2024年9月3日火曜日

5. 永遠の愛に生きたデーケン先生

敬愛するデーケン先生が、令和2年9月6日旅立たれました。

デーケン先生はドイツ生まれです。12歳の時に眼前で町が破壊され友人や祖父が目の前で無残に死んでいき、占領軍のソ連兵が東ドイツの全ての成人女性をレイプしていく様を見て、絶望感に打ちひしがれていました。 そういう時に図書館で出会った本 『長崎の26聖人殉教者伝(12歳のルドヴィコ・茨木)』です。その生き方に感動し、日本への憧れを募らせ、遠い日本にわたり布教活動を始め、ついには日本に帰化されました。そして自分の人生体験から『死生学=より良く生き、より良く死を迎える』を提唱し、日本人として61年間 私達のより良い生き方を導いていただき、88歳で天寿を全うされて天に召されました。 以前書いた『デーケン先生の “永遠の愛”に学ぶ』を再紹介し、先生への心からの感謝、追悼として捧げます。

 『デーケン先生の “永遠の愛” に学ぶ』    2012年8月

アルフォンス・デーケン先生は、死生学・ホスピスの第一人者です。『死を見つめて人間らしく生きる』という重いテーマに取り組んで講演会を重ねられていますが、その実、5分に1回は ほのぼのと暖かいユーモアと笑いに包まれる素晴らしいお話です。 

先年、自殺願望の9名の若者が、座間市の殺人鬼の誘いに乗って命を無くすという悲惨な事件がありました。 世の中にはあのような想像を超えた危険な人物がいる事を覚悟しなければなりませんが、その前に『自殺したいほど苦しい人々』 は、是非デーケン先生の書籍に触れ、その珠玉の言葉に耳を傾けてもらいたいと思います。 

先生は1932生まれの80歳ですが、『私は、日本人53歳です。』と自己紹介されます。1959年日本に憧れて来日。上智大学講師・教授・司祭として、また厚労省や文科省の顧問として活躍され、こよなく日本人を愛して生きてこられた、明るく若々しい友好的な先生です。 いつも珠玉のように感動的で含蓄のあるお話で、終始限りない愛でみんなを包んでくれます。 そのお話の中から私が感動した言葉を紹介いたします。

 死を見つめることは・・ 自分にいただいた 「いのち」 を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を絶えず問い直し行動していくことです。

私達は、死について学べば学ぶほど、もっと深く生きることについて考え出すようになります。 

私は大腸ガンで大腸の一部を手術し4ヶ月間心が揺れ動きましたが、『人生の危機は自己の価値観を見直すために与えられる神からのプレゼントだ』 と改めて痛感しました。

親の死、配偶者の死、友人の死、自分自身の大病・・「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるか」のどちらかです。 そういうときに 死を真正面から見つめたら、“本当に生きる、人間らしく生きる”ことを考えるようになります。

自分が必ず死ぬ存在だという認識に立てば、誰でも『生きている時間の尊さ』に気付き、少しでも意義のある人生を送りたいと考えるのではないでしょうか。

人にはそれぞれの個性があり、その人なりの死生観があります。私は自分自身の老いも死も、ユーモア感覚で受け止めて、最後まで笑顔と感謝を忘れずに生きたいと願っています。 

ユーモアと笑いは、愛と思いやりの大切な表現方法のひとつなのです。

職場や学校で、誰か一人が腹を立てると、途端に緊張した雰囲気になります。しかし、笑いながら同時に怒り出すことは不可能です。

私は現代社会のギスギスした人間関係を、こうしたユーモアと笑いの効用で、少しでも暖かく和やかなものにしたいと、いつも考えています。 

『私は、日本人53歳です。27歳で来日して今80歳ですからね。』

『大変なデータがあります。何と日本人の死亡率は100%で、いずれみんな死にます。』

深刻なテーマを語りながら、200名を超える受講生を5分に1回笑わせ、『気がつくと 明るく前向きな力強い生き方が深く心に刻みこまれている・・デーケン先生はそういう不思議な先生です。 

『死生学の創始者』、『日本ホスピスの第一人者』、『上智大学の名誉教授であり司祭』 etc..毎週水曜日の公開入門講座(無料)では、昼の部と夜の部をこなし、その後も個別相談に応じ『アーメンの後はラーメンです』 と、受講生と一緒にラーメンを食べながら気さくに付き合われる。80歳という高齢を微塵も感じさせず、精力的に若々しく色々な活動を展開されています。

『デーケン先生のこの活力の源泉は、何なのだろう?』

『来日して日本に骨を埋める決心をされたのは何故?』

 本当に不思議なデーケン先生ですが、著作を読んで疑問が溶けてきました。まず8歳の時に、大好きな4歳の妹が白血病で他界したときの強烈な体験です。

『幼い4歳の妹が一人一人に別れの挨拶をしながら 「天国で会いましょう」 と言って旅立った。 天国での再会を信じる信仰は、永遠に対する希望の根源である事を、4歳の幼い命が教えてくれた。』

と、毎回この体験を話されます。

『そして12歳の頃、昨日まで一緒に遊んでいた隣の親友一家が、翌日に空爆で黒こげになった姿を目の当たりにしたことは強烈でした。『70年近く経過した今でも目をつぶるとその残酷な光景がまざまざと甦ります・・・』

