2026年4月3日金曜日

1-11. 古事記物語8「大国主神 国譲」

  大国主神の国造りにより葦原中国(地の国)は豊かになりました。

 しかし高天原の神々は、葦原中国も元来、天照大神の御子が知らす(治める)国であると合議し、どのように説得すべきかを議論しました。そこで二人の使者を続けて送り込みましたがうまくいきませんでした。そこで神々は建御雷神を出雲国に遣わせました。


 出雲国の浜に降り立った建御雷神は、十攫剣を抜き、逆さまに波の先に刺し立て、その剣先にあぐらして座りながら、大国主神に「我々は、天照大神と高御産巣日神の命によって遣わされた。あなたがうしはける(領有する)葦原中国(地の国)は、天照大神の御子の知らす(治める)国である。汝の考えは如何なものか」と尋ねました。

 すると大国主神は「私は年を取って私の一存では決められません。我が子がお答えします」と答えました。大国主神には沢山の子どもがいましたが、中でも特に優れているのは、秀でた知恵で出雲の人々の助けになっていた事代主神と、並ぶもののない力持ちで父の仕事を協力して頼りになる建御名方神でした。

 そこでまず事代主神を呼んだところ、父に「この国は、天つ神の御子に譲りましょう」と言って青々とした柴垣の中に姿を隠しました。

 建御雷神が「他に意見を申す子はいるか」と尋ねると、大国主神は「もう一人、建御名方神がいます」と答えました。すると、建御名方神が千人がかりでないと動かない大きな岩を手の先でもて遊びながらやってきました。

 そして「我が国にやってきて、こそこそと隠れて物言うのはいったい誰だ。ならば力比べしてやろうじゃないか。私が先に手を取って見せよう」と、建御雷神の手を取った時、たちまち建御雷神の手は氷の柱に変化し、さらに剣となって建御名方神を襲おうとしたのです。これに驚いた建御名方神は恐れて手を引きました。

 今度は建御雷神が建御名方神の手を掴みにかかります。建御雷神は、まるで若い葦を握りつぶすように、建御名方神の手を握りつぶし、たちどころに遠くへ投げ飛ばしてしまいました。命の危険を感じた建御名方神は一目散に逃げだしました。すると、建御雷神はこれを追いかけていき、信濃国の諏訪の海(諏訪湖)に追い詰めると、建御名方神は「恐れ入りました。今後はこの地から他へは行かないことにします。この葦原中国(地の国)は、天つ神の御子の命ずるままに献上いたします」と言って頭を下げたのです。


そして二人の神は「今度は神通力抜きにして力比べをやろう!」と、正々堂々と日本初めての相撲を取り、引き分けとなります。

(このあと国譲りが決まったのち、建御雷神は茨城県の鹿島神宮に、建御名方神は諏訪湖のほとりの諏訪大社に祀られることとなりました。そして今も、日本第一の武神として崇められています。) 

 建御雷神はまた出雲国に帰ってきて、大国主神に「二人の子どもは天つ神の御子の考えに背かないと言っていたが、あなたの心は如何に」と聴きました。大国主神は次のように応えました。

「私も背くつもりはありません。この葦原中国(地の国)は命令に従って差し上げることにしましょう。ただ、地盤に届くほどの宮柱を深く掘りたて、高天原に届くほどの千木を高く立てた、壮大な宮殿に私が住み,祀られることをお許しください」

 そして大国主神は、出雲の海岸近くに立派な出雲大社をつくりました。




【コラム もっと知りたい「国譲り神話と古代人」】

    「新しい歴史教科書(自由社)」より

 「国譲り」は古事記の中でも、最も不思議でユニークな事件です。古代日本人の思想を読み解く手がかりが含まれています。

天照大神は高天原の神々と相談して使者の派遣を決め、大国主命も息子の意見を聴いて身の振り方を決めています。日本には、古来より出来るだけ話し合いで物事を決める合議の伝統があったのです。

世界では、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、日本の「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦争ではなく話し合いで決着しています。

大国主神の心境を考えると、自分は何も悪いことはしていないのに、汗水たらし苦心の末に作り上げた国を他者に譲るのですから、さぞかし悔しい思いをしたに違いありません。そこで希望通りの巨大な神殿が作られ、大国主神を祀りました。勝者は敗者に対して、その功績を認め名誉を与え、魂を鎮める祭りを欠かさない。古代人は、こうした譲り合いの在り方を理想としていたのです。

 平安時代に子供に教える「雲太、和二、京三」がありました。当時の日本で高い建造物を覚えるのに3兄弟に例えて、出雲大社(出雲太郎)、奈良の大仏(大和二郎)、京都御所の大極殿(京三郎)の順だというのです。


今の出雲大社は、高さが24mですが、平成12年に宮柱の根元が3箇所で発見され、それから推定すると48m以上の巨大空中神殿があったことが分かりました。この宮柱は巨大な3本1組となっており、それぞれの木は直径が1.4mほどで、3本括ると直径約3mにもなります。出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、その一部と考えられます。発見された柱は「心御柱」や「宇豆柱」で、鎌倉時代のものと推定され、この時代までの出雲大社が巨大だったことの証明となっています。

天皇の宮殿や奈良の大仏殿よりも巨大な空中神殿を作って大国主神を鎮魂したのは、日本が国家統一を成し遂げるうえで「国譲り」が、それだけ重要な出来事だったことを暗示しています。

平成15年(2003,出雲大社を訪問された美智子皇后陛下(当時)は、次のようなお歌を詠まれました。

国譲り祀られまし大神の 

     奇しき御業を偲びて止まず
















1-11. 古事記物語9「天孫降臨」

  「大国主神が国譲りした」ので、高天原の天照大神と高御産巣日神は、天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「豊葦原水穂国(地上の国)は、汝が知らす国である。よって天降り治めなさい」と命じました。

 瓊瓊杵尊は、天照大神と須佐之男命の誓約で生まれた天忍穂耳命の御子で、天照大神の孫にあたるため「天孫降臨」と言います。この際に、天照大神は瓊瓊杵尊に三種の神器を授けられ、自分の御魂として鏡を祀るように命じました。これにより豊葦原水穂国(地上の国)は高天原の直轄地となりました。


 瓊瓊杵尊は天児屋命ほか天宇受女命など五神を従えて降臨しました。天宇受女命は天岩戸で踊った女神で、天孫降臨を出迎えた猿田彦神と共に道案内を務めたあと結婚します。天児屋命は中臣連の元祖で、のちに大和朝廷の祭祀を行った氏族で、のちに中臣鎌足が中大兄皇子と共に大化の改新を行い、その功績により藤原の姓を貰い、皇室を支える重臣の元祖となります。

