2024年11月6日水曜日

1-11. 真心の人間愛と友情 「海難1890」

 年前に話題となった日本・トルコ合作映画  『海難1890』 は必見の映画です。 私達が誇りと自信を失い、若者が輝かしい将来を夢見る事の出来ない現代ですが、『かって日本人は、貧しい中でも限りない人間愛と友情を大切にしていた』 事を知ることが出来、私達のこれからの生きる指針となります。是非DVDレンタル店で探して視聴をお勧めします。
恥ずかしい事に、私はこの映画で描かれている二つの大救出劇の史実を全く知りませんでした。 恐らく殆どの日本人が同じではないでしょうか。 
 しかしトルコでは、131年前に紀伊半島南端で起きた死者523人という当時世界最大のエルトゥールル号遭難事故と、日本の貧しい小漁村の人々が命懸けの救出活動をしたという話が小学5年生の教科書に掲載されており、トルコ全国民が知っています。
 この大海難事件から95年後の1985年イラン・イラク戦争時に、日本からの救援機が出せずテヘランに見捨てられた形の日本人216名を、今度はトルコが、自国民より先に救出してくれるという奇跡の救出活動をしてくれました。

一昨年から使用されている文部科学省作成の 『私たちの道徳』 (中学生用)には、テヘランで救出された沼田準一さんの手記が掲載されていますので、以下に紹介します。 これだけでも感動を呼びますが、やはり映画の臨場感、感動は別物です。 一人でも多くの方々が、この映画を鑑賞されることをお勧めします。 そして、子供に、孫に、語り継いでいきたいものです。

海と空 ―樫野の人々―  「 私たちの道徳・中学校」 より

「助かった!」
救援機の車輪がテヘラン空港の滑走路を離れた瞬間、私は 「ああ、やっと戦禍のテヘランを離れることができた」 と実感した。 周りを見ると家族連れの多くは抱き合って泣いている。
  昭和60年(1985年)3月、イラン・イラク戦争の最中、イラン在留の日本人たちは、テヘランから脱出しようとしていた。 しかし、テヘラン空港に乗り入れていた各国の航空機は自国民を優先する為、日本人の搭乗の余地はなかった。 私を含め日本人の全てが不安と焦りの中にいた。
その緊迫した状況の中で救いの手が差しのべられた。トルコ政府が取り残された日本人救援の為に飛行機を出してくれたのだ。こうして私を含めた216人が無事脱出できた。危機一髪だった。
なぜトルコ政府が救援機を出してくれたのか。 なぜトルコだったのか。この疑問を持ったまま、20年近くも経ったある日、偶然「イランからの脱出 ~ 日本人を救出したトルコ航空 ~」 というシンポジウムがある事を知った。
シンポジウムでは、トルコ政府が飛行機を出してくれた背景に、トルコ人が親日的である事が強調されていた。そして親日的になった第一の理由として、エルトゥールル号の遭難者を救助した樫野の人々の話がある事を知った。
しかし、親日的であるということだけで、あの危険な状況の中で、自国の国民よりも優先して日本人の救出に当れるものだろうか。 シンポジウムを聴いても私の疑問は解消しなかった。 どうしても樫野に行ってエルトゥールル号遭難の顛末を知らなければならないと思った。