『ドイツ人同胞のナチスがホロコーストの残虐を行い、それを開放する目的でやってきたソ連兵が、スターリンの許可の下で東ドイツの殆どの女性をレイプした という事実はショックでした。73年経過した今でも心の傷を負ったまま結婚できず一生を終える女性が何と多いことか・・・』

そういった、理不尽に悩むデーケン少年を突き動かしたのが、図書館で出会った本 『長崎の26聖人殉教者伝(12歳のルドヴィコ・茨木)』です。その生き方に感動し、日本への憧れを募らせ、遠い日本での布教活動を始め、ついには日本に帰化して80歳にして日本人53歳です。このルドヴィコ・茨木の話をされるとき先生は「日本人は偉い。私にはデーケンと感じました」と笑わせてくれます

 

<ボランティアで『命の相談電話』 をしている受講生の質問に答えて>

 

(質問) ・・最近自殺前の相談が増えており、中にはビルから飛降りる寸前に携帯電話を掛けてくる人がいます。電話を掛けながら最後に聞こえたドスンという鈍い音が耳から離れません。 『もっと何か出来たのでは・・思い留める事は出来なかったか・・』 と後悔・自責にかられます。

 

(デーケン先生の話)・・大変な重要な仕事をされていますね。自殺寸前の人を思い留らせるのはとても難しい事です。そのような場面では『その人の為に祈る』ことです。 聖書に『祈りは無駄にならない』と書いてあります。 本当は、もっと若い時期に大事なことを教えてあげる学校教育が必要です。『私達の命は父母・神様からいただいたもの。自分が死んだら、自分だけに留まらず父母兄弟や友人達周囲の人を一生不幸にします。』ということを幼い時から繰り返し教えてあげることが日本の教育には必要です。

 詳しくは、次のデーケン先生の著書を是非読んでみてください。

『第三の人生』(南窓社)

『ユーモアは老いと死の妙薬(死生学の薦め)』(講談社)

『良く生き、よく笑い、よき死と出会う』(新潮社)

5. 岩切章太郎氏に学ぶ人生の志

6月は採用活動ピークで、学生は内々定を1~3つ貰う時期です。
先行きが分からない混沌とした世の中ですが、しっかりと自分の人生を見つめ、自分らしい生き方を熟考して進路決定し、それを実現できる企業を見極めて欲しいと思います。特にコロナ禍の厳しい試練を乗り越えた学生は、まさに『艱難辛苦、汝を玉にす』の筋金がはいっています。自信をもって社会の荒波に立ち向かって欲しいと思います。
  就活に当たって『自分はどういう人間か? 一生の仕事として何が自分に向いているか? この企業で本当に遣り甲斐のある仕事ができるのか・・』 と、まだまだ迷いは大きいと思いますが、そういう若者に是非参考にしてほしいのが『岩切章太郎氏の志と人生』です。

 かって宮崎は農業、林業、漁業以外これといった産業のなく、『陸の孤島』 と呼ばれていましたが、昭和に入って観光の名所になります。 元々日本誕生の神話=天孫降臨の地として長い歴史がありますが、有名な保養地の熱海や別府を抑えて全国一位の観光地、新婚旅行のメッカになりました。
 その一番の貢献者は岩切章太郎氏で、故郷をこよなく愛し磨き上げ、観光バスで景勝地を結びつける 『宮崎の大地に壮大な絵をかく夢の実現』 に注いだ独創的な企画と努力の賜物です。

 宮崎県民は岩切章太郎氏を「宮崎県観光の父」と呼びます。
章太郎氏は高等小学校1年の時、新渡戸稲造の講演を聞いて感動、人間どこに住んでいてもいい、大きな夢を持つ事が大事と思い、それが後に宮崎に帰る契機となりました。

そして東大卒業後 3年の約束で住友に勤務、自分の意志を貫き宮崎に帰郷しました。 大正15年にバス4台で宮崎市街自動車株式会社(宮崎交通の前身)を創立、南宮崎駅と宮崎神宮間に市内バスの運行を始めました。
また昭和11年から、日南海岸にフェニックスを植栽、3年後に こどもの国 を開園、戦後も 橘公園、えびの高原と次々に「大地に絵をかく夢を実現、宮崎観光ブームを作りました。そして皇太子時代の上皇・上皇后陛下が宮崎に新婚旅行された事により、新婚旅行のメッカとなりました。


思い出のスカイライン - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=XtNJKFJgn_0
 
両陛下の新婚旅行時、私は小学五年生でした。 自転車で1時間かけて都城市志和池の沿道に駆けつけました。
黒塗りの御料車の窓から上品に手を振られる若き両陛下の姿を見たとき、子供ながらに電撃に打たれたような感動を覚えました! その優美で高雅なお姿は、高齢となられた今も全く同じです。


