2026年8月16日日曜日

16.「北の国から」の麓郷の森

  北海道と言えば『北の国から』を連想する方が多いと思います。宮崎育ちの私は、小さい時から『雪国北海道』を異国のように憧れていましたが、そこでの厳しい生活は想像もつきませんでした。 

1981年10月から2年間、24回にわたって放送された『北の国から』、当時私は30歳代初頭の働き盛りでした。3年毎の異動・転勤が始まり「家族の為に逃げられない!」と必死で働いていた頃でした。家内も出産や育児で目一杯だったので、残念ながら番組名すら知りませんでした。

その後、数年に1回作成された8編のドラマスペシャルは 最後の『2002年・遺言編』まで、主人公の五郎と自分を重ねて 、身につまされながら視聴しました。また最近全24編がBSフジで放映され、初めて全体のストーリーを知りました。健気な蛍と弱っちい純を見ながら「子供って本当に可愛い。自分の子供がこの頃、俺は何もできず、子育ては全て妻に頼りっきりだったな・・」と深く反省します。

 「都会ではうだつが上がらず、妻に愛想をつかされ離婚した主人公の黒板五郎(田中邦衛)が北海道富良野市の麓郷原野の中で力強さを取戻し、2人の子供と真摯に生き成長する姿」は毎回涙々でした。

1.「麓郷」

「麓郷」とは、その名の通り十勝火山群の富良野岳の山麓・ふもとに広がる丘陵地帯です。真近に富良野岳が迫り『よくぞこんな火山近くの荒れ果てた土地を開墾したものだ!』と驚きます。

北海道の真中を横断する国道38号線で富良野市街を南下し通り過ぎて約10分、『麓郷』の標識を左折すると、水量豊かな渓流沿いに緑深い原生林の中に入ります。 『こんな山奥に、あの ”北の国から” の舞台があるのか?』と怪訝な思いになるころに、突然広大な畑が現れます。目の前には標高1912mの『富良野岳』が聳え立っています。 火山噴出物や土石流で覆われた荒廃の地を開墾した先人たちの苦労は想像を絶します。もちろん水田はありません。しかし開拓民は共に苦労する中で固い絆で結ばれて行ったことでしょう。

2. 「麓郷の森」

黒板五郎一家が住む「麓郷の森」は、この麓郷の畑の奥山林地帯にあります。

【“北の国から”番組概要】Widepepiaより

【第1話】

都会の生活になじめない不器用な五郎、都会派妻の玲子は夫に飽き足らず浮気、その現場を蛍と五郎に目撃された玲子は家をでます。そして半年後、東京が嫌になった五郎は、幼い純と螢を連れて、故郷の北海道の富良野で暮らし始めます。五郎が子供のころ父と住んでいた麓郷の廃屋を家族で補修し、電気も水道もない大自然の中での、三人だけの暮らしが始まりました。
母への不信から 田舎になじもうとする螢、どうしてもなじめない事情を知らない純。ある朝、螢は五郎に対し、自分たちがいなくてもここで暮らしたいのか、と問いかけるのでした。

【第14話】

 母:令子の病気は神経性のものである可能性が強く、純が東京に来てから少し良くなりました。令子はこのままずっと純を手放したくないという素振りを示しました。気持ちの優しい純は北海道の父:五郎に東京で暮らすと手紙を書きかけましたが・・北海道での半年間の原始生活で生きる厳しさや工夫して物を作る喜びを知った純には、流行を追ってまだ使える物をどんどん捨てていく東京の生活が以前ほど素敵には思えなくなっていました。それに気づいた純は、令子を気遣いながら北海道に帰るのでした。

【第24話】
 母の急死後、純には東京がそれまでと違った街に見えてきた。いつの間にかアメリカへ行ってしまった幼馴染の恵子。中学の受験のことしか頭にないかつての遊び友達。それを当然のこととしてハッパをかける先生。全てが純にはむなしく見えました。父の五郎と共に北海道の大自然の中で戦って生きてきた一年がいつの間にか純を変えていたのです。
 純は螢と二人で五郎の待つ麓郷に帰りました。五郎は完成した新しい丸太小屋で暮らし始めていました。母の死は、五郎にとっても純や螢にとっても大きな悲しみでしたが、ひ弱な都会っ子だった純もその辛さに耐えていける強さを身につけていました。