和歌山県串本の向かいの大島に樫野はある。今では巡航船ではなく、橋が架かり車が行きかう。私が妻と一緒にトルコ祈念館を訪れたのは春の暖かい日だった。

和歌山県串本の向かいの大島に樫野はある。今では巡航船ではなく、橋が架かり車が行きかう。私が妻と一緒にトルコ祈念館を訪れたのは春の暖かい日だった。
展示室は思ったよりこじんまりしていて、エルトゥールル号の説明、写真や手紙などをじっくりと見て歩いた。 しかし、まだ私は納得できず、いささか失望の想いで展示室を出ようとしたところ、出口のところに分厚いファイルが置いてあることに気付いた。手に取ってみると、『難事取扱ニ係ル日記』 記されている。当時の大島村村長の沖周(おき あまね) が、エルトゥールル号遭難の経緯と事故処理について書きつづったものだった。 
しばらく読み耽り、ふと目を上げた時、館長が声をかけてきた。
「随分と熱心にご覧になっていますね。」
「最初は商船だと思っていましたが、軍艦と知って驚きました。 救援活動と、しかるべきところへの連絡、事故処理等すごいですね。」
館長は、何かの研究かと尋ねてきたので、私は、イランからの脱出とシンポジウムのことを話した。
「そうですか。大変な思いをなさったのですね。」
「でもまだ何だか分からないのです。 なぜトルコの救援機が危険を冒してまで日本人を救ってくれたのか・・・」
館長は私の言葉にうなずいた。
「私も、沖日記を読みました。そうした公的な記録と共に、エルトゥールル号遭難時の樫野地区の様子を伝える話もあります。 おじいさんやおばあさんから直接、トルコ人救出の話が伝わっているのです。
あれは明治23年(1890年) 9月16日夜の事でした。 この大島は串本に近い大島地区、中部の須江地区、そして東部の樫野地区からなっていました。その東部の先に樫野崎灯台があります。 話はその灯台から始まったのです。
樫野崎灯台の入り口の戸が激しく叩かれたとき、時計は夜の10時半を指していました。当直の乃美さんが、扉を開けると暴風雨の中から一人の外国人が倒れ込んできました。 乃美さんは、びしょ濡れの外国人を抱きかかえて中に入れ、明かりの下で見ると、服はあちこちが裂け、顔も手足も傷だらけでした。 急いで同僚の瀧沢さんを呼びました。二人の灯台職員に外国人は、身振り手振りで盛んに何かを訴えます。 瀧沢さんは、その様子から海難事故であると分かりました。 それで奥の部屋から万国信号ブックを持って来てページを繰りながら尋ねました。
「どこの国ですか?」
その男は、赤地に三日月と星の国旗をしっかりと指差しました。それはトルコの国旗でした。
瀧沢さんは、用務員を樫野地区の区長の元に走らせるとともに、自身はその男の手当てを始めました。そうこうしている内に次々と助けを求めるトルコ人たちが灯台にやってきました。 
他方、トルコ船の遭難の知らせを受けた樫野の人々は、急いで灯台下の断崖に向かいました。恐怖と疲労のあまり口もきけないトルコ人を、樫野の人々は両側から支え、歩けない者は背負い、灯台と樫野の村に運び込んだのです。

樫野の人々は、村の家々から浴衣を集めて、トルコ人の濡れた衣服と取り換えさせましたが、中々冷えた体の震えは止まりません。 樫野の人々は、一晩中、手足や背中や体中をこすって温め続けたそうです。
朝までに69名が救助されました。 しかし困ったのは食糧でした。樫野地区の人々は海で漁をしていたのですが、この年は漁獲量が減り、米の値段も上がっていました。だから食糧の蓄えは殆どなかったのです。 ところが樫野の人々は、トルコの人達にありったけの食糧を提供しました。
「これでサツマイモは全部だな。」 「ああ、畑には何も残っておらん。」
その時、一人の長老が穏やかに、しかし力強く言いました。
「トルコの人は大勢いなさる。畑のものだけでは足りん。皆の家のニワトリも捌く事になるが・・・。 みんな、ええな。」
即座に、赤銅色に日焼けした男が野太い声で答えました。
「当り前じゃ。いざという時の為に飼っとる。わしらもトルコの人も一緒じゃ。食べてもらおうや。」
「そうや、そうや。元気に御国へ帰ってもらいたいからなあ。」
非常用のニワトリを差し出す事に、誰一人難色を示す者はいません。
「樫田さん、コックの腕の見せ所や。頼むで。」
「いやあ、この年でお役にたてるとは。お母ちゃんたちも手伝うてや。」
樫田さんは、以前に灯台に勤めていた英国人のところでコックをしていたことがあり、専ら調理を引き受けました。 ニワトリを追いかけ捕まえる人、サツマイモを洗う人、火を起こす人、椀を運ぶ人、樫野の人々の心尽くしの洋食がタップリと振る舞われ、負傷者は元気を回復していきました。
この後、樫野地区には一個のサツマイモもなく、家に一羽のニワトリも無かったという事です。
エルトゥールル号は、トルコ皇帝の命を受けて、答礼として明治天皇に親書と勲章を贈呈する為に、地球の裏側から11か月もかけて日本にやってきていました。 無事任務を果たした特使オスマン・パシャ一行を乗せたエルトゥールル号が樫野崎灯台下で遭難したのです。 樫野の海から生還した69名は、明治政府の計らいにより、軍艦 「比叡」 と 「金剛」 により、無事トルコに送り届けられました。 しかし523名の乗組員は故郷に帰る事はかなわず、水平線の見える樫野崎の丘に手厚く埋葬されたのです。

トルコ祈念館を出た妻と私は、海を右手に見ながら、樫野の丘に続く小道をたどった。
「百年以上もまえだったのねぇ。」  「そうだったんだなあ。」
私の脳裏には、イランからの脱出の事、先日のシンポジウムのことなどが脈絡もなく浮かんでいた。
故国を遠く離れた異境の地で、しかも荒れ狂う嵐の海で、生死を分かつ危機に遭遇したトルコの人達と、テヘラン空港で空爆の危機に瀕した私達日本人とを重ね合わせてみた。
私達は、国際的規模の相互扶助によって助けられたのは確かだ。 樫野の人々は、ただ危険にさらされた人々を、誰彼の別なく助けたかったに違いない。 その心があったからこそ、百年の時代を経ても色あせることなく、トルコの人々の中に、親日感情が生き続けているということであろう。 トルコが救援機を出してくれたのも、危機に瀕した人々をただ助けたいと思ったからに違いない。 
私は長年の疑問が氷解していくような気がした。
私は樫野の海を見た。 「海と空」 それが水平線で一つになっていた。