『宮崎の偉人』(鉱脈社)
岩切章太郎は九人兄弟の長男として宮崎市中村町に生まれました。
 小学校を卒業する時、優秀な友人はみんな中学校へ進学しました。章太郎も中学に進むだけの能力は充分ありましたが、病弱だったため、父はしばらく体を鍛えてからでも遅くないと考え尋常高等小学校に入学させました。ところが一年たっても、二年たっても章太郎の病弱は治らず、とうとう高等小学校四年課程の全部を修了してしまいました。
 ある日、旧制の県立宮崎中学校に通っている友達が、学校帰りに章太郎の家に寄って、「今日、大学者の新渡戸稲造先生からすばらしい話を聞いたよ。」と、目を輝かせながら、博士の朗読した英語の詩を、節をつけて口真似してみせました。 章太郎はこの時、中学校に進学しなかったことを悔しく、羨ましく思いました。幸い友だちが「明日も農学校で博士の講演があるよ。」と教えてくれたので、矢も盾もたまらなくなり、翌日は学校を体んで宮崎農学校に駆けつけました。
 「よその学校の生徒に聞かせるわけにはいかない。」 と農学校の先生から言われましたが、章太郎は校長先生に直接お願いするために校長室に行きました。あまりにも熱心な章太郎を見て校長は、「そんなに聴きたいのか。一番後ろの席でおとなしく聴くなら聴いてもいいぞ。」と言ってくれました。
新渡戸博士の一言一句は本当に格調高い大講演で、章太郎の心をゆさぶりました。中でも、章太郎が感激したのは豆腐屋の話でした。
 「これからの日本は、一日も早く欧米の一流国家に追いつかなくてはならないが、そのためにはまず日本人の体格を立派な大きなものにつくり変えなければなりません。体格が立派になれば、脳細胞も発達します。欧米人が体格が良いのは、肉を常食としているからです。従ってこれからの日本人も肉を食べなくてはなりませんが、日本人には肉食の習慣がありません。しかし、幸いにも日本には豆腐という最高のタンパク源があります。日本人は、もっともっと豆腐を食べて、立派な体格をつくろうではありませんか。」
 さらに新渡戸博士は「私は、大学者になろうか、それとも美味しい豆腐を作る日本一の豆腐屋になろうかと、夜も寝らずに真剣に考えたことかあります。」と、熱を込めて話しました。
 「そうか、そうなんだ。大学者になるということも、豆腐屋になるということも、国の為、人の為に尽くすことでは目的は同じなんだ。」こう考えると、章太郎は目からウロコが落ちたような気がして、未来に明るい希望が湧いてきたのです。

生来病弱でしたが、宮崎中学に入る頃から健康になり柔道部選手、学生相撲の大関をつとめるほどになって、一高、東大に学びました。

一高時代特筆すべきことは愛鷹丸事故です。一年の冬休みの時、三年の平島敏夫さんと二人で伊豆一周の徒歩旅行をしました。伊東、下田、松崎と一回りして土肥の旅館に泊まって、いよいよ今夕、船で沼津へ出発という時のことです。 散歩の途中宮崎屋という菓子屋を見つけ、これは懐かしいと枇杷羊羹を買って、田の畦に腰をおろして二人で食べました。そのため帰りの時間がおくれ夕食の最中に船が来たとの知らせが来ました。 すぐ立ち上がろうとしたら、お手伝いさんが食事を半分にして出発するものではないと泣くようにとめます。それで出発を延期しました。 ところが、その時乗るはずだった汽船愛鷹丸が、土肥を出てから間もなく沈没して全乗員中助かった者は三名だけという大事故が起きたのです。

「土肥の浜辺では既に渚を出た艀を呼び戻して乗った人もあったそうだし、私たちを泣いて止めたお手伝いさんの父親もその船に乗っていて死にました。私共も乗っていたら、もちろん死んだろうと思います。正月三日で、正月になって初めての航海だったので乗客が多く、積み過ぎが大事故の原因のようです。宮崎でも父などは事故の新聞記事を見て、もうすっかりあきらめていたそうです。人生とは妙なものです。 もし散歩の途中宮崎屋で枇杷ようかんを買わなかったら、もしお手伝いさんが泣くように引きとめてくれなかったら、もちろん私どもは船に乗っていただろうし、当然今の私もないはずです。全く感無量です。」

大学2年の冬、26歳の12月タメ夫人と結婚、翌年長男省一郎(宮崎交通2代社長)が生まれました。 しかし宮崎に帰るという方針は変わることなく、3年間は中央の実社会に触れることにして住友銀行総本店に籍を置きました。

『宮崎の偉人』 (鉱脈社)
章太郎は住友総本店でそれなりに仕事の成果を上げていましたので、東京で働くことに未練がないわけではありませんでしたが、「民間知事」になる夢を実現するために、住友総本店を三年半で辞め、大正13年(19244月、31歳の時、ちょうど宮崎市が誕生した年に宮崎に帰りました。
さて、宮崎に帰ってみたものの何をするかなど目的は何一つありません。そこで仕事の方は後回しにして、まずこれから宮崎で仕事をするのに、どのような考え方で進むべきか、その指針というか基本方針をしっかり固めておこうと三つの方針を心に決めました。
 (1)世の中には中央で働く者と、地方で働く者がいるが、自分は
   飽くまで地方で働くことに徹しよう。
(2)上に立ち旗振る人と、下で旗の動きを見て仕事をする人がいる。
   自分は旗振りでなく、旗を見て仕事をする方の仕事をしよう。
(3)人のやる事、やる人の多い仕事はしない。
   新しい仕事か、人のやらない仕事を引き受けてやってみよう。
以上の三つの方針を心に固く誓いながら、その実現のためには、地位とか、名誉とか、財産とかの欲望はすべて断ち切ろうと考えました。そして何でもいい、どんな小さなことでもいい。自分がやる仕事は、日本一とはいかないまでも、何か日本の新しいモデルになるようなものをつくり上げていこう。それを自分の生きがいにしよう、と考えたのです。
後に章太郎は、宮崎でいろいろな仕事を成功させ、名声が県民に知られるようになってから、幾度か国会議員とか、知事、市長に出馬したらと薦める人が数多くいましたが、国会議員になることは、中央で働くことになるので第一の方針に反することになる。 知事や市長になることは上に立って旗を振る側の人になり、第二の方針に反することになる。 として断固として断り続けました。