 こうして瓊瓊杵尊は、お供の神々を従えて、八重のたなびく雲の峰を押し分け、道を押し開き、やがて天の浮橋をわたり、下界をくまなく眺めたうえ、筑紫(九州)の日向にある高千穂の峰に降りました。その時、天忍日命と天津久米命の二人の勇ましい神が、背中に矢筒を、腰には太刀を佩き、手には弓矢をもって案内しました。


瓊瓊杵尊はあちこちの土地を調べた後「ここが一番良い。遠く海を隔てて韓の国を望み、笠沙の岬を正面、朝日のさす国、夕日の輝く国だ。宮殿をつくるにふさわしい。此処こそが宮殿をつくるのにふさわしい」と言われ、高天原に届くほどの、大きな立派な宮殿を作ってそこに住みました。これを日向の宮殿と言います。

 ある日、瓊瓊杵尊が笠沙の岬を散歩しているときに、美しい少女に会い一目で恋に落ちてしまいました。「あなたは誰ですか?」と尋ねると「大山津見神(山の神)の子で木花咲耶姫(このはなさくやひめ)です」と答えます。そこで「私はあなたと結婚したいが、どうか?」と尋ねると、「私から返事はできません。私の父にお尋ねください」と答えました。

瓊瓊杵尊は早速、大山津見神に使いを出して尋ねると、大山津見神は大いに喜び、木花咲耶姫に加えて、姉の石長姫を添えて、沢山の嫁入り道具を持たせて送り出しました。古代では、結婚は家同士の結びつきなので、一人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚は良く行われていたのです。

ところが姉の石長姫は見る者が震えるほどの醜さでした。瓊瓊杵尊は、その醜さに驚き恐れ、すぐに石長姫だけを実家に送り返し、妹の木花咲耶姫だけを留めて契ったのです。すると父の大山津見神は大きく恥じ「私が二人の娘を送り出したのは、石長姫を側に置いて頂ければ、天つ神の御子の命は常に石のように変わらず永遠でありますようにと、また木花咲耶姫は木の花が咲くように栄えますようにと、願いをかけて送り出したからです。

石長姫を送り返し、木花咲耶姫一人を留めたのですから、今後、天つ神の御子の命は、桜の花のように脆く儚ないものになるでしょう」と述べました。これ以来、天皇命(すめらみこと)たちの御命は限りあるものとなり、寿命が与えられて短い命になったのです。

 そのあと暫くして、木花咲耶姫が瓊瓊杵尊の元にやってきて「私は妊娠しました。この子は天つ神の御子なので、あらかじめお伝えしました」と告げました。すると瓊瓊杵尊は「姫よ、たった一夜の契りで妊娠したというのか。それはきっと私の子ではない。きっと国つ神の子であるに違いない」と疑いました。

 こんなことを言われた木花咲耶姫は黙っておれません。「もしも私の生む子がよその子だったら、お産が無事に済むとは思えません。もし天つ神の御子ならどんな危ないことをしても、きっと無事に生まれるでしょう」と誓いを立てました。そして出入り口のない広い御殿を作り、その中に入って内側から土で全部塗り塞ぎ、出産が近づくと御殿に自ら火を放ち、その燃え盛る火の中で子を産みました。木花咲耶姫は体を張って、生まれた子が瓊瓊杵尊の子であることを証明して見せたのです。



 こんな危ないことをしましたが、三人の子どもは無事に生まれました。日が盛んに燃えていた時に生まれたのが火照命(ほでりのみこと)、次に火須勢理命(ほすせりのみこと)、おしまいに生まれたのが火遠理命(ほおりのみこと)です。これで立派に天つ神の御子であることが証明できました。この末の子の火遠理命は別名「山幸彦」で、次の話の主人公です。

 木花咲耶姫の美しくも激しい潔癖さは、「日本一美しく、時に激しい噴火を引き起こす富士山」を連想します。 まさにその通り、富士山本宮浅間神社は、全国浅間神社1300社の総本山で、ご神体は「木花咲耶姫」です。

【日本の統治の形・・「しらす」と「うしはく」の違い】

 出雲の国譲りの時、建御雷神が大国主命に「汝がうしはける(領有する)豊葦原国は、我が御子の知らす(治める)国である、汝の考えは如何?」と問いました。また天照大神が瓊瓊杵尊に「豊葦原水穂国は、汝が知らす国である」と任命しています。一体「知らす」とはどういうことでしょう?

「しらす」とは高天原の統治の方法で、天皇の統治の方法とも同じです。天皇の統治における「しらす」とは、天皇が広く国の事情をお聴きになり、御存在されることによって、自然と国民と国が統合されて行くことを意味します。高天原も天照大神が存在されることにより神々が統合されることを意味します。つまり古事記の時代も古代も中世も近代も変わらず「天つ御子、天皇がしらす日本」なのです。

他方「うしはく」とは、政策を決定し実行する政治の権力を意味します。古代においては摂政・関白、武家政権では将軍、近現代では総理大臣が国を「うしはく」地位にあると言えます。日本の歴史において「国をうしはく者は、例外なく天皇の任命」を受けています。つまり日本は有史以前の神代の昔から天照大神の御子のしらす国、国民のリーダーがうしはく国」(天皇は君臨すれども統治せず)の「国のかたち(国体:Constitution)なのです。

【天孫降臨の地】

 「天孫降臨の地」は宮崎県南の高千穂の峰、県北の高千穂町の両説があります。都城が生んだ音楽家の山内達哉氏は、県南の狭野神社(神武天皇生誕地)と、県北の高千穂神社の御神木からなる「御神木ヴァイオリン」を制作して、神々しいヴァイオリンの音色に載せて「日本の心」を届け広げています。是非名演奏をお聴きください。https://www.youtube.com/watch?v=WBStTiwrqJ4

1-11. 古事記物語10「海幸彦と山幸彦」

1.海幸彦と山幸彦

 瓊瓊杵尊からの不倫疑惑に怒った木花咲耶姫は、産屋に火を放った中で3人の子どもを産みました。最初に生まれた火照命(ほでりのみこと)は海の獲物をとる海幸彦として海の魚を獲って暮らしていました。また火が収まりかけた最後に生まれた火遠理命(ほおりのみこと)は山の獲物をとる山幸彦として色々な獣を獲って暮らしていました。

