2024年10月5日土曜日

3. 日本の心を学びなさい(麻生さん)

 令和5年1220日、元店主室長 麻生和正さんが旅立たれました。94歳でした。「あの素晴らしい方がついに・・」と深い悲しみに襲われました。


麻生さんは昭和28年に入社され、30歳の頃から約20年間、緑内障で殆ど視力を失った出光佐三店主の目となり手足となり 議論相手となって支えられました。そして昭和55年に経理部長、その後常務、専務となられて経営の中枢を担ってこられました。

 麻生さんが遠い遥かな存在となられても、私達の胸には『いつも私達の未熟な議論に、にこやかに目を細めて聴いて頂き、穏やかに温かく包み込みながら、日本人としての在り方を教えて頂いたお姿」を決して忘れることはありません。 深く感謝し 心から ご冥福をお祈り致します(合掌)

出光興産は、出光佐三氏が明治44年に門司で開業しました。日清・日露戦争を経て、日本が世界3大強国として列し発展した時代です。しかし開業以来大変な苦労をされ、ようやく大陸への発展を遂げて間もなくの終戦で事業の殆どを失いました。その苦労された様子は、小説・映画『海賊と呼ばれた男』でご存知の方が多いと思います。出光では出光佐三氏の事を 創業時の出光商会店主にちなみ今でも『店主』と呼んでいます。

出光佐三氏は『100年に一度の偉人』と言われる程の傑物ですが、中でも次の二つはいつも感動し、日本人としてのあるべき姿を教えられます。

終戦で会社資産を全て失いながら、復員者800人を含む従業員1000人を一人も解雇せず、終戦3日後には『愚痴を言うな、世界無比の三千年の歴史を見直せ、そして建設にかかれ!』と檄を飛ばし、ラジオ修理・タンク底油回収等色々な仕事に取組み乗切られたこと

英海軍封鎖下のイラン石油を、昭和28年5月世界で初めて輸入して世界中を驚かせ、敗戦に打ちひしがれた日本人が勇気と誇りを取り戻した『日章丸事件』



 戦後生まれの私は、高度成長絶頂期の昭和47年に入社しました。沖縄返還の年ですが、ベトナム戦争は泥沼化、嘉手納基地からB52が頻繁に出撃し、国内では水俣病や大気汚染などの公害が大問題になっている時代です。私は政府や企業に対して批判的で、反体制的な心情を持ちながらの就職でした。
 『数年努めて社会の実態を学んだら退職し、世の中の矛盾を正す役割を担いたい』  などと思いながら仕事を続けていました。

 しかし縁あって結婚、家族で暮らす幸せを味わっていた29歳の時に本社人事部へ転勤、出光の中堅社員教育=『店主室教育』を受けることになりました。この店主室教育は、昭和45年の中堅社員教育で受講生に接した佐三氏が『彼らは日本人の心を失っている!』と危惧され『僕が直接教育するから、全国の30歳前後の中核となっている社員を本社に集めよ!』と始まりました。所謂企業教育(実務、経営学等)とは全く異なり、そのテーマは『日本人にかえれ!』でした。当初教育期間は一年の予定だったらしいのですが、『思ったよりしっかりした日本人に育っている』 という事で半年に短縮され、その後40日となりました。

左の写真は出光旧本社8階店主室入り口にある宗像大社の神棚です。宗像大社は国民の祖神である「天照大御神の娘3女神」を祭ってあります。その御神勅は「天孫を助け奉りて 天孫に祭かれよ」(皇室を助け 皇室に祭られなさい)=皇室と国民の在り方を示されている国民の祖神です。佐三氏生まれ故郷の福岡県宗像郡にあり、佐三氏の心の原点です。宗像大社の神棚は出光の全ての職場に祭ってあり、出光社員は宗像大社を拝礼してから仕事につきます。

佐三店主の部屋はこの拝殿室の後ろにあります。店主は毎朝出勤すると、まず宗像大社を拝礼し、そして店主の部屋から皇居を遥拝されてから執務されました。また店主室教育は、この拝殿前に全員24名が整列して拝礼してから始まりました。

