時付き添い看護した母は、数分おきに起こされる父の我儘に翻弄され、一睡もできない看病で神経衰弱となり付き添い看病できなくなりました。やむを得ず母は美千代姉に電話相談し救援を求めました。姉は即座に辞表を出し、介護・生活支援のために戻ってきました。私は宮崎市内の高校で学生寮生活をしていて、この危機に何もできませんでしたが、「さすが美千代姉!」と感激しました。

美千代姉は約1年間、父母を支援しましたが、今度は妹の危機を救うことになります。

 父が椎葉転勤の時に末姉は高校3年受験生です。椎葉村には高校がなく転校できないため、やむなく定彦叔父の家に預けることになりました。この叔父は父母が貧困の中で父に師範学校に出してもらい教員となりましたが、その恩に報いる気持ちは全くなく、末姉を女中のように使い、受験勉強していると「家事をサボっている」と叱られる毎日でした。当然大学受験は散々で不合格。「不本意だから1年浪人させて!」と父母に泣いて訴え、見かねた美千代姉が都城市に4畳半の小さな家を借りて同居して受験支援することになりました。その間に美千代姉は保母資格を得て保育園勤務、物心両面で支えられた末姉は見事に宮大教育学部合格しました。

 末姉は純情(正確には単純)で強い意見・思想に影響されやすく、大学3年の時に統一教会に入信しました。母は神がかりの直観力でこの危機に気づき、美千代姉に「おかしな新興宗教に入って集団生活しているようだから連れ戻して!」と頼み込みました。 美千代姉は都城市から宮崎市に直行、リヤカーを借りて統一教会宿舎に行き、協会側と直談判して末姉を連れ戻しました。統一教会は今も続く恐ろしい宗教集団です。55年前あのままだったら末姉は韓国に渡り、見ず知らずの韓国人と集団結婚させられ、安倍元首相を暗殺した山上被告の母のように、一生泥沼から抜けだせなかったことでしょう。

 その後 末姉は小学校教諭となり、職場で知り合った共産党員の同僚と結婚し、退職した今も夫婦で反日活動に精を出しています。(美千代姉の恩も忘れて悲しいことです)

5.26歳で警察官と結婚

 当時の結婚適齢期は20歳代前半でしたが、美千代姉は25歳を過ぎても中々結婚に踏み切れません。長姉の結婚破綻・逃亡生活や 兄夫婦の不和を見て結婚を尻込みしていました。「このままでは売れ残る!」と見かねた母は、母校旧都城高女の恩師を通じて、小林在住校長の長男 佐藤健彦さんと見合となりました。健彦さんは元高校社会科教師で、神奈川県警小田原署に勤務しており、初回見合い、2回目に結納、3回目が結婚式となっていました。

あまりに速い展開に姉は戸惑い、結婚式の前日「結婚したくない・・」と私に打ち明けました。私も「初対面から3回目が結婚式では、大好きな姉を馬鹿にしている」という思いが強かったので、父母に「姉は本心から結婚したいとは思っていない。今からでも遅くないので取りやめてほしい」と姉の気持ちを代弁しました。(映画「卒業」ラストシーンの「エレーン、エレーン!」と叫ぶベンの気持ちでした)


すると母が「美千代も26歳で適齢期を過ぎている。若い男がハッと振り向くような美人でもないし、保母さんは女性と子供だけの世界で恋愛の機会はない。健彦さんは元高校教師で今は警察官、恩師も太鼓判を押す好青年。英ちゃんは姉が一生独り身のままの方がいいと思う? 女は結婚して子供を産み家庭を築くのが一番の幸せなのよ」と説得され、私は返す言葉がありませんでした。


そして1年後、出産帰郷し3月に祐子ちゃんが生まれました。私は大学を卒業し就職前で、毎日母を伴って産院に通い、生まれたての可愛い赤ちゃんを抱かせてもらいました。そして幸せそうな美千代姉を見ながら「母の言うことは、いつも正しい!」と改めて感服しました。

4月に出光千葉に就職した私は、休みになるとすぐに小田原の美千代姉に会いに行きました。夫の健彦さんは朴訥で誠実な方で、生まれたての祐子ちゃんが加わり暖かい新婚家庭を築いていました。