 ある日、弟の山幸彦が兄の海幸彦に「お互いに獲物をとる道具を変えてみよう」と三度求めたのですが許されません。

しかし山幸彦があまりにしつこく求めるので、ついに二人は少しのあいだだけ交換することにしました。ところが山幸彦が魚を釣ろうとしても結局一匹も連れません。その上、兄の海幸彦が大切にしていた釣針をなくしてしまったのです。するとそこに海幸彦が現れ「そろそろ お互いの道具を元に戻そう」といったので、山幸彦は「あなたから借りた釣針で一匹も魚を獲れず、釣針を海に失くしてしまいました」と正直に打ち明けました。


ところが海幸彦はどうしても元の釣針を返すように強く責め立てます。山幸彦は兄の許しを請うために、お自分の十拳剣を打ち砕いて百本の釣針を作りましたが受取ってくれません。山幸彦は更に千本の釣り針を作り兄に差し出しましたが「元の釣針を返してくれ」の一点張りです。山幸彦が困り果てて涙を浮かべて海辺に座り込んでいると、潮の流れを司る塩椎神が現れ泣いている訳を聴きますので、山幸彦は今までの事情を話しました。

それを聴いて気の毒に思った塩椎神は、「あなたの力になりましょう」と言って、目が堅く詰まった竹籠の小舟を作り、山幸彦を乗せてこう教えました。

「私がこの船を押し流すので、そのまま進みなさい。その先に良い潮路があるので、その道に乗って行けば、魚の鱗のように屋根を葺いた宮殿「綿津見神(海神)」の宮殿があります。その御門の傍らの井戸側の桂の木の上に座っておれば、海神の娘が取り計らってくれるでしょう」

山幸彦が塩椎神の教えの通り進むとその通りになりました。そして桂の木に登って座っていると、海神の娘の豊玉姫の侍女が現れ山幸彦に気づきました。次女は急いで宮殿に帰り豊玉姫に告げました。豊玉姫は直ぐに井戸のところに行き、山幸彦を見るなり、たちまち一目惚れしてしまい二人は見つめ合いました。豊玉姫は宮殿に帰り父に「門のところに麗しい方がいらっしゃいます」と告げ、海神が出ていき一目見るなり「この方は天つ神の御子である」と見ぬきました。海神は山幸彦を丁重に宮殿に迎え入れ、沢山の御馳走でもてなし、ついに山幸彦と豊玉姫を結婚させたのでした。 (絵は「わだつみのいろこの宮」青木繁)

2.塩満珠と塩乾珠


海に宮殿で三年も過ごした山幸彦は、大きなため息をつきました。兄から借りた釣り針をなくし、それを探しにここまで来たことを思い出したのです。その姿を見た豊玉姫は父に相談しました。そして海神が山幸彦にため息の訳を聴き事情を知ると、海の魚全部を集めて「釣り針を取った魚はいるか?」と聴きました。すると鯛が喉に骨のようなものが刺さっているというので、のぞいてみると釣針が刺さっていました。海神は早速取り出して洗い清め、山幸彦に釣針を差し出し次のように教えました。

「この針をお兄さんに返す時、『この釣針は心のふさがる釣針、心のたけり狂う釣針、貧乏な釣針、愚かな釣針』と言って後ろ手で渡しなさい。そうして兄が高いところに田をつくるなら、あなたは低いところに田を作りなさい。もし兄が低いところに田をつくるなら、あなたは高いところに田を作りなさい。そうすれば私は水を支配しているから、三年の間に必ず兄は貧しくなるでしょう。もしそのことを恨んで兄が攻めてきたら、塩満珠(海を満潮にする珠)を出して溺れさせ、もし苦しんで助けを求めたならば、塩乾珠(干潮にする珠)を出して生かし、悩ませ苦しめなさい」と言って、塩満珠と塩乾珠を授け、サメに載せて送って差し上げました。


山幸彦は帰り着くと海神の教え通りにして釣針を兄に返しました。そして兄は徐々に貧しくなっていき、更には荒々しい心を起こして攻めて来たのです。
しかし攻めて来た時は塩満珠を出して溺れさせ、苦しんで助けを求めたら塩乾珠を出して救い、悩ませ苦しめると、兄は頭を地面につけて「私はこれから、あなたの昼夜の守護人となって使えます」と謝りました。

 かくして海幸彦(火照命)の子孫の姶良隼人は、今に至るまでその溺れた時のしぐさを絶えることがないように伝え、天皇に仕えています。海が満ち足りひいたりするのは、個の為なのかもしれません。

3.豊玉姫の出産

 ある日、海神の娘の豊玉姫が訪ねてきて言いました。「私はあなた様の子を妊娠したのですが、そろそろ生む時期が来ました。天つ神の御子は、海原で生むべきではないと思い、やってきたのです」

 そして海辺の波打ち際に、鵜の羽根を葦に見立てて産屋を作られました。ところがその産屋の屋根を葺き合えぬうちに産気づき、こらえきれずに豊玉姫は産屋に入られました。そして夫の火遠理命(山幸彦)にこう言いました。「他の世界のものは、生むときには、必ず元の国の形になって生むものです。私は本来の姿になって生みますので、どうかわたしを見ないでください」

 ところが、その言葉を奇妙に思った火遠理命は、ひそかにのぞき見してしまいました。すると豊玉姫はワニザメになり、這ってうねりくねりしていたので、それに驚いた火遠理命は逃げて退きました。


 豊玉姫は覗かれたことを知ると、とても恥ずかしく思い、その御子を生み終えると「私は常に海の道を行き来するつもりでいましたが、私の本来の姿を見られてしまったことは、とても恥ずかしいことです」と言って、海とこの国の境である海坂を塞いで海神の世界に帰ってしまいました。

 このように この御子は、渚で鵜の葺屋を葺き合える前にお生まれになったので「鵜葺草不合命(うかやふきあえずのみこと)と申します。


 しかしその後、豊玉姫は覗かれたことを恨んだものの、恋しい心に耐え切れず、御子を養育するために妹の玉依姫を使わしました。そして鵜葺草不合命は、ご自分を母として育ててくれた叔母の玉依姫をめとって五人の御子が生まれました。長男が五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命、神倭伊波毘古命(のちの神武天皇)です。
ここから神倭伊波毘古命の物語に入ります。

