2024年10月5日土曜日

3. 仕事に貴賤なし (山中さん)

 自由気儘な学生生活から厳しい実社会に出る時、親や恩師から受けたアドバイスや教訓は、一生心の支えになり本当に有難いものです。 私は宮崎の山奥から上京就職する時、母が諭してくれた言葉が深く心に残り、生涯の道標となっています。 それは次の言葉です。
仕事に貴賤なし! トイレ掃除の仕事も総理大臣の仕事も、この世になくてはならない同じくらい大事な仕事。どんな仕事にも、誠心誠意、一生懸命に取組みなさい。』
就職して数年後、転勤した姫路の工場で、現場の神様として尊敬されていた大先輩の山中さんが、まさにこの言葉通りのトイレ掃除を実践されているのを見て、本当に驚き感動しました。
 若手が沢山いるのに何故ですかと聞くと僕は18歳で入社した時から、朝礼前のトイレ掃除は 今日の仕事始め として24年間続けている。これからも退職するまで続ける積りだ。』と、何を当然な事を聴いていると言わんばかりの顔で答えられました。 

この当時はオイルショック後の長期不況真只中で、各社大リストラ断行中でしたが、この会社は 『社員は家族。馘首はしないが社是で、各職場は極限まで少数化して、余剰となった人員は新たな仕事を創出するという経営方針でした。人望の高い山中さんは、そのはじき出された10数名を抱え、新たな仕事を探す特命係長でした。

 山中さんが最初に取り組んだのは、創業者が終戦時の難局を乗り切った原点の仕事 『タンク底油回収作業』 でした。 ただその目的は消防法による9年に1回の法定点検で、年間約10基の貯油タンクの全溶接線の健全性を検査確認する為のものでした。 検査準備として、空にしたタンク底の残差油を回収・清掃する作業は不可欠でした。 全身油まみれになるこの作業は、極限の3K作業(危険、汚い、きつい)で、当時末端の下請け会社が請負うようになっており、一流会社に就職したと思っている社員には、とても受入れられず、全員拒否感が漂っていました。
 そんな部下の心をが痛いほどわかる山中さんは、いとも当然な顔をして『会社を首になるよりはマシだろ。この会社が発展した原点の素晴らしい仕事じゃないか!』と、指揮官自ら先頭になってタンクに飛び込み、全員を励まし、朝から晩までこの仕事に没頭しました。まさに仕事に貴賤なし そのものを全身で実践されていました。

 しかし一方で、山中さんは部下に『いつまでもこんなことをやっていないぞ。 一生食いはぐれのない高度資格を取って元の職場の連中を見返してやれ!』と部下を叱咤激励して、タンク清掃で疲れ切った後に、非破壊検査(UT:超音波検査、RT:放射線検査)、WES(溶接管理技術者)等の資格試験勉強を全員で続けました。 そして次々と難関の資格を取得し、高額技術料を支払っていた検査診断業務を取込んでコスト削減に大きく貢献するようになり、タンク清掃作業は1年で切上げることになりました。そしてその後10数名の部下は、高度技術を持った設備保全技術者として各地の工場で活躍されました。

この当時の人事課長は『山中君に今すぐ所長をやらせたい。 彼は私心が微塵もない。部下の能力最大発揮と幸福な生活をさせたいという思いだけだ。恐らくこの会社で最も優れた所長になるだろう。 山中係長を取締役所長に抜擢できない自分の無力な立場が悔しい』 と言われていたのが、今も強く印象に残っています。
この時から、私にとって山中さんは、尋常小の修身を諳んじていた母から子供のころ聴いた、アメリカ独立戦争中のワシントン総司令官のイメージと重なっています。

『真に仕事のできる人』 - 偉大な人は些細な仕事もみくびったりしない -

アメリカ独立戦争の最中の話しです。ある下士官が、橋を作るために部下を使って木を切り倒す事になりました。人手が到底足りず作業はまるではかどりません。けれど下士官はただ部下をせきたてるだけで自分は何もしていません。そこへ立派な風格を備えた男が馬でやってくると、その下士官に声をかけました。
「仕事の手が足りないのではないかね?」 
      「はい、もっと人手がいります」
「君が手を貸したらどうだ?」 
      「わたしがですか?わたしは伍長でありますから」 
下士官は男の言葉にいくぶん腹を立てた様子で答えました。
「そうか。なるほど」 男は穏やかに言うと馬を降り、仕事が片付くまで兵士たちと一緒に働きました。それから再び馬にまたがり、
 「伍長、今度君が任された仕事で人手が間に合わないときは、総司令官まで使いを寄こすといい。そうすれば、また来よう」と下士官に言い残して走り去りました。 男はワシントン総司令官その人だったのです。
   『モラル・コンパス』 ウィリアム・J・ベネット:著 実務教育出版より』
    
 山中さんは、その後3つの工場で役職や大型工事のプロジェクトマネージャー等を歴任され、平成9年に退職。その後、故郷の熊本に帰り、地元の会社で高度技術者として活躍され、特に鉄骨製作会社では技術顧問として迎えられて、国交省認定の最高Hグレード認定取得を指導されて社長の片腕として尊敬されていました。
残念ながら長引く不況で、この会社は倒産しましたが、不撓不屈の山中さんは、それにもめげず、今度は建設会社で安全専任として現場作業員の工事安全・品質指導・教育等で活躍されています。
また約50年 取組む書道は大師範(日本書道美術館無鑑査出展 有資格者)
風景写真にも才能を発揮され、朝4時に起きて家を飛出し大自然の写真を撮影されています。 そして写真と書を組合せたカレンダーを作り、後輩に人生の素晴らしさを啓蒙されています。『現役高度技術者と感性豊かな芸術家』 として、益々“生涯現役” に磨きをかけられている、本当に若々しく偉大な先輩です。

2016年度】 このカレンダーを戴いたのは 2015年12月。
翌年4月に起きた熊本大地震で、山中さんが郷土の誇りとしていた熊本城や菊池渓谷が無残な姿になり、自宅のある大津町も大変な被害にあいました。このカレンダー写真は大震災前の貴重な記録写真となってしまいました。山中さんはその後、郷土復興の為、走り回り汗を流しておられます。


【2015年度】






【2014年度】
          



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