宮崎に帰り、宮崎回漕内海港代理店の代表社員に、続いて宮崎農工銀行監査役に就任。
大正15年(1926)宮崎市街自動車㈱を設立し取締役社長に就任。
昭和8年(1933)日向中央銀行頭取、昭和14年(1939)宮崎商工会議所副会頭、同年日米商会代表社員、宮崎木材工芸㈱社長、翌1940年祖国日向建国博覧会会長を務めた。
宮崎市街自動車は昭和17年(1942)宮崎交通㈱と改称、終戦直後に労働争議に直面し、宮崎交通らしい労使関係をつくりたいと理想を掲げたが、5ヵ月の大争議となった。争議のあと私鉄総連の幹部は、章太郎を評してソシアルユートピアンと呼びました。

宮崎交通の経営では、創立の当初から今日まで、市民の足になるという一貫した理念に燃えて、幹部をはじめ全従業員の末端に至るまで微に入り細にわたって、飽きることなく繰り返して信じるところを説きました。例えば、観光ガイドの訓練においてさえ、孫にあたるぐらいの娘たちと共にバスに乗り、説明のしかた、ポーズやしぐさまで手をとって丁寧に指導しました。
膨大な観光案内文も自ら調査をして起草したものです。

心を揺さぶる名経営者の言葉(PHP文庫)
「自分のしている事が世の中に必要かどうか自分が組織に必要な人間かどうかを常に反省しなければならない」
自らの言葉通り地方で働くことに終始した章太郎でしたが、波は「井の中の蛙」ではありませんでした。政財界と太いパイプを持っており、池田首相からは国鉄総裁を、佐藤首相からは全日空社長に就任してほしい」と依頼されましたが、自分が貫いてきた方針に反するとして断っています。
様々な理由で大都会へ出ることができず、地方で生活し続ける人は多いです。
「こんな田舎にいては成功など望めない」と考えることもあるでしょうが、住む土地と成功とは何の関係もありません。大切なのは、世の中に求められる人間になれるかどうかです。求められていれば、どこにいても必ず脚光を浴びることになります。
実業家の小林一三は「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ、そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ」という名言を残しました。大切なのは場所や職種ではなく、求められる人間になることです。

各種の公職のうち特筆されるものは、総理府の観光政策審議委員就任でしょう。 19601973年まで13年間在任、会長代理を務めたこともあります。章太郎在任中に観光基本法の制定をみました。 このほか多くの公職に在りましたが、19801981年に殆どの公職を退き、昭和56年(1981)の株主総会において取締役を辞任、55年にわたる役員の席から退きました。
その後は相談役の肩書だけが残り、宮崎の大地に絵をかくという終生の念願に没頭しました。

『宮崎の偉人 上』 (鉱脈社)
ある日、宮崎に移ってきた一人の画家と章太郎が親しくなり、歌や詩を作っては章太郎を訪ねて意見や感想を聞いていました。ある時、画家が 「今日は私の絵を是非見てください。」 と言うので、章太郎が彼の画室を訪ねてみますと、芭蕉と女の絵や青の洞門の絵など大きな絵が掲げてありました。そこで章太郎も 「今度は私の絵を見て下さい。」 と言うと、彼は驚いて 「あなたも絵を描くのですか。」 と尋ねました。
章太郎は早速、彼を車に乗せて、こどものくにや堀切峠、サボテン公園などの日南海岸の宮崎交通が経営している施設を案内して回りました。そして、「あなたの絵はキャンパスに描いてありましたが、私の絵は大地に描いてるのです。」 と言いました。
章太郎の一生を見ても金儲けが上手な方ではありません。儲かるかどうかよりも必要かどうかを考え、必要ならばソロバンを度外視して実行に移しました。世の中に必要なものなら世の中は大事にしてくれるであろうし、きっと拾い上げてくれるであろうと考えていたのです。

こうして章太郎は、「宮崎県観光の父」と言われるようになり、最近では小学校の教科書にも紹介されています。 そして宮崎県の観光開発史は岩切章太郎史であるとまで言われます。(『宮崎県大百科事典』)

5. コロナ禍中の3.11に思う日本の原点

新型コロナウイルスが世界中に蔓延する中、3月11日を迎えました。
この日を迎える度に『被災された方々は、今も深い悲しみ苦しみの中で戦っておられるだろうな」と思います。
藤城清治氏の鎮魂切絵と共に祈りをささげます。