4.「古事記における弥生時代の始まり」・・「天皇の国史」竹田恒泰

 水田稲作の開始が弥生時代の始まりですが、古事記には水田稲作が地上に伝えられた経緯が書かれていないのでよく問題になります。そこで参考になるのが海幸彦と山幸彦が稲作をしていたという記述です。海幸彦は海で魚を捕り、山幸彦は山で獣を獲って暮らしていたというので、縄文時代の狩猟と採集を中心とした生活をしていたと思いきや、古事記によると二人とも水田稲作をしています。山幸彦は海神の教えに従い、兄が高い所に乾いた田をつくるなら 弟は低い所に湿った田を作り、兄が低い所に湿った田をつくるなら 弟は高い所に乾いた田を作って、塩満珠と塩乾珠を使って兄を苦しめたという話が書かれています。なんと二人とも兼業農家だったのです。父の瓊瓊杵尊以降は寿命を与えられたので、二人とも「人」であり、田を営んでいる以上すでに弥生時代に入っています。

 それ以前に地上で稲作がなされた記述はなく、やはり水田稲作は天孫降臨により地上にもたらされたと考えられます。また高天原では、須佐之男命が天照大神の田を荒らしたことが古事記にあり、天孫降臨以前に高天原には水田があったことが分かります。ところで天照大神は機織小屋を主宰されていることから、天照大神も兼業農家だったといえます。高天原を「知らす」神は、手に職を持ち、衣を縫って水田で稲を水田で育てておられたのです。

 このように古事記を読み解いていくと「古事記」は単なる神話ではなく、南九州に暮らしていた高天原族が、出雲族などへ稲作を教えながら統合していった祖先、日本民族の物語であることが分かります。

 

1-11. 古事記物語11「神武天皇東征」

   弥生時代後期、全国で各部族間の農地をめぐる戦乱が続いていました。神武天皇は兄の五瀬命と相談して「争いのない平和な国に統一できないか」と出立、国々の王と話合い平和的に統合していきました。しかし最後の登美の長髄彦だけは強大な武力で立向ってきたので大変な苦戦をされました。そしてこれを平定し、橿原の地を「みやこ」=御、=屋根、=庫・・民の飢饉に備えて大きな備蓄米倉庫のあるところ)と定めて即位され、次の詔を述べられました。

『これからは天照大神の御心に沿うように、大和の国のいしずえをしっかり築き、お互いに豊かな心を養おう。人々(おおみたから)がみな幸せに仲良く暮らせるように努めよう。天地四方、八紘にすむもの全てが、一つ屋根の下の大家族のように暮らそう。それは何と楽しく嬉しい事ではないか。」

このように建国の理念は、「八紘為宇=一つ屋根の下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現すること」でした。 西欧や大陸では、王や皇帝や独裁者は、国民を支配し弾圧し搾取する関係で、日本の「天皇を中心に民が家族のように」という国家は世界に存在せず、極めて特異な国の形です。

 明治6年政府は初代天皇である神武天皇の即位日2月11日(旧暦1月1日)を「紀元節」と制定し全国民が祝ってきました。戦後はGHQにより廃止されましたが、昭和41年(1966)に「建国記念の日」として再制定されました。


 それでは神武天皇の話を進めましょう。

 鵜葺草不合命と玉依姫から生まれた長男の五瀬命、と神倭磐彦命(のちの神武天皇)は、日向の国の高千穂の宮で国を治めていましたが、やがて互いにこう相談し合いました。「この日向の国は、あまりに端の方に片寄っている。世の中を安らかに治めるには、もっと東の方に移した方がよさそうだ」



 そこで早速この考えを実行するために、日向の美々津港から出航されました。

 その途中、豊国(大分)宇佐の地で、宇沙都彦、宇沙都姫の兄妹が新たな宮殿を作り御馳走でもてなしました。そして筑紫の国の岡田の宮殿に行き、そこで1年ほど滞在、さらに安芸(広島)の多祁理の宮殿に7年ほど滞在、さらに東にのぼって吉備(岡山)の高島の宮殿に8年滞在しました。

 その国からは船に乗り、さらに東の海へと旅をつづけました。その途中、潮の流れのはやい速吸門で、宇豆彦という土地の神が 亀の甲にまたがり進んできて一行に加わりました。こうして東へ進み、やがて船は波の荒い浪速の海を横切り、波穏やかな白肩の港に着きました。



 ここまでは順調だったのですが、このとき登美の土地に住む長髄彦(ながすねひこ)が、軍隊を引き連れ、船をめがけて戦いを挑んできました。そこで一行は船の中に用意していた楯を取り、岸辺に降りて防ぎました。それゆえに ここを今でも「日下の楯津」といいます。

 この戦いが たけなわのころ、長髄彦の放った矢が運悪く、兄の五瀬命の手に突き刺さり重い傷を負いました。そこで五瀬命は言いました。「私は日の御子なのだから、敵を太陽の出る方向に置いて戦うのは良くないことなのだ。だからこそ卑しい長髄彦ごときの者から傷を受けたのだ。これから敵の後ろに回り、太陽を背なかにして敵軍をうってやろう。」 こういう誓いを立てて、船で南の方へ遠回りをしました。そのあたりの沼で傷口を洗いましたので、ここを血沼と言います。しかし傷はさらに重くなるばかりで、ようやく紀伊(和歌山)の男之水門まで行きついたときに「卑しい奴の為に手傷を受けて、今は死ななければならないのか!」と大声で叫び、とうとう息絶えてしまいました。 

兄を失った神倭磐彦命は、悲しむひまもなく、軍隊を引き連れて東へと回り熊野の村へつきました。そのとき大きな熊がちらっと姿を見せて消え失せました。この熊は、熊野山に住む威力のある神で、その毒気にあたった神倭磐彦命は、あっという間に気を失い、お供の兵卒たちも、たちまち死んだようになってしまいました。

まったく危ないところでしたが、そこに高倉下(たかくらじ)が、神倭磐彦命の寝ているところへ一振りの剣を持ってきて捧げました。すると剣の霊力で、御子はじきに正気に戻りました。そして高倉下の持ってきた剣を受け取ると、熊野山の威力ある神は剣を使わないうちになぎ倒されてしまいました。また眠りこけていた兵卒たちも起き上がりました。 不思議な力の剣なので、神倭磐彦命がその剣を手に入れたいきさつを聴かれると、高倉下は次のようにこたえました。



「私は不思議な夢を見ました。天照大神と高御産巣日神の二柱の神は、建御雷神を呼んで『葦原中つ国(日本)はとても騒がしく、私の子どもも苦しんでいるようだ。葦原中つ国は、そもそもお前が説得して平定した国だから、建御雷神よ、あなたが降っていきなさい』。すると建御雷神はこう答えました。

『私が降りていかなくとも、その国を平らげた刀がありますので、その太刀を降ろすべきでしょう。その方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れるのが良いでしょう』。こういうと今度は私に『朝に縁起よく目が覚めたら、あなたが取り持って日の御子に献上しなさい』と仰せになりました。私は夢の教えのままに、朝になって自分の倉を見てみると本当に太刀があったのです。それでこの太刀を献上しました」この太刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)、またの名を布都御魂といい、奈良県天理市の石上神宮に鎮座しています。