この店主室教育を主宰されていたのが、昭和28年入社で、店主室長として20数年間店主の側で仕事をされてきた麻生さんです。

麻生さんは最近まで出光OB誌に 『店主のお側で過ごした20数年のエピソード』を紹介されました。そこにはまるで昨日のような、生き生きとした店主との触れ遇いが、簡潔に印象深い名文で描かれ、読むたびに胸を打たれます。店主と接したことのない私は、店主室教育で接した麻生さんこそが店主のような存在です。麻生店主室長最後となった昭和55年4月の第20回店主室教育の受講生として感謝の思い出を紹介します。


(左の写真は、1985年のプラザ合意で米国為替レートに翻弄され苦労されていた頃の麻生経理部長。その右は天坊国際金融課長:のち天坊社長)

1. 店主室教育で生まれ変わる

 20歳代の私は入社以来問題児でした。先輩上司から聴く出光理念も、店主書籍を題材にした自問自答会も素直になれませんでした。特に入社10年前の昭和37年11月乗組員36名全員が焼死した「第1宗像丸事故追憶」(我が60年2巻P695)の出光店主の文章には反発を覚えていました。「従業員が何十人も殉職した悲惨な事故の追悼内容の殆どが世界平和使命とは・・日常的に火災爆発の危険性がある我々も、いざとなったら全員死ねという事か」 と・・ しかし店主室教育受講時「なぜ一旦避難して命を守らなかったのか・・」と嗚咽しながら弔辞を述べられる店主の録音声を聴き、初めて店主の思いを知りました。以来眼からウロコが落ちたように、出光理念や書籍が素直に納得理解できるようになりました。

2. 初めて日本の心の源泉に触れる


店主室教育は、伊勢神宮参集で始まりました。



 そして東慶寺での座禅、靖国神社参拝、夜久正雄教授による和歌入門講座、宗像大社の宮司体験・・それ以外は約40日間「仕事を忘れ、日本人と何かを考えなさい」のテーマで思索するのが店主室教育でした。こんなおおらかで自由闊達な教育研修は聴いたことがありません。よく先輩から『費用対効果はあったか、受講後のアウトプットは?』と言われましたが、そういう実利的なことは超越した重い体験でした。




3. 店主室教育で学んだこと

 私達の班は 『出光の経営の本質を学ぶ』 をテーマにして、我が六十年一~三巻を熟読し、店主の理念を『(1)人のあり方、(2)事業経営』 に整理していきました。私は 『(1)人のあり方』を担当し、その本質は『 務めて難関を歩め、神(皇祖・皇宗・祖先)を敬え、③独立自治、④無我無私、⑤人情を尊ぶにある』と整理して掘り下げていきました。しかしそれだけではない『もっと本質的な 何かがある』と思いながら、あっという間に40日間の研修は終わり『これからの宿題』としました。

 そういう研修の中でショッキングな出来事がありました。毎日独身寮~本社通勤で利用していた小田急線下北沢駅のホームで、盲目の女性が階段を探してウロウロしていました。私達は、危ないな・・と思いながら見守るだけでしたが、外人の若者が直ぐエスコートして階段を一緒に降りていきました。店主の深い理念と実践力に学ぼうと研修していた自分は、困っている人を助ける実行力すらない事に本当に情けない思いでした。以来、立派な空理空論よりも、小さなことでも実行することが大事と戒めています。

4. 「君の人生のテーマは 何かな?」

 麻生さんの個人面談で、世間話のような調子でこの質問がありました。私も世間話の様な気楽さで「私は入社以来問題児でした。学卒なのに交替勤務が長いのを腐っていましたが、先輩が見かねて三年がかりで指導し正してくれました。その指導があって人事部で仕事をさせてもらえるようになりました。」と話しました。そしてそこから学んだ「自分の様な迷える子羊が正しい道を見つける手助けがしたい。人事部でそういう役割を果したい。優秀な社員は自分で道を切り開いていくのでほっといてよいと思う」と話しました。すると麻生さんは『それはとても大事な仕事だ。頑張って欲しい』と背中を押して戴きました。以来退職まで三十年間、退職後も大学キャリア講師やブログ・FB配信(若者への応援歌)で、このテーマに取り組んでいます。