東日本大震災にまつわる数限りないエピソードがありました。
その前年の平成22年、宮崎は口蹄疫禍で30万頭の牛が殺処分になり酪農家が壊滅的打撃を受けました。全国から支援物資が送られている中で、平成23年の東日本大震災が発生しました。
そしてすぐに宮崎の酪農家の皆さんは『私達はまだ命がある。この物資は東北へ届けて欲しい』と、以後全ての支援物資を東北へ転送するようになりました。『困窮し苦しい時こそ助け合う』これが日本人の心だと思います。
その後宮崎の酪農家は必死の努力を続けて復活し、平成29年宮崎牛は3回連続日本一の総理大臣賞を受賞しました。まさに『艱難辛苦、汝を玉にす』です。
あの頃CMが自粛される中で 金子みすずの詩『こだまでしょうか』が、私達の心を打ちました。

「遊ぼうよ」というと
    「遊ぼうよ」という
「ばか」というと
    「ばか」という
「もう遊ばない」というと
    「遊ばない」という

そうして後でさびしくなり
「ごめんね」というと「ごめんね」という
こだまでしょうか、いいえだれでも

戦前戦後の何もない貧しい中でも、子供たちは明るく、元気に、仲良く、強く生きて大きく育ち、現代の豊かな社会を築きました。 私達は、そういう日本の心を忘れず、コロナウィルス禍も、あらゆる困難にも優しく強く乗り切っていきたいものです。
そういう『日本人の心の原点=貧しくても心豊かな子供達』の人形を作り続けた与勇輝氏の人形を紹介します。    
                           (河口湖ミューズ館・与勇輝美術館蔵)

5. 勇気と力を与える命の詩人

 人の長い一生には浮き沈みがあり、時にはどん底で神からも見放されたのかと絶望感に打ちひしがれる時があります。そのような時に不思議と心に響き生きる力を与えてくれる一編の詩があります。 
人生折り返し点の40歳、私は胃癌を宣告され絶望の淵にありました。2年前に大好きだった姉が40歳でこの病に侵されて3年後この世を去っていました。『今度は私の番か!』 絶望の中で覚悟を決めたとき、この “二度とない人生だから” の詩に出会い生きる力を与えられました。『充実した今日一日を生きるだけで幸せではないか』、『普段あたりまえと思っている事が、本当は二度とない大事な出会いなのだ』 と気付かされたのです。
 その後、胃全摘出手術、1年後には腸閉塞で再手術して散々な3年間でしたが、『二度とない人生、一瞬一瞬を大事に!』 と前向きに過ごしてきました。そして完治して31年、古希を過ぎた今も元気に生き、この詩に力を貰っています。

 『二度とない人生だから』  坂村真民

二度とない人生だから
一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を傾けてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
踏み殺さないように心してゆこう
どんなにか喜ぶことだろう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど心豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさの露にも
めぐりあいの不思議さを思い
足を留めてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる月しずむ月
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの星々の光にふれて
わが心を洗い清めてゆこう

坂村真民(19092006)は、97年の生涯を教育と禅と詩の創作に打込んだ 『癒しの詩人』です。 真民は、詩集 『二度とない人生だから』(サンマーク出版)のあとがきでこう述べています。
二度とない人生だから」「一回きりの人生ならば」 二つを並べてみる。
まだ人生を知らない若い人は後者を選ぶだろう。でも人生の辛酸をなめ生き抜いてきた人は前者を取るだろう。前者は長く深く生きる生き方であり、後者は太く短く生きる生き方である。私は生まれつき、体も心も晩生(おくて)の人間だったから、前者を選び「詩と真実」を求めて生きてきた。

虚弱児だった真民は、19188歳の時校長だった父親を亡くして貧困のどん底に落ち、5人の子供を抱えて生きる為に苦闘する母の内職を手伝いながら育ちました。  国民の義務だった徴兵検査では 「筋骨薄弱第二乙」と不合格となり、コンプレックスに苛まれる青春時代を送っています。 しかし『筋骨は虚弱でも気骨、確固たる信念の強い心を持とう』 と短歌を作り始め、やがて教師の仕事の傍ら、詩と禅に打込みますが、40代に無理が祟って病臥するようになり、失明寸前の眼病に苦しみます。 それを奇跡的に乗り越え100歳近くまで現役の詩人として活躍しました。
こういう厳しい人生の中から生まれた真民の詩は『人はどう生きるべきか』 を命題に、人間としてのあり方を深く掘り下げ、人間として大きく、深く、強く生きよ と語りかける人生の応援歌です。そして今もなお、人間関係や仕事上の悩み、あるいは闘病に苦しむ人達に生きる勇気と力を与え続けています。

『念ずれば 花ひらく』

念ずれば花ひらく
苦しいとき 
母がいつも口にしていた  このことばを
わたしもいつのころからか 
となえるようになった
そしてそのたび わたしの花が 
ふしぎと
ひとつひとつ ひらいていった 

真民は、詩集『念ずれば花ひらく』(サンマーク出版)のあとがきでこう述べています。
この詩が生まれた時、私は眼を患い、絶望の底にあった。 街頭のどんな大きな字も全く見えず、心も体も暗い世界に落ちていた。眼科医で順番を待っていた時、母の事を思い、母の労苦に報いることなく、このような病気になった事を深く思い悲しんでいた。 その時生まれてきたのが、この詩であった。 そうした絶望の淵から生まれ出たことを思う時、この詩は神から授けいただいたのであることが、後になって分かった。
念という字は『今と心』 という字からできている。つまり、いつもそう思うという事である。ひとつの事をいつも思い続けていると、50兆あると言われる体の全細胞が、遺伝子がそうなっていく。そのことは現代の科学者が実証している。