 高倉下の霊剣献上で神倭磐彦命は一難を逃れましたが、高御産巣日神は加えて仰せになりました。「日の御子よ、ここから奥は荒ぶる神がとても沢山いますので、直ぐにお出ましになってはなりません。天より八咫烏を遣わします。その八咫烏の導きに従って進むと良いでしょう。」



 そこで日の御子は、その教え通りに八咫烏の後について進まれると、吉野河野川尻につきました。そこで魚を取っていた贄持之子(にえもつのこ)を従えました。これは阿陀の鵜養の祖となります。さらに進むと井戸から尾の生えた井氷鹿が出てきて従いました。これは吉野首(よしのおびと)らの祖です。さらに山の中に入ると岩を押し分けて石押分之子(いわおしわくのこ)が出て従いました。これは吉野の国巣の祖です。



 その地よりさらに進み、兄宇迦斯(あにうかし)と弟宇迦斯がいる宇陀に進みました。そこで八咫烏を遣わし、日の御子に仕えるように尋ねました。ところが兄宇迦斯が鳴鏑矢を射て八咫烏を追い返しました。二人の兄弟は、日の御子を待ち受けて撃とうと兵士を集めましたが、十分な兵が集まらず「仕え奉ります」と偽りを伝え、大きな御殿の中に押機(踏むと打たれて圧死する罠)を作って待ちました。

 すると弟宇迦斯は一人で日の御子を出迎え、「私の兄は、日の御子の使いを射返し、御子を待ち受けて攻める為に軍を集めましたが集まらず、御殿を作りその中に押機を仕掛けています。ですから私は出迎えて兄の企てを白状しました」と告白しました。そこで大伴連の祖の道臣下命と、久米直等の祖の大久米命の二人が、兄宇迦斯を呼び「御殿の中には、お前がまず入り、どのように仕えるか明らかにしろ!」と太刀の柄を握り、矛を向け弓に矢をつがえて兄宇迦斯を御殿の中に追いやったため、兄宇迦斯は自分の作った押機に打たれて死にました。弟宇迦斯は服従し、宇陀水取らの祖となりました。

 饒速日命がやってきて帰順しました。饒速日命は長髄彦に属していましたが「神磐余彦尊にお仕えするように」と進言しましたが、改める気持ちのないことを知りやむなく長髄彦を誅し、神磐余彦尊のもとに、息子の可美真手命と帰順したものです。そして「私はこの大和に住んでいる者です。天神の御子が、天から下られたことを知り、参りました」と自らもまた天神の御子である印の天羽々矢と歩靱をお見せし「磐余彦尊の家来としてお仕えします」と誓いました。饒速日命の子の宇麻志麻遅命は、物部氏、穂積氏、の祖となりました。



 このように日の御子である神倭磐彦命は、荒ぶる神を説得して平定し、従わぬ者たちを追い払って、畝火(奈良県橿原町畝火)の橿原宮で天下をお治めになりました。



 これにより神倭磐彦命は長い東征を終えて初代天皇に即位されました。神倭磐彦命はのちに神武天皇と呼ばれるようになりました。

(掲載した絵は、橿原神宮の「神武天皇御一代御絵巻」より)




1-11. 古事記物語12 「日本武尊」その1

 神武天皇崩御のあと、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、「〇〇と結婚して◇◇を生んだ」という記述のみが延々と続きます。具体的な事跡が書かれていないため「欠史8代」と呼ばれ創作だと疑う説もあります。しかし記述された各天皇の皇妃や子女の名から、日本全国の豪族と婚姻を結んで同盟政策を広げ、穏やかな統一国家を完成させた時代だったと分かります。数えると30豪族と160以上の婚姻があり、日本中に天皇家の血縁が広げられました。まさに神武天皇の詔 「八紘為宇 = 一つ屋根の下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現する」が、この8代の天皇によって推進された平和な治世だったのです。(竹田恒泰「天皇の国史」より)

 第10代崇神天皇の御代には疫病が流行り、人々が死に尽きそうなほどの非常事態となりました。崇神天皇はあらゆる手を尽くして疫病を治め、さらに民を豊かにしましたので、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と人々はその御代を称えました。

 第12代景行天皇の御代には日本武尊(ヤマトタケル)が登場し、古事記最大の山場を迎えます。(景行天皇の項では、主に日本武尊の物語が展開されます。)



 景行天皇は大変立派な体格で、背の高さが1丈2尺(約3m60cm)でした。(いくら何でも大袈裟ですね。恐らく半分の180190cm位だったのでしょう) それでも当時の平均身長は150cm以下なので、人々からは「景行天皇は見るからに威風堂々で恐れ多い」と称えられたことでしょう。

 お后は大勢おられ、子供の数も80人を数えましたが、大碓命、小碓命(のちの日本武尊)、若帯日子命(のち第13第成務天皇)を世継ぎの御子に定めました。そのほかの77皇子は、みな「国造、稲置、県主」(地方官)、「和気」(皇別氏族)に任命され、諸国を与えられました。 

1.    大碓命と小碓命

 景行天皇は、美濃国(岐阜県)に、大層美しい姉妹、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)がいると聴き、さっそく大碓命に二人を連れてくるように命じました。 しかし大碓命は、姉妹があまりに美しかったので自分の后にして、代わりに他の女性二人を探して連れ帰り、兄比売と弟比売だと嘘をつきました。ところが天皇は、その二人が別の女性だと見抜き追い払ってしまいました。

 こういうことがあり、大碓命は父の天皇に顔を出しにくくなり自分の屋敷に閉じこもりました。そこで天皇は弟の小碓命に「どうしておまえの兄は朝夕の御食に出席しないのか。おまえが教え諭しなさい」と言われました。それから5日たっても大碓命は行事に参加しません。そこで天皇は再び「どうしておまえの兄はまだ来ないのか。おまえはまだ兄を教え諭していないのか」と尋ねられると、小碓命は「とうに教え聡しました」と平然と答えました。

「どう言って教えたのだ」と聴きますと、「朝早く兄さんが便所に入った時、待ち構えてつかみつぶし、手足を引き抜いて袋に包んで投げ捨てました」と無邪気に応えました。それを聴かれた天皇は、小碓命の猛々しく荒い性格を恐れ、遠ざける口実として「西の方に熊襲建と言われる兄弟の悪者がいる。その者どもを討て」と難題を命じられました。小碓命は伊勢神宮を創建した叔母の倭比売命に挨拶に行き、叔母から女衣装を賜り、ひとり西の国に向けて出発しました。

(このとき小碓命は、齢15歳くらいの少年です。「天皇の后2人を奪い、大事な行事に参加しない不正義な兄を“教え諭す”のは殺すことだ」と、真剣に考えた末の行動だったに違いありません。しかし天皇にしてみれば、次期天皇の皇太子を殺してしまう荒々しい性格の持ち主が、いつかは父である自分に向かってくることを恐れたのかもしれません。常識的に考えれば大勢力の熊襲一族を一人で倒せという命令は「戻ってくるな」という追放令だったのです。しかし若い小碓命はそのことに気付かず勇んで出立します。古事記最大の英雄の悲しい物語の始まりです。)



2.    小碓命の熊襲征伐

 西方の熊襲建兄弟の征伐を命ぜられた小碓命は、早速旅立ち九州南部に遠征しました。この時代、交通手段がなく街道もまだ整備されていませんでしたから、近畿から九州までの旅は、大変な道のりで苦労されたに違いありません。

 熊襲建の家について様子をうかがうと、周囲は兵士が三重に守り固めていて、その中に頑丈な家が建てられているのが分かりました。ちょうどその頃、その家の新築の宴をしようと、食べ物などを準備して、人々は忙しく動き回っていました。そこで小碓命は、家の周囲を注意深く観察しながら、その宴の日を待ちました。そして宴の日になると、結んだ髪を若い女性のようにたらし、叔母の倭比売命から借りた女ものの服を纏い、すっかり童女の姿に変装して、女性たちの間に混ざって、その新築の家にまんまと入り込んだのです。

 熊襲建兄弟は、童女に変装した小碓命をすっかり気に入り、二人の間に座らせて宴を楽しみました。そして宴もたけなわになったころ、小碓命は懐から剣を出して、兄の熊襲の着物の襟をつかみ胸につき通しました。弟建はそれを見て驚き、怖くなって逃げ出しました。小碓命は直ぐに追いかけて、その家の階段まで行くと、その背中をつかみ、剣を尻から突き刺しとおしました。すると熊襲建は、「その剣を動かさないでください。私は申し上げたいことがあります。あなた様はどなたですか?」と尋ねたので、小碓命は「私は纏向の日代宮で大八島国を治める天皇の御子の倭男具那王(小碓命)である。天皇は、貴様ら熊襲建二人が我々に従わず、礼もわきまえないので、討取るようにと私を遣わされたのだ」と言いました。

 それを聞いた熊襲建は「まさにその通りです。西の方には私たち二人よりも猛々しい強いものはいません。しかし大和国には、私たち二人よりも猛々しい方がいらっしゃいました。そこで私があなた様に御名を差し上げたく思います。これからは倭建御子と称えましょう」と言いました。熊襲建がそう言い終えると、すかさず小碓命はとどめを刺しました。この時から小碓命を称えて「倭建命」と申します。



3.    倭建命の出雲征伐

さて、倭建命(小碓命)は大和に帰る途中、出雲建も倒せば天皇が更に喜ばれると思い、出雲の国に入りました。すると倭建命は、知友に優れた出雲建とすぐに肝胆相照らす友達になりました。倭建命は密かに樫の木で偽の太刀を作り、それを腰に佩いて、出雲建と共に斐伊川に沐浴に出かけました。

倭建命は先に川から上がると、出雲建が外した太刀を佩いて「太刀を交換しよう」と言い、出雲建は川から上がると、倭建命の偽太刀を佩きました。そこで「いざ太刀合わせをしよう」と倭建命が言って、それぞれが太刀を抜こうとすると、出雲建は偽の太刀を佩かされているので太刀が抜けません。倭建命は太刀を抜くと、すかさず出雲建を撃ち殺しました。

倭建命は、こうして西の国をことごとく平定して都に帰り、天皇に復命されました。 

(倭建命が女装して熊襲征伐、出雲建の騙討ちなど、現代人の感覚ではあまり共感を得ないかもしれません・・しかし、尊敬する父天皇から追放された15歳の少年が、再び認めて赦してもらうために知恵を絞って必死になって西国平定にあたっていると思うと、悲しい同情を禁じえません。須佐之男命の八岐大蛇退治も同じですが、圧倒的な強敵を倒す時は、あらゆる知恵を巡らせて用意周到に計画・準備し、目的に向かって不退転の決意で果敢に攻めること・・これは、生き馬の目を抜く現代のビジネス社会においても全く同じです。・・この頃の傷つきやすい若き倭建命は、あの父の愛を求めて苦しむ「エデンの東」のジェームス・ディーンと重なります。)





1-11. 古事記物語13 「日本武尊」その2

 九州で勢力をふるっていた熊襲建兄弟を倒し、さらに指示されていない出雲建までも倒した倭建命(以後日本武尊と表示)は、意気揚々と帰路につきました。父景行天皇の命により大和から旅立ってすでに5カ月が過ぎていました。

 兄大碓命を殺害して追放された日本武尊でしたが、西国の2大勢力を従わせたので、必ずや父に称賛され大和に受け入れられると期待して復命しました。しかし父天皇は「二日後に東方12か国の荒ぶる神々や服従しない者たちを平定してこい」と冷たく命じたのです。東方はまだ大和朝廷の影響力が及んでいない世界で、今度こそ命を失うのは必至の厳しい使命です。

(なぜ景行天皇はこのような冷たい仕打ちをしたのか・・それは神武天皇以来、歴代天皇は【八紘為宇=一つ屋根下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現する】を国家理念としてきましたので、武力に長けた日本武尊が華々しい活躍で敵を倒すのは理念に反し、やがて自分の政権の脅威となるので、遠ざけるしかなかったのだと思われます)

ここに至ってさしもの日本武尊も、父天皇から疎まれていることに気付きますが、命令に従わざるを得ず、帰京1日で疲れも取れないまま東征へ出立します。しかし落胆収まらず、戦勝祈願と称して再び伊勢大神宮斎宮の倭媛(叔母)を訪ね、父の無情な仕打ちに苦しむ胸の内を打ち明けます。

「天皇は、本当は私が死んだら良いと思われているのではないでしょうか。西の悪人たちを討ちに遣わし帰って間もないのに、軍勢も与えられないまま、今度は東方12道の悪人たちを平定するために遣わすのでしょう。やはり私など死んだら良いと思っておいでなのでしょう」