6.父の2回目の手術と姉の予言

 このころ退職した父は山田町誌編纂と共同納骨堂建設に奔走していました。大方完成したころ、胆石による四転八倒の苦しみで急遽鹿児島大学病院に入院手術することになりました。すぐ美千代姉から就職して数年の私と弟に「お父さんが大手術するから年休を取り帰省しなさい」と連絡が入りました。私は千葉から、弟は神奈川から直ぐ帰省し、姉が鹿児島市内に予約した宿から3人の付添い看病が始まりました。そして姉は「今回は私一人でも対応できたけど、いずれ父母を看取るときは貴方たち二人が看病することになるはず(宮崎に住む姉兄は期待できないから)。今回はその予行練習のつもりで頑張ってね」と諭しました。 そしてその言葉通り、10年後に姉の末期癌、11年後に父の肝腎臓多臓器不全、18年後には母の脳梗塞で、私と弟は12時間交替で最期の付添い看病をすることになりました。

7.帰省の度、まず美千代姉と祐子ちゃんに会いに行く

 健彦さんは「長男なので宮崎勤務を」と神奈川県警に申請して異動が認められました。そして日南派出署、異動で宮崎南署勤務となりました。私は帰省するとまず美千代姉宅に行きました(恋人に会うようなワクワク感でした) 社内結婚した私達は東京で結婚式を挙げ、宮崎・鹿児島にエコな新婚旅行で、あわせて宮崎の親族へ2度目の披露宴を美千代姉が企画しました。3歳となった姪の可愛い祐子ちゃんが、実家の庭の花を摘んでブーケを作って祝ってくれました。

8.通信教育で「医療事務資格」取得

 夫の警察官に限らず、会社も役所も昇級には試験や公的資格取得が必要です。しかし人の価値観は様々で、昇給を望まず、現場・現業に打ち込み「生涯現場」を誇りとして生きる人もいます。夫の健彦さんはこのタイプでした。しかし警察官舎にいると夫の後輩が次々と昇級試験に合格して出世していきます。「良妻賢母」を目指す姉は、何とか夫に努力して欲しいと思っていましたが、面と向かって言えません。そこで「自分が努力して難しい資格に合格すれば、夫も勉強し始めるのではないか・・」と、主婦業の傍ら「医療事務」の通信教育受講を始め約半年後見事合格しました。難関の医療事務取得でしたが、夫は発奮して勉強を始めることはなく、姉は実務につくことはありませんでした。

 この話に感動したのは私の妻でした。後年我が家の3人の子供が就学し手が空いた家内は、美千代姉のことを思い出し「医療事務資格」通信教育を受け、姉と同じように半年で合格しました。そして約10年間働き3人に学費に充当しました。

9.美千代姉の子育てと胃癌発病

 母も美千代姉も理想は「良妻賢母」、夫を支えて家庭を守り、子供をしっかり育てることでした。 長女の祐子ちゃんは、姉に似て優しく素直な可愛い子で伸び伸びと育ちました。姉は貧しい子沢山の家で育ち、自分の夢だった「ピアノとバレー」を祐子ちゃんに習わせました。体を動かすことが大好きだった祐子ちゃんにバレーはぴったりで、レッスンが終わり帰宅後もそこら中で踊りまわっていました。中学生になってもバレーへの熱は冷めず、3年生になってさすがに進学が心配な姉はバレー教室を止めさせ塾通いに切り替えました。元々祐子ちゃんは勉強嫌いで、バレーがやれなくなったこともあり反抗期が始まりました。

 ちょうどこのころ40歳の定期健診で姉の胃癌が見つかりました。直ぐに手術したところ、豆粒大の初期癌で「ダイヤモンドを発見したようなものです。 5年生存率は75%以上で、まず問題ないでしょう」と執刀医に言われ、私たち家族は胸をなでおろしました。
 しかし半年後から食事不振となり精密検査すると癌転移が何か所も見つかり再手術は不可能でした。切除した胃癌は一見小さかったのですがいわゆる「スキルス胃癌」で、手術の頃には既に内臓に浸潤していたようです。そして手術から約1年後、あっという間に旅立ってしまいました。 私は「あの立派な美千代姉が何故? 神も仏もないのか?」と涙が止まりませんでした。