私達も、それぞれが自分の夢や目標をしっかりと持ち、その実現に少しでも近づくように努力を積み重ねていきたいものです。 まさに、念ずれば 花ひらくです。
【参考】『念ずれば花ひらく』坂村真民:著(サンマーク出版)
    『二度とない人生だから』坂村真民:著 (サンマーク出版)

5. 大人にも必要な新道徳教育

                 (追記) 2016年2月14日
 小・中学校で新道徳教育が始まっています。
 前文部科学大臣の下村博文氏等が、教育環境を再建しようと、心血を注いで練り上げて出来た内容で、既に2014年3月から全国小中学校に配付され、文部科学省のホームページにも内容が一部掲載され、全国普及に向けて着々と準備されてきました。

 私の初孫が今年度 小学生となり、学校での勉強をとても楽しみに登校するようになりました。 孫が宿題で教科書を音読し、学校で学んだ事を祖父母にも一生懸命教えようとする姿を見ていると、初等教育の重要さ素晴らしさを痛感します。 そして私も孫と一緒に学びたくて新しい教科書を購入しようとしました。 特に中国・韓国から散々攻撃されている 『歴史認識』 が、日本の教科書でどう扱われ記述されているのか・・・他人事でなく、一日本人として、また孫の為に、もう一度勉強し直そうと思ったからです。
 しかし、新道徳教科書や社会科・歴史教科書だけでなく、全ての教科書の閲覧、入手が極めて困難であるという、日本の驚くべき劣悪教育環境 【=義務教育中の子供がいる家庭でしか、教科書を入手したり確認することができない!】 という現実を初めて知りました。

 72万冊もの蔵書を誇る千葉県第5位の市立図書館でさえ、閲覧できる小・中学校の教科書は一冊もなく、教科書の購入計画は全くないということです。一般の書店は取り扱っていない為予約購入も出来ず、学校指定の書店で注文しなければ入手できないという事です。 しかしそこでも学区指定の教科書しか注文できない為、各学年の教科書の数多い出版社(約20社)を比較閲覧しようと思うと実質不可能で諦めざるをえません。 『日本人の歴史認識形成で、最も影響力の大きい小・中学校の教科書』 の入手困難さを痛感しました。 
 
 他方、そういう劣悪な教育環境を必死で建て直そうと、コツコツと地道な努力を積み重ねてきた人々がいます。そういう人たちのたゆまぬ努力で、新道徳教育がスタートし、育鵬社の『新しい日本の歴史』 のような、客観的な歴史事実を基盤とし 是々非々のバランスのとれた優れた歴史教科書” が10年以上かけて作られました。 しかしこれを採用した学校は全国でまだ私立中学の 僅か数校のみです。 
 もっと沢山の大人が、日本の小・中学校の教科書に関心を持ち、公立図書館に全出版社の教科書を置く様に求め、更には全家庭で教科書を置き(または文部科学省のホームページで全教科書を閲覧できるようにして) 、『日本の若者だけでなく、全国民が正しい歴史認識を持った国際人になる教育環境』 を一日も早く整えたいものです。

【キャリア基盤となる新道徳教育』   2014年3月7
安倍政権の4つの基本政策のひとつ “教育の再生” 具体策として、20144月から新たな 私たちの道徳 が始まります 。 既にご覧になった方もおられると思いますが、文部科学省HPで新しい教科書を閲覧し、その素晴らしい内容に感動しました。
従来の教科書心のノート は、話合う 為の適切な題材が少なく、授業がやりにくい』 と言われていましたが、民主党政権は無為無策で 『 “心のノート” は意味がない』 と、それまでの無料配布を取りやめたのはまことに無責任でした。
 

 しかし今回の新道徳教科書は、誰でも興味を持つ多分野の偉人・先駆者の題材が豊富で、しかも簡潔にまとめられており、『こういう話についてどう思いますか?』 といった展開ですので、先生も授業がやり易く、児童同士の話し合いも盛り上る事でしょう。
例えば、小学1年生の  () たすけ合って生きる  の章では、百歳を超えても現役医師として活躍されている日野原重明先生の話しが紹介されています。

『たすけあって 生きる』  日野原 重明

地球上では、みんなが たすけ合って 生きています。
皆さんには、何をするにも、誰とでも仲よく 一緒にして、また人の為に
何ができるかを いつも考えて、よいことを行ってほしいのです。
あなたは 「いのち」 をもっています。 でも体の中のどこに命があるのかと
聞かれると、なかなか答えられないでしょう。
しかし、命とは、次のように説明すると、よりはっきり分かると思います。

あなたは、朝おきてから 何をしましたかと 聞かれると、
顔を洗った、朝ごはんを食べた、学校に行って勉強をした、給食を食べた。 
午後は、運動場でボール遊びをやった。家に帰ったら、おやつを食べた。
宿題をした。夕ごはんを食べた。 
それからテレビを見て、そして夜九時から朝六時まで寝た。

あなたが持っている時間、あなたが自分でつかえる時間、
それが、あなたの命なのです。
その命、あなたの使える時間という命を、これからは人の為にも
使ってみようと考えてみませんか。
命を自分の為だけに使わないで、人の為にも使うこと、
それがあなたの命を 本当に使うということになるのです。 
そのことを あなたに しっかりと考えてほしいのです。