天皇の妹である倭媛は、悲しみ泣く甥に慰めの言葉も見つからず、草薙剣と袋を与え「もし困った時には、この袋を開けなさい」と言って励ましました。こうして日本武尊は東征に出立しました。 

尾張の国についた日本武尊は、国造の家に入り美しい娘の美夜受媛を紹介され、帰途に結婚しようと婚約して発ちました。そして山河の荒ぶる神、従わぬ者たちをことごとく説得して平定しました。

その途中、幼い時から面倒を見てくれた爺が、浪速(大阪)から弟橘媛を連れて追いつきました。今度の遠征では命を落とすかもしれないので、出立の時に愛する弟橘媛を連れてきてほしいと爺に依頼したものでした。年老いて最後の約束を果たした爺は満足して息を引き取ります。

 そして相模国(駿河か?)に入り、そこの国造が偽って「この野の中に大沼があり、そこの中に住む神は、とても霊力のある荒々しい神で、村人を困らせていますので退治してほしい」と言いました。そこで日本武尊は草深い野の中に入っていきましたが、その国造りは野に火をつけ猛火が迫ってきました。欺かれたことを知った絶体絶命の日本武尊は、叔母からもらった袋を開けると中に火打石が入っていました。そこで周囲の草を薙ぎ払い、火打石で火をつけると、これが迎え火となって逆に国造どもの方に向かって燃え広がりました。そしてそこから脱出して国造どもを切り滅ぼし、火をつけて焼きました。ゆえにその地を「焼津」と言います。


そこから更に東に進み浦賀から上総の国に渡ろうと走水海(浦賀水道)に船出しました。すると海峡の神が嵐をおこり大波を立てて船を翻弄してぐるぐると回し沈没しそうになりました。そこで日本武尊の后の弟橘媛が、「私が御子に代わって海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を全うし、天皇に報告なさらねばなりません」と言って、菅畳、皮畳、絹畳を波の上に敷いてそこに降り身代り入水しました。すると荒波は自然と治まり船を進めることができたのです。このとき弟橘媛は次の歌を詠み、夫の優しさに感謝しながら波間に消えました。

さねさし相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも

(相模の野原に燃える火の、その火の中に立って私を気遣ってくださった優しいあなた)


上総の浜についた日本武尊は、何日も海を見つめて妻を偲び、中々その地を離れることができませんでした。それゆえにその地を「君去らず(木更津)」と呼びます。そして7日後、弟橘媛の櫛が海辺で見つかり、御陵を作ってその櫛を埋葬しました。また弟橘媛の着物の左右の袖が夫々流れ着いたことから「袖ケ浦市」と「習志野市袖ケ浦」の名がついたと伝わります。

そこからさらに進み、荒ぶる蝦夷たちをことごとく説得し、また山河の荒ぶる神たちを平定し、大和の帰る途中、足柄山の坂の下に至り、食事をされていると、その坂の神が白鹿となって現れました。そこで野蒜で鼻先をたたくと白鹿は死んでしまいました。そしてその坂に登り立ち、東を振り向かれて三度ため息をつかれ「吾妻はや(我が妻よ!)」と嘆かれました。ここから東国を「あずま」というようになりました。

さらに足柄から信濃国の神を説得して大和への帰路、前に婚約していた尾張の国の美夜受媛のところに立ち寄り結ばれました。そして近くの伊吹山の神を討伐に出かけました。このとき素手で十分と、御刀の草薙剣は美夜受媛の元に置いていきました。これが大誤算で大きな禍いの元となります。

伊吹山に登る途中、山の麓で牛のように大きい白い猪と遭遇しました。そのとき言拳して「この白い猪に化けているのは、その神の使いであろう。今殺さなくても、帰る時に殺そうではないか」といって登りました。「言拳」とは、自分の意思を声に出して言い立てることで、タブーとされていました。


この白い猪は神の使いなどではなく神自身でしたので、バカにされたと知ってひどく怒り、激しい雹を降らせて日本武尊を打って気を失うほどでした。かろうじて山をくだり、玉倉部まで下り、清水の湧いている木陰で休み、冷たい水で顔を冷やしているうちに、少しずつ正気を取り戻しました。

ようやく美濃の当芸野まできて「まるでびっこになったように足が重い」と溜息をつきました。さらに歩くと疲れがさらに酷く、杖を突いてのろのろと進みました。それでこの地を杖衝坂といいます。さらに苦しい旅を続け三重の村まで着いたとき「私の足はこんなに晴れ上がった、三重にくたびれた餅のようになってしまった」とつぶやきました。それでこの地を三重と言います。

それからようやく能煩野までたどりつきましたが、いまはもう懐かしい大和の国には帰り着けないことを悟り、国を偲んで次の歌を詠まれました。

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和しうるわし

(大和は国の中でも最も優れた国である。畳み重ねたようにくっつき、国の周囲をめぐる、青々とした垣根のような山々の内に籠っている。大和は美しい

 そして日本武尊は危篤になり、次の歌を詠んで息を引き取りました。

 をとめの床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや

(美夜受媛の床の傍らに、私が置いてきた草薙剣よ、あの剣があれば・・)



 大和のおられる天皇の后や御子たちは、日本武尊の崩りの報が伝わると、御陵をつくり、その周囲の田を這いまわって嘆き悲しみました。すると日本武尊の魂は亡骸から抜け出し、大きな白い鳥となって、天を翔けるように、浜に向かって飛んでいきました。后や御子たちは小竹の切株で足を切りながらも、痛さを忘れ泣きながらどこまでも追いました。白鳥はさらに飛んで河内国の志幾に留まりました。そこでその地に御陵を作って御鎮座頂き、白鳥御陵と呼びました。しかし白鳥は、そこからも天遠くに翔けて行きました。





1-11. 古事記物語14「仁徳天皇」

 歴代天皇が模範にした「仁徳天皇」

  (令和書籍出版「国史教科書」P63コラムより)

 第16代仁徳天皇の治世では、大阪平野の開発が進められ治水工事が行われました。これは日本史上最初の大規工事とされています。これにより農業生産量が格段に高まりました。現在、淀川下流の両岸には堤防はありますが、これはこの時に整備が始まったものです。

 日本の歴史上、仁徳天皇は「聖帝」(ひじりのみかど)と讃えられてきました。それは具体的な事跡もさることながら、民を思う気持ちの強さを民が熟知しており、いつも感謝し敬慕していたからです。民に苦労を掛けないために、仁徳天皇の宮殿は質素で飾り気もなく、屋根をふいた茅を切り揃えることもしなかったそうです。 「古事記」「日本書記」には「民のかまど」の逸話が収録されています。