ドラマの舞台となった4つの家

「第1番目の家」

原作・脚本の倉本聰さんは、「生まれた時から文明の中にどっぷりとつかった今の子供たちが、自然の中で生きるということの原点に触れた時、「どのように考え、どのように育つか」そのことを見極める一つの実験を、この作品で試みたい」と述べています。その最初の舞台として、かって父親と自分が開拓者として住んでいた廃屋に戻るとこからスタートします。当然電気も水道も何もないガラス窓も破れた原野のポツンと一軒家です。

「第2番目の家“丸木の家”」

自分の力だけで建てた“丸木の家”、「純と蛍のロフト」を作り、この家で成長する2人との生活を楽しみにしていた五郎でした。
それが純と正吉の不注意で火災、、焼け落ちる我が家を呆然と見つめる五郎の姿は忘れることができません。

(恐らく我が家を火災で失った人は、同じ思いを抱くと思います。私は数年前に長崎FB友人の自宅・お店が火災に会った時、この絶望と力強く立ち直る五郎一家の姿が重なりました) 

自分が原因だと正直に告白する正吉、一方純は全てを正吉のせいにしてしまいますが、友人の正吉に「お前は汚い奴だ」言われ、段々と自己嫌悪に陥っていきます。

「第3番目の家」(最初の家に逆戻り 風力発電)

丸木の家が火事で焼けてしまったので、当然最初の家に戻ることになります。
ドラマで一番長く使われた黒板家です。 
 電気もない山奥の暮らしを何とかしようと、中学生になった純は廃材を集めて風車発電機を作り屋根に取り付けました。初めて黒板家に電灯がともりました。

「第4番目の“石の家”」

「2002遺言」で、純と蛍が独立して一人暮らすことになった五郎は、そこら中にある石を集めて「石の家」を作り、ここで暮らし始めます。どことなくスイスの山小屋風の垢ぬけたこの家は、いまもきれいに整備され、観光客の人気スポットとなっています。

16. インディアン水車でサケ資源保護

  最近サンマが不漁で庶民魚が高級魚になってしまいました。その原因は、中国・韓国の大型漁船が、日本へ回遊前のサンマを太平洋上で乱獲しているからで資源枯渇が危惧されます。その中国は原発処理水放流を政治問題化して、自国では10倍以上高濃度の汚染水を放流しながら「日本の海産物輸入禁止」、一方で日本沖の太平洋上でサンマ乱獲を続け「中国産」と称して中国内で食べています。こういう手前勝手な国相手の貿易は速やかに縮小し、国内消費を増やし、他の友好国と連携を強めるべきです。・・と思っていたら、高市政権になってから急に中国自ら「レアアース禁輸、渡日規制・帰国命令」など矢継ぎ早に反日施策を強化しています。お陰で傍若無人の煩い人々の来日が止まり、日本本来の静かな心穏やかな日々が戻ってきました。ただ日本近海での乱獲や怪しげな軍事・スパイ行動は強化されており、しっかりと国防を整え備える必要があります。

かって日本は、乱獲による資源枯渇をニシン漁で経験しています。明治時代から1957年まで、ニシンは北海道の水産業を支え、最盛期は年100万トン近い漁獲量を誇っていました。留萌・小樽はシーズン中 活気に溢れ、ソーラン節や小樽ニシン御殿はその頃の繁栄を今に伝えます。しかし1897年をピークにニシンの資源は消えていきました。極端な乱獲が原因と言われています。

 サケも資源枯渇の危機がありましたが、サケの『生まれた川へ遡上する習性を利用』して捕獲、採卵・孵化させて川へ放流する増殖事業で資源が復活しました。ここ千歳のインディアン水車は年間およそ20万尾のサケを捕獲し人工ふ化させて数億匹の稚魚を放流しています。(サケ遡上は9月下旬~11月中旬までの約2か月です)

1.   「千歳川を遡上するサケの大群」

秋のサケ遡上最盛期、千歳川のインディアン水車前は、このように遡上サケのラッシュ状態となります。

遡上するサケは、このインディアン水車の水路以外はブロックされて遡上できないので一網打尽です。 47年前、尊敬する下山さんに案内されて訪れた時、『サケが可哀そう。自然のままにしておけばよいのに・・』と思いましたが、下山さんに『サケ資源の確保のためには捕獲・採卵・孵化養殖・放流しかないんだ』と教えられ、日本人の知恵に心底感服しました。