こういった充実した中身の濃い素晴らしい内容の道徳教科書が、わずか1年で出来る訳がなく、恐らく大勢の方が5~6年以上をかけて地道な努力を積重ねてこられたのではないかと思います。 是非私たち共有の宝として大事にしていきたいものです。
各学年の教科書冒頭にあるように、学校だけでなく家庭でも地域社会でも一緒に学び、話し込んでいける内容です。 いやむしろ、私たち大人全員がもう一度この教科書を通じて勉強し直し、子供や孫と話し込んで一緒に学ぶ必要があると感じました。 この教育を受けていない若者達にも是非必須で学んで欲しいものです。  従来から大学キャリア教育は中々学生に浸透しないと感じていましたが、小中学で道徳教育を受けておらず人としてのベースが未熟な為だと思います。
今回は、この新道徳教科書 『私たちの道徳』 の内容構成を紹介します。
是非皆様方も次のURLから、詳細内容をご一読確認されることをお勧めします。

1.冒頭の 『“私たちの道徳” 教科書の使い方』 についての記述
 (1). 学校で・・①道徳の時間、②そのほかの授業、③休み時間や放課後に、
      読み物を読んで考えましょう。 友達と話し合ってみましょう。
 (2). 家で ・・家の人に書いてもらい、話し合ってみましょう。
 (3). 地域で・・いろいろな人とはなしあってみましょう。

2.成長に応じた話合いの重要テーマ
1,2)・・あいさつ、生活習慣、命を大切に、約束・きまりの大切さ、
      友達と仲よく、暖かい心で親切に、働くことの大切さ 等
3,4)・・自分を高めて、最期まで努力、勇気、正直、長所、礼儀、
      思いやり・親切、友情、命をいとおしむ、きまり、協力 等
5,6)・・節度・節制、責任、誠実、明るい心、進取の心、長所・短所、
      礼儀、真心、謙虚、信頼、感謝、思いやり、命を愛おしむ、
      大いなるもの、いじめ、法やきまり、権利と義務、役割と責任、
                公平・公正 等

3.取り上げられている逸話目次
 【 ◇各学年で紹介されている偉人 一流の人 □ こころに残る話

 (1,2)
 ◇二宮金次郎(篤志家)  ・・・小さな努力のつみかさね
 ◇ファーブル(昆虫学者)・・・いきものにやさしく
 □「手のひらに太陽を」 ・・・生きているって素晴らしい

  (3,4)
 ◇澤 穂希(サッカー選手)・・夢は努力してかなえるもの
 ◇高橋尚子(マラソン選手)・・やろうと思ったことは最後まで頑張る
 ◇リンカーン(米大統領) ・・正直に明るい心で
 ◇牧野富太郎(植物学者)  ・・自然や動植物を大切に
 ◇葛飾北斎(浮世絵師)   ・・美しいものを感じ 追求する
 ◇天野 篤(心臓外科医)  ・・ぎりぎりまで全力を尽くして命を救う
 ◇石川啄木(歌人)     ・・ふるさとを愛する心を大事にして
 ◇ラフカディオ・ハーン(文学者) ・・日本の文化を愛し 帰化して小泉八雲
 □「茶道・華道」       ・・誰に対しても真心をもって
 □「幸福な王子」     ・・相手をおもいやり親切に
 □「雨のバス停留所で」  ・・社会のきまりを守って
 □「みんな待っているよ」 ・・協力し合って楽しい学校、学級

 (5,6)
◇ワンガリ・マータイ(ケニア国連大使)・「もったいない」の環境活動を世界展開
◇内村航平(体操選手) ・・希望と勇気が 夢や目標に近づく力になる
◇豊田佐吉(発明家)  ・・母に楽をさせようと 世界初の自動織機発明
◇森 光子(女優)   ・・15歳でデビュー89歳まで生涯現役
◇向井千秋(宇宙飛行士)・・地球を外側から見たいという目標に努力
◇ヘレン・ケラーとアニー・サリバン   ・・三重苦障害を乗越え世界の障害者に勇気を与
◇イチロー(野球選手) ・・夢に向かって 確かな一歩を積み重ねる
◇池田菊苗(科学者)  ・・小さな感動が旨味(グルタミン酸)の大発見に
◇中谷宇吉郎(科学者) ・・雪の結晶研究で作物の被害対策に貢献
◇相田みつお(詩人)  ・・「あなたに巡り合えて本当に良かった・・」
◇ジョージ・ワシントン(大統領)・・友情を咲かすには幾度か困難克服が必要
◇野口英世(黄熱病研究)・・「人類の為に生き 人類の為に死す」
◇宮沢賢治(童話作家) ・・自然をこよなく愛した人
◇毛利 衛(宇宙飛行士)・・美しい地球 生命宿る地球を大切に
◇奥村土牛(日本画家) ・・101歳の傑作も『未完成、芸術に完成はない』
◇福沢諭吉(教育家)  ・・社会の一員として守らなくてはならないこと
◇マザー・テレサ(修道師)  ・・インドの貧困や病気に苦しむ人々を生涯救済
◇千住 明(作曲家)   ・・いじめている君へ
◇小川笙船(赤ひげ)   ・・200年前 貧しい病人を治療する養生所開設
◇坂本龍馬(幕末志士)  ・・「世界に目を向けなくては いかんぜよ
◇新渡戸稲造(国際連盟次長)・・「私は日本と世界の懸け橋になりたい」
◇クーベルタン(オリンピックの父)・スポーツを通し平和でより良い世界実現
◇三枝成彰(作曲家)   ・・・常に真面目に努力を積み重ねなければ
                             「自分の道」は見つからない。成功者は皆努力家
□「礼儀正しく真心をもって」・・心と心をつなぐ挨拶、江戸しぐさに学ぶ
□「相手の立場に立ち親切に」・・思いやりの心で、相手の思いに寄添う
□「ああ無情:レミゼラブル」・・相手の心に寄り添うこと、分かりあう事から
□「支え合いや助け合いに感謝して」
□「その思いを受け継いで」・・おじいちゃんの最後の思いを抱きしめて
□「命てんでこ」 ・・かけがえのない命を守る為に(田老中2年生の作文)
□「剣道」    ・・日本人が大事にしてきた 「人をつくる道」
□「米百俵」   ・・「今日の満腹より、将来の人材育成」 長岡藩の実話
□「自分を見つめ 豊かに生きる」