【エピローグ (1)】 日本人が忘れてはならない「テヘランの恩」
台風の中を航行中だったエルトゥールル号は座礁して船体は引き裂かれ、乗員は皆、嵐の海に投げ出されました。樫野埼灯台下に漂着した生き残りの船員10名が、灯台の灯りを頼りに40メートルもの断崖をよじ登り、灯台守に助けを求めたとのことです。
灯台下の断崖は険しく、ここを必死によじ登った船員たちの苦しみを思うと胸が痛みます。 また串本の村人たちは、崖下の遭難者を助けるために自ら崖を下り、怪我人を背負い、体に縄をくくりつけて上から引っ張り上げるなど、自らの命も危険にさらすような懸命の救助を行ったといいます。
トルコの人々に「好きな国は?」と質問すると、大抵は 「日本」 と回答し、日本で知っている場所は、と聞くと 「串本」 という答えが返ってくるそうです。 では日本人は 「トルコ」 のこと、「テヘランの恩」 のことをどれだけ知っているでしょうか。 もし逆の立場で同じ場面に遭遇した時、現代の私達日本人は 「テヘランの恩返し」 ができるでしょうか。

【エピローグ(2)】 当時の実話からイメージされた登場人物
①村医師の田村
 当時トルコ人の治療にあたった医師たちに、トルコ政府からお礼と共に治療費の支払いを言ってきた時に、「我々はお金はいらない。 そのお金は乗組員の遺族のために使ってください。」 と断わったそうです。 その医師たちをモデルにしています。
②医師の助手ハル
 4年前の海難事故の救助活動で許婿を亡くしたショックで言葉を失い、医師田村を手伝っています。 実際に4年前の1886年にはノンマルトン号海難事件が起きています。 イギリス船籍の船が、今回と同じく樫野崎で座礁沈没していますが、イギリス人乗組員は非常用ボートで脱出したのに、船に乗っていた日本人は放置されて25名全員が亡くなりました。 これにより人種差別が問題になりました。 映画では、この時の救出活動でハルの許婿はなくなっているという設定です。
③生死を分けたムスタファ機関大尉とベギール操機長
 トルコのオルドゥ県からエルトゥールル号の組員が一番多く出ていますが、今その村に行くと二人のおじいちゃんが住んでいます。 一人はこの事故で亡くなった方の子孫で、もう一人は助かった方の子孫です。 当時9000km彼方の極東日本への大航海は決死の覚悟が必要でした。 二人の祖先は、「もしどちらかが死んだら、残された家族を引き取る」 という約束をしており、それから125年経った今でも、二つの家族は同じところに生活しています。 そのイメージがムスタファとベギールに重ね合わせてあるそうです。

【エピローグ (3)】 10年を要した本映画製作
16年前、田中監督は 和歌山県串本町の田嶋町長からエルトゥールル号の話を聴き、『何とかして海難事故に示された名もない人々の善意を映画にしたい』 と訴え続けました。 最初は誰も企画に乗ってくれず 『映画化の可能性は1%にも満たない』 と思ったそうです。

その頃、串本町で行われたトルコ・日本友好120周年記念式典の時、テヘランでトルコ人に救われた一人である沼田準一さんが立ち上がって、『あなた方の祖先がエルトゥールル号事件でトルコ人を命懸で助けてくれたおかげで、私達の命がここにあるんです』 と語り、串本町民に向かって深々と頭を下げられました。 そういう沼田さんや田嶋町長や田中監督ほか、色々な方々の想いが結実してこの映画が作られるのに10年を要しました。

【エピローグ (4)】 安倍首相とエルドアン大統領の応援と友情
2013年10月安倍首相は、トルコ訪問時エルドアン大統領に「できれば二人で映画化を応援しないか」と提案しました。「素晴らしい。ぜひやろう!」 と大統領は応じ、その場で制作費約1/3の 5億円拠出を即決しました。 そして2015年の11月、トルコで開催されたG20首脳会議の前日、安倍首相とエルドアン大統領は、この映画を一緒に鑑賞し両国の更なる友好を誓い合ったと言います。

田中光敏監督は、本映画クランクイン後、こう述べています。
『今の時代、世界では憎しみの連鎖で色々な悲惨な事件が起こっています。それは負の連鎖です。 エルトゥールル号事件は哀しい事件でしたが、地域の人々が69名もの命を助けたことで、今度は95年後の1985年 トルコ人が日本人216名をイランで助けるという事に繋がった。 その後も 1999年のトルコ北西部大地震の時には日本から援助を行って、2011年の東日本大震災では一番最初にトルコが助けに来てくれ3週間の長きに亘って活動してくれた。 そのように平和の連鎖を作っていきたいと思うのです。 この映画は日本中の皆さんに、また世界中の皆さんに、一人でも多く観て欲しいと思います。』

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