「インディアン水車」は、北海道庁初代水産課長となった伊藤一隆氏が、明治19年、水産事情調査のためにアメリカに渡った際、西海岸のコロンビア川で実際に見学し、日本に紹介したのが始まりです。
 明治20年に帰国した伊藤は、自ら千歳川の調査を始め、古くからサケの天然産卵場として知られていた千歳郡烏柵舞村(うさくまいむら:現在の資源管理センター千歳支所の辺り) を、ふ化場建設の地に選定しました。そして明治21年、千歳川でサケのふ化事業が始まりました。

インディアン水車でサケを捕獲する水産事業者たち。捕獲されたサケは、生きたままトラックですぐに『サケマス孵化場』に運ばれ、採卵・受精させます。採卵採精した後の成体は、殆んど痛んでいませんので、食用として市場に出回ります。(自然に産卵地まで遡上させたサケはボロボロに傷つき、産卵・受精後は力尽き消耗しきって死滅し、とても食用にはなりません。)

2.   大人気の「インディアン水車見学」

この季節になると、遡上するサケの大群と、インディアン水車で捕獲される様子を見学する為に、このように大勢の観光客が押し寄せます。

3.   「千歳水族館」の水中観察ゾーン

千歳川の真横からサケの遡上を観察した後は「千歳水族館」で、千歳川の水中真横から遡上するサケを観察しましょう。その後は、大水槽で淡水魚たちの大遊泳を楽しみましょう。千歳空港から車で20分、北海道を秋に訪れたら、(季節外れでも)是非立ち寄りたい観光スポットです。これは千歳水族館地下1階の『水中観察ゾーン』から千歳川の中をガラス越しに見た映像です。

4. 北太平洋のサケ・マス漁獲量と放流量

 明治21年から千歳川で始まったふ化事業ですが、技術や経済的な事情から、日本のサケは200~500万匹を守る低迷期が約80年も続きます。

 ところが昭和45年を過ぎから回帰するサケの数がどんどん増えました。これに「自然の仕組みを見極める」事により達成されました。それからは5年で2倍超えの勢いで増え、現在は北海道だけでも7,000万匹に達します。しかも、以前は帰って来る率(回帰率)が1%以下だったのですが、現在は4~5%になっています。

5.   錦多峰川の鮭捕獲籠「ウライ」

インディアン水車は、川の水流で回転させてサケを捕獲しますので、千歳川のような水量の多い川でしか使えません。苫小牧市西部の錦多峰川のような小さな川では「ウライ」という方式を使っています。

苫小牧漁業協同組合の「さけ・ますふ化場」が使うウライは、川幅全部を魚が上れないようにして一部にすき間を作り、そこにつかまえるしかけをしておくことで、川を上る魚をとらえる仕組みです。 もともと、ウライはアイヌの人たちの漁法でした。 アイヌのウライは、川幅のせまい小川にくいを何本か打ちこみ、そこにヤナギの枝などをからませて作ったといいます。

6.   「錦多峰川を遡上するサケ」

海岸から約500m先に「ウライ」が仕掛けられて一網打尽に捕獲されるとも知らず、順番を守り整然と遡上します。家内と見学に行ったとき家内がしみじみと言いました。、

『人間が行列を作ったら、必ず我先にと割り込む不届き者がいるのに・・サケは割り込みもせず整然と順番通りに遡上する! 人間よりもエライ!』

7.鉄籠ウライでサケを捕獲している様子」

鉄籠内の魚は巨大な網を使ってすくい上げた後、専用のクレーンを使って川岸にある高さ約3メートルの作業台へ移動。雄、雌の選別をします。 通常1日で200~400匹を捕獲し、暫くふ化場内で飼育し、10月下旬に1回目の採卵作業を行います。 毎年11月下旬までに親魚約15,000~20,000匹を捕獲し、卵で約400~500万粒の確保を目標にしています。




16. 倉本聰 "優しい時間”の「森の時計」

 「老いては妻に従え」ですね。

 十勝岳登山の契機は家内が「富良野の ”森の時計” に行きたい」とリクエストしたからです。「ナンダソリャ? 森の時計を見に富良野まで行くのかい? 時計なら苫小牧の何処にでもあるじゃないか」と怪訝顔の私に「本当に仕事人間はつまらない」と溜息つくので、十勝岳登山を交換条件に合意が成立しました。