なお、中学校の 『私たちの道徳』 には、日本とトルコの100年を超えた友好の絆 『 海と空 ―樫野の人々― 』 が取り上げられています。 次のタイトルをクリックすると内容を確認できます。
  4. 真心の人間愛と友情 「海難1890」  

以上のように、安倍政権が力を入れている 『道徳教育の充実』 は、実に核心をついた重要政策であり、政権発足1年で新教科書を制定・配布する迅速さに、私達は本当に『素晴らしい国のリーダーを得た』 と思います。 
 ソチ・オリンピックで限りない感動を与えてくれた羽生結弦選手や浅田真央選手等、幼いころから世界一になる夢を持って努力を積み重ねている素晴らしい若者達が沢山います。 そういう夢や目標をまだ持っていない子供たちも、こういう多分野の多彩な偉人伝を読み、考えていく中で、必ずや『自分の夢、目標』 をつかんでいく事でしょう。
その一方で、女性や子供等の弱者を狙った通り魔や誘拐監禁等の凶悪犯罪、いじめや自殺問題、老人を狙ったオレオレ詐欺などの人心荒廃、 またスマホゲームに熱中する夢も気力も失った若者達の増加等々、『これからの日本はどうなるのか・・・』 と本当に心配な毎日ですが、この『私たちの道徳』 を学校で、家庭で、地域社会で大事にして話しあい、共有化していく事で、必ず改善されていくだろうと確信します。

このように待望の新道徳教科書ですが、最大の問題点は 教育現場の先生方(日教組)が、道徳教育に反対の立場を取り不熱心なことです。 これでは小中学生に配布しても授業では扱われず普及しない可能性があります。

私たちは、学校現場の実施状況に関心を持つだけでなく、PTAや、先生方と勉強会等を企画・提案・実施していくなど、学校・家庭・地域社会・自治体・政府が一体となってしっかりと定着化を推し進めていきたいものです。

【追記】
市の教育委員会で決定している教科書出版社が適切か否かを確認しようと思い、市教育センターに問い合わせたところ、『7月の2週間だけは教科書選定期間として全社の教科書を展示していますが、その期間以外は展示しません。』 という事です。 こういう短期間で、教育委員会は本当に適切な教科書の選定議論・作業が出来ているのでしょうか? 
そこで私も約3か月間待って、ようやく全社の教科書を比較閲覧することが出来ました。 そして危惧した通り、殆どの歴史教科書が自虐的記述である事に本当に驚きました。 
『この内容では、若者が日本の歴史を恥じ、誇りを持てないのも無理はない!』 
『これで学んだ若者は、中国・韓国の捏造・歪曲主張に とても反論できない!』
『この教科書を作っている人達は、日本人の本質や歴史真実を本当に理解しているのであろうか? 純粋な子供たちに教科書がどのような影響を与えるか、真剣に考えているのであろうか?』 

 最近、教科書会社10社による校長・教員4000名への不正行為 【= 検定中は禁止されている新教科書の開示、個別面談、謝礼金授受、(教科書変更便宜供与)】 が発覚しました。 正直、『やっぱりそうだったか!』 という思いです。 最初に問題になった三省堂や数研出版だけでなく、業界最大手の東京書籍が691件 教員2245人に(我が千葉県は東京書籍!)、教育出版が247件 教員1094人 等、名だたる教科書出版社 殆どに不正行為が蔓延し、またかって 『聖職』 と言われた教職員の著しいモラル低下が判明しました。
 『こういう教職員に子供の教育は任せられない!』 と思うのは私だけでしょうか?

 しかし私自身も今迄そういう教育環境に気付かず放置したままでした。
 小・中学校の教科書は、私達の感受性や精神を磨き、歴史認識を形成する、最初の最も重要な教育媒体です。 しかし最優先で所蔵すべき公立図書館に一冊もないとはどういう事なのでしょう? またそのことに関心もなく不便を感じない私達は一体どこの国籍人なのでしょう? その事に今迄気付かなかった私自身、不明をいたく恥じ入り、赤面する次第です。