1.民のかまど

 仁徳天皇治世四年の春、天皇が高台から遠くをご覧になった時に、人家から煙が立っていないことにお気づきになりました。民が貧しいから竈の煙も立ち上らないのではないかと、ご心配になった天皇は「五穀が実らず、民は困窮しているのだろう。都ですらこの様子であるから、地方はもっと困窮しているに違いない」とお嘆きになり、「今から三年、全ての課税と役務をやめて、民の苦しみを和らげよ」と詔を発せられました。

 その日以来、宮中ではすべてが徹底的に倹約されることになりました。衣服と靴は擦りきれて破れるまで新調せず、食べ物は腐るまで捨てず、宮殿の垣が破れても補修せず、屋根の茅が外れても葺き替えず、雨のたびに雨漏りして衣を濡らし、また天井から星が見えるほどの有様だったそうです。


 こうした仁政で、三年の後には民の生活は豊かになりました。天皇が高台にお上りになると、しきりに炊煙が立ち上っているのが見えたのです。このとき天皇は皇后に次のように仰せになりました。

 「天が君主(天皇)を立てるのは民のためであり、君にとって民は根本である。だから民が一人でも飢えるのならば、君は自らを責めなくてはならない」

 その頃、諸国の民が、自分たちは豊かになったので、税を納めて宮殿を直さなくては天罰が当たるといって、税を納めようとしましたが、天皇はこれをお許しになりませんでした。 それから更に三年が経過して治世十年の秋、天皇はようやく課役を命ぜられました。すると民たちは、誰から催促されることもなく、昼夜を問わずに力を出し合い、あっという間に新しい宮殿を建てたのでした。民もまた報恩感謝の心を忘れなかったのです。

以来、仁徳天皇は「聖帝」と讃えられ、歴代天皇が規範とすべき天皇とされてきました。そしてその聖徳は、1700年経った現在の皇室にも受け継がれています。 

2.新田開発で豊かになった民、古墳について 

「美しき日本人達 ”仁徳天皇”」より (小名木善行:著)

当時の税はお米です。税が納められるようになって数年がたった時、豊作も手伝って都の備蓄米倉も満杯になりました。すると仁徳天皇は、さらに今の大阪府堺市のあたりの湿地帯を田圃にすることをご提案になり、朝廷は民に命じて新田開発を行いました。こうして今の大阪から堺までのあたり一帯が広大な水田地帯となりました。こうして水田開発は全国に広げられました。

冷蔵庫のなかった時代に、唯一年単位の備蓄ができる食料はお米だけです。それまでの日本は、台風、地震、火山噴火、干ばつなどにより、周期的な飢饉に悩まされてきました。しかし仁徳天皇が着手された新田開発により、日本は食料に事欠かない、天然の災害がいつ起きても十分な食料の備蓄がある豊かな国になりました。

日本は元々海洋国家です。豊かになった日本の状況は諸外国の知るところとなりました。そして遠くは「三国志」に登場する呉の国までもが仁徳天皇の御徳を慕って朝貢するようになりました。

 ある時、仁徳天皇が堺のあたりの新田視察に行幸され、そこにある盛土を見て「ここを我が墳墓にしたい」と仰せになりました。田圃をつくる為に土地を開拓すると大量の残土が発生します。その残土が丁寧に盛土されていたのです。盛土は、ただ残土を積み上げるだけでは、大雨が降ると崩れて、周囲の田圃が土砂災害になってしまいます。ですから石と土と砂を組み合わせて、ちゃんと計画的に、崩れないように工夫して盛り土しなければなりません。

 そして開拓地が広大であれば、そのぶん盛土も大きくなります。そこで周囲にお濠を巡らせることで、盛土が万一崩れても、周囲の田圃が土砂で埋まらないように工夫されます。こうして田圃となった平地に盛土が築かれると、その周辺一帯の開拓の中心となった人が、盛土の中に埋葬されるのが習わしとなりました。「あなた様のお陰で、こうして広大な土地が拓かれ、みんなが安心して食べていけるようになりました。これからも未来永劫、ワシらの田圃を守っていてくださいね」という訳です。


 古墳はこうして作られはじめ、水田開発が大規模になるにつれ、 古墳も大型化し、仁徳天皇の御陵が最大規模となりました。この古墳時代は400年間続き、全国で16万基の古墳が作られました。そして六世紀の終わりころには、ピタリと新たな古墳は作られなくなりました。当然です。水田の開発が進めば、田と一緒に水路が開かれます。水路ができると残土は船で運び出し、河川の堤防工事の為に用いられるようになったからです。

戦後、この古墳について「天皇や貴族たちが、自分の権力誇示の為に古墳の大きさで示そうとした、世界に類例のない施設である」などと根拠のない嘘の学者見解が喧伝されるようになりました。土木工事を見たり携わったことのない不見識な人たちの戯言だと思います。
 古墳を築かなくても、日本には平野部のすぐわきに大きな山や高台はいくらでもあります。わざわざ人力で築く必要はありません。もし彼らの学説通り「天皇や貴族が、自分の権力誇示の為に古墳の大きさで示そうと強制労働させた」のなら、すぐに古墳は荒らされ、約2000年もの間大事にされる訳がありません。
(嘘とわかる学説を平気で主張する学者や、天皇や日本を貶めたい人々が沢山いるので、だまされないように要注意です)

 仁徳天皇の御陵は世界一の面積の墳墓で「前方部墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m」と巨大です。近年、ゼネコンの大林組が、当時の工法で仁徳天皇陵を築造した場合の試算を行っています。それによると『総工期:15年8か月、総作業員数:681万人、総工費796億円(1985年の貨幣価値換算)』でした。600万人以上の人が15年以上工事だけを続けなければならないのです。当時の人口は、日本全体で4~500万人です。日本の人口よりも多い人が、一切の食糧生産もしないで、工事だけを15年間も続けたら、いくら食料の備蓄があったとしても、御陵ができるよりも前に、日本国民全員が餓死してしまいます。



 仁徳天皇陵は、前方後円墳と言われますが、よく見ると方形のところは長方形ではなく台形であり、円形部と方形部の接合部位の両側には、取手のような張り出しがあります。これは食料を蓄えるのに使っていた「マナの壺」と同じ形です。お米の増産の為に土地を開拓し、その土地を護るために盛り土を墳墓とし、そしてその古墳の形は「マナの壺」の形にしたのです。

 どこまでも民の生活の安寧と、どんな天災が襲っても、いつまでも常に豊かに安心して食べていくことができるようにと、大御心を配られた仁徳天皇のお人柄がしのばれる形となっています。