5. 麻生さん宅で研修打ち上げ

研修最後の相互発表会が終わると、麻生さんのご自宅に招かれました。

そしてご家族も一緒に、受講生全員が家族のように和気藹々と楽しいひと時を過ごさせてもらいました。当時小学校三、四年だった息子さんを 『孫だよ、孫だよ』 と照れながら紹介されたのが、とても印象に残っています。この時の実の家族のように楽しかったひと時は、いまも昨日のように思い出されます。

6. 私の日本人原点は店主室教育

 店主室教育受講後一番の変化は、出光の刊行物が嘘のようにスッと心に沁みとおることでした。また受講前は 『右翼の偏った論説者』 と思っていた、渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、青山繁晴氏、黄文雄氏などが、受講後は深い共感を覚えるようになりました。 『このままでは日本は滅びる!』 という強い危機感を持った憂国の士だとわかりました。特に渡部昇一氏は、アメリカ数校の大学教授として教鞭をとるほどの国際的英語学者でしたが、晩年は日本の歴史教育に危機感を抱き「日本の歴史」全7巻、「少年日本史」などの名著を残されました。それらを読むと、まさに店主が言われ続けた 『日本人にかえれ!』 の素晴らしい日本人の歴史が描かれています。戦後のGHQ自虐史観洗脳から78年経過しても、洗脳に束縛されたままの私達現代日本人ですが、渡部昇一氏の次の分かりやすい例え話で、全国民が目覚めて欲しいと思っています。「歴史を見る眼‣姿勢」への至言です。

【歴史とは虹のようなものです。水滴の様な歴史上の事実や事件を沢山集めても歴史にはなりません。数限りなくある水滴の集まりを、ある適度な角度と距離をとって眺めて初めて虹は見えてきます。また虹はその国民にだけ七色に見えてくるもので、それを 「国史」 (国の歴史)と呼びます。そのような美しい歴史の虹を見るためには、正しい歴史観を持つことが大切です。】


<エピローグ> 
 あれは私が人事部勤務2年目の昭和55年12月、店主が逝去される数カ月前の事です。麻生さんは新経理部長となっておられました。交代したばかりの新店主室長が「昭和56年 ”月刊出光” の新年号の仙厓画讃の年頭の辞をどうしたらよいか」(店主は入院し面会できない状態でした)、麻生さんに相談に行かれたところ、その場でサラサラと書かれたのが「はよふ、起きんかあぁの一文です。新店主室長は、ただ驚き立ち尽くしたとの事です。(『海賊と呼ばれた男』の終章では店主の絶筆となっていますが・・麻生さんは、視力をほとんど失った店主の目となり手足となった秘書・祐筆20年間、その精神性は店主と同じ世界に生きておられたことが分かるエピソードです。ただし麻生さんは生前、あれは店主の言葉だと固く否定されていました。)

新年おめでとう。今年は酉の年である。
仙厓さんのカレンダーも酉の年にちなんで鶏が声高らかに鳴いている。
東天に向かって羽ばたきつつ 夜明けを告げる鶏の声は清々しく力強い。
仙厓さんは大声で「はよふ、おきんかあぁ」と怒鳴っておられる。
この一喝は強烈だ。肝にずんと響く。
思わずパッと目が覚める思いがする。

36年前の終戦の時、私は「日本人は戦争に負けたのではない。あまりに日本人が道徳的に廃頽し、日本の民族性を失っておるから並大抵のことでは目が覚めないので、天が敗戦という大鉄槌を加えられたのである。これは天の尊い大試練である。だから愚痴を言わず、三千年の歴史を見直し、直ちに再建に取り掛かれ」と怒鳴った。
さて出光は本年、創業70周年のめでたい年を迎えた。70年の積み重ねは、出光人はかくあるべし、日本人はかくあるべきものなりという確固たる信念と共に歩んだ年月であった。

かえりみて、この人間尊重70年の道は正しい日本人の大道であった。
今後も永久に間違いない。
鶏鳴とともに東海の空に曙光がさしはじめている。
 (3か月後の昭和56年3月7日、店主は95年の生涯を閉じられました)

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