10.  美千代姉の早すぎる旅立ち

 昭和611222日、美千代姉は旅立ちました。危篤の報に集まった一人一人にお礼と別れを告げましたが、最愛の娘と息子が中々到着しません。

 「子供たちはまだなの? 早く来て! もう力がなくなる・・」と最後の緩和麻酔を引延ばし、学校から子供二人が駆けつけるまで必死で耐え抜きました。子供に心配かけないために末期癌であることは伏せ、入院後も「見舞いはいらないから、しっかり勉強しなさい」と言っていました。それだけに中3の娘と小4の息子にとってやつれ果てた母の姿は本当にショックでした。特に小4の息子は突然の出来事に「お母さん死なないで!」と泣きじゃくりながら訴えました。

そして皆に別れを告げた姉は、思い残すことなく医師に最終麻酔をお願いし「ああ楽になった・・」とつぶやき安らかな眠りにつきました。臨終を告げた医師は、交替で看病した夫・私・弟を別室に呼び告げました。 「いままで沢山の患者の最期を看取ってきましたが、こんな立派な患者さんは初めてです。本当にすごい患者さんでした」 それは美千代姉と共に暮らしてきた私と弟、何より姉を生み育てて誇りに思いながら先立たれた母が嘆き悲しんだ思いと同じでした。私はその後何年も、姉のことを思い出すたびに涙があふれて困りました。 

しかし美千代姉の本当の凄さを知ったのはその死後でした。

 姉は危篤の報に集まった一人一人に感謝を述べましたが、「あと一人大事な人がいない」と心残りの様子でした。 その数日前から私は、美千代姉に「最後に長姉に会いたいから電話して」と強く頼まれていました。「41歳で旅立つ。子供二人を託すのは長姉しかいない」と心に決めていました。

「私の死後、夫が見知らぬ女性と再婚するのは耐えられない。子供に苦労させたくない」という思いと、長姉がDV夫から無理心中を迫られ蒸発生活を10年以上も続けており「警察官の夫と再婚すれば手出しできない。自分の死が長姉を救うことになる」と考えていました。 しかし長姉は「自力で何とか暮らしているのに、妹の死後を背負うのは とんでもない!」という思いが強く、私が何回電話しても「けんもほろろ」に電話を切られました。美千代姉にそう告げると「英ちゃんでもだめなの・・」と寂しそうでした。それで私は美千代姉が この件は諦めたと思っていました。

 ところが美千代姉は諦めていなかったのです。自分の死後に間違いなく思いが遂げられるように、確実な手を打っていました。それは自分の為にというよりも「夫と子供、不遇の長姉の幸せの為にはこれしかない!」という生死を乗越えた信念に基づいていました。

まずは父に長姉への手紙を依頼していました。「お前が後妻となれば、逃亡生活に終止符を打ち、普通の生活ができるようになると説得して欲しい」と・・ 更に夫には「喪が明けたら長姉を訪ね、真剣に結婚を申し込んでほしい」と遺言していました。そして父と義兄は 遺言通りに行動して1年後に長姉は籍を入れて義兄家族と一緒に暮らすようになりました。(ただ中3の姪は思春期の難しい年頃で、その後中々新しい母とはうまくいきませんでしたが・・)

11.私も5年後、胃癌発病

 そして5年後、私は姉と同じ40歳定期検診で「 胃癌ステージⅢ」と診断されました。 胃カメラで写った潰瘍は、姉と違って大きなクレーター状でした。「誤診ではないか」と4つの病院で再検査してもらいましたが全てがアウトでした。「見た目は豆粒大の癌だったのに、美千代姉は1年で旅立った。俺はこんなに大きいから余命数か月か・・」と覚悟し、密かに遺書を書き手術に臨みました。

 胃噴門部の癌だったので胃全摘出手術となり、姉のこともあったので「転移にかかわるリンパ球は全て除去してください」と執刀医にお願いしました。執刀医からは「医の周りのリンパ球や毛細血管は全て切除しましたので、胃のあったところはガランドウになりました」と手術後に告げられました。切除した胃の組織検査結果は、「胃表層部の潰瘍に発生した癌で、筋肉層までは浸潤していないため転移可能性は低い」と診断されました。

 そして手術後35年、私は今も元気に生き延びています。 

「永遠の恋人のように慕っていた私を、常に美千代姉は守ってくれている!」と、私はいつも感謝しています。

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