登山後白金温泉で汗を流し、翌日、新富良野プリンスホテルの「ニングルテラス木道」の奥にある「森の時計」に行きました。

 平成17年(2005)に放送されたテレビドラマ「優しい時間」、脚本は倉本聰氏で、舞台は彼の代表作「北の国から」と同じ富良野です。
 物語は「妻の死をきっかけに、妻の故郷の富良野で寺尾聰氏演じる主人公の湧井勇吉が喫茶店を始める」という設定です。妻の死の原因となったのが一人息子の交通事故だったことを知った勇吉は息子と絶縁状況になりますが・・(私は、こういう現実離れした設定の暗い物語は苦手です)。 この作品に登場した喫茶店「森の時計」は今も整備され、あのドラマのように「優しい時間」に浸ることができ、特に女性に大人気で北海道ツアーの欠かせないスポットになっています。さすがは名脚本家・プロデューサーの倉本聰です。

「森の時計」
 緑深い新富良野プリンスホテルの散策路の先に「森の時計」は、ドラマセットのまま残されています。 徹底したリアリティを追求するために、セットではなく実際に森の中に作られたものが店舗としてオープンしたもので、倉本聰が自らデザインしました。店内はゆったりできる広々とした空間で、大きな窓からは富良野の森を眺めることができます。

森の時計の一番の特徴は、カウンター席で自分が挽いた豆でコーヒーを淹れてもらえることです。観光シーズンのピークともなると、カウンターに座りたい客が列を作るほどです。席に着くとレトロな雰囲気の手動のミルとコーヒー豆が手渡されます。コーヒーの匂いを楽しみながらじっくりと豆をひき、マスターが丁寧にネルドリップで淹れてくれます。また、森の時計ではケーキも人気で、少し酸味の強いコーヒーに合うしっかりとしたケーキを味わうことができます。

「ワー! テレビとおんなじ森の時計だ!」「寺尾聡がいるかしら!」「本物の森の時計のドリップコーヒーが飲めるんだ!」

家内の興奮は留まるところか、増々ヒートアップするばかりです。昨日の十勝岳登山の不平不満はすっかり吹き飛び、「ヤレヤレ!」です。

まるでおとぎの国のオーケストラを間近で聴いているような至福の時間。
いつまでも感動する心を大事にしたいものです。(妻に感謝しました💞)

この富良野の森で拾われた松ぼっくりやドングリなどでつくられたお人形のオーケストラ
耳をすませば、森の妖精たちの「喜びの歌」が聞こえてきます。
💞

16. 「十勝岳」夫婦登山の思い出

 豊かな富良野平野の田園、美瑛の波打つ広大なパッチワークの丘、その向こうに雄大な十勝連峰、まさに北海道を代表する美しい景観です。噴煙を上げているのが昭和37年に噴火した『62-Ⅱ火口』です。

20数年前、念願の北海道勤務となりました。しかも出光本体の「24時間思考停止するな」の世界と違い、石油備蓄基地は週休二日、AM8時~17時の人間らしい勤務時間、週末は家内とドライブに出かけ雄大な北海道の大自然を満喫しました。特に憧れの大雪山旭岳・天人峡、黒岳・層雲峡、美瑛パッチワーク、後藤純男美術館などへは家内と何回も出かけました。そのドライブの途中、雄大な十勝連山を遠望し「いつかあの十勝岳のてっぺんに立ちたい!」と思うようになりました。問題は家内をどう説得して(だまして)連れていくかです。登山はきつくても、頂上を極めた時の爽快感、360度の絶景・達成感を共有化したかったのです。そしてそのあとは富良野を通るときは必ず「あの最高点に立ったのだ!」と思いながら違った景色が見えるはずでした。

北海道の美しい大地は、オホーツクプレートがユーラシアプレートに衝突して発生した数回の破滅的巨大カルデラ噴火によって形成されました。その最終段階の火山活動で出来たのが大雪・十勝火山群です。 そして3500年前からの火山活動は十勝岳北西斜面の火口に集中し、その火砕流や泥流は富良野・美瑛に多大な災害を引き起こしてきました。 三浦綾子の『泥流地帯』は、大正15年5月に発生した十勝岳大噴火&融雪泥流で富良野が埋め尽くされた悲惨な大災害を元に貧農家の苦闘が描かれています。

今回は2005年に十勝岳登山に挑んだ私達夫婦の苦闘(笑)と暴れん坊 十勝岳災害紹介です。

1.   『望岳台』 

2005年8月22日の登山記録です。 望岳台は十勝岳登山口ですでに標高930m、ここの駐車場に車を置いて、2077mの頂上まで往復5時間の山歩きです。(標高差1147mでかなりきついです)

2.鞍部が3つある十勝岳

望岳台からは、あたかも一つ目鞍部が頂上のように見えますので、家内には『ホラ、すぐそこが頂上だ、ガンバレ』と励まし、鞍部に着いたら『あれ間違ったな、もう少し上ったあそこが頂上だ・・」という具合に希望を持たせながら、何とか頂上まで家内をエスコートしました。(笑)

3.   十勝岳登山中の家内・・ヘロヘロ、文句グタグタ

(妻)「旭岳より疲れた。十勝岳が200m低い筈だけど?」
(私)「うん、でも旭岳は標高差800mだけど、今回は標高差1145mだから少しきついかな?」
(妻)『ナヌッ?!ダマしたな!!』(笑)

でもとにかくも夫婦で100名山の北海道2座を登り切ったのだから「かあちゃん、エライ!」

4.   鞍部3つを超えて十勝岳山頂

この時はガスが酷く、3m先も見えないほどでした。「旭岳と言い、十勝岳と言い、何にも見えない! 苦労して登っても、アナタが雨男だからよ!」と、20年たっても苦情を言われます(笑)

5.   十勝岳白金温泉「白髭の滝」

十勝岳中腹にある白金温泉は、薬効・眺望に優れ、また温泉街の中に名勝「白髭の滝」があり、北海道でも大人気の温泉です。

6.   十勝岳白金温泉の避難道

大正15年の十勝岳大噴火の融雪泥流で、最初に飲み込まれたのが十勝岳山麓にある白金温泉でした。その教訓に基づき、噴火情報と共に温泉街から直ぐ高台避難できるように設置されたシェルター付き避難道です。

7.   『泥流地帯』記録

大正15年5月の十勝岳大噴火で発生した「融雪泥流」は、あっという間に富良野平野を埋め尽くしました。何十年もかけて、原生林を切り開き、豊かな田園を築いてきた農民の努力の結晶は、瞬時に不毛の荒野になりました。

しかし農民たちは不撓不屈の精神で、流木や岩石を根気よく取り除き、再び今日の豊かな田園を復興しました。富良野を訪れるたびに先人達の偉業を思い感動します。(下は十勝岳火山砂防情報センター)

8.   十勝岳の噴火口群

3500年前から十勝連峰の噴火は、すべて十勝岳北西斜面で起きており、溶岩流・火砕流・泥流は全て北西側の谷を伝って富良野・美瑛市街・田園地へ流れています。その真っ先に被害を受けるのが「白金温泉」です。


9
. 大正15年の大噴火記録写真


16.『青年よ 大志を抱け! Boys, be ambitious!』

 北海道最大の都市、札幌は紅葉の名所でもあります。

 特に北海道大学のイチョウ並木とポプラ並木は見事です。場所的にもJR札幌駅から徒歩10分で北大、アクセス抜群です。

 私は苫小牧勤務時代、この季節になると、50歳半ばの北大部外者ですが、北大の先生のような顔(さすがに学生顔は無理)をして、この銀杏並木を散策して楽しみました。銀杏並木のあまりの美しさに、時間を忘れて立ち尽くすばかりです・・

 中学時代、初めて英語を習う様になり、日常で使わない I am a boy. や This is a pen など、クラス全員で呪文のように唱え「なんとつまらない言語だ!」思っていました。しかしある日、図書室で読んだクラーク博士と札幌農学校の学生たちの9か月の交流、特に別れの時 博士が発した激励「Boys, be ambitious!」は強烈に印象に残りました。のちに、クラーク博士を招聘したのは、当時博士が学長だったマサチューセッツ農科大学の初の日本人留学生=新島襄だったこと、札幌農学校の「卒業生に新渡戸稲造、内村鑑三」がいる事などを知り、『いちど札幌農学校(現北大)に行ってクラーク博士像に挨拶しなくては!』と思って大人になりました。しかし念願の博士像に会ったのは、それから35年後の55歳になってからでした。初対面の北大クラーク博士の胸像は、質素であまりに小さく、がっかりしました。

 そのあと羊ヶ丘公園の銅像を見つけ「これぞ Boys be anbisius! のクラーク博士だ!」と納得、同じポーズをとり、老いても大志を持ち続けようと誓いました。

1. キャンパスの一隅に佇むクラーク博士

 約150年を経たいまも博士のまなざしは、日本の若者が大志を抱いて世界で大活躍する姿を見守っているようです。

 日本人にとってクラーク博士の人気は高く、以前は北大キャンパスに観光バスが乗り入れ、このクラーク博士像の周りは特に賑やかでした。これでは学生の勉学の妨げになるということで、観光バスは入港禁止となり、ようやく静かな北大になりました。

2. 羊ヶ丘公園のクラーク像

 初めて北海道大学に行ったとき、クラーク博士の銅像を探しましたが、やっと見つけた銅像は誠に小さい胸像で、「これがあのクラーク博士?ちょっと粗末過ぎない?」と、ガッカリしましたが、この羊ヶ丘公園の銅像と出会い「これぞ Boys be anbisius のクラーク博士だ!」と納得、同じポーズをとり、老いても大志を持ち続けようと誓いました。

3.北大農場に至る「ポプラ並木」

 子供のころから「これぞ北海道!」とイメージしていた通りのポプラ並木です。

 20年前に50m以上の強風が吹き荒れ、半数近くが倒れ歯抜け並木になってしまいました。しかしそのあと植えられた若木が着々と育ち、昔日の姿を取り戻しつつあります。

 かって北海道大学のシンボルでもあった農場に続くポプラ並木の大木。並木の向こうに北海道大学のキャンパスがあります。

4.ポプラ並木の雪景色

 いかにも北海道らしい光景です。100万都市のど真ん中で、この景色が楽しめるのも北海道の魅力ですね。


5.羊ヶ丘展望台とクラーク博士像(さっぽろ羊ヶ丘展望台 観光案内より)

 クラーク博士は、明治9年7月、北海道開拓使長官黒田清隆に、将来の北海道開拓の指導者を養成するため「札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭として招かれました。 1期生16名に、動物、食太額のほか、キリスト教の教えによる道徳を英語で教えるなど、大きな影響を与えました。来道してわずか8カ月余の札幌滞在でしたが、翌年明治10年4月16日、クラーク博士は教え子たちと島松(北広島市)で、馬上から、有名な言葉「Boys, be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」と別れの言葉を叫んだと伝えられ、まさに北海道開拓精神を代表する言葉として、後世に伝えられてきました。

もともとクラーク博士像は、北海道大学構内にある胸像のみでしたが、有名なポプラ並木の景観とこの胸像を目的として北大を訪れる観光客が年々増加し、いわゆる観光公害現象が生じていました。その結果、昭和48年に北大当局は、学術研究のさまたげになるとして、観光バスの構内乗り入れを制限しました。しかし、クラーク博士の像はその時点で既に札幌観光のシンボルとなっており、観光客が像を見学できない事態を憂慮した札幌観光協会は、北海道開拓の原点ともいえるフロンティアスピリットの精神を全国に伝えていきたいという想いから、羊ヶ丘展望台に新しいクラーク博士像を建立する計画を立て、北大の了解を得ました。
 北海道女子短大教授の坂 坦道氏に新しいクラーク像の制作を依頼し、坂氏は『丘の上のクラーク』というテーマのもと、早春の風にひらひらはためくフロックコートを着たクラーク博士が、右手を掲げて「Boys, be ambitious!」と叫ぶイメージで制作しました。掲げた右手は「遥か彼方の永遠の真理を指す」とされています。

 昭和51年4月16日、北大開基100年およびアメリカ合衆国の建国200年祭を記念し、ウィリアム・スミス・クラーク博士像『丘の上のクラーク』除幕式が執り行われました。この年はクラーク博士の来道100年であり、またこの日は100年前に島松で別れの言葉「Boys, be ambitious!」が叫ばれた日でもありました。

6.「クラーク博士のその後」(Wikipedia より)

 クラーク博士は、日本政府の熱烈な要請を受けて、当時初代学長だったマサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形で、札幌農学校教頭に赴任しました。教頭と言っても実質校長で全てをクラークが取り仕切り、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入しました。

クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促しました。そして9カ月の札幌滞在のあと1877年5月に離日しました。

帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想しますが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収しました。当初は大きな利益を上げましたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、179万ドルという大きな負債を抱えました。

叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはありませんでしたが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去りました。あの馬上から「Boys, be ambitious!」と激励してから、わずか11年後のことでした。

彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられます。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにあります。